本書は今年3月に全国上映される映画「明日への遺言」(出演 藤田まこと 富司純子等)の原作。主なストーリは、戦時中B29搭乗員を処刑した責任をとって、B.級戦犯として処刑された、岡田 資タスク陸軍中将の戦争犯罪裁判の記録である。A級裁判記録である東京裁判やニュールンベルク裁判はあまりにも有名で、ある程度知られているが、B.C級裁判記録は一般には知られていないので関心のあるところ。更には岡田中将が、熱心な日蓮宗信仰者であり、収監されている受刑者達に生と死を説き、「巣鴨の菩薩」と尊崇された事も本書を読む動機でもあった。
本書は勝者が裁く非法、処刑したB29搭乗員が無差別爆撃の当事者である事の立証、対する検察官の対応等が主なるところであるが、アメリカ人弁護人が、岡田のために真摯に法廷論争をしていることが以外でもあり、知らなかった事実でもあった。
戦争は如何なる大儀があろうとも、様々な非道を双方に強いるもの。非戦闘員に対する無差別攻撃にしても、原爆投下、東京・名古屋をはじめとする空襲、日本軍としても重慶爆撃、毒ガス戦等々がそれにらに当たり、我々に憤りを覚えさせるが、戦争はひとたび戦端が開かれれば狂気の世界となる。現下のイラン・イラクの戦闘を見てもそれは明らか。故に戦争は否定すべきもの。文明とは「便利なものを造ることではない。人を殺さないこと」と言った人がいるが、重く受け止めたいと思う。そして、本書から単なるナショナリズムではない「日本人」を感じたいと思う。
尚、岡田 資タスクの遺稿集が『毒箭』のタイトルで再販出版されている(隆文館 5500円)。これは岡田の宗教観を丹念に記述したもので(巣鴨プリズンにて執筆)かなり専門的な内容を含むが、ゆっくりと読んでみたい本ではある。
『ながい旅』 大岡昇平著 角川文庫 平成19年 590円 全325ページ
『兎の眼』を読みました。灰谷氏の名前は知っていましたが著書を読んだのは初めて。正直に言うと文学・小説の類はもう何年も読んでいません、、(いや、、『ダビンチ コード』は読んだ)ので文庫本330ページは少々手こずりました。文庫本の小さな活字は老眼にはきつい。。
教育問題が論議されているところですが、若い先生と心を閉ざした子供達の物語です。全編、昭和30年前後と思われるセピア色の雰囲気の中に、まさに「育む」手作りの教えがつづられ、読了後、何となくホットしたものを感じました。
*効果があればやる、効果がなければやらないというのは、合理主義だが、これを人間の生き方にあてはめるのは間違いです。
*たちまち人の困るような事はやるな。どんなに苦しくともこの仕事をやり抜け。それが抵抗というものだ。
*弱い者、力のない者を疎外したら、疎外した者が人間としてダメになる。
*裏切られた者より、裏切った者のほうが辛からう。
*みんな人間の命を食べて生きている。戦争で死んだ人の命を食べて生きている。戦争に反対して死んだ人の命を食べて生きている。平気で命を食べている人がいる。苦しそうに食べている人もいる。
*の言葉はちょっと気になる文章の一部ですが、おすすめです。
誰しもが感じている「何だか天気・気象がおかしい…」世界的な異常寒波、熱波、集中豪雨、洪水、巨大ハリケーン等々… 。そして我々はそれが人類が引き起こした地球温暖化が大きな要因であることを知っている。しかし、漠然とした危機感はあるが、大きな現実の危機であるとはなかなか認識できない。本書は温暖化の因、その結果としての諸現象を世界の信頼できる情報を基に分析報告警告している書である。
著者は消費者・環境問題を中心とした評論執筆家であり、かなりショッキングな警告と緑化とエコロジーの重要を世に問うている。
都市の過熱地獄、電力不足の大停電、殺人熱波、極寒地獄、食料水不足で飢餓世界、食料戦争、砂漠化、北半球の亜熱帯化等々、目次の周辺を見ただけでも恐ろしげな文字が並び、話半分と思ったがかなり信頼できるデータが並ぶ。特に本書冒頭に記される「ペンタゴンレポート」には驚かされる。
云うまでもなくペンタゴン(米国防総省)は世界で最も情報に優れ、何よりも米国の国益を優先とする組織であるが、このペンタゴンが、テロよりも米国にとって驚異としているのが異常気象・温暖化であると報告している。 Day after tomorrowという異常気象のパニック映画がありましたが正にその通りの報告。(先にこの映画も見て、その後にこの本を読んだので何とも説得力がありました)
