妙光寺の歴史  妙光寺沿革

 当山は、天文元(1532)年井上長大夫居士の発願により、法泉院日雲上人を開山と仰ぎ、一堂を創建し、法泉院と称するに始まる。以降、四世まで法泉院代である。

 寛永七(1630)年2月、徳川二代将軍秀忠公の夫人崇源院(浅井長政公の娘お江与)の中陰諷経(ふぎん)に関する出仕・不出仕問題に端を発した、江戸城内における池上・身延両派の対決(身池対論)に、江戸碑文谷妙光山法華寺11世修禅院日進上人は、池上方として参加する。その結果4月、不受不施義(日蓮宗の檀信徒でない者の為には読経せず、供養も受けず)に共鳴連座したの罪により、徳川幕府より上田城主仙石侯に預けられる(遠地追放)。
 日進上人にとっては島流しとはいえ、法華経の色読(「数数見擯出」法華経の行者はしばしば島流しの法難にあう) という、法華経に説かれていることの実践であってかえって如説修行の法悦であった。以後日進上人は花押の中に、「出」の一字を書き入れている。 

 日進上人、当地にあること34年、弘教伝道せられる。上田城主仙石政俊侯は、自らが開基となり、住庵法泉院を改めて修禅山妙光寺を開創せられる。日進上人をして寺号初祖、中興開山と仰ぐ。

 元禄十一年(一六九八)三月八日、仙石家が城内で日頃信仰していた開運厄除弁財天が、上田城の鬼門除けとして当山に遷座される。
 この弁財天はそもそも厳島弁財天の分身で、仙石政俊侯が長男忠政侯の嫁として迎えた安芸(広島)城主浅野但馬守光晟侯の娘が、浅野家で信仰されていた厳島弁財天の分身を守本尊として奉持してきたものである。以来浅野家の紋が寺紋として使用される。

 同年(元禄十一年)七月二十一日、城主仙石政明侯の息女の霊位が当山に埋鏡されてから、准菩提寺として仙石家家紋(永楽銭)が寺紋として使用される。
 元禄十二年(一六九九)三月十九日、身延山久遠寺の末寺となる。

 享保十五年(一七三〇)十月八日、横町の大火に類焼。四世中正院日成上人、各地より寄付を募り、また時の城主松平侯より用材一切の寄進を得て、翌享保十六年十月九日に上棟式を行ない堂宇を再建。以来十月九日は、当山鏡守弁財天の縁日として大祭が開かれる。

 明治四十二年(一九〇九)智良院日達上人、空家同様に荒れ果てた当山を復興し、第十五世中興となる。在職四十年、御題目布教に専念し、本堂・弁天堂・表門等を修覆し、離れ書院を新築し、参道を敷設して寺観を一新する。

 昭和二十五年(一九五〇)宮淵日温第十六世の法灯を継承し、位碑堂・鬼子母神堂・庫裡等を新築す。また坂北村に信行閣教会を建立し自ら第一世となる。昭和五十六年、宗祖日蓮大聖人の第七百遠忌の報恩に、庫裡の増築、並に宗祖の銅像を建立する。

 昭和五十九年(一九八四)宮淵泰存第十七世の法灯を継承す。境外祖師堂=穴水の祖師堂改修、弁財天安置三百年を迎え弁天堂改修等を行う。また宗祖立教開宗七百五十年を迎え、記念事業として本堂東側棟新築を行った。

 尚当山什物として、碑文谷法華寺開山日源上人御木像、同寺十一世当山寺号初祖日進人上人御木像、当山法泉院時代日教大徳曼荼羅御本尊一幅、日進上人御本尊三幅、谷中感応寺十二世日純上人御本尊その他卸本尊二幅、釈尊涅槃図一幅、書状等三編の計十三点が日蓮宗准宗宝に指定されている。

