妙光寺新聞『お釈迦さまからのお便り』第1ページ
  1ページ  1ページ       妙光寺へようこそ   



  1. 妙光寺新聞 平成7年1月号
  2. 妙光寺新聞 平成7年3月号
  3. 妙光寺新聞 平成9年1月号
  4. 妙光寺新聞 平成9年5月号
  5. 妙光寺新聞 平成9年8月号
  6. 妙光寺新聞 平成9年9月号
  7. 妙光寺新聞 平成9年11月号
  8. 妙光寺新聞 平成10年1月号
 
 


妙光寺新聞 平成7年1月号 第63号
 

 たくましく立て

凛烈な寒気をしのいで
梅花はふくいくとかおり

厳冬を越して
松はみどりを増す

偉大な業績を
窮苦の中に樹立し

仰がれるほどの業績を
不遇の中に残した人が多い

窮苦はつらいが
試練がその中にあり

不遇はみじめだが
恩寵が必ずその中にある

だからたくましく立て
前途がきっと開けてくる
 (身延山法主 岩間湛良猊下の御言葉)

南無妙法蓮華経と唱えましょう
★お題目を唱えると、お釈迦様は救いの手を差しのべられます。
★お題目は、三世(過去・現在・未来)を救います。ご先祖も子孫も安心です。
★お題目を唱えて、悟りをめざし、行ないを正しましょう。
誰でも仏になれます。
 

  日月と蓮華の人生
 昨年欅材の大きな柱掛けが寄進されました。そこには『法華経』の一節が漢
文で彫刻されています。
「如日月光明 能除諸幽冥 斯人行世間 能滅衆生闇」
(日月の光明のよく諸の幽冥を除くがごとく、この人世間に行じてよく衆生の
闇を滅す)〔従地涌出品第十五〕

「善学菩薩道 不染世間法 如蓮華在水」
(よく菩薩の道を学して、世間の法に染まざること、蓮華の水にあるがごとし)
〔如来神力品第二十一〕

 『法華経』は、日月と蓮華の教え。「日月の光明」のたとえは、太陽や月の
光明が暗闇を除くように、法華経の修行者は人々の苦しみや悩みを除くという
こと。
 「蓮華」のたとえは、蓮が汚い泥水の中で成長しながら、けっして泥のけが
れに染まることなく、まっすぐに茎をのばし、その水の上に清らかで美しい花
を咲かせることから、濁悪の世間(泥沼)の中でも煩悩(泥)に惑わされずに
修行して、菩薩の道(蓮の華)を極めること。
 『法華経』はまさに、真実を示し人々を救う菩薩行の教えです。
 日蓮聖人はここからお名前をつけられました。
 

今月の言葉
 黒雲が消えれば太陽が輝くように
 恨みを捨てればあなたが明るく幸いになる
 

 仏の心と煩悩の心
 自分の心を自分で見ることができるでしょうか。それは無理ですよね。心と
いうものはこれが心だという形がありませんから、眼で見ることはできません。
それに心というものは、コロコロと移り変わってつかみ所がありません。
 ところが、他人の心はよく見えるのです。不思議なものですね。ことわざに
『心内にあれば色そとにあらわる』というように、心の中で思っていると、そ
れが顔色や動作に現れてくるのです。
 何かいいことがあると心がうきうきして顔もほころび、動作も機敏で楽しそ
うです。また、いやなことがあって心が沈んでいると、自然と顔も陰気くさく
なり、身体全体が幽霊のように暗くなります。その姿が自分には見えなくても、
他人には見えてしまうのです。
 江戸中期の俳人・宝井其角の句に、『松蔭のうつるも月の光かな』という名
句があります。松ノ木の影が地面にくっきりと描かれるのは、月の光があるか
らだという意味です。なぜこんな簡単な表現の句が名句かというと、その意味
がもっと深いからです。
 人には二つの心があります。本心と私心です。本心とは仏の心であり、私心
とは身勝手な心です。仏の心を悟りといい、身勝手な心を煩悩というのです。
 たとえていうと、月の光はどこまでも照らそうとしますが、ここに松ノ枝が
のびていると、その形のとうりに影ができ、明るいところ暗いところの二つに
分かれます。そのように人の心の明るいところへ仏心と名つけ、暗いところに
私心だの煩悩心だのと名を付けたようなものです。
 私たちの仏心は、見えなくても心に満ちているのです。私心を除けばそれだ
け苦がなくなり楽を得るのです。
 自分の心にある明るい面と暗い影。自分の暗い影を見たくなければ、光の射
す方を向くよりほかありません。私たちはその光を求めて、誰にでもあるずる
賢い心を、素直な心に変えてゆかねばならないのです。(身延山の冊子より)
 

 日蓮宗の信行
   (『仏事供養のこころえ』より)
檀信徒の日常の心がまえ
(イ)自宅にて
仏壇をこまめにいつも清掃する。
朝夕の合掌、礼拝を励行する。
仏飯、茶湯の供えは親はもちろん子供にもやらせ、習慣づける。
月の一日、十五日や近親者の命日などには仏花を供える
お初のもの、頂きものはまず仏壇に供える。
家族全員、各自の数珠を持つ。
近親者のご命日には、家族皆で唱題する。
仏壇の飾り方は子どもにも教えておく。
家庭生活の中心は、お仏壇であることをいつも忘れないこと。
入学、卒業、就職、婚礼等の出来事はお仏壇に報告する。また贈りものなども
仏壇にそなえてから人に与えるようにする。
毎朝、一日一善を仏壇で誓う。
 もし、仏壇にいれてあったり、古いお札がいつまでも残っているときは、菩
提寺へ持参しおたきあげしてもらう。
お棚経に寺から僧侶がみえたときは、居合わせた家族全員でおつとめをする。
(ロ)お寺にて
寺へお参りするときは先ず、本堂前で一礼する。
堂内では静粛にする。子どもに食べ歩きはさせない。
本堂を先ずお参りしてから、墓参する。
法事等の塔婆は前もって申し込むこと。
寺の年中行事(花まつり、彼岸会、せがき会、盂蘭盆会、お会式等)には必ず
参加する。年寄りだけに寺参りも含め、行事への参加をまかせない。
法事のときは、事前に墓所を清掃しておくこと。
家で不幸があったときは、葬儀屋よりも先に菩提寺へ連絡すること。
線香のあげ方、焼香の仕方、お焼香も線香をあげるのも基本的には同じ。仏・
法・僧の三宝に供える意味で、∴の形に線香はあげ、焼香は三回にわけてする
のが普通である。但し、参列(拝)者が多勢のときは、一回にしてもよい。
 

◆戦争について
 今民族主義の台頭により、世界各地で戦争が勃発している。チェチェン共和
国を攻撃するロシア軍は何とかならないかと思う。
 戦争は勝者も敗者も共に傷つき、共に戦死者をつくり、それぞれのご家族、
ご遺族にこの上もない悲嘆と不幸をもたらします。しかも戦う相手をお互いに
知らず、生まれて以来会ったこともなく、名も知らず、ましてや直接の利害関
係もなく、憎しみや怨みも全くない者たちが、戦争の名において殺しあう。
 人間には角もなく、牙もなく、相手を引き裂くような爪もなく、甲羅も持っ
ていません。生まれつき相手に打ち勝って生きるようにできていません。
 仏教徒として、人類がお互いに尊敬し協力しあう、平和をこの地上に築き上
げるようつとめようではありませんか。
  (『みのぶ』1月号法主法話趣意)
 

  文明とは
文明とは電灯のつくことでもない。
飛行機のあることでもない。
原子爆弾を製造することでもない。
文明とは、人を殺さぬことであり、
物を壊さぬことであり、
戦争をしないことであり、
相互に親しむことであり、
相互に敬うことである。
  ( 故日本山妙法寺藤井日達猊下『平和国家建設の方針』昭和25年 )
 