「…2020年まで続く未曾有の異常気象こそ、今後我が国、更には世界各国を苦しめて最も深刻な問題となり…温暖化によりヨーロッパ主要都市は水没、世界はパニックに陥り無政府状態となり、気象災害と戦乱で数百万人が犠牲になる…」 更に驚くにのは、この報告書は2003年10月のものだが、このレポートは公表されずに封印されてしまった事、そして、2004年4月、英国の「オブザーバー」紙がこれをスクープし世界に衝撃を与えた。しかし、日本のマスコミはこれを完全に黙殺。わずかに「週間現代」」が8月に特集としてとりげたのみであった。。。
本書後半に「今できること」の部分が現代人には重い課題……。。。一読おすすめ。
『気象大異変−人類滅亡へのカウントダウン』 船瀬俊介 著 リヨン社 2005.5
仏教等専門書を除いたもので、ちょっとおすすめの本の紹介です。
『エンジェルフライト 国際霊柩送還士』 佐々涼子 2012年 集英社 1500円
フリーライターの著者は本書で第10回開高健ノンフィクション賞を受賞。海外で不慮の事故、テロ等で日本に帰還してくる遺体の姿を時折テレビで見ることがある。機体から網に覆われたコンテナに入って(遺体は法令上貨物扱い)…。しかし、その遺体のその後は我々には全く解らない。様々な最期の姿をした遺体を可能な限り生前に近い姿にもどし、そして遺族へご遺体として引き渡すのが本書サブタイトルである国際霊柩送還士である。また国内での遺体をエンバーミングをして海外の遺族のもとに送還するのも彼等の仕事である。
本書はそれを専門とする会社「エアハース」のスタッフ実体験取材を通して、死体とは、遺体とは、尊厳とは、慰めとは、諦めとは…スタッフと著者の目を通してのドキュメンタリーである。
著者は「人は死んだらどうやって故国へと帰るのか。どんな人がどんな想いで運んでいるのか。国境を越えた地で亡くなると、家族はどんな思いを抱くのか。それをこれから記していこうと思う」と記す。
どんな最期であっても我々が接するのはその後の姿からで、病院でのエンゼルメイクでさえも全容が知らされることはない。否、知ろうと思わないのではないか。しかし、その間に死体はご遺体となる。ご遺体となるその間に単なるビジネスではなく、それを超越した慈しみ・思いやり・愛そして祈りがあることを本書は克明にトレースしている。
本書ではマスコミで注目された多くの事件等が登場するが、多くは海外での病死、事故死、自死等である。海外より帰還する遺体の柩は例外なく鉄板で封がされてある。このビスを一本一本抜くと遺体は始めて祖国の風にふれる。搬送されてくる遺体は、航空機内の気圧変化の影響を受け、多少なりとも変容するという。それも死亡した国のエンバーミング等の処置の相違により帰還の姿には大きな差異がある。
エアハースが心を注ぐのは特に「顔」である。欠損した部位を再建し(パスポート写真を見ながら、目や顎や皮膚をつくり)化粧をほどこし、そして遺族の待っている「お父さん・お母さん・娘・息子」に戻っての再会となる。
海外でのどんな死でも、現地での確認が遺族などによってなされるが、その姿は正視に耐えないものもある。遺族は遺品や状況、DNA等によって一応の確認をする(せざるを得ない)が、それはやむを得ない確認と納得であり、日常の姿となっての対面により、悲しき涙と共に本当の納得となり、「お帰りなさい」そして「さようならネ」と心の波が穏やかに鎮まる。スタッフの使命はこのためにある。即ち、遺族が悲しき悲惨な事実を、日常の姿での再会により涙と共に事実を受容できるために。
本書に「弔い損ねる」という言葉がある。無残な姿のままでは、あるいは、泣いて泣いて泣ききれない場合の遺族の心を意味する。「さようなら」は悲しみぬいた後の生きる力のために必要な時間で、本当の「さようなら」を言えないことも「弔い損ねた」ことになろう。
著者は葬儀無用論にも触れるが、さらに「弔いというものは人間にとって本質的に必要なものだ。…葬儀は悲嘆を入れるための器だ。自らの力では向かい合う事ができない悲嘆に向かい合わせてくれるためのしくみなのだ。ではいったい、この時代の我々にとってどんな弔いが必要なのか。…我々は一度ここで立ち止まり考えてみる次期がきているのではないだろうか・・」と言う。