日蓮宗妙光寺鎮守 開運除厄弁財天縁起

 上田市中央・日蓮宗妙光寺の境内に奉られている開運厄除弁財天は、永く上田 の民衆や花柳界の信仰を集めている尊神様で、その御堂も立派なものである。
 この弁天様は、巌島弁財天の分身である。安芸(広島)城主浅野但馬守長晟(ながあきら)光晟(みつあきら)侯父子は、厚く「法華経」並びに弁財天を信仰していた。時 に、上田城主仙石越前守政俊侯は、長男忠俊侯に、この浅野光晟侯の娘を嫁とし て迎えたが、光晟侯の娘は、巌島開運弁財天の分身を守本尊として奉持してきた。
 この弁天様は初め上田城内の乾(西北)の小丘に安置された。現在、弁天島と いわれる所が、そこである。しかし、これを伝え聞いた町民の信仰は日に増し、 参詣者は列をなした。元線11年(1698)時の執政は、弁財天を町民に開放 する為、上田城の鬼門の方角にあたる日蓮宗修禅山妙光寺に、藩士柴田与左衛門 の邸宅を寄進して、ここに荘厳なる社堂を建てて弁財天をお遷しした。
 以来神徳いよいよ加わり、国を護り民衆を利益し、参詣者は常に絶えることが なかった。享保十五年(1730)十月八日、横町の大火(およそ百二十戸延焼) に類焼。妙光寺四世日成上人は、各地を托鉢(たくはつ)して寄付を募り、また 城主松平侯よりは用材の一切の寄進を得て、翌享保十六年十月九日に上棟式を行ない、社堂を再建した。以来十月九日は、開運厄除弁財天の縁日として大祭が開 かれている。現在は十月一日に大祭を行っている。

 ところで、弁財天はもともとインドの神の名で、聖なる河の化身であった。が、 仏教の中では、人に弁才(弁舌の巧みなこと)・財宝・福徳・智恵・廷寿などを 与え災厄を除き、戦勝を獲させる天女として崇拝されている。弁財天には、八臂 (八つの腕に弓・矢・刀・鉾・斧・杵・輪・けんさくを持つ)と二臂(琵琶を持 つ)の像があるが、当山鎮守開運厄除弁財天女は八臂像である。  妙光寺は、天文元年(1532)に開創されて以来473年上田市でただ一 つ上田市旧城下町の町中(まちなか)に位置する寺で、長く町民より南無妙法蓮華経の信仰の場として、また厄除・開運・祈祷の道場として栄えてきたのである。

                   上田市中央三−八−三〇(通称弁天前通り)
                      開 運 弁 財 天
                      別 当 妙 光 寺



身池対論(しんちたいろん)とは

寛永七年(一六三〇)二月一二日、法華経未信者である国主の供養をめぐって、
受不施を主張する身延久遠寺と不受不施を主張する池上本門寺との対論で、幕
府が身延・池上両者を召喚し江戸城で対決させた論争をいう。身池対論また延池
諍論ともいう。不受とは日蓮宗以外の他宗、不信・未信者、謗法者よりの布施供養
を受けないこと、不施とは日蓮宗以外の僧に供養しないことであり、これは宗祖日蓮
聖人以来の日蓮教団全般にわたる伝統的な通規であった。しかし強力な近世政権
が確立し、その国主が日蓮宗不信・未信者である場合、これを対象とした不受不施
制は大きく二つに分れた。即ち文禄四年(一五九五)九月、豊臣秀吉は東山方広
寺大仏を建立し、日蓮宗にも千僧供養会出仕を命じた。その出仕をめぐり、京都本
満寺日重らの出仕派(受不施派)と京都妙覚寺日奥らの不出仕派(不受不施派)
に分れ対立する。以降、日蓮教団を二分した受・不受両派の身池対論に至る対立
抗争の展開の経緯は次の通りである。秀吉没後、次第に権力を掌握した徳川家康
は、慶長四年(一五九九)一一月二〇日、公命を無視してなお出仕しない日奥と、
出仕派の京都妙顕寺日紹らを大坂城内にて対論させ、あくまで謗施不受を主張す
る日奥を権威にはむかう逆罪人として翌五年六月、対馬に配流する。慶長一七年
五月、日奥は赦免されて京都に帰り、元和九年(一六二三)一〇月、幕府は不受
不施公許状を日蓮宗に与えた。これによって再び伝統的不受不施制が認められた
のである。しかし、日重の弟子日乾・日遠と日奥の受・不受論は再燃し、しかもこの
問題は京都系の主張を代表する身延久遠寺日暹と日奥の主張の代弁者である池
上本門寺日樹との間に引継がれ、論争の舞台は江戸に移された。両派互いに受・
不受を論難し幕府に訴えたので、幕府は両者を召喚し対論させた。身池対論であ
る。

