丸山晩霞について。

以下の文章は「東部町町史・歴史編」p917より転記。また、絵は昭和52年 信濃毎日新聞社「丸山晩霞画集」よりのもの。

生い立ち
晩霞は慶応3年(1867)5月3日、東部町(現 東御市)祢津西宮 丸山平助の次男に生まれ、名を健作といった。蚕種業で
横浜へ往復した父の土産の錦絵が健作の幼時の美観に感化を及ぼした。13歳の頃から数年間、画家を志して山ノ内町の南画家児玉果亭に師事した。明治17年18歳で上京し神田錦町の勧画学舎に入学、翌年帰郷、祢津小学校で代用教員を務め、「呼雲」と号して油絵の肖像画などを描いた。

明治21年再び上京、浅井 忠・小川芋銭・岡 精一・下村為山らが既に入っていた本多錦吉郎の彰技堂に入門、明治23年の内国勧業博覧会に初めて油絵の大作を発表したが、翌年彰技堂は閉鎖され、家庭の事情もあって帰郷、家事の手伝いをして気を腐らせていた。

明治初期の日本画壇
明治の黎明期に欧化思想から興隆した西洋画は、非常な勢いで普及した。安政年間に来朝したチャールズ・ワーグマンは明治4年頃から既に多数の人々に水彩画を教え、日本洋画壇にも多くの示唆を与えた。

しかし、川上冬崖の聴香読画館、高橋由一の天絵学舎、横山松三郎の横山塾、国沢新九郎の彰技堂などでなされた洋画教育や、水彩画の教授による洋画の啓発運動は微々たるものであった。本格的に洋画が興隆したのは、明治9年工部美術学校創立に際しイタリアからフォンタネージらを招いて、正当な洋画を摂取したことに始まる。

やがて、伝統的な技法の日本画家が積極的に洋風画を描き、あるいわ、その技法を日本画の中に取り入れるなど、日本美術史上画期的な時代
を現出し、特に水彩画にあっては明治30年代に至ってその作品を欧米に輸出することに成功、黄金時代を見たのである。こうした明治期の美術界で信州出身の洋画巨匠として知られる双璧は高遠町出身の中村不折と東部町出身の丸山晩霞であった。

不折は油彩画で、晩霞は水彩画で共に太平洋画会の重鎮となり、同年輩の二人は斯道の開拓者、後進指導者として明治美術界に果たした功績は大きい。晩霞の絵の本質は、熱烈な郷土愛に根ざす田園誌情であり、これに趣味としての山岳美と高山植物愛好とを加味したものであった。

吉田 博との出会い
明治28年、実業の蚕種販売と風景写生とを兼ねて、上州沼田の後閑付近を歩いていた晩霞は、
利根川の清流を写生中の未知の一青年に会った。そして、晩霞は彼に話しかけずにはいられなかった。
精密な写実的な技巧に感嘆させられたからである。いろいろ話し合いうちに両者は共鳴し、その夜は同宿
して画談を語り明かすことになった。この初対面の青年画家は不同舎者門下の吉田博であった。

以来、両者は盟友として新しい希望に燃えつつ深く交わり、二人で北アルプスの山々に画題を求めて登山を試みるなどし、晩霞の画人生活に一転機を
画するに至った。当時一般の水彩画は鉛筆淡彩式のものであったのに対し、吉田博の水彩画は濃淡明暗の調子も油彩画に比すべき濃艶な表現をもっていて、それが晩霞をして細密な自然描写の水彩画家たらしめる導因となったのである。

参禅した晩霞
明治30年、祢津・定津院の嘉部祖道に参禅「晩霞 天秀」の居士号を受け、それ以来「晩霞
」の雅号を常用することになった。このように晩霞は、仏者に深く帰依していたので寺院を訪れ
ることが多かった。

大正6年に東部町田中の法善寺(日蓮宗)の本堂欄間に描いた「釈迦八相図」は釈迦の一生涯
八場面にまとめたものである。内弟子の関晴風や女弟子の油井小渓らに手伝わせて、一ヶ月間
寺に泊まり込んで仕上げた云われる秀作である。