◆川柳
一滴の 善意も海と なるしずく 静流
幸せは あわす両掌の 中にある 静流
(障害者にも旅行をさせたいと、ひまわ り号の列車を走らせた故関茂さん)
 

◆寒行浄財次の様に使わせて戴きました
 本年も一月二〇日(大寒)〜二月三日(節分)まで、寒修行が無事行われま
した。寒修行ご参加の皆様ご苦労様でした。また修行中ご浄財を賜りました方
々、誠にありがとうございました。ご浄財は次のように使わせていただきまし
た。一、阪神大震災義援金     三万円一、日蓮宗国際協力募金    
三万円一、上田市社会福祉基金に寄付 三万円その他、妙光寺新聞『お釈迦さ
まからのお便り』発行費、教化用品購入、護持会助成などに使わせていただま
す。
 

◆阪神大震災義援金募金の御願い
 日蓮宗救援対策室では、被災地への懸命な救済活動を行っています。現在こ
の地域の日蓮宗寺院も全壊七ヶ寺、半壊・部分被害が数十ヶ寺にのぼります。
しかし、同地区の檀信徒もかなりの被害にあっておられるようで、復興には相
当の困難が予想されます。
 当山も被災地・被災寺院の復興のために今後長期にわたり募金を行いたいと
思います。檀信徒皆様のご援助を御願い致します。
 

◆仏教守護神大祭と特別大祈祷会
 仏教守護神様(弁財天・大黒天・鬼子母神)の大祭を左記により行います。
あわせて厄除け特別大祈祷会を行います。多数お誘い合わせご参詣下さい。 
      記日 時 二月十一日(金) 建国記念日
 午後 一時  仏教守護神大祭
  〃  二時  特別大祈祷会
  〃  三時半 古い御札等のお焚き上げ
  〃 四時  茶話※厄除け・特別祈祷等を申し込まれる方は、二月一日まで
にお申し込み下さい。
  御祈祷料   三,五〇〇円

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妙光寺新聞 平成7年3月号 第64号

天地の隔てをつくる

他人の失敗を
口ぎたなくののしる人がある

しかしよく見ればその人の
何と欠点の多いことか

他人の美点を
心から称揚していた人がいた

しかしその人の何と
長所の多かったことか

ののしる人よ
ののしることがすでに欠点なのだ

美点をみよ
美点を見ることがそのまま長所となる

わずかこれだけのことが
人として天地の隔てをつくることを知れ
 (身延山法主 岩間湛良猊下の御言葉)

南無妙法蓮華経と唱えましょう
★お題目を唱えると、お釈迦様は救いの手を差しのべられます。
★お題目は、三世(過去・現在・未来)を救います。ご先祖も子孫も安心です。★お題目を唱えて、悟りをめざし、行ないを正しましょう。誰でも仏になれます。

お彼岸法話 『六つの行ない』
 彼岸の頃は、暑からず、寒からず、自然にも恵れ、しのぎよい季節になります。
 彼岸とは、もともとは梵語(古代インドのことば)でパーラミターといい、中国で漢字をあてて「波羅蜜多」と書き、これを「到彼岸」と訳したことにもとづいています。苦しみや迷いにみちたこの世界を「此岸」といい、その苦しみをこえた永遠の悟りの世界を「彼岸」といいます。到彼岸とは精進と修行によって、悩み迷いの多い煩悩の此岸をはなれて、悟りをひらいた救いの世界である彼岸に到達するという意味です。
 また、日蓮聖人は、お釈迦さまの説いた真実の教えである法華経こそ、迷いの岸から仏さまの浄土へと人々をのせてはこぶただ一つの大きな船であるとのべ、次のように示しています。
 生死の大海を渡ることは、法華経にまさるものはない。法華経をのぞく諸の経は、筏であり小舟である。法華経は、星の中の月であり、くらやみを照らす日の光である。渡りには大船となり、生死の此岸より生死の大海を渡して彼岸の宝山へと渡すのである(薬王品得意抄)
 さらに日蓮聖人は自ら、「我れ日本の大船とならむ」と誓願し、苦しみの海に沈んでいる人々を救助し、お釈迦さまのいる浄土に導いてゆくために命をささげられました。
 お彼岸に、お墓参りに行くこともまた、彼岸会の先祖報恩の大事な行事であり、そうして、家庭の幸福を見出すことが、此岸の中に彼岸の世界を見出すことでありましょう。
 彼岸の行ないとしては、お釈迦様は六波羅蜜をお示しくださいました。

 六波羅蜜
一、布施 人に教えや財をもって恵むこと
二、持戒 戒律をたもつ行ない
三、忍辱 苦しみにたえぬく行ない
四、精進 心身をうちこんで精進すること
五、禅定 心を不動のものにする行ない
六、智慧 根本真理を体得する行ない

 六つの行ないを身につけて修行する自己反省と、自己完成を期するために修行することは、私どもが毎日心がけねばならないことです。
 この彼岸会は、仏教的生活から離れている私たちに、せめて一週間だけでも仏道的生活に親しむよう設けられたものと思います。この彼岸会の意義を心から理解して、単なるお墓参りから仏道を徹底的に修行する一週間としたいものです。
★親と子は 次第送りと知るならば
       次第送りに 孝行をせよ
★親によき物を与えんと思いて
  せめてする事なくば
   一日に二三度笑みて向えとなり

  お花祭りと立教開宗会
お釈迦様のお誕生をお祝いする御花祭りと、日蓮聖人の立教開宗会を左記により執り行います。併せて、皆様の家業繁栄安全を祈る祈祷会も行ないます。
潅仏会は仏教の始まり、立教開宗会は日蓮宗、私達の信仰の始まりです。また四月十八日は先師日温上人の祥月命日でもあります。参詣の皆様には、心身を清める甘茶を差し上げます。皆様お誘い合せの上御参詣下さい。      敬具
      記
日程 平成七年四月十八日(火)
 午前十時半 受  付
  〃十一時 法  話
 正   午 昼食呈上
 午後 一時 潅仏会と立教開宗会法要
  〃 二時 法楽加持
  〃二時半 茶話

 妙光寺門のわきの枝垂れ桜(身延山より移植)お花祭り当日が、ちょうど満開のようです。
 

  《忍辱》について
 忍辱とは、たえしのぶこと。他人から受ける迷惑や侮辱迫害をじっとたえしのんで、生きること。心をいつも平安に保って、絶対にいかりの気持ちを起こさず、他人を許す……これが忍辱の修行です。
 生きとし生けるものには、つねに迷いと煩悩があります。それがためにいくら努力しても、知らず知らずのうちに他の者に迷惑をかけてしまいます。
 自分に気に入らないと八つ当たりをしたり、ブスッとして人を不愉快にさせたり、思うようにならないといって恨んだり……。不用意にしゃべった言葉で人の心を知らないうちに傷つけたり、それを相手に許してもらって生きているのです。
 だから自分も、いやなこと、つらいこと、悲しいことをじっと耐えなくてはなりません。それが忍辱を修行する第一歩です。
 そして次に一歩すすんで積極的に相手を許す心を持つ……、耐えがたい誤解を受けようと、どんなひどい迫害にあおうと、それから逃げず、怒りや恨みをおさえ、一生かけてこれを許す。
 しかし忍辱の修行には、つねに布施の心と仏さまの知恵が必要です。何を許して何を許してはいけないのか、見極めなくてはいけません。
 たとえば、侵略のための戦争にかり出されて、苦しい戦いに明け暮れる……、こういう苦痛を我慢するのは泣き寝入りであって、忍辱の修行にはなりません。
(仏教コミックス『ブッダへの修行3』)