 身延側の出席者は身延久遠寺前住日乾・同日遠・当住日暹・藻原妙光寺日東・
玉沢妙法華寺日遵・貞松蓮永寺日長、池上側は池上本門寺日樹・中山法華経寺
隠居日賢・平賀本土寺日弘・小西檀林能化日領・碑文谷法華寺日進・中村檀林
能化日充の六名で、対論の焦点は国主の供養に対する受・不受の問題と、寺領を
供養とするか仁恩とするかにあった。身延側は日蓮聖人在世の不受不施形成途上
から、あるいは制し、あるいは猶予されている点を重視し、池上側は日蓮聖人以来
不受不施義確定の制戒の立場から主張したが、三〇〇余年来の宗制と考えられ
ている不受不施を、国主なるが故に除外するという王侯除外の不受を主張する身
延側の立場は不利であった。三月二一日、池上日樹は幕府に身延側の敗論は明
白であるとして、その裁決を願う訴状を捧げた。しかし四月二日幕府は対論を裁決
し、法理論からではなく、先年家康が不受不施を禁止した御裁きに違背したという
理由で、池上側を敗者とする政治的な結論を下した。かくて幕府は不受不施派にき
びしい処罰をもってのぞみ、池上日樹は信州伊那に、日賢は遠州横須賀、日弘は
伊豆戸田、日領は佐渡のち奥州中村、日充は奥州岩城平、日進は信州上田に流
罪となった。また、不受派の指導者として大きな影響を与えた日奥は、裁決の直前
三月一〇日、六六歳で京都妙覚寺に没したが、死後にもかかわらず再度の対馬流
罪となった。更に幕府は不受派の拠点である池上本門寺を日遠に、京都妙覚寺を
日乾に与えた。身延はこれを好機として飯高・中村・小西の三檀林を接収、能化の
任命権と檀林の経営権を掌握すると共に、中山法華経寺・小湊誕生寺の不受派拠
点寺院をもその支配下におさめた。なお身延と池上の対論を記録した身池対論記
録には、池上側の記録と『東武実録』所収の二本がある。しかし、『東武実録』所収
本は対論後三六年目の寛文六年(一六六六)より間もないころ、身延側で作成した
ものを『東武実録』編著に際し、無批判に収録したもので、身池対論の真相を知る
基本史料とはならないものである。《宮崎英修『不受不施派の源流と展開』、同『禁
制不受不施派の研究』》


日進(にっしん)

(1591〜1663年) 修禅院と号す。板倉備前守の子息として江戸に生れる。父は
法号常円、母は妙円という。碑文谷法華寺(東京都目黒区、現在天台宗円融寺と
なっている)一一世。寛永三年(1626)九月、徳川二代将軍秀忠の夫人(浅井長
政の女)崇源院の中陰追善のため各宗の僧侶は芝増上寺に諷経(ふぎん)(読経
すること)せよとの命令が出た。身延山は出仕したが、日進は池上日樹、中山前住
日賢、小西日領らと共に伊賀守の允許を証文として不受不施の古制を守って出仕
を免れた。この時には不出仕者に対し幕府から何の咎めもなかった。しかし不出仕
者の日進・日樹・日賢等が身延日乾一派の出仕(信徒でない者に諷経しその供養
を受けた)を謗法であると批判攻撃するに及んで、幕府も捨ておかず寛永七年二
月、江戸城内に池上・身延の両派を呼び対決させた(身池対論)。これは妙覚寺日
奥以来の「王侯除外を認めぬ正統不受不施義」を主張する不受派の日樹・日進ら
と、国主は平民同様の対象に置くべきでないとする「王侯除外の不受不施義」を主
張する受派の日乾・日遠・日暹らとの間の受不受の対論であった。また同時に身延
不浄無間論に起因する、関東の諸山(池上・碑文谷・中山)と身延との感情的分子
の多く含まれる論争でもあった。この身池対論は同年四月二日、幕府の権力に庇
護された身延側の勝利と判定され、池上側七師は流罪・追放の罪科に処された。
日進は信州(長野県)上田に流され、在住三四年、寛文三年四月二二日、七三歳
をもって入寂した。遺弟の進盛日通は上田城主仙石政俊の外護によって日進の住
庵法泉院を改めて妙光寺を創し、山号は日進の院号修禅院をもってし、日進を開
山、政俊を開基と仰ぎ、自らは第二世に列した。日進は配流とはいえ、城主の外護
もあって、割合自由に宗教活動を行っていたといえる。日進の上田に配流された以
後の花押の中には「出」の字が入れてある。これは法華経勧持品に、末法において
法華経を弘通する者は「数々(しばしば)擯出せらる」と説かれていることから、自身
は日蓮聖人の如く色読したという自覚を持ち、花押の中へその「出」の字を入れた
のであろう。この正法の行者としての日進に対する信徒の崇敬の念はあつく、配流
の後も江戸・上総その他の地の信徒が、日進を訪れ、日進も諸方に返書をしたため
ている。寛永八年一〇月、江戸の信者が日蓮聖人の尊像(現在、北山本門寺片山
日幹師蔵)を造って、配処を訪れ日進に奉げている。妙光寺には、安藝国大守奥
御殿が上田に配流された日進を励ますために出した書簡が残されている。日進が
信者に授与した曼荼羅は、現在上田市妙光寺・本陽寺、小諸市実大寺・尊立寺、
諏訪市高国寺、千葉県夷隅町光福寺、東京都豊島区法明寺、佐世保市延寿寺、
北山本門寺片山師等、諸方に伝えられている。なお「日進聖人像」(妙光寺二世
日通の造立であろう)は上田妙光寺に安置されている。