そして我々宗教者は去りゆく者と遺族に対して最後の安心を与える立場にある。弔う事、悲しみとの対峙を通して、今を生き抜くために後押しする事が責務であり、真に求められているのではないだろうか。
若しかしたら我々が日常見ている死は、身内や、ごく親しい死を除けば情緒的実感ではなく、観念であるかも知れないという反省がある。我々の前にある死は、死後のご遺体としての事実で、その間の各々の哀惜や慟哭に鈍感になっていないだろうか。悲しみの共有、共感に欠けているのではないかという反省が常にある。この共感がなければ、葬送の場やその後に於いても、死者の霊と遺族に宗教的安心を与える事は困難ではないだろうか。
著者は生命倫理・脳死等について多くの発言をしているが、サブタイトルが「我が息子・脳死の11日」とあるように、現実に子息が自殺・脳死となつた事実を基に、子息の残した文章を通じ家族としての目で生死・脳死・臓器移植を語る。
著者は脳死・臓器移植に否定的ではないが、医療現場に於ける死への配慮不足を嘆く。「欧米の跡を追うだけがよいのか」「死は個人的選択の幅のあるファージイさがあってよいではないか」「死にゆく時間を家族も医者も社会も大事に」自殺した弟の兄の言葉「ただ弟の臓器を利用するというのでなく、苦しむ人を助けるために弟が参加するのを、医者は専門家として手伝うと考えて欲しい」と言う言葉が訴えかけてくる。
:『
犠牲 サクリファイス』 柳田邦男著 文芸春秋社 1400円
著者は医療管理を研究している医学者で、看護学校で「死」を教えている。本書の帯に《死ぬのが怖くなくなる101のはなし》とあるように、死に対する不安を「死は平等」「当たり前のこと」として、医学的、精神的面からこれをソフに柔らげている
この種の書籍は最近非常に多いが、本書は全て単文であり、どこのページから読んでも理解でき楽に読むことができる。死への不安に対処する事は宗教者として深く認識すべき事柄であるので参考になる点もある。
面白そうなテーマ。
*死ぬ時は痛くない *その瞬間脳の快楽物質がどっと出る *死を受け入れる五段階 *こんな死に方がいい
*家で死ぬのは簡単 *ガンの痛みは必ずとれる *真っ暗な死のイメージを変える
*怖い理由・別れ、無念、寂しさ、不安 *死後に行く場所がわからない。etc
続編として『続・死に方のコツ』も刊行されている。
本書は京都・浄土真宗の寺族研修会の講義録であり、著者は仏性・如来蔵思想の研究者(大谷大学教授)である。
1.命の平等を説く仏教からの批判 2.大慈悲を説く仏教からの批判 3.霊の実在・輪廻転生を否定する仏教からの批判の3章から成るが、タイトルに見る内容は、西欧の命に対する二元論と東洋仏教的命の平等論との比較批判。及び、臓器移植は仏教的慈悲によるものとする意見に対して、慈悲と善意(ヒューマニズム)を混 同しているとする批判の二点に集約され、純仏教的詳細な批判論考ではない。
然し、命の平等論には、命に対しての強者VS弱者の社会的・個人的差別論があり、説法の参考になる点もある。又、霊の存在否定・輪廻転生の否定には仏教学
者らしい冷静な視点で、釈尊本来の(原仏教)思想を平易に解説し、我々が用い る霊・三世・次の世などについて、歴史的に民族・民俗・習俗信仰などとミック
スして変容している現実の仏教と、印度純仏教との異点を知ることができる。尤 も、著者は真宗信仰者なので、本宗教師としては疑問の点もあるが、視点の異な
る考えを見ることも必要であろう。
尚、脳死・臓器移植 に対しての各宗の反応対応は「月刊住職」等々。本宗については宗務院、勧学院刊行冊子、第五回及び第六回勧学院研修会議講演録「脳死・臓器と仏教者の対応」H6、「脳死・臓器移植答申について」H7を参照されたい。
脳死・臓器移植を含む、現代の生命倫理と仏教学的対応については、全国的仏教学研究組織である日本印度学仏教学会の「印度学仏教学研究」39-1(H2)にそのシンポジウム報告がある。又、同会は仏教と生命倫理全般にわたるアンケートを実施し、同誌41-1(H5)にその結果を掲載している。(本宗関係者では伊藤瑞叡師、庵谷行亨師、丸山孝雄氏)〈雑誌「印度学仏教学研究」は書店入手が困難ですので、法善寺へ連絡下さればコピーお送り致します。〉
