法華経と日蓮聖人−宗義大綱読本−
                                                                       


日蓮宗宗義大綱

一、法華経と日蓮聖人

 第一節 日蓮聖人の生涯

 第二節 日蓮聖人の遺文

 第三節 日蓮聖人の法脈

二、五綱の教判

 第一節 五綱判総説



 
   日蓮宗宗義大綱1 宗義の体系
 日蓮宗は、日蓮聖人が信解体得せられた法華経を、本宗における理・教・行・証の基本とし、これによって五綱と三秘を構成し、もって宗義の体系とする。  

2 五綱の意義
 五綱は、日蓮聖人が法華経を信解体得せられるに当り、考察の基盤とされた教・機・時・国・師(序)の五箇の教判であって、教と理とを明らかにする。更にそれは、宗教活動における自覚と弘教の方軌を示すものである。
教は、一念三千を包む法華経寿量品の肝心、南無妙法蓮華経をいい、五重相対・四種三段等の教判によって詮顕されたものである。
機は、教が与えられる対象で、末法の凡夫をいい、等しく下種の大益を享受する。時は、教と必然的に相応する末法今時の意味である。
国は、教の流布する場であり、日本を始めとする全世界が国である。
師は、教・機・時・国の意義と次第とを知り、これを自覚し、実践する仏教者である。

3 三秘の意義
 三大秘法は、本門の教主釈尊が末法の衆生のために、本化の菩薩に付属された南無妙法蓮華経の一大秘法に基づいて開出されたものである。日蓮聖人は、この一大秘法を行法として「本門の本尊」「本門の題目」「本門の戒壇」と開示された。末法の衆生は、この三大秘法を行ずることによって、仏の証悟に安住する。
 本門の本尊は、伽耶成道の釈尊が、寿量品でみずから久遠常住の如来であることを開顕された仏である。宗祖はこの仏を本尊と仰がれた。 そして釈尊の悟りを南無妙法蓮華経に現わし、虚空会上に来集した諸仏諸尊が、その法に帰一している境界を図示されたのが大曼荼羅である。
 本門の題目は、釈尊の悟りの一念三千を南無妙法蓮華経に具象したものである。 仏はこれを教法として衆生に与え、我等凡夫は、これを三業(身口意)に受持して行法を成就する。
 本門の戒壇は、題目を受持するところにそのまま現前する。これを即是道場の事の戒壇という。四海帰妙の暁に建立さるべき事相荘厳の事の戒壇は我等宗徒の願業であって、 末法一同の強盛の行業によって実現しなければならない。

4 信行の意義
 本宗の信行は、本門の本尊に帰依し、仏智の題目を唱え、本門戒壇の信心に安住することを本旨とする。 機にしたがって読・誦・解説・書写等の助行を用いて、自行化他に亘る信心を増益せしめる。

5 成仏の意義

 本門本尊への信は、成仏の正因であり、その相は口業の唱題となり、身業には菩薩の道行となる。 この菩薩道に即した生活活動がそのまま成仏の相である。

6 霊山往詣
 来世は、現世と相即する。現在の即身成仏は、来世成仏の意義をもつ。 妙法信受の当所に成仏が決定し、霊山の釈迦仏のみもとに在るのである。故に霊山往詣は未来のみのものでなく、現身のわが信心の場にある。 宗祖はこの境界を大曼荼羅に図顕された。

7 摂受と折伏
 折伏は邪見・邪法に執するものに対して、これをくだき、正法に帰伏せしめることであり、 摂受は寛容なる態度をもって正法に導き入れることである。かように、この両者は教を弘める方法であるが、 その精神は共に大慈悲心に基づかなければならない。 しかも破邪が顕正の為の破邪であるように、折伏と摂受にはその行用に前後があり、また機によっても進退がある。

8 祈祷の意義
 いのりは、大慈悲心に基づく真実の表白である。本宗の祈祷には、自行化他に亘って、 成仏のいのりと生活のいのりとがあるが、後者といえども信仰生活の助道となるものでなければならない。

9 宗祖
 宗祖はみずから本化上行の自覚に立ち、仏使として釈尊と法華経への信仰を指示された宗徒の師表であり、直道を導く大導師である。

10 出家と在家
 出家と在家とは、信仰に両者の別はないが、その使命を異にする。出家は専ら伝道教化を使命とし、自己の信仰を確立するとともに、進んで宗教者としての行学の二道をはげむべきである。 在家は、信仰を世務に生かすことに努め、分に応じて出家の伝道を扶けることが、仏道を行ずることである。