 《持戒》について
 人間は肉を食べ、魚を食べ、野菜を食べ、毛皮を着、他の命の上に自分を養っています。どんなに気をつけても、一生の内に、蟻一匹をも殺さないで生きていくことはできません。どんなに気をつけても、不殺生戒を守りきることができません。
 またどんな生命も、他の命をいただいて命を養っています。食物連鎖の世界。どんな生命にも天敵があって、異常繁殖をおさえ自然界のバランスを保っています。
 生きていく上での必要最小限の殺生は仕方がないことですが、経済活動のために、一網打尽に魚など取り尽くしてしまう最近の傾向、スーパーなど、店の信用とかの為に、まだ充分に食べられる物でも捨ててしまう、最近の日本の経済行動は非常に疑問を感じます。
 では不殺生戒は何のためにあるのでしょうか?
 戒は破られるためにある。それぞれが、その戒を守りきれないおのれの弱さを知るために、戒があるといえるでしょう。
 戒を破った己の弱さを知り、自分と同様に他者もまた弱い存在であることを知らねばなりません。そうすれば、他者の過ちも許す心が生まれるでしょう。これが持戒の本当の意味です。
(仏教コミックス  『ブッダへの修行2』
より)

◆法衣奉納寄付お礼申し上げます
一、法衣一式      檀信徒一同様
 檀信徒御一同様のご協力によりまして、妙光寺17世宮淵泰存上人に、大僧都昇叙に伴う御僧階にふさわしい法衣を一式奉納できました。ここに檀信徒皆様に厚く御礼申し上げます。
                          妙光寺総代一同

合掌 さてこの度は、檀信徒御一同様のご協力によりまして立派な法衣を御寄贈賜り、誠にありがとうございました。
早速御宝前にお供え致し、御報恩の法味を言上し、併せて御尊家様の家内安全と身体健全を御祈念申し上げました。今後、行事や法要で被着させていただきます。
記念品として信徒袈裟を用意しました。この袈裟は仏教徒としての証として、朝夕のお勤めや、身延山などへの参拝の折りや、法事・葬儀などの席で、お数珠とともにご被着下されば幸甚です。ここに記念品をお届け致し御礼の御挨拶と致します。                     敬具
                          妙光寺十七世  宮 淵 泰 存
檀 信 徒 各 位 様

[総代会より会計の中間報告]
平成6年11月末日現在で、約五百万円のご寄付をお寄せいただきました。第一次法衣支払いが約二百二十万円、記念品代等が約二十五万円です。
 寄付金に余裕がありましたので、第一次で用意できなかった、冬用の五条、夏用燕尾帽、夏冬角帽子、夏冬差貫袴等を追加購入させて戴くことになりました。それでもまだ相当の残金が出ることが予測されましたので、それを大変に傷んでおりました本堂の畳と絨毯の取り替えにも使わせて戴き、それで残った浄財を今後傷んだ法衣の購入に積み立てさせていただくことに決定させていただきました。檀信徒の皆様には、ご協力賜りましたことを厚く御礼申し上げますと共に、宜しくこ了承下さいますよう御願い致します。

◆お陰様で
  ご寄進ありがとうございました
一、金十万円也     内山 吉蔵様
一、金一万三千円也   柳沢 利美様
お寺のことに使わせていただきました。 

◆阪神大震災義援金募金の御願い
 日蓮宗救援対策室では、被災地への懸命な救済活動を行っています。現在この地域の日蓮宗寺院も全壊七ヶ寺、半壊・部分被害が数十ヶ寺にのぼります。
 当山も被災地・被災寺院の復興のために今後長期にわたり募金を行いたいと思います。檀信徒皆様のご援助を御願い致します。
一、金二万円也     春日屋延子様
一、金二万円也     中野 里香様
以上の寄付金と、募金、寒行の浄財などから、妙光寺として通計十万二千円義援金を、日蓮宗の災害対策本部を通じて送りました。また信行閣教会も、寒行の浄財より三万円、義援金を送りました。
ご協力誠にありがとうございました。

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妙光寺新聞 平成9年1月号

    新春を迎え皆様の
    御健康と御多幸を
   御祈り申し上げます

 たくましく立て

凛烈な寒気をしのいで
梅花はふくいくとかおり

厳冬を越して
松はみどりを増す

偉大な業績を
窮苦の中に樹立し

仰がれるほどの業績を
不遇の中に残した人が多い

窮苦はつらいが
試練がその中にあり

不遇はみじめだが
恩寵が必ずその中にある

だからたくましく立て
前途がきっと開けてくる
 (身延山法主 岩間湛良猊下の御言葉)

南無妙法蓮華経と唱えましょう
★お題目を唱えると、お釈迦様は救いの手を差しのべられます。
★お題目は、三世(過去・現在・未来)を救います。ご先祖も子孫も安心です。
★お題目を唱えて、悟りをめざし、行ないを正しましょう。誰でも仏になれます。
 

◆星祭りお守りの申込
星祭の祈願を受けて、一年中安心して明るい幸福な生活を送りましょう。
 お守りご祈祷料 一名 五〇〇円
 申込〆切    二月一日

◆仏教守護神大祭と特別大祈祷会
 仏教守護神様(弁財天・大黒天・鬼子母神)の大祭を左記により行います。
あわせて厄除け特別大祈祷会を行います。多数お誘い合わせご参詣下さい。 
      記
日 時 二月十一日(火) 建国記念日
 午後 一時  仏教守護神大祭
  〃  二時  特別大祈祷会
  〃  三時半 古い御札等のお焚き上げ
  〃 四時  茶話
※厄除け・特別祈祷等を申し込まれる方は、二月一日までにお申し込み下さい。
  御祈祷料   三,五〇〇円
 

 ◆寒 修 行
 一月二十日(大寒)〜二月三日(節分)
 毎夕六時、妙光寺に集合し、約二時間上田の町中を太鼓を打ってお題目を唱え
て行進します。お釈迦様の教えを、人類・動物・草木・国土・空に説き響かせる修
行、お題目の功徳を積むため、また心と体を鍛えるためにご参加下さい。

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妙光寺新聞  平成9年5月1日  第65号

法主法話
「いつくしむこと」
 
法華経の序品の中に、
  慈を以て身を修め、善く仏慧に入る
ということばがあります。「慈」とはいつくしむことです。なさけぶかい心です。あたたかいこころです。少しでもまわりの人びとを明るくしてあげようとつとめる心です。

「身を修め」とは、こういう心で常に行動することです。身内だとか、親戚だとか、友人だから親切にしよう、というのではなく、知る知らないにかかわらず、できるだけ広く、あらゆる人に対しても、常にこの心をもって接することです。「善く仏慧に入る」とは、仏慧は仏の智慧でありますから、仏のようにものを見、ものを考えることができるようになる、ということです。仏のように常にいつくしみをもって見たり、聞いたり、考えたりし、その心で行動できるようになれば、仏のごとく明るく、楽しく安らかに生きられるようになる、という意味です。

 親しい人だから親切にする、したがうから愛する、おとなしくするから可愛がるというのが、私たちの日常の心です。もちろん間違いではありませんが、他人には知らぬ顔で過ごす、逆らうとすぐ憎む、言うことを聞かないから嫌う、ということが裏にあつて、これもあたりまえと考えています。これが凡夫の凡夫たるゆえんです。

 仏のいつくしみとは、すべてに差別なくささげるものなのです。従えば愛し、逆らえば憎むというのでなく、いつ、いかなる場合、いかなる人に対しても、できる限りのまごころと、親切をささげることができるようになれば、それだけ仏に近づくこととなるのです。
 憎しみや怒りや愚かさをすてて、仏のようにいつくしみをささげつくすように努力することです。「仏心とは大慈悲これなり」と、仏さまは教えられています。