不受不施義(ふじゅふせぎ)

不受とは文字通りに受けず、不施は施さずということ。不受は概ね僧侶の立場で他
宗の信者や未信者は謗法の人であるからこれらの人々からの供養・施物を受けな
い。次に不施は概ね在家信者の立場で、他宗謗法の僧には布施供養をしないとい
うことで、これは不受不施の根本的態度で法華信仰を守るための理念であり、信
条・法度である。聖人の御書を検するに『守護国家論』『立正安国論』に他宗謗法
者に対する留施・止施・不施を説かれているが、この不施の対象は法華宗教団の
発展に伴って拡大されていることが知られる。即ち聖人は天台宗の立場にたって初
め禅宗、念仏宗を排撃されたが、本化地涌の上行、閻浮第一の聖人としての自覚
を固めると共に律宗、東寺真言、更にすすんで雑行の天台円宗を破し、天台真言
をも破折されるが、ここにおいて不施義は確立することとなる。次に不受義について
見れば、不施が未信、不信、謗法の人を対象とするならば、かかる謗法者よりの供
養は受けられぬことは当然のことであろう。不受不施派祖仏性院日奥は『宗義制法
論』に「不施の禁の中におのずから不受の制あり」と示しているが、不受義は不施
義の背後に同時に成立していることが知られる。

 聖人滅後、日像は京都に開教し、三黜三赦の法厄ののち妙顕寺の寺地を賜い、
元弘三年(一三三三)三月、後醍醐天皇の還幸を祈りその賞として同年五月一二
日尾張、備中の国に三箇所の地を賜い、建武新政となるや建武元年(一三三四)
四月勅願所となり、同三年には足利尊氏将軍の祈願所となっている。また日像のあ
とをついだ大覚妙実は延文三年(一三五八)祈雨の功験により聖人に大菩薩、日
朗・日像に菩薩号の宣下をうけ自身は大僧正に任ぜられている。このように京都開
教の当初、妙顕寺上古の様態を見ると朝廷より僧位・僧官を賜い、祈願所や寺領を
受容することは不受不施の対象としては全然考えられていないことが知られる。当
時富士門流の三位日順は『摧邪立正抄』に日像が院宣、御教書を下され祈祷した
ことをあげて、いかに祈請をこらしても神天上、善神捨国の故に功験のあるはずはな
い、国土の災難倍増するは謗法の現証であると攻撃してはいるが官位、寺領等を
受領したことについては難じていない。元来富士門流の成立は日興の身延下山独
立にあり、その下山は南部実長が謗施を行ったか否かの解釈が重要な理由になっ
ていて謗施の受不受は特に重視されたものであるにもかかわらず、公武の施が論
ぜられていないところを見ると、当時の教団一般では朝廷・幕府は特別のものとして
あつかっていたようである。このころ妙竜日静は足利氏の外護を得て京都に本国寺
をたて公武の勅願・祈願所となり妙顕寺と比肩する存在となっているがこれまた同
様である。妙顕寺は三世朗源、四世日霽のころになると権力、勢威になずんで折
伏精神を忘れ摂受主義に流れるようになり、門下の日実・日成らはこれに憤激して
同寺を去り同志と共に妙覚寺を創立、応永二〇年(一四一三)「妙覚寺法式」九条
を制定し、社参と謗供を厳禁、強義折伏を鼓吹し宗門に新風をそそがんとした。し
かもこの妙覚寺にしてなおかつ公武の施に対してはこれを埒外においていた。例え
ば法式第五条に「たといその夫が信者であってもその妻が入信せぬ時は三ヵ年の
間はその師は間断なく誘引、教誡を加えよ、もし三年を経てなおも信順せぬならば
夫妻共に破門すべきこと」を定めた。しかるに間もなく本条項が新しく入信する公武
の顕官に抵触し不都合を生ずることを知り、「三ヵ年誘引のことは高官大家の女中
方においては軽々に断ずることはできぬから充分考慮することが必要」であるとして
「衆議によって後日に筆を加」えたと追加念書した。このように公武の施について特
別に取扱う考え方を一般に「公武除外(王侯除外)の不受不施」という。このころ妙
顕寺より分立して本能寺を創し勝劣義を主張した日隆は「信心法度」一三条を制し
厳格な不受不施法則を制したが、その第七条に「くぼう(公方)の事よりほか、何に
ても候へ仏事・祈祷に一紙はんせんいだすべからず」と公方を除外し、また駿河富
士大石寺九世日有の制法『化儀抄』も公武を除外しているのを見れば、これが当時
の常識であったことがわかる。然るに一方では、たとえ公武たりとも、仏法の中にお
いては同等であって特別の扱をすべきでないとし、寺領についても寄進者の信不に
よって受不を厳重にせねばならぬと正統不受不施義を主張した久遠成院日親があ
った。日親のこの厳正、強硬な主張は漸次同調者を得、諸山は寺領・祈願寺は専
ら施主の信不によらねばならぬとし、除外制より脱却する大勢を醸成せしめたので
ある。こうした動向の中で宗門の指導者たちは公武権力者が取り行う祈願会、供養
会あるいは勧進についてあらかじめ不出仕ないし免除を請うて不受制禁の宗制を
確立せんとはかり、不受不施公許の折紙を得た。明応元年(一四九二)六月、将軍
義稙代のものが『本国寺広布録』に収められているが、記録としては最も古いもので
ある。即ち室町中期には除外制を脱却して正当不受不施義、伝統的不受不施制を
確立したと見られる。