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  一、法華経と日蓮聖人

 宗義の体系
日蓮宗は、日蓮聖人が信解体得せられた法華経を、本宗における理・教・行・証の基本とし、これによって五綱と三秘を構成し、もって宗義の体系とする。
 

第一節 日蓮聖人の生涯

「誕生と修学」

 聖人は承久四年(1222)2月16日(同年4月、貞応と改元)、
安房の国(千葉県)東条郷小湊に生まれた。「日蓮今生は貧窮下賎
(びんぐうげせん)の者と生まれ、旃陀羅(漁者)が家より出たり」
といい、「片海の魚人の子」というように、漁夫の子として生まれた。
父は子の地の有力漁民、莊官級の人であろうか。幼少の頃から学問を
好み、12才の時、近くの清澄寺に登り、道善房に師事して修学した。
学問をするにしたがって仏法、世法について疑問が生じ、16才の時
出家し名を是聖房蓮長と改めた。出家の動機については、一に生死無
上の不安からの脱却、二に国家社会への疑問、三に仏教混乱への疑問、
等があげられる。いずれにしても「本より学文し候ひし事は、仏教を
きはめて仏になり、恩ある人をもたすけんと思ふ」とあるように、聖
人自らの意志に隨って出家されたのであって、他の祖師たちの他律的
な出家の動機とは大きく異なるのである。

 聖人はそれらの疑問を解決せんものと清澄寺の虚空蔵菩薩に「日本
第一の智者となしたまへ」と祈りを捧げ、満願の日、智慧の寶珠を賜
ったことを感得した。これにより慧眼とみに開け、諸經諸宗の奥旨を
得、さらに鎌倉・比叡山・三井・南部・高野山に学び、この講学研鑽
20年の結果、末法の人々の救い、この世界を佛国土たらしめるもの
には法華経以外にないことを確信したのである。
聖人出家の清澄寺は天台法華宗の寺であったから、登山と同時に法華
経にふれることとなったが、これは必然的な出会いであった。しかし、
一切經の心、すなはち教主釋尊の真実の仏法を求めて、「依法不依人」
の仏の金言を奉じ、経文を師として研鑽された聖人は、逐に法華経こ
そ一切經の肝心、一代の綱骨であるとの結論に到達したのである。さ
らに聖人は、白法隱没する末法の時代にこそ弘められ、その教えが実
現されなければならないということを要請しているのであり、同時に
その担い手の出現をも要望していることを知ったのである。
 しかし法華経は、法華経こそ唯一真実の経と知った者に対し、如説
修行の実践を命じているのである。聖人は煩悶し「進退谷まった(き
わまった)」が、仏の呼びかけを聞かれた聖人は死身弘法の覚悟を決
め、「二辺の中にはいうべし」と決断されたのである。そして、名を
日蓮と改め、法華経の行者、殉教の如来使としての道を歩むことにな
るのである。 

 「立教開宗と鎌倉幕府」

 建長5年(1253)4月28日、清澄山に立って暁闇を破って登
り来る大陽に向かって題目を唱えること10偏、開宗立教の宣言と伝
導に当たっての誓願を立てられたのである。次に清澄の持仏堂で説法
を行い、法華信仰の受持を強調し、諸宗の謝りを糾し、ことに淨土教
を批判した。この説法は念仏者東条景信を激怒させ、清澄寺を追放さ
れたのである。法華経弘通にともなう受難の第1歩を印した聖人は、
鎌倉に出て松葉谷に草庵を構え、街頭に立って法華経の幡を掲げ、折
伏逆化の伝導を開始した。 この頃、地震・飢饉・疫病などの天変地
変が続出し、その惨状は目を蔽うものがあった。この災害の原因を追
求された聖人は、駿河岩本実相寺の経蔵に入って一切経を閲読され、
そこで確認された結論を一書にまとめ、立正安国論と題して文応元年
(1260)前執権北条時頼に上呈した。
 その内容は、近年の災害は本仏釋尊と正法法華経を捨て、念仏・禅
等の邪法が盛んになるによって起こったものである。故に国土の平安
を願うならば謗法の諸宗を禁断しなければならない。もし放置すれば
自界叛逆・他国侵逼の内外の戦乱を招くであろうと警告し、「汝早く
信仰の寸心を改め速やかに実乗の一善に帰せよ」と勧められたのであ
る。