 常不軽菩薩は、自分を罵る者、あざ笑う者、馬鹿にする者、怒る者、杖で打つ者、石や瓦を投げつける者、憎しみをもって立ち向かう者たちに、いささかも逆らわず、礼拝しつづけました。そしてその人たちの幸いを得ることを、心から祈り願いつづけました。法華経にでているこの菩薩の物語りは、まさしく仏の大慈悲心の実行を示しているではありませんか。このためにこの菩薩はやがて六根清浄とて、正しく見、正しく聞き、正しく感じ、正しく知り、正しく行うことができるようになり、ついに仏と成った、とあり、さらに自分を迫害したそれらすべての人を教え導いて、仏のごとき安楽にして幸いの境涯に入れしめたとあります。怒りや憎しみをもって立ち向かってくるのを忍んだばかりでなく、その相手の幸いを念じて努力したのです。なんと立派なことでしょう。仏のおぼしめしに叶うのは当然です。
だから私たちも、小さいながらも愛情を、まごころを、親切を、できるかぎり、広く人びとにささげましょう。相手が受け取ってくれなくても、またそれを誤解しても、さらにそのためにつらくあたられても、愛情を、まごころをげることは正しいことです。尊いことです。(身延山法主 岩間湛良猊下の御言葉)
* *******************
日本でも効果抜群!?
アメリカ式「子どもを悪くする方法」
 アメリカでは「子どもを悪くする方法」というパンフレットが家庭に配布され、お父さん・お母さんが熱心に読んでいるそうです。「子どもを悪くしたいと思うなら、忠実にここに書かれていることを実行しなさい」というのです。
アメリカ式「子どもを悪くする方法」
○ 神さまを尊敬するような教育をしてはいけない。
〇精神をきたえる教育や道徳的教育をしてはいけない。
○ 子どもの前で、法律や
政治をバカにし、裁判所、警察、役所、学校などの悪口を言うこと。
○あいさつの仕方や食事のマナーなど、しつけをしてはいけない。
○子どもの前で、夫婦の考えや意見を一致させずにお互いを主張し、子どもにどちらかの意見に肩を持たせるようにすること。
○お客か帰った後、必ずお客の悪口を言うこと。
〇子どもに、「ああしろ」「こうしろ」と命令し、理由を聞かれても説明してはいけない。
〇子どもの教育やしつけは親の責任ではなく、学校の責任だと思えぱいい。
○両親はただ毎日を忙しく過ごしておればよい。
〇子どもの相談にのってはいけない。
〇家に子どもの友だちを入れてはいけない。子どもが家以外の、どこで遊んでいようとも放っておくこと。
〇こづかいを与えてはいけない。とりわけ、貯金や正しいお金の使い方を覚えさせてはいけない。
〇「人のため、世のためになる人になれ」などと教えてはいけない。「ただ自分一人のことだけを考えろ」と教えること。
〇叱りつけるときは冷静になってはいけない。はげしく怒りをぷつけ、感情を高ぶらせてりつけること。
○子どもとなかよくなってはいけない。夫婦にとって、あなたの人生にとって、子どもは邪魔だと思うこと。
〇「約束を守れ」などと教えてはいけない。
〇子どもが良いことをしたときに、絶対ほめてはいけない。
○子どもに、たとえひとかけらの愛情であっても持ってはいけない。「お前がいてお父さん・お母さんは
うれしいよ」などの言葉は厳禁である。

これがアメリカ式
「子どもを悪くする方法」だそうです。
最後に次のようなダメおしがあるんです。
「これまでに教えた方法すべてを忘れてしまったとしても、次の一つを忘れてはならない。
 それは、両親が人として悪い手本になることであり、「オレの言う通りにしろ、オレがどんなことをするかはオレの勝手だ!」と口ぐせのように言うことである」
 アメリカ式「子どもを悪くする方法」、いかがでしたか。決してアメリカ式のみならず、日本でも当てはまるように思いませんか?
お子さんを悪人に育てあげたいとお考えのお父さん・お母さんはないとは思いますが、知らず知らずに行っている行動を考えてみなくてはいけませんね。
********************
善い行いをする人になろう
 世の中には、次の4つの種類の人がいます
1,悪い行いをする人
2,悪い行いはしないがい行いもしない人
3,悪い行いもするが善い行いもする人
4,悪い行いをしないように心がけ、さらに善い行いをしようと心がける人
2の人は、悪い行いはしていないと思いこんでいるだけで、実際には一生の間蟻一匹も殺さないで過ごせる人はなく、また日々肉や魚を食べている人は、もうすでに殺生を行っていることになります。人間は他の命をいただいて自分の命を養っているのです。感謝の気持ちと、いただいた命は無駄にしないという心掛けが必用です。また、世界の国の中には食べるものも食べられず飢餓に苦しんでいる人がたくさんいます。そういう事実を知っているのに何もしないのは罪になります。
仏教的な生き方は、4です。
 諸悪莫作 諸善奉行

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妙光寺新聞  平成9年8月1日 第66号

  因と縁と

原因から結果が生まれる
だが すべてはそんなに簡単ではない

種をまけば花が咲くが
石の上においた種は芽を出さない

種はその花の原因ではあるが
原因だけでは花の結果が生まれない

太陽の光と大地のぬくもりと
水分と肥料と

そのほか 数えきれないいろいろの
力がはたらき 加わるのだ

助ける縁の力があってこそ
種から芽が出て 花が咲くのだ

誰もが 仏性をもっていながら
りっぱな人生を築けないのは

仏性を生き生きとのばす
正しい信仰の縁にふれないからである
(身延山法主 岩間湛良猊下の御言葉)
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  お盆のいわれ
 お盆は、正月と並んで日本では最も親しまれている年中行事の一つです。一般的には7月または8月の日から日または日にかけて行われています。正式には「盂蘭盆会」(うらぼんえ)といい、古代インド地方の梵語(サンスクリット語)の ullambana がなまったものです。年に一度、亡くなった人々が我が家に帰ってくる日とされ、そのもてなしのためにどんな仕事も休んで供養するという習わしが今に伝えられています。

 そもそも、この行事はお釈迦さまの六大弟子のひとり、目連尊者の故事に由来するといわれています。神通第一と呼ばれた目連尊者は、死んで餓鬼道に堕ちた母親が飢えと渇きに苦しむ姿を見てしまいます。さっそく様々なご馳走を贈りますが、業火に焼かれて母の口に届きません。果たしてどうすれば苦しむ母を救うことができるのか。その方法を問われた釈尊は「物惜しみをして貪り求めた罪によって餓鬼道に堕ちたのだから、おまえの神通力をもってしても救うことはできまい。7月日に修行を終える僧たちを迎え供養を捧げよ。さすれば、その功徳によって救われるであろう」と説いたのでした。

 そこで目連尊者は師の教えに従って「盂蘭盆会」を開いて供養したところ、母は餓鬼道の苦しみから無事のがれることができたといいます。この故事から、7月日は父母報恩の日、先祖追善の日として、先祖の霊を供養する行事が行われるようになりました。その前後、日には迎え火を焚いての迎え盆、日には有名な京都の大文字焼きに代表されるように、送り火で先祖精霊をお見送りします。このお盆こそがわが国における親孝行の日ともいえます。お盆休みで帰省した折りには、亡くなった親やご先祖はもとより、ふるさとで元気に過ごす親への感謝も捧げたいものです。

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四人の妻(お釈迦様の説話)
 或る所に一人の男が居ました。四人の妻が居まして、男は悠々自適の生活を していました。誰から見ても羨ましい生活でした。

 第一番目の妻は、自分の身 から離した事が無い程に愛していました。暑い暑いというとエヤ・コンディショ ナー、寒い寒いと言うと、毛皮のコートでも買い与える様な可愛がり様です。

 第二番目の妻は、第一番目の妻程ではないですが、ちょっとでも姿が見えないと、もう心配して探しました。この第二番目の妻は、あまりにも綺麗なので友人と大喧嘩をして、ようやく手にいれた妻でした。やはり、可愛がっていました。

