お釈迦様・釈迦牟尼仏について

名称 お名前 幼名 ゴータマ(釈迦族の姓)シッダールタ(パーリーて゜はシッダッタ)
年代 生年bc 624-463 没年bc 544-383 諸説多数。
時代背景 孔子やソクラテスとも近く、世界でも多くの思想が生起した時。
インドではバラモン教が広まっていた時代。
家族 等 父 スッドーダナ(浄飯王)
母 マーヤ(摩耶)  シッダールタが誕生後7日目に死去。
妻 ヤソーダーラ(耶輸陀羅) シッダールタが16歳の時に結婚。
長男 ラーフラ
義母 マハーパジャパティー(摩訶波闍波提)  ヤソーダラの妹(釈尊の叔母)
従兄弟 アーナンダ(阿難)・デーバダッタ(提婆達多)

名称
ゴータマ シッダールタとはゴータマ家のシッダールタの意味。然し、シッダールタsiddhartha  siddhatthaには「目的を達した人」の意味もあるので、本来の幼名とは限らないが、仏伝では出家以前の名をシッダールタとしている。

一般的に名称である釈迦牟尼仏sakya muni buddhaは釈迦族の聖者・仏の意味。釈尊は釈迦牟尼世尊の略称。


年代                                                     世界仏教史年表へ
伝承や各研究者により生没年代は以下のように諸説多数あるが、没年齢が80歳であることは一般的になっている。
(1) BC.566年-486年(高楠順次郎説)
(2) BC.565年-485年(衆聖点記説
(3) BC.564年-484年(金倉圓照説)
(4) BC.466年-386年(宇井伯寿説)
(5) BC.463年-383年(中村 元説)
(6) BC.624年-544年(東南アジア圏にて採用されている説)  尚、他にも諸説がある。

衆聖点記〈シュウショウテンキ〉とは中国の経典録である『歴代三宝紀』〈レキダイサンポウキ〉によるもので、釈尊入滅後、毎年一つずつ墨点を加えていったと言われる説による。即ち、489年に僧伽跋陀羅〈ソウガバッダラ〉が『善見立毘婆抄』を翻訳したときに975個目の点を加えた事を基として、これを逆算して釈尊入滅を紀元前485年とした説である。

この説は算定基準により巾が生ずる事があり、高楠説や金倉説はこの衆聖点記説に更に考察を加えたもの。

宇井説・中村説は、セイロン伝に釈尊入滅からアショーカ王(阿育王)即位までに5人の王がいた事を示している事を基に、漢訳伝承を加えて考察し、その期間を宇井説は116年後として入滅を紀元前386年とした。中村説はその期間を修正して紀元前383年とした。

現在の日本では(5)の中村説が有力となっている。



                 釈迦の生涯
釈迦は現在の北インド、ネパール付近とされるカピラ城の釈迦族の王(スッドーダナ)の子として誕生し、16才で妻をめとり、一子ラーフラをもうけるが、29才(19才)老病死について悩み王宮を出奔。12年間の修行(苦行)の末、この無意味さを自覚し、菩提樹下にい端座瞑想し、35才(30才)にて成道(覚る)。以来、インド各地を遊行・伝道し、80才にて入滅、釈迦の入滅を涅槃と言う。

釈迦の生没年代は上記のように不確定な点が多い。生涯については『過去現在因縁経』『仏本行集経』『普耀経』『仏所行讃』『大般涅槃経』また、戒律の中にも窺うことができるが、特に重要なものは『仏所行讃』(ブッダチャリタ)であろう。

以下、当山本堂にある釈迦の生涯を描いた「釈迦八相図」(丸山晩霞 画)のストーリに従って、その生涯を略説する。

以下のイラスト写真は豊原大成著『釈尊の生涯』法蔵館(昭和61年)の中の、ゆだ利恵子氏の挿し絵を転写したもの。
その他に鈴木出版『仏教コミックス』より転写。

1.聖夢 懐胎
ほぼ2500年以前、北インドの釈迦族のカピラ城にいた摩耶夫人が午睡中に天から
白い象が降りてきて、自らの腹に入った夢をみてシッダールタを懐妊したと伝承されている

この象の牙が6本あったとも、象の上に菩薩が乗っていたとも伝えられる。




2.誕生

摩耶夫人が城の近くルンビニー園(藍毘尼園)に行かれた時、産気づき
近くの樹に右手をかけた時に無事安産で男子(シッダールタ)を出産した。

この樹は安産の故事により無憂樹とも言われる。現在のカルミヤ(アメリカ
石楠花)ではと推測するのだが。。

伝承ではこの時、7歩あるいて、右手で天を指し、左手で大地を指して「
上天下 唯我独尊 三界皆苦 我当安之
」と唱えたと言う。

この誕生の日が4月8日で釈尊降誕会(花まつり)となっている。

3.出離 出家

シッダールタの誕生後、7日目に母の摩耶夫人は不幸にも死去し、王子の育成は摩耶夫人の妹であるマハープラジャパテイによってなされた。王子は聡明にして武芸にも優れ、かつ、感受性が強くものの憐れみにも敏感に感ずる青年となった。