 「受難の生活」

 聖人の献言は容れられなかった。同年8月27日、念仏者たちは聖
人を殺害せんと松葉谷草庵を襲撃した(松葉谷法難)。この危機を逃
れた聖人は下総方面の伝導に従事し、経線を拡大して行った。
 弘長元年(1261)、再び鎌倉に帰った聖人は折伏の法戦を激化
していった。ために5月12日捕えられ、伊豆伊東に配流されたので
ある(伊豆流罪)。この地で聖人は、四恩鈔・教機時国鈔・顕謗法鈔
等の著述をなし、自ら精神生活を宗教的思想体系を述べられている。
教機時国鈔では聖人は、五義の教判を発表、法華経の弘通を妨げる三
類の敵人を顕すのが法華経の行者であると、自らを末法の法華経の行
者と資格づけている。
 弘長3年2月流罪を許された聖人は、翌文永元年(1264)母の
病気見舞いのため故郷安房に帰った。前より聖人を深く恨んでいた東
条景信は聖人を殺害せんと企み、11月11日、東条の小松原の大路
において襲撃し、ために弟子一人は 討死、二人は重傷を負い、聖人
自身も頭に疵を受けられたのである(小松原法難)。この大難を聖人
は法華経に説かれた仏の予言の色読であるとされ、法華経の行者の自
覚を深められ、「日本第一の法華経の行者」と宣言されたのである。
 文永5年(1268)閠正月、日本の服属を求める蒙古国王フビラ
イの国書が届いた。これは9年前に聖人が立正安国論で警告した他国
侵逼の予言が的中したものである。聖人は再び案国論を提げ、さらに
執権時宗をはじめ政界仏教界を代表する11カ所に警告書を発して諸
宗との対決を迫ったが、彼らは黙したままであった。聖人の批判は鋭
さを増し、あらゆる手段を尽くして幕府に迫った。その言動は良観・
導隆寺の怨嫉を買い、頼綱・宣時等の憎悪を受け、蒙古来襲の危機感
が深まっていく中で、逐に文永8年9月12日、聖人とその門弟に対
し徹底的な弾圧が加えられた。松葉谷草庵で逮捕された聖人は、佐渡
流罪と決まりながら、ひそかに龍口で斬首されようとしたのである
(龍口法難)。しかし不思議と天変が起こり、当初の罪名どおり佐渡
遠流となった。10月10日、相模依智を出発した聖人は、同28日
佐渡に着き、11月1日塚原の荒れはてた一間四面の三昧堂に入り、
流謫の生活をはじめられたのである(佐渡流罪)。立正安国論の真意
を公表する機会は失われたが、遠流と刀杖等の諸難の連続を体験され
た聖人は、法華経に予言された土涌上行の自覚を確立されたのである。

 「開目・本尊両鈔の撰述」

 佐渡配流の翌文永2月、聖人は門下の疑難に答え、門下「かたみ」
として、「日蓮が不思議とどめん」と開目鈔を顕した。この書では、
まず一切衆生の尊敬すべき者として主師親三徳具備の本仏釋尊こそ救
済の本師と示し、一切衆生の習学すべき物として救済の原理たる一念
三千を示された。そして折伏と受難の伝道生活を実証として、自らが
法華経色読の行者であり、末法救済の大導師たる本化上行菩薩の後身、
霊格者であることを明らかにされた。この2月騒動が起こり、この内
乱は立正安国論に予言し、龍口法難の時重ねて警告した自界叛逆難の
的中であった。
 4月、聖人は一谷に移された。翌10年4月、「日蓮当身の大事」
として観心本尊鈔を顕し、自らの信解体得された数学体系を明らかに
された。まず救済の原理たる一念三千を題目に結要し、次に救済の本
主たる本仏釋尊を本尊の相貌に具見し、最後に救済の正導師たる本化
上行の末法応現が示されている。これより2カ月後の7月8日、本書
に説示された法門によって大曼荼羅が図顕された(「佐渡始顕本尊」
という)。
 開目・本尊2鈔によって、聖人は自己の人法二箇の大事を開顕され、
いわゆる「内々申す法門」として弟子たちに伝えられたのである。
 内乱の予言は的中し、外寇の予言も実現せんとする状況の中で、幕
府は文永11年2月赦免状を発し、聖人は3月26日鎌倉へ帰られた
のである。