 第三番目の妻は、時々会って楽しみ合う程度の夫人です。でも、やはり少しでも姿が見えないと、呼び出します。

 第四番目の妻は、妻とは名ばかりで奴隷と同じ様な扱いをしていました。嫌な仕事は全て第四番目の妻がやっています。男は優しい言葉もかけた事もありま せん。

 さて、人間というのは段々と年を取らなければなりません。悠々自適の楽しい生活をしていた男も、やがて衰弱してきて床に臥す事が多くなりました。そして、段々と死が近付いて来た事を自覚しました。しかし、一人で死ぬのは大変辛い。どこまでも、欲のある男の事です。

「よし、あいつと一緒に死のう!」と考えました。そして、第一番目の妻を枕元によびました。
「私はお前を本当に可愛がった。何に付けても金が掛かった。それだけ、お前を可愛がったのだ。今まさに私は死なんとしている。どうか、私と一緒に死んでくれないか」
と男は頼みました。すると、第一番目の妻は、
「私は、本当にあなたに可愛がられました。誰よりも私が一番可愛がられました。その事については心から感謝しています。しかし、あなたと一緒に死ぬのには、私は未だ早ようございます。あなたと一緒に死ぬ事はどうか勘弁願います」
と言って、病気で寝ている主人の枕元を去って行きました。男は、あれほど金を使い、あれほど可愛がった第一番目の妻に逃げられてしまいます。

 男は第二番 目の妻を枕元に呼びました。
「私は近いうちに死なねばならない。お前なら私と一緒に死んでくれるだろう」
その第二番目の妻は、
「私はあなたに可愛がられました。でも、第一番目の夫人が一緒に死なないと 言うのに、何で私があなたと死ねますか。あなたのもとに来る為に、あなたは友 達と仲違いになってまで私を呼んでくれました。その事に対しては本当に感謝しております。でも、あなたと一緒に死ぬお供はごめんです」
と、第二番目の妻も断りました。

 男は仕方なしに第三番目の妻を呼んで頼みました。
「お前なら私と一緒に死んでくれるだろう」
 第三番目の妻は、
「第一第二番目の妻があなたと一緒に死なないのに、どうして一緒に死ねますか。あなたが死んだら、火葬場までは御送りします。でも、それ以上は一緒に行けません。墓参はさせて戴きますから、どうか勘弁して下さい」
と、第三番目の妻も断りました。

 男は仕方ありません。第四の妻を枕元に呼びました。
「何とも言いにくいが、私はこれから死ななければならない。お前には優しい言葉の一つもかけなかった。しかし、私と一緒に死んでくれないか。頼む」
といいました。すると、第四の妻は万感胸にせまって、さも耐え切れぬ様にさ めざめと泣いて言いました。「私は、あなたの元へ来る時から、あなたと一心同体の気持ちで参りました。たとえ、優しい言葉をかけて下さらなくとも、私はあなたに一生を捧げて、あなたの言う通りにして行くつもりです。どうして、あなたと一緒に死ぬのが嫌でしょうか。どうか、私をつれて行って下さい」と、第四の妻は泣きながら言いました。男は目からは止めどなく涙が流れ落ちました。結局、男は一番粗末にした第四の妻と死出の旅路につきました。

 この物語はある事柄の譬喩です。
 第一の妻とは、人間の身体をさしています。誰でも自分の身体を大事にします。寒いと言っては暖かい服を買い、暑いと言っては高価なクーラーを買います。生きている限り、第一の妻(自分の身体)を離す事はないのです。しかし、死ぬ時は離れ離れになってしまいます。身体を大事にする事も大切ですが、身体は死出の旅路のお供までは出来ません。

 第二の妻は、人と喧嘩をしてまでも手に入れました。すなわち、金銀・財宝 をさしています。誰でも、金銀・財宝は大切だから、ちよっと見ないと金庫や引き出しを開けて確認します。しかし、死の旅路に金銀・財宝は持参出来ません。

 第三の妻とは、自分の親兄弟や親友をさします。いくら親戚兄弟無二の友でも、一緒に死んでくれません。一緒に来てくれるのは告別式や火葬場までです。

 第四の妻とは、人間の心です。生きている間から、死出の旅路まで心というものは、魂と一緒に伴います。しかし、一番粗末にしているのが、実は心なのです。

 現代人は、多かれ少なかれ心を病んでいます。それは、自分の身体も、お金も、親戚友達も大事にしようとしますが、心を大事にする事を忘れて粗末にしがちだからです。
 日蓮聖人は、御妙判「崇峻天皇御書」に次のように説かれています。
   蔵の財(たから)よりも
    身の財勝れたり、
      身の財より心の財第一なり
 財産よりも身体が大切です。更に身体よりも心が一番大切です。財産も肉親 もこの身体でさえあの世には同伴してくれません。冥途に連れて行く唯一の伴侶たる心を大切にしなければなりません。
社会や教育現場にて忘れられがちな心、それは私達が生まれながらに持って いる菩薩の心です。その菩薩の心を呼び起こし増すもの、それが南無妙法蓮華経です。この心を大切にしたお経「法華経」、そしてその功徳を戴くためのお題目を命懸けで弘められたのが日蓮大聖人です。(石伏叡齋上人法話お借りしました)

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統一信行会
平成9年9月7日(日) 会場 高明寺
講師 東京麻布一乗寺住職 金子正明上人
   「日本人の宗教観を考える」
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平成十四年(二〇〇二)、二十一世紀という新しい時代の幕あけとともに、私たち日蓮宗は「立教開宗七百五十年」を迎えます。
 立教開宗とは、建長五年(一二五三)四月二十八日、日蓮大聖人が故郷の清澄山(現在の千葉県清澄寺)・旭の森の頂で、はじめて南無妙法蓮華経とお題目を朝日に向って唱えられた事で、日蓮宗の始まりです。

 日蓮宗では、立教開宗七百五十年を迎えるにあたって、次の目標を掲げています。
1,立教開宗は、お題目から。
2,お題目の信心修行に精進しよう。お題目を唱えるよう人々にすすめていこう。
3,立教開宗の意義を学び、語り合い、日蓮大聖人の誓願と報恩の心をうけつぎ、正法をひろめて、国や社会の平安をめざしていこう。
4,立教開宗七百五十年をお祝いし、日蓮宗ならぴに寺院・教会・結社の興隆をめざして、慶讃事業にとりくんでいこう。
当山妙光寺でも、日蓮聖人立教開宗七百五十年慶讃事業として、本堂東側庫裡の改修及びその他附随事業を計画致しております。計画立案の折りは、宜しく御協力の程お願い申しあげます。

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妙光寺新聞 平成9年9月20日 第67号

今月の聖語

  まず臨終の事を習うて
  後に他事を習うべし

【解説】このお言葉は『妙法尼御前御返事』の一節です。この書は弘安元(一二七八)年七月十四日、身延の日蓮聖人が夫の臨終の様子を伝えた妙法尼へのご返事です。
この一節は、日蓮聖人の仏法学習の基本的な姿勢を述べたものです。また、本文中で、妙法尼の夫の死が安らかだったことは、お題目修行の成果であったとなぐさめています。

 形あるものは必ず滅し、生まれたものは必ず死に至ります。常に生とともにある死を真剣に見つめれば、生はいっそう輝き、この世に生きていることが、この上なく尊く感じられるでしょう。その感謝の気持ちを実現させるのが、『法華経』・お題目の教えなのです。
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真実の生を生きるために
  死への準備教育

 最近神戸の淳君殺人事件を始め、強盗殺人など、人の命をいとも簡単に奪う事件が起きています。また、自殺も統計によるとずいぶん多いそうです。
 欧米では、宗教の授業があり、小さい頃より人の命の尊さや生きる目的などが、学校で教えられていますが、日本では戦後そういう授業がありません。