王宮生活は何一つ不自由なく、19才(16才)でヤショーダラ姫と結婚し、一子ラーフラをもうけ、王家は安泰かに見えたが、王子の心中にある無常観は増大の一途をたどり、29才(19才)遂に王宮を抜け出す事となる。

伝承では、この城退出の契機を四門出遊〈シモンシュツユウ〉と伝えている。ある時に王子が城の西門から出た時、老衰激しい老人に出会い、南門から出た時には、苦しむ病人に出会い、西門から出た時には、死者の葬列に出会った。そして、
北門から出た時に、気高い修行者と出会い、その気品に打たれた。。これが出家の機縁であると伝える。

城脱出の時、愛馬カンタカに乗り、従者
チャンナ一人を伴っていたと言う。

伝承では、王がシッダールタに不審を抱き、城の門を全て施錠したが、その時、王子は何の苦もなく城を出てしまったと伝えられている。

4.苦行と供養

自ら髪を下ろしたシッダールタは乞食者となり、心の闇を開くべく、マガダ国等にて多くの修行者・思想家に教えを請うが、満足を得られずに、当時、多くの者が行っていた苦行に身を投ずる事となる。

当時の苦行は定かでないが、断食を主として、不眠、不呼吸等であったらしい。

シッダールタはこの苦行を6年間行ったが、己の満足を得られず、苦行の無意味を悟り、苦行の場所を離れ、尼連禅河〈ニレンゼンガ nairanjana〉の辺で、村の娘スジャ−タの差し出す乳粥(牛乳のお粥)を飲み、やせた体から体力を回復して菩提樹の下で禅定瞑想に入った。

共に苦行をしていた5人の修行者は、この姿を見て、シッダールタは堕落したと誤解して立ち去ったと伝えられる。

5.降魔 悪魔の妨害


菩提樹
の下で瞑想していると、天の悪魔の大群が、刀や弓矢で切り込み
、あるいは美女の姿となって誘惑したりと、シッダールタの瞑想を妨害した。

しかし、シッダールタは強い意志と勇気と精神力でこの悪魔を撃退。迫る弓矢
や刃は、身に届くことなく地に落ち、あるいわ花びらとなって散り、誘惑する
美女は雲散霧消したと伝えられる。

迫り来る悪魔の大群こそ、若きシッダールタの心の中にあった、欲望、嫉妬、
葛藤等々なのであろう。

乳粥を供養するスジャータ

6.大正覚 お悟り

悪魔の去った後、沈思黙考の中、シッダールタは12月8日の明けの明星輝く時
、全ての人々を救済する真実と知見(大悟・解脱)を得て、仏陀(世尊)と成ら
れた。この時釈尊は35才(30才)、この日を成道会〈ジョウドウエ〉という。

尚、仏典では、この日までの姿を菩薩とし、大悟以後を釈尊(仏陀)と区別し
て説いている。

仏陀が悟られたものは「苦の根本は何か。全ては縁起の道理によって生じ
滅する」という縁起の大法則であった。

仏教では、これを「三法印四諦八正道」等の言葉で説き示している。

7.初転法輪 最初の説法

仏教では、説法の事を車輪の輪に例えて「法輪」と云う。転とはこの
車輪を動かす事、従って初転法輪とは最初の説法の事。

大悟した釈尊は始め、この真理は奥深くて難解であるので、説く事を
躊躇していたが、天界の代表である梵天が現れ、是非にもこの真実
を多くの人々に説くように請うた。これを梵天勧請と云う。

釈尊が最初に教えを説いた相手は、苦行を離れたシッダールタを堕落し
たと誤解して袂を分けた5人であった。この5人は悠々と歩く釈尊を見て
無視傍観していたが、その堂々とした気品に惹かれ、説法を聞いて最初
の弟子となるのである。これが最初の仏教教団の形成(僧伽サンガ)となる。

この場所は、鹿が遊ぶような静かな所であったので鹿野苑ロクヤオンと云わ
れる。

以来、80才入滅までインド各地を説法巡回し、仏典にはいろいろなエピソード
が示されている。以下にその中の数件を掲げてみる。

キサ・ゴータミー
若い母親のキサ ゴータミーは可愛い我が子が死んだ事を受け容れる事ができず、生き返らせる方法を求めて半狂乱であった。

そして、釈尊のところで心中を訴えたところ、釈尊は「生き返る方法を
教える。芥子の粒を私の所へ持ってきなさい。但し、親兄弟や親戚の誰も死んだ者のない家から」と。

若き母は難なき事と思い、町中を探すが、死者をだした事のない家は一軒もなかった。

途方に暮れて釈尊の許に戻った母に「諸行無常 生者必滅」を釈尊は説いて、母の心は救われ、母は尼僧の弟子となった。

大愚 チュッラ パンタカ
チュッラパンタカ(周梨槃特シュリハンドク)は兄と共に釈尊の弟子となったが、兄の聡明さに比較して、まことに愚鈍で、一つの句
さえも記憶できなかった。そこで、彼は自らの愚鈍を恥じて教団を去ろうとするが、釈尊の「自らの愚を知る者は真の知恵者で
ある」という言葉を聞いてこれを思いとどまる。