 「身延終焉」

 同年4月8日、聖人は幕府の呼出しを受け、蒙古来襲の時期と対策
を問われた。聖人は「今年は一定なり」と断言し、真言の祈祷を用う
べからず、もし用いるならば日本は亡国となるであろう、と諌められ
たのである。
聖人はこの時の諌言と、立正安国論の上呈と龍口法難の際の諌言とを
もって「三度の高名」「三度の諌め」と自負されている。しかし、幕
府の態度に誠意のなさを認めた聖人は「三度国をいさむるに用ひずば、
山林にまじわれ」との例に倣って、5月12日鎌倉を去って身延山に
入った。身延山は甲斐国飯野御牧波木井郷にあり、領主は南部実長で、
これより9ヶ年の山中の生活がはじまる。
 聖人が身延に入山されたその10月、蒙古の来襲があった。他国進
逼の予言が現実化したのである。聖人は聖人値三世事を著わし、末萌
を知り三世を知る人を聖人というが、自分は法華経の行者として如説
に経を読み仏語の真実なることを実証した。これをもって思うに自分
は「一閻浮提第一の聖人」であると宣言したのである。また建治元年
(1275)6月、撰時鈔を著し、大集経の五箇五百歳説と法華経の
後五公布の経証をあげ、蒙古来襲の動乱の現証に合わせて、「法華経
の大白法の日本国並に一閻浮提に広宣流布せん事」を確信し、自らの
迫害多難と予言的中の現証に合わせて「日蓮は閻浮提第一」の智人・
大人・聖人にして末法の大導師であることを高調した。
 翌2年7月、恩師道善房の遷化に際し、回向のため報恩抄を著わし、
報恩こそが人間の歩むべき大道であることを述べ、自らの破邪と受難
を回顧し、末法救済の三大秘法を顕説し、「日蓮が慈悲広大ならば南
無妙法蓮華経は万年外未来までも流るべし」と妙法の滅後未来流布を
述べ、聖人の一切の功徳は師に帰すと師恩に報謝している。
 また弟子の教育や池上兄弟・四条金吾に対する迫害、駿河熱原で起
こった熱原法難などに対しても、適切な助言、指示を送り、危機を乗
り越えていったのである。
弘安元年(1278)3月、公場対決近しの噂を聞いて「一閻浮提皆
此法門を仰がん」と悦ばれた聖人であったが、同3年12月には諫曉
八幡抄を著して、末法の日本に聖人によって開顕された仏教がインド
に帰るべきことを述べている。
 同4年4月、三大秘法鈔を著わして、最勝の地を尋ねて閻浮同帰の
大戒壇を建つべしと述べられた。これは法華経虚空会に表現された本
仏釋尊を中心とする理想の世界を現実化せんとする事の戒壇の構想で
あり、立正安国論の帰結であり、聖人の誓願である。
 同年11月には自ら霊山に比している身延山に久遠寺を創立し、未
来弘布の基とされたのである。
 翌5年9月8日、病気治癒のため身延の山を出て、18日武蔵国千
束郷の池上宗仲の館に到着。しかし、病気は進み、死期の迫るを覚っ
た聖人はここを入滅の地と定め、10月8日には本弟子6人を定めて
滅後の法灯とし後事を託したのである。
 10月13日、枕頭に経一丸(のち日像)を呼んで京都開教を委嘱
し、門下読経のうち辰の時(8時)、寂然として法華経弘通の生涯を
閉じ、入滅されたのである。
 時に61歳であった。遺骨は遺言によって身延山久遠寺に納められ
た。
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第二節 日蓮聖人の遺文