 9月5日、日蓮宗の教化研究会議で、アルフォンスデーケン教授の「新しい死の文化を求めて」という講演を聴きました。デーケン氏は上智大学教授のドイツ人で、日本に「生死学」の概念を定着させた人物として、多くの著述と共に高い評価を得ています。「新しい死の文化」とは「新しい生の文化・新しい生の発見」であり、その前提となることは告知(ガン・エイズ・余命)です。

 日本では告知の問題は国民性もあり欧米に比べ遅れていますが、ドイツでは全ての学校に宗教の時間があり、死に対する教育がなされ生命尊重が説かれ、死に対するタブーはかなり低いということです。新しい生の文化を目指すには、このタブーを除くことが第一条件です。医療サイドと共に大衆のレベルの双方がこの意識の払拭に努力しなければなりません。

 己の死を受容するブロセスは 1.精神的打撃と麻痺状態 2.否認 3.パニック 4.怒りと不当感 5.怨み 6.罪の意識 7.否定したい空想と幻想 8.孤独感と憂鬱 9.精神的混乱と無関心 10.あきらめー受容 11.新しい希望 12.立ち直りとなり、これは告知された人の殆どがたどる道です。不告知であれば大切な残された時間、すなわち充実した最後の時を持たない事であり、これは人生の大いなる損失です。

 「死に直面している人とその家族、また死別後の苦悩にあえぐ残された人たちにどれだけ思いやりのこもった援助の手を差し延べられるかが、その社会の文化的成熟度を示す尺度となる」(米国生死学会第一人者ハーマンファイケル博士)の言葉で講演を締めくくられました。

 人は100%必ず死にます。誰もそれを避けることはできません。
 そこで死に直面している人への手助けを行えば、そのまま自分にとって死への準備教育となり、大切な自分の命、人生の生き方に有用になっていくことでしょう。
 会場でガンの告知について皆さんの考えを聞いたところ、「自分には告知を希望するが家族に告知する事には躊躇する」とする意見が大勢でありました。これでは告知は進みません。これは後のケアが日本では圧倒的に不足しているからでしょう。

 後のシンポジウムにおいて「人は人生の最後、死に向かって如何に人生を完結するかという宗教的時間を過ごすこととなります。宗教に求められるものは祈りと救いです。死の恐怖から解放、安らぎを得られるのは、宗教者が共に祈ることによってのみであります。但し、それは絶対的に信頼される宗教者のみに可能な事であります」と、パネラーがの一人がまとめられました。

 「死への準備教育」は、死をよく知ることによって今ある生を大切に生きることを身につける訳ですが、振り返って今の日本を考えたときはどうでしょう。
 教育的に心配なことも縷々あります。ゲーム機などではバトルで人を簡単に殺したり、テレビでは毎日のように○○サスペンスというような番組があり、いじめ・暴力・不倫などがごくふつうに扱われ、社会をまじめに生きていくことの尊さが、だんだん見失いかけているような気がします。

 苦悩の心の「いやし」だけではなく、積極的に功徳を積み、仏さまがすべての人を救おうとなされていることを、お手伝いさせていただく。残された人生の時間を考えて、尊いお釈迦さまの教えに出会えたことを喜び、教えを学び、菩薩さまのように人に手助けをしていく。やがて身を終えて仏様のもとに往ったとき、仏さまから「あなたは娑婆(私たちの今住んでいる世界)でよく頑張って修行してこられましたね」おほめの言葉をいただけるような人生にしたいものです。

 私たちは「食うために働く」そういう目的で生きているのではありません。尊い人生になるために働き食べているのです。
 先日な亡くなられたマザーテレサの特集をテレビでやっていました。彼女は接する貧しい人に、「あなたは望まれて生まれてきたのですよ」といって、その人々にふれて自信を与え、多くの人々を助けていました。してやっているという心では長続きしません。人々に与え続けさせていただくという奉仕の心が、貧しい人に接し続けるというつらい状況の中でも明るい笑顔で生きられた理由だと思われます。また人々に感動と感謝の心をおこさせたのでしょう。
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 実は、お彼岸というのは人生のこういう大切なことを考える季節なのです。

法話 「六つの行ない」

 彼岸の頃は、暑からず、寒からず、自然にも恵れ、しのぎよい季節になりま
す。彼岸会とは、この岸から彼の岸(仏さまのおられる悟りの世界)に渡ることです。しかし現実の此岸の中に、彼岸を見出し、彼岸の世界を建設してゆくことが真実の彼岸会の意義ではないでしょうか。お彼岸に、お墓参りに行く事もまた、これも彼岸会の先祖報恩の大事な行事であり、そうして、家庭の幸福を見出すことが、此岸の中に彼岸の世界を見出すことでありましょう。

 彼岸の行ないとしては、お釈迦様は六波羅蜜をお示しくださいました。
(一)人に教えや、財をもって恵むこと
(二)戒律をたもつ行ない
(三)苦しみにたえぬく行ない
(四)心身をうちこんで精進すること
(五)心を不動のものにする行ない
(六)根本心理を体得する行ない

 六つの行ないを身につけて修行する自己反省と、自己完成を期するために修行することは、私どもが毎日心がけねばならないことです。
 現実の私たちの生活は、あまりにも仏道からはなれすぎておりますので、せめて彼岸会の一週間だけでも仏道的生活に親しむために、この彼岸会は、設けられたものと思います
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 日蓮宗とは

日蓮宗を開かれた人は
日蓮聖人です。法華経の中から選ばれたお名前がそのまま宗旨の名称になっています。
「闇であっても燈をつければ明るくなる。濁った水でも月が宿れば澄む。明るいこ
とは日月の光にすぎるものはない。浄らかなことは蓮華にまさるものがあろうか。法華経は、暗い世の中を明るくし、濁った人の心を浄める日月の光と清浄な蓮華なのである。そこで、妙法蓮華経と名づけられている。日蓮もまた、その日月と蓮華のように生きるものなのだ」

開宗された時期は
鎌倉時代の中期、建長五年(一二五三)四月二十八日です。生まれ故郷の南房総は清澄山の旭ヶ森で、日蓮聖人は声高らかに「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えて、天地に立教を宣言されたのです。これを立教開宗といい、聖人三十二歳の時でした。ちょうど西暦二〇〇二年が立教開宗七百五十年になります。つまり日蓮宗は七百五十年の歴史と伝統を持つ宗団です。

御本尊は
久遠実成の本師釈迦牟尼仏です。ご本尊のみこころ、おさとりの世界を図に現したのが「お曼荼羅」本尊です。日蓮宗はこの本尊を尊崇します。

日蓮宗のよりどころ
お釈迦さまが説かれた最高の教え「妙法
蓮華経」、略して「法華経」をよりどころとして成り立っています。仏教は「八万四千の法蔵」といわれ数えきれないほどのすばらしい教えが残されていますが、日蓮宗は法華経を「諸経の王」すべてのお経の中の王様としてとらえよりどころとしています。仏教の目的が「仏になる」こと、つまり「成仏」にあることは言うまでもありません。法華経は、すべてのものが仏になることができる教えであり日蓮宗の最終日的もすべての人の「成仏」です。

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  平成十四年(二〇〇二)、二十一世紀という新しい時代の
  幕あけとともに、私たち日蓮宗は「立教開宗七百五十年」
  を迎えます。

 立教開宗とは、建長五年(一二五三)四月二十八日、日蓮大聖人が故郷の清澄山(現在の千葉県清澄寺)・旭の森の頂で、はじめて南無妙法蓮華経とお題目を朝日に向って唱えられた事で、日蓮宗の始まりです。

 日蓮宗では、立教開宗七百五十年を迎えるにあたって、次の目標を掲げています。
1,立教開宗は、お題目から。
2,お題目の信心修行に精進しよう。お題目を唱えるよう人々にすすめていこう。
3,立教開宗の意義を学び、語り合い、日蓮大聖人の誓願と報恩の心をうけつぎ、正法をひろめて、国や社会の平安をめざしていこう。
4,立教開宗七百五十年をお祝いし、日蓮宗ならぴに寺院・教会・結社の興隆をめざして、慶讃事業にとりくんでいこう。
当山妙光寺でも、日蓮聖人立教開宗七百五十年慶讃事業として、本堂東側庫裡の改修及びその他附随事業を計画致しております。計画立案の折りは、宜しく御協力の程お願い申しあげます。