しかし、教えの何一つも覚えられないチュッラパンタカに、釈尊は一枚の雑巾を与え「塵を払い、垢を除かん」とだけ覚えて、掃除を命じた。やがて彼は、その行為が自らの心の掃除である事に気づき、終生この修行を行い、自己の他の心を清掃し、清浄なる生涯を送った。

*雑巾の汚れは、怒り、貪り、執着などの心の垢である。
*理知・聡明であっても、体得し実行しなければ意味がない。智者も愚者も無関係である。

俗説に「茗荷ミョウガを食べると、もの忘れしがちになる」というのがある。これはチュッラパンタカの墓から生えた植物がミョウガであったという説から転じたもの。茗荷の漢字は一説に、自分の名前さえ忘れてしまうので、名前を札に書いて掛けていた、からであるという。しかし、このミョウガは薬味として心身をピリッとさせてくれるのであるが。。。。

尼連禅河の洪水。
釈尊の不思議な力(神通力)について、いろいろな伝説があるが、下記
の物語もある。

ある日、釈尊が林の中を布教のため歩いていると、突然、暴風雨におそ
われ、立っていられないほどの洪水になってしまいました、弟子たちは、
釈尊の身を案じて舟を出して探していると、はるか遠くから釈尊が歩いて
こちらへ来る姿が見えました。しかし、釈尊の周囲だけ洪水の水が左右に
分かれ、釈尊は乾いた大地を歩いていました。

映画「十戒」の中でモーゼが紅海の水を割いて歩むシーンがありますが、
似ていますね。

8.入 滅

北インド
各地を巡回説法の旅を続けた釈尊は、パーヴァー村で鍛冶職のチュンダに説法し、供養された食事(豚肉or茸)を食べ体調を崩し(食中毒?)不如意ながらクシナーラに着くが、動くことができず、静かに入寂された。この時の、弟子のみならず全ての階級の人や、獣や虫等全ての生き物が別れを悲しんでいる有様を描いたものを「釈尊涅槃図」という。釈尊の脇に立つ大木がサーラの木(沙羅双樹)である。

当山の釈尊涅槃図 
部分の一部拡大は法善寺ギャラリーの絵画から
見ることができます。絵   画

1898年フランス人考古学ペッペがネバ゜ール国境近くから「これはブッダ世尊の舎利を収める壺で、シャカ族の人々と、その姉妹妻子たちのものである」とブラーフミー文字で書かれた石壺を発見した。

釈尊の実在は19世紀末までは疑問視されることもあったが、この発見により実在は確定することになった。


三法印  諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の仏教の3基本概念の事。

1.諸行無常 ショギョウムジョウ
一切の現象は留まることなく、生じ、そして滅して、決して固定しているものではない。変化する事が当然な事である。

2.諸法無我 ショホウムガ
生滅が真理であるので、生滅する主体(我・アートマン)はない。

3.涅槃寂静 ネハンジャクジョウ
涅槃 (ニルバーナ)とは全ての煩悩の火が消え去った状態。何ものにも心を煩わされない状態の事。

上の3に下記の「一切皆苦」を加えて四法印ということもある。

一切皆苦 イッサイカイク
全ての生起する現象はいずれは滅するのであるから、一切は苦に過ぎないという事。

四諦  苦からの脱却を原因と結果(因果)との体系で説いたもの。

1.苦諦 クタイ 一切の現象は苦であると知ること。生・老・病・死を四苦といい。以下の四苦を加えて「四苦八苦」と云う。

   愛別離苦アイベツリク 愛する者と分かれる苦。
    怨憎会苦オンゾウエク 怨み憎む者とも会わねばならない苦。
    求不得苦グフトック 欲しい物が求められないという苦。
    五蘊盛苦ゴウンジョウク 五感等認識精神作用が深まる事によって生ずる苦。
 

2.集諦 ジッタイ 苦の原因を人間の欲・執着・無知であると知る事。

3.滅諦 メッタイ 苦の因である欲・執着・無知を滅する事により、理想の境地である涅槃に至ると知ること。

4.道諦 ドウタイ 理想の境地(涅槃)に至る方法を説いたもの《八正道》

八正道 ハッショウドウ  涅槃に至るための実践修行を8に分けて説いたもの。相互に関連し一つを実践する事は他の7つを
必然的に含む相摂関係にある。

1.正見 ショウケン 正しい見解。
2.正思惟 ショウシユイ 正しい意志決定。
3.正語  ショウゴ 妄言・中傷せず正しい言葉を用いる。
4.正業 ショウゴウ 殺生・妄言等悪を犯さないこと。
5.正命 ショウメイ 身・口・意シンクイの三業を正し、生活を正しく律すること。
6.正精進 ショウショウジン 正業、正命のため正しい努力をする。悪を除き善を行うこと。
7.正念 ショウネン 正精進を更に進め、一切の邪念を断ち、心を正しく保持する事。
8.正定 ショウジョウ 常に禅定によって心を静め、精神の安定を保つこと。