最近いろいろな面での「プラス指向」「生きがい論」が盛んに説かれている。その火付け役的なものに春山茂雄氏の『脳内革命』があり、『百匹目の猿』の著者船井幸雄氏の多くの著述。又、臨死体験・退行催眠等によって前世を知り、生まれ変わりを知ることによって人生の充実が得られるとする、飯田史彦氏の『生きがいの創造』等々。全体はともかく、部分的には我々宗教者にとっても布教の参考になる面が多々ある。
ところで、文芸春秋の本年5月号に「船井幸雄印・オカルトの英雄たち」とする宮崎哲弥氏(評論家)の一文が掲載された。主旨は上掲3書籍等に対する批判で、更に「あの世」「生まれ変わり」の仮説を愚論と断ずる。『生と死の境界…』はこの宮崎論評に於いて、船井印本の対論として紹介されているもので、著者(異常心理学研究者)は臨死体験、体外離脱等の現象を詳細に検討、その原因を科学的に究明し「死後の生仮説」を否定している。特に「死後の生仮説」の論拠となってる臨死体験における(1)一慣性がある・(2)現実感がある・(3)超常的である・(4)人が変わる、についてそれは「死にゆく脳仮説」即ち、死に行く脳が見る現象(脳の正常な機能の崩壊に伴う自己モデルの破壊)として解釈できるとしている。
然し、著者は無神論者・哲学否定論者ではなく、むしろ純粋仏教論者であるのかも知れない。仏陀の無我論を引きながら《「死に行く脳仮説」は人間は独立した個体であるという幻想を拭い去る事ができる。初めから「私」などは存在せず、従って死ぬ「者」もいない……私には自己などなく「私」は何も有していない。死ぬべき何ものも存在しない。ただ、この瞬間があるだけである。そして、この一瞬……一瞬……が》と云う文で本書を締めくくっている。
『生と死の境界−臨死体験を科学する』 スーザン・ブラックモア 著 由布翔子訳 読売新聞社 1800円
生まれ落ちたときから死の一点に向かい時を刻み、ある成長点を境に老化現象が加速する。老化現象とは足腰が弱くなったり、視力等の低下など肉体的なものと、物忘れ、記憶力の低下、ボケなどの精神的なものがあるが、総じてマイナスな、暗く、役立たずのイメージがつきまとう。
本書はこれら老化現象を全て「老人力」という言葉で、ネガティブでなくポジティブに、前向きに、プラス指向にとらえようとするもので、特に「物忘れ」の視点から老人力を見ている。
同じ事を幾度も繰り返すようになり、一寸した事がすぐに思い出せない。これらの現象は生を刻む以上やむを得ないことであるが、“アー俺も年か”と思うより“イヨイヨ俺も老人力がアップしてきたナ”と明るく考えようと云うのだ。又、著者は老人力とはオートフォーカスではなく、手動操作のカメラとも、頭のガードが緩むと不安のたががはずれて、かえって吸収力が増したり、活性化したりもすると云っている。
人は誰しも年輪を重ねるうちに、老化という避けがたい自然現象の中に否応もなく放りこまれる。それが自然の摂理であるならば、誰しも美しく、豊に、そして品よく老いたいと思う。しかし、ただ漫然と時を過ごしてもそれは身に付くものではない。老いを悲観しないためには、ある程度の努力と訓練が必要だ。品格を持つ五ヶ条というのがある。
A健康である事
B脳を鍛える事
C感動する事
D奢らぬ事
Eおしゃれ感覚をもつ事
Cの項には長寿の秘訣に「日に十回感動する」というのがある。何でもいい。 「子供は元気だナア!」これを「若くて羨ましい」と僻まずに「元気、若さって素晴らしい!」と思う事。舗装道路の裂け目に生えている雑草に「ワーすごい!」と思う事。感動できるのは人間に与えられた「天の贈り物」大いに心したいものだ
「冬枯れの裸木が美しい。葉も全て落ちてしまって、あらゆる虚飾をとりはらった姿が美しいのである。あたりの空気が澄んでしかも冷えきって、要らない物をさっばりと排除した状態が〈無欲のすがすがしさ〉だ」そういえば冬の木立には凛とした美しさとすがすがしさがある。
品格を持つ五ヶ条の他にも「老いにも戒めが要る」「終わりは風のように」「木の声が聞こえる」等が収められている。
著者は74才になる異色の俳優で、本書は著者の青年時代<七高・戦争>の事、俳優・映画の事、愛すべきスペインの事、愛国者等、自叙伝的内容の中に説く一つの「日本人論」といってもよいものである。