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妙光寺新聞 平成9年11月23日 第68号
 

なくてはならない人

太陽は万有を
平等に照らし

水は万物を
ひとしくうるおわす

だのに人間だけは
好き嫌いし

愛し、また憎んで
人生の明暗をつくっている

憎み恨んで悲しむことの
愚かさに気づいて

わけへだてなく人々に
愛情をほどこせば

あなたが太陽の如く水の如く
なくてはならない人になる
  (身延山法主 岩間湛良猊下の御言葉)

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  今月の法話
「衣食足りて 礼節を知る」

 「今の子供は幸せよね。何でも豊富で」よくこんな言葉を耳にします。果たして本当に幸せなのでしょうか。たしかに物の無かった時代に育った人にとっては、ものが有り余るほどある現代は、幸せと感じるでしょう。しかし生まれたときから物に囲まれ、物のない時代を知らず、新製品の情報を聞かされ、見せられている今の若者にとって、物が有る事が
どこまで幸せなのでしょうか。
 物が有るということと、足りるということは根本的に違います。満足して初めて幸せは感じられるのです。ところが物欲は無限に広がります。経の中に「少欲知足」と云う言葉が出てきます。つまり欲を抑えれば物は少なくても満足でき、幸せに成れるということです。
 地球にはすべての人間を生かすだけの物は充分にありますが、人間の欲を満たすだけの量はないのです。よい暮らしができ、よいものを身につけ、よいものをたくさん食べられることよりも、もっと素晴らしい幸せがあることを、私たちは考えようではありませんか。
 お会式
「お会式」とは、日蓮聖人の忌日に修する法会のことです。お会式は御命講、御影講とも称され、お祖師さま日蓮聖人を鑽仰する庶民によって行われてきた仏教行事でもあります。

 建長五年(一二五三)四月二十八日、はじめてお題目をおとなえになってから、流罪、死罪にもおよぶ大難四カ度、さらには無数の小難を受けながらも、私たちにお題目の信仰をうえつけ下さったお祖師さま日蓮聖人は、今から七百年前の弘安五年(一二八二)十月十三日の午前八時頃、今の東京池上にて、御年六十一歳でご入滅なされました。そのとき、大地は震動し、秋だというのに時ならずも桜の花が咲きほこったと伝えられています。そして翌十四日ご葬儀、十五日には池上で荼毘の式をあげ、「墓は身延にたてよ」と言うご遺命によって、身延山にご聖骨は納められました。それ以来、毎年日蓮聖人のご命日には、弟子信者たちが法要を営み、報恩の儀式をあげ、命日やその前の晩、つまりお逮夜の法要を現在では「お会式」とよんでいるのです。
 日蓮聖人は十二歳のとき当時は天台宗だった清澄山に登り、十六歳のとき道善房を師として出家したのですが、建治二年(一二七六)、身延へ入山して二年後に師の道善房の訃報に接しました。師への報恩感謝と追善供養のために書きあらわされたのがこの「報恩抄」です。日向上人を使者として清澄へさしむけ、師の墓前で朗読させたのでした。
 日蓮聖人は恩師への思いばかりでなく、父母への報恩も大事にされました。父母への孝養を讃える檀越へのお手紙も数多く残されています。聖人ご自身も、身延時代には、しばしば高みに登り、安房の方に向って合掌し、故郷の亡き父母への報恩の祈りも捧げました。
 そして、日蓮聖人のご信仰の上での報恩とは、法華経に説かれているように、永遠の昔からこの娑婆世界にあって一切衆生の救済のために法を説きつづけている教主釈尊の慈悲に私たちが包まれているという事実をみんなに知らせることでした。どんな迫害にもめげず、お題目をひろめるために一生を捧げられたのです。
 さて十月十三日は日蓮聖人のご命日です。全国の日蓮宗のお寺ではその日に前後して、ご命日の法要を営みます。これはしかし日蓮聖人の死を悲しむために行なう法要ではありません。
私達が日蓮聖人に出会い、そのご信仰と教えに接し、み仏(ほとけ)の永遠の慈悲のみ手にいだかれているのだということを教えて下さったことに対する感謝の法要なのです。この日にお赤飯を炊いたり、紅白のお餅をお供えするのはのは、お祖師さまにめぐりあえた悦びを表しているのです。

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 お題目の輪

 皆さんは挨拶というものをどのようにお考えでしょうか、改めて考えるととても重要なものなのですが、あまりにも日常的なもので、ついつい挨拶の価値というものを忘れがちです。最近では挨拶のしっかりとできる人が少なくなったなどということをよく耳にします。
 実はここからとても重要な問題を見て取れるのです。最近の事件を見てもわかるのですが、私達はお互いに敬い、思いやる心を忘れてしまっているのではないでしょうか。
 法華経の『常不軽菩薩品』という法華経を二十八に分けたうちの、二十番目のお経に但行礼拝という修行をした常不軽という菩薩様のお話が出てきます。
 その菩薩様はどんなに気味悪がられて、石をぶつけられたり、杖で殴られたりしても、「私はあなたを深く敬い、決して軽んじることをしません。なぜならあなたは仏となる方ですから。」と言って、すれ違う人々に礼拝をする行をして仏となったそうです。
ここでは決してお釈迦様は、そのような行をしなさいと言っているのではないのです。私達はすべて平等に仏になる可能性を持っているのだから、お互いが敬う心を持たなければいけませんとおっしゃっているのです。
 最近、七面山というお山に登って気が付いたのですが、なぜ七面山が信仰のお山と言われるかというと、それは参道ですれ違う人が、お互いに「がんばってね」「ごくろうさま」というような挨拶を、合掌して言うのです。ここでの挨拶はただの挨拶ではなく、まさに自分だけではなく、皆で共に仏の道を歩みましょうと、相手の心にも敬いの気持ちを持って言っているのです。これが信仰のお山と言われるゆえんではないでしょうか。
 日蓮聖人は『一生成佛鈔』の中で、私達が安穏な生活を送ることができるかできないかは、私達の心の善悪によるとおっしゃっています。つまりは私達が敬いの心を忘れずにいれば、私達の社会はより良いものになるとおっしゃっているのです。
 現代社会は、物質的にはとても恵まれて一見幸せな生活を送っているように感じますが、人と人の関わり合いが正常でない生活は本当に幸せなのでしょうか。今私達は、目に見えるもの
に幸せを求めるのではなく、お題目にすべてを委ねる時なのです。それが法華経に帰依するということ、つまり南無妙法蓮華経というお題目の修行なのです。
(この法話は、現在身延山で布教の勉強をしている若き僧侶の法話です。第三十七回日蓮宗布教研修所のホームページより転載しました。アドレスは
http://www02.so-net.or.jp/~bose/
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平成十四年(二〇〇二)、二十一世紀という新しい時代の幕あけとともに、私たち日蓮宗は「立教開宗七百五十年」を迎えます。
 とは、建長五年(一二五三)四月二十八日、日蓮大聖人が故郷の(現在の千葉県清澄寺)・旭の森の頂で、はじめてとお題目を朝日に向って唱えられた事で、日蓮宗の始まりです。
 日蓮宗では、立教開宗七百五十年を迎えるにあたって、次の目標を掲げています。
1,立教開宗は、お題目から。
2,お題目の信心修行にしよう。お題目を唱えるよう人々にすすめていこう。
3,立教開宗の意義を学び、語り合い、日蓮大聖人のと報恩の心をうけつぎ、正法をひろめて、国や社会の平安をめざしていこう。
4,立教開宗七百五十年をお祝いし、日蓮宗ならぴに寺院・教会・結社のをめざして、にとりくんでいこう。
当山妙光寺でも、日蓮聖人立教開宗七百五十年として、本堂東側の改修及びその他附随事業を計画致しております。計画立案の折りは、宜しく御協力の程お願い
申しあげます。