聖人は法華経弘通の生涯において、多くの著述や書状などの文章
を書き遺されている。
これらを一括して「遺文(いぶん)」とよぶのであるが、聖人の
直弟の方々は「御聖教(ごしょうぎょう)」と呼んで尊重し、さ
らには「御抄(ごしょう)」「御状(ごじょう)」「御書(ごし
ょ)」などとも呼ばれていた。室町時代に諸門流が分立し、教義
上の問題が判ずるようになり、「御書判」「御妙判」の名が用い
られ、江戸時代には宗祖の御書ということから「祖書」の名が用
いられた。今日では「遺文」の名が最も一般的であるが、「御書」
「祖書」の名も用いられる。
 聖人の遺文は、その内容から、聖人が明確な意図をもって自己
の体得証悟された教義や信仰を論述した著述類(開目抄・など観
心本尊抄)、特定の門下檀越に教義や信仰を説示して送られた書
状(消息)、門弟教育のために法門を図示し、経論釈の要義を抄
録し解釈された図録類、とに分類される。聖人が書き遺されたも
のには、この他、諸経論の要文を抜萃した要文類、刊本法華経十
巻の行間・天地・紙背に諸経論疏の関係要文を撰集注記された注
法華経、先師の著作を書き写された書写本などがあるが、これら
には聖人の解釈はまったく加えられていない。なおこの他、一二
五幅におよぶ曼陀羅本尊が現存する。
 現在、聖人遺文として伝えられているものは昭和定本日蓮聖人
遺文(善四巻)によれば、著作、書状四九三篇、図録六五篇、そ
れ以外の真筆断簡三五七点を数え、さらに未刊の書写本二三点、
要文一四〇点を加えれば、遺文の存在は厖大な数にのぼり、この
ような事例は日本仏教史上の諸宗開祖に類を見ないのである。
 これらの聖人遺文は、真筆と写本によって伝承され、江戸時代
に入って刊本として出版され、広く流布するにいたったのである。
聖人の滅後、残された門弟にとって聖人を偲び、教えられた信仰
を堅持し、聖人の教えを弘通する原点となるものは、聖人の真筆
であった。そのための真筆と蒐集と護持が門弟の課題となり、夙
に中山法華経寺開基富木日常をはじめ、多くの門下によって蒐集
護持せられ、今日にいたるまで各門流に多数の真筆が格護されて
きたのである。
 現存する遺文の真筆についていえば、著作・書状のうち完全に
伝存するものは一一三篇、断片の現存するもの八七篇、図録の完
全なもの二一点、断片のあるもの二九点、曽て真筆の存在したこ
とが明らかなもの二五篇を数えるのである。この他聖人遺文の存
在を示す三五七点の真筆断簡があり、これらはいずれも著作・書
状の一部と考えられるもので、それぞれ独立した一書の断簡とす
れば、聖人の遺文はさらに驚くべき厖大な数となるのである。こ
のように多数の真筆が現存することは、門下檀信徒の聖人に対す
る帰依尊崇の念がいかに篤かったかということを物語るものであ
る。
 聖人遺文は、聖人滅後間もない頃から各地で蒐集がおこなわれ
ていたが、門流が分立していく課程に於て、自派の正統性を主張
しようとし、また護教的な意図の下に、遺文の偽作が行われるよ
うになった。ここにおいて聖人滅後一〇〇年前後から一三〇年頃
にかけて、当時有識の師が相計って、従来の所伝を収録して一四
八通となし、御書四十巻の編集とその御書目録を作成した。そし
て編者はその編集を権威づけるために、名を六老僧に仮託し、一
周忌編集説を伝え、さらに連判状を作って後来の追加編入を厳し
く戒めたのである。
 しかし、この第一次の御書編集は必ずしも完全なものでなく、
重複するものや編入に漏れたものも少なくなかった。そこで第二
次編集が行われ、第一次の御書に対して「録外御書(ろくげごし
ょ)」と称し、第一次の編集を登録内のものという意味で「録内
御書(ろくないごしょ)」と称したのである。
 その後、多くの録内・録外御書が編集書写刊行された。主要な
ものをあげれば、録内では日朝身延本(にっちょう・・)、日意
平賀本(にちい・・)、日鎮本隆寺本(にっちん・・)等があり、
録外では日朝身延本、三宝寺本、本満寺本等がある。その刊行は
江戸期に入ってからで、元和年間(1615−23)にはじめて
録内御書が刊行され、寛永十九年(1642)本、同二十年本、
寛文九年(1669)本と次々に刊行され、録外御書も寛文二年
(1662)本、寛文九年本と刊行された。
 録内・録外に対し、遺文の編年を企てる方法が江戸期に入り現
れてきた。その初めは本行日奥(ほんぎょうにちおう)の御書新
目録(貞享三、1686)である。次に境持日通(きょうじにっ
つう)が明和七年(1770)に境妙庵目録(きょうみょうあん
もくろく)を編集し、案永八年(1779)に建立日諦(こんり
ゅうにったい)が祖書目次を刊行した。その後、智英日明(ちえ
いにちみょう)が文化十一年(1814)に新撰祖書目次を編集
し、これをもとに小川泰道(おがわたいどう)が明治十三年(1
880)に高祖遺文録として刊行、さらにこれを修正校正した日
蓮聖人御遺文(縮刷遺文)が明治三十七年(1904)に刊行さ
れ、昭和二十七年(1952)開宗七百年記念事業として昭和定
本日蓮聖人遺文が編集刊行された。この他、真筆遺文の影印本と
して、日蓮聖人御真蹟(神保弁静編、大正三、1914)二十冊、
日蓮大聖人御真蹟(立正安国会編、昭和三二、1957)四十八
巻二十二冊、日蓮聖人真蹟集成(法蔵館編、昭和五十二、197
7)一〇冊等があり、現存する真筆の全貌を知ることができる。
 聖人の遺文は、聖人の生涯の行実や思想・教義・信仰を明らか
にする基本的な文献であるだけでなく、聖人滅後の宗門史におい
ては宗義・信仰上の絶対的権威を有するものとして尊重され、末
法の法華経であるとして神聖視するものもあったのである。さら
に聖人当時の中世日本の政治・社会・文化を考察するうえでの文
献資料として貴重なものとして、日本史や国文学の研究者からも
注目され活用されているのである。 このように聖人遺文は、ひ
とり日蓮宗にとって教義・信仰の根本聖典として重要であるのみ
ならず、日本文化史上の貴重な資料としての価値をもつものであ
る。