欧州を絵で巡礼
明治31年、明治美術会創立50周年記念展に16点、またその翌年にも多数の水彩画を出品、勧業
博覧会以来再び華やかに画壇に登場した。当時外遊から帰国したばかりの、三宅克己はこれらの絵に
感服、以来親交を結ぶことになり、小諸に居を構え浅間山麓に画架を並べて写生するようになった。

明治32年三宅克己の熱心な勧告と激励とに動かされ、満谷国四郎・河合新蔵・鹿子木孟郎らと共に渡米。
現地の展覧会で大成功を収め、欧州絵巡礼の旅をして帰国した。その後は郷里ね津村に画室を設け、田園
画家として自然研究に努力する日が続いた。晩霞の生涯の作品中この頃の水彩画に最も秀作を残している。

小説「水彩画家」のモデル問題
島崎藤村は小諸義塾の教師であった関係で晩霞と親交を結ぶ間柄となったが、藤村の小説「水彩画家」
の中でモデル問題を起こし、世間をにぎわした。晩霞の抗議は、小説の主人公が一面晩霞の私生活の写
生であり、世間の誤解を受けることを遺憾としたものであった。

晩霞は明治美術会が解散した後は、太平洋画会に参加した。藤村は「破戒」を書くための準備としてしばし
ば祢津の画室を訪れた。

水彩画の普及指導に努力していた大下藤次郎は、明治38年田園画家晩霞を東京に誘い出すことに成功。
晩霞上京後太平洋画研究所、日本水彩画研究所で後進の指導に努め、斯界に貢献した。

高山植物や雪渓を絵に
晩霞は好んで、シャクナゲ・ハイマツ・コマクサなど高山帯の植物を描き、背景に槍ヶ岳・穂高岳の雪渓に
雷鳥などをそえた絵を描いた。このような画題図柄の絵は、普通の画家はあまり取り上げていない。

高山植物のの絵は、いわば晩霞の独壇場といってよい画題であった。これは晩霞がまだ健作と呼ばれてい
た少年時代、自宅の庭続きともいうべき、湯ノ丸・三方ヶ峰山頂や池ノ平付近への山歩きを日常茶飯の事
としていたことによろう。そこで、シャクナゲやミヤマリンドウなどが群落をなして咲き乱れているのを見た時、
その「美」に圧倒され感動したことが、後日の高山植物画家晩霞を育てる芽となったといえよう。

晩霞は、時々画会と称する絵の頒布会を開いて、時には低廉な値段で地域の人々に絵を頒ったなど、故郷
で水彩画の普及につとめた功績も見逃せない。

水彩画家 晩霞没す
明治初期の晩霞は従来舶来品だけに依存していた画用資材を国産に切り替えることに努力し、
国産の水彩絵の具の用材研究会を結成したが、元来短気で負けず嫌いの性のためあまり長く
は続かなかった。また、老人扱いされることを極度に嫌って、藤村など小諸義塾関係者の浅間会
が晩霞先生の古希の祝賀会を計画してもこれをことわったるほどであった。

昭和11年(1936)祢津村の旧画室を改築してアトリエ羽衣荘が落成した。昭和17年(1942)
3月4日、その羽衣荘で76歳の生涯を終わった。田園詩情あふれる文学的な挽歌芸術は、明治
大正・昭和の三代にわたって特異な存在としてユニーク光を放っていた。

また、晩霞は生涯「水彩画家」と自らを称し、絵画の普及にたえず心を寄せ続けてきた庶民画家で
あった。あまり他にくみしない孤高の野の画家で終始した人生であった。その気持ちを受けて、没後
平洋画会員の手によって建てられた墓にも「水彩画家 丸山晩霞ここに眠る」と墓碑銘が刻まれた。

このような生き方をした夫の晩霞対し、妻のまる代は次の句を詠み、霊前に捧げた。
  「うけたまえ 黄菊白菊 今日この日」

当地にはバンカゼリと呼ばれているセリ(クレソン?)があるが、これは晩霞がヨーロッパから持ち帰ったものだと伝えられている。
また、地生のものであったが、食用であると教えたのが晩霞であったとも云われている。


晩霞略年譜

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