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妙光寺新聞 平成10年1月5日 第69号
 

謹 賀 新 年
新春を迎え皆様の
ご健康とご多幸を
 お祈り申し上げます

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 宝石よりも美しく

のどがかわいている時は
水が何よりおいしく

空腹の時には
食べ物がこの上もなくありがたい

親切と愛情がかけている世間では
温かい思いやりこそ最もとうとい

名もなく貧しいお互いでも
親切と愛情だけは

その心になりさえすれば
誰にでも限りなく捧げることができる

そしてそれは
宝石で飾るよりもさらに美しく

あなたを
とうとく立派にする

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今月の法話 『笑顔』

 もし私共がお互いに先ずにっこりを実行できたら、世の中がどんなになるだろう。荒々しいしぐさや荒々しい言葉が、どれくらい静められ浄められていくか分からない。妙なもので、鏡を見てにっこりと笑ってみる。心に不満や怒りがあると、どんなに努めてみても、そのにっこりがうまく出ない。その代わり、一度にっこりと笑ったその瞬間に、今まで心の中にわだかまっていたすべてのしこりが、たちまちすうっと消えてしまう。
 笑顔の中心は何といっても眼である。どんなに顔が笑っても、眼が笑わぬうちは、まだほんとうのにっこりにならない。顔で笑って心で泣いてなどと、歌の文句はあるけれども、心が泣いているうちはどうしても眼がほんとうに笑わないから駄目である。
 心がにっこりして始めてほんとうのにっこりになり、やさしい言葉も生まれるのである。同時に、にっこりした笑顔が、心のほんとうのにっこりを誘い出すことになるのである。
 宮崎観光の父岩切章太郎氏の「無尽灯」という本があります。上の文はその第一章「先ずにっこり」の一節であります。
 誰しもにっこりして暮らしたいが、なかなかそうもいきません。腹の立つようなことや、悲しいことが余りにも多いこの頃は、なおさらではないでしょうか。
 しかし、そういう時代であればこそ「にっこり」の効用は大きいのではないでしょうか。仏教では誰でも仏性を持っていると言われますが、仏教の利益は仏の心を頂くことです。その仏の心で見つめあっていけば、心のわだかまりなど消えて、にっこりとなれるのではないでしょうか。
 言葉は通じなくても、にっこりがあれば、人は仲良くなれるんです。笑顔は世界共通のパスポートです。
 日蓮聖人は兄弟抄などに「六波羅蜜経」の言葉をかり、心のコントロールの大切さを
 心の師とはなるとも、心を師とせざれ
と、いましめておられます。

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 なぜお灯明を点ずるのですか
お釈迦様がお亡くなりになる前に、お弟子さんや、ご信者さん達に「私が死んだ後は、自分自身を灯とし、法を灯として生きて行きなさい」とご遺言されました。
私達は人間としての自覚のある行ないと、お釈迦様の遺された貴い教え(法華経)を心の依り処として、日常生活を営んでいかなければなりません。
 この世は、一寸先は闇だといわれています。種々な苦しい事が充満しています。
 灯は闇を照らし、明るく致します。仏様の教えは、この闇の世、夜道に私達の行き方を示されています。それを灯に譬えたようです。
 一本のローソクを暗闇で点じ、燃え、消え去って行く姿を眺めていると、人生の無常を考えさせられます。
 昔から、ご仏前には香華をたむけ、お茶・お水・仏飯・果物・お菓子等が、習慣として供えられて来ました。こうしたお供え物をしたからといって、特別に仏様や、ご先祖様が姿をあらわして、眺めたり、食べて下さるとは思いませんが、これは「仏前に花一輪の心がけ」とうたわれましたように、仏様を恋い
慕う私達の真心の現れで、仏様は、私達と同じように生きておられるという信仰心、ご給仕のあらわれなのです。
こうした何事も仏様を優先する心ゆかしい行為が、利他行であり、人々の心を豊かにし、ひいては家庭や社会を明るく住みよくし、仏国土が顕現するのではないでしょうか。お互いに、仏様のお慈悲と知慧を頂いて、人間生活をまっとうするよう精進致しましょう。

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  合掌とは
合掌とは、日蓮宗では「合掌は精誠一心の相であって、心気を合一にしいささかの雑念なく専心に仏を念じ礼拝を行ぜんがための形である」とされてます。
日蓮宗宗定法要式に「左右の指掌を密着し、中指の頭を咽喉の高さにして両栂指の第二関節を軽く胸につけ、両肘を特に張らず脇の下へ自然に垂れる」とあるので、これら
の事を念頭において心か
ら合掌しましょう。

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 世の中を明るく照らす
テレビや新聞などて、毎日殺人事件、泥棒、経済政治の不正が報道されています。最近気になることですが、テレビの番組で、金田一少年の事件簿、コナンくん、○○サスペンスなど殺人事件に関する番組が多すぎるような気がします。また過度に刺激の多い番組や人を笑い者にする番組など、心を殺伐とするものが多いような気がします。
1月4日の読売新聞に、「困った人が増えてきた?」という記事がありました。
「『困った人たち』とのつきあい方」・「あなたの身近な『困った人たち』」・「平気でうそをつく人たち」などの本が並んでいるという。
世間体を気にして、うそをついたり、他人に責任を転嫁したり、自分の欠点は認めないタイプの人を「邪悪な人」と名付けて、精神医学の対象とするよう提唱している。(森英明翻訳「困った人たち」)
世の中が濁っているから、自分もそのままでいいということはありません。日蓮聖人は、
「闇であっても燈をつければ明るくなる。濁った水でも月が宿れば澄む。明るいことは日月の光にすぎるものはない。浄らかなことは蓮華にまさるものがあろうか。法華経は、暗い世の中を明るくし、濁った人の心を浄める日月の光と清浄な蓮華なのである。そこで、妙法蓮華経と名づけられている。日蓮もまた、その日月と蓮華のように生きるものなのだ」といわれました。
世の中が少しでも
よくなるように、
太陽のような広い
心で、蓮の華のよ
うに清らかな心で
生きていきましょう。
このような人を、仏教では菩薩といいます。

平成十四年(二〇〇二)、二十一世紀という新しい時代の幕あけとともに、私たち日蓮宗は「立教開宗七百五十年」を迎えます。
 とは、建長五年(一二五三)四月二十八日、日蓮大聖人が故郷の(現在の千葉県清澄寺)・旭の森の頂で、はじめてとお題目を朝日に向って唱えられた事で、日蓮宗の始まりです。
 日蓮宗では、立教開宗七百五十年を迎えるにあたって、次の目標を掲げています。
1,立教開宗は、お題目から。
2,お題目の信心修行にしよう。お題目を唱えるよう人々にすすめていこう。
3,立教開宗の意義を学び、語り合い、日蓮大聖人のと報恩の心をうけつぎ、正法をひろめて、国や社会の平安をめざしていこう。
4,立教開宗七百五十年をお祝いし、日蓮宗ならぴに寺院・教会・結社のをめざして、にとりくんでいこう。
当山妙光寺でも、日蓮聖人立教開宗七百五十年として、本堂東側の改修及びその他附随事業を計画致しております。計画立案の折りは、宜しく御協力の程お願い申しあげます。

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◆月例御施餓鬼祈祷会 毎月一日午後一時
◆ 寒修行 一月二十日〜二月三日
   午後六時より二時間
   心と体を鍛える修行です。ご参加下さい
◆二月十一日 午後一時
   仏教守護神大祭
   特別大祈祷会

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