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第三節 日蓮聖人の法脈

聖人の教学・信仰は法華経に基づくものである。聖人は、末法の日本に法華
経を弘めるにあたり、インド・中国・日本と三国にわたって展開してきた法
華経学の伝統を受け継ぐものであることを、しばしば語られいる。すなわち、
法華経学の伝承者として、インドの迦葉・阿難・馬鳴・龍樹・天親、中国の
天台・妙楽、日本の伝教等をあげられている。そのうち、聖人の法華信仰に
重要な関わりをもつ先師として天台・伝教の二師を選ばれている。それは天
台によって初めて法華経を中心とする仏教観、すなわち法華経が宗として立
てられ、法華経による仏教統一が確立されたからであり、それが伝教によっ
て日本へ伝えられ、聖人の法華経学の母胎をなすに至ったからである。
 聖人は「龍樹・天親等の論師は、内に鑑みて外に発せざる論師なり」と述
べて、迦葉・阿難・馬喰・龍樹・天親等も法華経学を理解し体得していた点
では天台・伝教に劣らないけれど、これらの諸師は当時の時期に応じて、法
華の信仰を内に秘して外へ宣べ伝えなかったと評している。したがって「内
証は同じけれども、法の流布は迦葉・阿難よりも馬喰・龍樹はすぐれ、馬喰
等よりも、天台・伝教はすぐれ」といわれたのである。
 かくして聖人は、法華経の正法を覚知したのは三国に但三人だけであると
いわれ、この三人に自身を加えて参国四師(さんごくしし)の相承を立てら
れたのである。すなわち顕仏未来記に
   天台大師は釈迦に信順し法華宗を助けて震旦に敷揚(ふよう)し、叡
山の一家は天台を相承して法華宗を助けて日本に弘通す云々。安州の日蓮は
恐らく三師に相承し、法華宗を助けて末法に流通す。三に一を加えて三国四
師と号く(なずく)
と表明されている。これはインド霊鷲山において釋尊の説かれた法華経は、
西域亀茲(さいいききじ)の鳩摩羅什三藏によって中国に伝承され、天台に
よってこの経の真意と行法が明かにされ、伝教によって日本にその宗旨が伝
えられ、鎌倉時代に出現した聖人によってその真価が発揮せられたとする系
譜である。この釈尊ー天台ー伝教ー日蓮、と相承した法華経流伝の系譜を
「外相承(げそうじょう)」「三国四師相承」といい、歴史的伝統的な法華
教学の流れをたどった見方である。この外相承の表明は、聖人自身を法華経
学史の上に位置づけ、自らの歴史的立場を確立せんがためのものである。既
に天台・伝教の法華経学は、円仁(えんにん)・円珍(えんちん)・安然
(あんねん)・源信(げんしん)等によって密教化され、禅化され、念仏化
されて、真の法華経の精神は喪失してしまっていたのであり、聖人はこれら
の人々を「法華経・天台大師の弟子の身の三虫」と厳しく批判し、自分こそ
が正しく天台・伝教の法華経学を継承するものであることを表明されたので
ある。
 このように聖人は、自らが釈尊以来の正しい法華経学の歴史的系譜に連な
るものであることを表明される一方、歴史を超えて釈尊に直結する師弟の系
譜を立てられている。すなわち釈尊ー上行菩薩ー日蓮、と聖人の主観的信仰
に基づいて立てられたもので、これを「内相承(ないそうじょう)」という。
これは法華経神力品の文意によって、法華経の肝心は本師釈尊から本化上行
を経て聖人へ直接相乗するものであることを示すもので、釈尊から上行への
別嘱は経文に明瞭であるが、上行から日蓮への相乗は聖人の内証(さとり)
によるから内証相乗(ないしょうしょうじょう)というのである。
 聖人は法華経学の正統的伝承者として天台・伝教を選び出し、自らその継
承者として立たれたのである。しかしそれは天台・伝教の教学を固定化した
ものを継承するのでなく、むしろ天台・伝教の内鑑した教学を具現化するこ
とであったのである。すなわち、聖人は、像法の時代に出現した天台・伝教
は時期未熟の故に迹門弘通の師として、その時代に相応した教えを説いたの
であり、今、聖人の時は既に末法に当り、法華経本門の教学を宣べ伝えるの
であるとされた。
 この内外両相乗は、法華経の総別(そうべつ)二種の付嘱の説教に基づい
ている。すなわち、総別付嘱の異なりによって滅後の弘通にその相違が歴史
的な事実となって現れ、内外両相承を生ずるにいたったのである。
総別付嘱とは、神力品における別付嘱と、嘱累品における総付嘱をいうので
ある。神力品では特に本化の菩薩にのみ妙法五字を付嘱されたが、嘱累品で
は、本化・迹化・他化のすべての菩薩に法華経一部を付嘱されたのである。