また、序文に「かつて私はこの自分の国、日本が好きであった。この美しい山や河も、この国の人々の優しさや、人懐っこさも、恥じらいも、はかなさも、私は好きであった。だが、今のこの国の人々はどうであろうか。あの優しさや、人懐っこさや、恥じらいや、はかなさは一体どうなったのであろうか」とあるように著者の説く憂国の書でもある。そしてその結論を《平和の中にあり、自らが自分の力で考え、哲学する事を放棄したため》と見ている。
「君が代」「日の丸」問題、政治体制、そして宗教さえも平和というオブラートに麻痺し、自己の目でしっかりと物事を見抜くことをしない。「日本に種々な宗教が流行するのは、哲学がないから、自己の信念がないから…… 日本人は団体人間であるから団体に入れば楽なのだ、何故ならば自分一人で悩まなくてもいい、考えないてもいい…… 宗教団体に入って人のために尽くしていると云うが、最終的には自分が救われるための〈尽くし〉である。結局自分の欲望である。」この下りは 宗教者よりすれば、肯定と反論の余地ありとするものであるが、宗教的にも信念を持って自己の思想を語るべしとする事は肯首すべきであろう。
本書の論調は多少過激ともいうべき所もあり、また、情緒に流されているような所もなくはないが、その中に著者がいう「愛すべき日本人」が見えてくるような気がする。
平成9年にいわゆる「臓器移植法」が成立し、以来数例の脳死移植が実施された。実施例は少ないが日本でも脳死下の臓器移植は定着するのだろうか。本書は移植に於いてマスコミ等に報じられることが少ない、移植の陰の部分を掘り下げ、移植に対して「ノー」を選択する立場の論考である。(法曹界からの意見がないのが残念)
1.医師の立場から。
(1)ドナーカードを持っていると救命救急措置が手抜きにされる。−−−近藤 誠
(2)文化としての死の解体と人間解体を招く脳死・臓器移植。 −−−阿部知子
(3)私はいかにして「脳死」反対になったか。 −−−近藤 孝
2.思想者の立場から。
(1)考えるべき一番のポイントとは何か。 −−−吉本隆明
(2)子供のためというエゴイズムこそ大切にしたい。 −−−小浜逸郎
3.仏教者の立場から。
(1)推進派は「脳死体」を利用しつくしがっている。 −−−宮崎哲弥
(2)臓器移植は仏教の精神に反する。 −−−山折哲雄
4.ジャーナリスト・ライターの立場から。
(1)悪魔としての臓器移植。 −−−平沢正夫
(2)あの厭な気分はこだわりたい。 −−−中野 翠
(3)人間関係を視野に入れない臓器移植なんてつき合いたくない。−−−橋本克彦
各論者の「ノー」と云う論点・視点は多岐にわたり、特定の視点で統一されているものではないが、否定論の概略をつかむには便利な書である。仏教界は概ね「反対若しくは慎重論」であるが、仏教界以外の立場の反対論を知っておくことは、反対にしろ賛成にしろ重要であろう。
以下は仏教界からの山折哲雄氏「臓器移植は仏教の精神に反する」の主張の一部である。氏の論考は少々難解でストレートに響いてこないのであるが論点は二つ。
(1)臓器移植は尊厳ある「死の作法」をゼロしてしまう。(2)移植は布施の精神の発露ではない。この二点である。(1)の「死の作法」とは己の生涯の意味を他に伝え、 安心を得る、また、遺族もそれを確認する事であるが(氏は究極的な死の作法を断食死としている)脳死判定等によりその最も重要な時間が失われる。「死の作法」なき死は大往生ではない。ドナーカードに己の意志を記す時がその代替であろうか。否。それは単なるマークシートであり、遺体の後始末処理を指定するものであるのみである。
(2)に於いてよくとりあげられるものに「捨身飼虎」があり、サッタ王子の尊き布施行とする見方があるが、これは仏教の布施行ではない。この図の示すものは、仏教がキリスト教文明と合しガンダーラ仏を作ったように、仏教の布施の精神にキリスト教の犠牲の精神が混和してイメージを作り上げたものである。
最近大人のため絵本なるものが書店に目立つ。本書もその一で30ページ程のものだが、木々のイラストと写真が美しく、宝石のような言葉がいのち≠ニは何かを訴えてくる。ストーリーは一枚の若葉が春希望の中に生まれ、大自然の中の自分を知り、夏・秋・冬に至り、落葉の「死」を感じて、大いなる永遠の命≠受け止めてゆくというもの。
このストーリー自体は何の変哲もないものだが、童話風の文章の中に「生の歓び」「生きる価値」「時の流れ」「それぞれの個性」「宿命」「別離」「変化の理」「死」「再生」等のテーマがごく自然に、また、巧みに語られている。
我々宗教者は多くの場合、死者の魂の救済と残された者の心の救済を主として任としているが、高齢化社会・病名告知・余命告知・自己決定・尊厳死等々の社会状況変化の中で、「死に行く者」への霊的救済、心の痛みの救済が
death educationとして求められてくる事を認識しなければならないし、これを社会の要請として自覚しなければならない。
本書はかような視点に於いて死とは何か∞死とは自然の変化で恐怖に非ず=@等の事を説く一助となるのではないだろうか。
「この絵本を死別の悲しみに直面した子供達と、死について適格に説明ができない大人達、死と無縁のように青春を謳歌している若者達……へ贈ります」
作者からのメーッセージより
『葉っぱのフレデイ』 レオ・バスカーリア みらい・なな訳 童話屋1999.9 1500円
『電池が切れるまで −こども病院からのメッセージ−』 角川書店 すずらんの会 編 全153ページ 1200円
本書は長野県安曇野市にある「長野県立こども病院」に入院している子供達が、院内の学級で学びながら綴った文章を整理したもの。ここに入院している子供達は、難病の者が多く、残念ながら回復できずに亡くなる者もいる。子供達は限られた不自由な空間の中で、辛いであろう治療に正対しながら、命に向き合い、幼い言葉でこれを表現している。
こども達の言葉(5才〜高2)が59編収められているが、不安や希望そして感謝の気持ちが素直に表現され、改めて「生の重さ」を心熱く感じさせられる。
命はとても大切だ/人間が生きるための電池みたいだ/でも電池はいつか切れる/
電池はすぐにとりかえられるけど/命はそう簡単にはとりかえられない/
何年も何年も/月日がたって/神様から与えられたものだ/
命がないと人間は生きられない/
でも/「命なんていらない」/い言って/命をむだにする人もいる/
まだたくさん命がつかえるのに/さんな人を見ると悲しくなる/
命は休むことなく働いているのに/
だから 私は命が疲れたというまで/せいいっぱい生きよう。 小学4年生
この病気になって四ヶ月/いつになったら/退院できるのかなあ/
でも この病気は神様が/くれたものだ/僕がこの病気に/ならなかったら/
きっと/悪い心の持ち主だったろう/ありがとう神様/僕を救ってくれて。
中学3年生
食べたいと思える/食べれる/眠たいと思える/眠れる/自分で歩いてトイレに行き/
自分で排便できること/起きあがりたいと思えば/起きて/
しゃべりたいと思えば/しゃべれて/外に出たいと思えば/出れて/
外にもたくさん/書ききれないくらい/そう すべてが幸せ/
今/私がこう考えることができて/それをつらい気持ちではなく/
明るくスラッと書けること/それも しあわせ。 高校2年生
本宗の宗門運動の中にも「いのちに合掌」の言葉があるが、自殺(自死)者が毎年3万人を超える現代社会にあって、子供達が記す心の言葉から、改めて生と死を考える好著であり、また、布教参考の書と云える。
本書には保護者や関係者の文章もあるが、院内学級の担任の山本先生は、「つらく苦しい治療に耐えていく姿は、純真なかわいい修行僧ともいうことができる」と病気の子供達を「かわいい修行僧」と表現している。そして「治療という苦行の中から得た何らかの思いを、はっきりとした形を残して退院していくならば、その子たちは人間的にもすばらしいお土産を持って退院していくことができます」と述べているが、この言葉はすべての人々に対してのものでもあろうと思う。
『ふまじめ介護 涙と笑いの修羅場講談』 田辺鶴瑛 著 主婦と生活社 h20..10 1238円 全159ペーシ
著者は現実の介護を体験し現在もその生活を続けている講談師。暗く悲壮ともなりがちな介護の現実に、力を抜いて、自分の生活を
第一にして、介護の現場に対応しようと説いている。
誰しもが、いずれ介護を受ける身となり、また介護する身となるのですが、専門書的でなく、実体験のアドバイス満載。介護は「ふまじめ」くらいがちょうどいい。 認知症介護のアドバイス。苦を楽に変える介護のコツ等々。。。