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  二、五綱の教判

 五 綱 の 意 義  

 五綱は、日蓮聖人が法華経を信解体得せられるに当たり、考察の基盤とさ
れた教・機・時・国・師(序)の五箇の教判であって、教と理とを明らかに
する。更にそれは、宗教活動における自覚と弘教の方軌を示すものである。

(教)一念三千を包む法華経寿量品の肝心、南無妙法蓮華経をいい、五重相
   対四種三段等の教判によって詮顕されたものである。
(機)教が与えられる対象で、末法の凡夫をいい、等しく下種の大益を享受
   する。
(時)教が必然的に相応する末法今時の意味である。
(国)教の流布する場所であり、日本を始めとする全世界が国である。
(師)教・機・時・国の意義と次第を知り、これを自覚し、実践する仏教者
   である。


二 五綱の教判

第一節 五綱判総説

{成立}

 聖人御自身は「五義」といわれたが、普通はこれを「五綱」と呼びなをし
ている。
求道的には諸経の中でも法華経・本門・妙法五字に帰入するための教判の要
綱、また弘教的には行者が常に留意しておかねばならぬ。
 「教判」は教相判釈の意味で、諸経が有する経理(教相)を一定の基準の
もとに比較検討して浅深勝劣を判断し、浅経を去って深経を取る(判釈)た
めの倫理体系である。
教判がなければ自宗の思想信仰の拠って立つ必然性がわからないということ
になるから、どの宗派にも原則としてみな教判がある。たとえば天台宗の五
字八経判、華厳宗の五教判、真言宗の顕密二教判・理同事勝判、それから判
釈の基準は違うが浄土宗の機教相応判などがそれである。
 教判論は経典自身の中にも素朴な形で、有るにはある。しかしインドより
も中国の仏教に於てその必要性が発展した。従って、中国仏教を移植し発展
させた日本の仏教にも、各宗それぞれに教判がある。しかし、経法の浅深を
判じ、再新の経理を説く教典を選び取るという趣旨では、どの宗の経判も皆
同じであった。
 ところが法然(1133〜1212)はそういう教判を「理深解微(りじ
んげみ)」という理由から捨て去り、新たに末代の愚者悪人に叶う他力易行
(たりきいぎょう)の仏教は何か、という観点から仏教を取捨するという方
法を、先行する浄土経の中から継承し提唱した。それは仏教史上画期的なこ
とであった。
 聖人は安房国清澄寺で出家得度し学習された。故にはじめは比叡山の信仰
のありかたにならって、後生のためには弥陀念仏(天台念仏)現世の安穏の
ためには信言密教、懺悔滅罪のためには天台法華という信仰であられたに違
いない。従って諸経諸宗の勝劣もさることながら、殊に法華・信言・念仏の
三宗の勝劣を最も緊要な課題とされていたことであろう。この課題は題目始
唱のときには解決されていたと見なければならない。
 文応元年、立正安国論を前執権に上呈されたことが契機となって、数々の
受難を体験された。上呈の直後には松葉谷の法難、法難を免れて翌年春帰倉
すれば「殺されぬをとがにして」、「日蓮が生きたる不思議なりとて」理不
尽にも伊豆の伊東に流罪された。つまり国禁の宗教となったわけで、聖人の
精神的打撃は筆舌に尽し難いものがあったであろう。
 ところが流罪後9カ月にして書かれた四恩鈔には見事これらの状況を克服
された文言を見ることができる。今日までの自分は「懈怠の身」「学門」
「世間の事」にわずらわされて「一日にわずか一巻一品題目」ばかりの読経
であったが、今や「昼夜十二時に法華経を修行し奉る」身の上となった。そ
の訳は「法華経の故にかかる身となりて候へば、行住坐???に法華経を読
み行ずるにいてこそ候へ」と。受難即色読の認識である。これ「日蓮聖人が
法華経を信解体得せられた」ということの最初の明瞭な表現である。
五綱判が初めて説示されたのは、四恩鈔発表の約一カ月後、弘長2年(12
62)2月10日付けの教機時国鈔においてであった。同じく同処で著され
た顕謗法鈔、さらに故郷追放の身を敢えて帰省された直後の当世念仏者無限
地獄事、東条法難の翌月の南条兵衛七郎殿御書等に相次いで五綱が発表され
ている。このことは、値難と行者自覚と契約として五綱が発表されたという
ことであって、そこに五綱が持つ大切な意味が伏在している事を暗示してい
る。
 すなわち五綱は、一に、いかなる妨害があろうとも妙法五字の広宣流布は
必然であるという如来の予見の感得を示している。二に、妙法五字の広宣流
布は必然であるが、法は放置しておいたのでは弘まらない。弘めるのは人で
ある。故に五綱は弘経者の「弘法の用心」でもある。三に、いわゆる教判と
しては、一切経の中から法華経、法華経の中から本門の題目を選び出すため
の教理体系である。「教と理とを明らかにする」というところである。

〔依文〕
五綱の依文として、神力品の「於如来滅後(時) 知仏所説経(教) 因縁
(機・国)及次第(序) 隨義如実説」の偈文を当てることがあるが、遺文
にはその明文はない。神国王御書の、
  法華経の第七の卷を見候へば、於如来滅後 知仏所説経 因縁及次第 
隨義如実説
   如日月光明 能除諸幽冥 斯人行世間 能滅衆生闇等云云。文の心は此
の法華経を一  字も一句も説く人は必ず一代聖教の淺深と次第とを能々弁
へたらむ人の説くべき事に  候。
の文はやや五綱の依文としての神力品の右の偈を宛てる主旨に近い。

〔順序〕
 五綱の順序としては、五綱発表の当初は教・機・時・国・教法流布前後
(序)の順であった。その理由についての説明はないが、教、それから機、
時と次第するのは、法然の機教相応判に対する処置としての意味もあるかと
考える。選択本願念仏集の結文にも、
  当に知るべし、浄土の時機を叩いて行運に当つるなり。
とある通り、法然は専ら機教相応という見地から他力易行の念仏を勤めた。
この仏法選取の方法に対し聖人は、例えば、「浄土門は春沙を田に蒔て秋米
を求め」とその不当性を譬えられる。春蒔・秋求は時についての知識はある
ことの譬へ、沙を蒔くとは、種の良否の選定を怠った結果であるから、教法
浅深の判定を無視したことの譬えである。つまりまず良き種を選び出してお
け(教)、次にそれを蒔く時を心得よ(時)というわけである。機は元来は
個人の機根であるが、「機を知らざる凡師は所化の弟子に一向に法華経を教
ゆべし」でるから、末代の通機の謂である。
 五綱の順序は身延期に入ると変化する。曽谷入道殿許御書(そやにゅうど
うどのかりごしょ)では時・教・國・機・師と次第し、瀧泉寺申状では(師)
・時・国・法・機と次第する。順序を変えられたことについての説明はない。
思うに時・国は所居(しょご)、機は、能居(のうご)・所化(しょけ)、
教は所弘(しょぐ)、師は能弘(のうぐ)・能化(のうけ)であるところか
ら時・国・機を一連とし、その間に教が入り、師はその時、その国で教を弘
める主体者であるところから、五綱の最初または最後に置かれたのであろう。
 ところで、右二抄に示されたところによると、序綱がなくなり、師綱があ
る。それは客観的な歴史考察としての一綱であった「教法流布前後」という
ことが、教法流布の前後を創る師の自覚に置きかえられたことを意味してい
る。それは法華色読という教文の実証を待たねばならぬから、師に変わるの
は佐渡配流後になってからのことになる。

〔特色〕
かくて聖人の五綱判の特色とするところは、諸宗のものは教法の浅深判だけ、
あるいは時の機類による行法の取捨だけであるが、五綱はそれらを包括し、
意義あらしめるとともに、「宗教活動における自覚と弘教の方軌を示す」も
のである。
 そして仏教一般でいわれる理・教・行・証の四面中、この五綱は教判とし
ては「理と教とを明らかにする」、弘教の方軌としては行・証を示すことに
なる。
 そして仏教一般でいわれる理・教・行・証の四面中、この五綱は教判として
は、「理と教を明らかにする」、弘教の方軌としては行・証を示すことになる。
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