 足利氏滅亡ののち豊臣秀吉の時、文禄四年(一五九五)九月、秀吉は大仏千僧
供養会を催し、日蓮宗にも法会に出仕せしめんとして招請したが、不受の宗制を堅
持して不出仕をとく妙覚寺日奥らと、王侯除外の先例を立てて出仕を主張する本満
寺日重を頭領とする長老たちとが対立したが大勢は出仕と決し、日奥らは出寺流浪
して宗制を守った。慶長三年(一五九八)秀吉没し、徳川家康が天下を制覇するこ
ととなるが、家康は日奥が国主の行う国家的大法会に対し出席を拒み、供養を拒否
するのをとがめ、公命違背の罪に問うて対馬に遠流した。慶長六年のことであるが、
これによって本宗の不受不施義は再び王侯除外の立場をとることとなった。日奥は
対馬に流されたが慶長一七年正月赦免され、京に帰って妙覚寺に再住することと
なった。同二〇年(改元元和元)五月豊臣家滅亡と共に大仏供養も自然に沙汰止
みとなったので、翌元和二年(一六一六)妙顕寺日紹、本満寺日深ら京都諸本山と
日奥は不受不施義を確認し従来の葛藤を水に流して法理通用の約をむすんで和
睦した。こえて元和九年一〇月一三日、不受不施公許の折紙を得、同月二〇日京
都十五本山は不受宗制を堅持することを申合せた。この公許状によって本宗は再
び王侯除外制をすてて伝統的正当不受不施制に立ち帰ったのである。但し京都方
面で除外制が大勢を占めていた慶長四―五年以降、徳川家勢力の本拠江戸にあ
っては家康の母伝通院殿が慶長七年九月に没して小石川寿量寺で葬儀を行った
とき、また秀忠の弟忠吉が同一二年三月に没して、芝増上寺の葬儀をしたとき、更
に元和二年四月に没した家康の葬儀が仙波喜多院で行なわれたとき、池上・身延
等関東法華宗諸寺が諷経したがいずれも供養を受けず不受不施が認められてい
たという事実を見ると、除外制は実質的には京都を中心とする地域的な動きであっ
たともいえる。従って不受不施の折紙の効果は京都近辺には影響を及ぼしたであろ
うが、本宗全般の動きは不受不施制下にあったから、むしろこれが確認に意義があ
ったというべきであろう。

 寛永七年(一六三〇)、関東において再び受不受の争いが再燃した。その最も主
要な点は寺領・寺子(地子)は供養であるか、国主仁恩であるかの問題で、身延
(関西諸山の代表・頭領である)は寺領等は供養の施であるといい、池上・中山等
関東諸山は寺領等は供養の施と、国主の恩分であり、政道の仁恩の施であって供
養一途のものと解すべきでないと主張した。そこで幕府は同年二月二一日両者を
江戸城において対論させたが、その裁決に苦慮し、論義の内容・優劣については
これをおいて断ぜず、関東諸山が不受不施義を立てるのは先年の権現様の御宰き
に背くものとして問答に出席した池上本門寺日樹らを諸国に配流し池上等関東諸
山を身延の支配とした。「身池対論」がこれで、しかもなお幕府は不受不施義を宥
置して制縛することをしなかったのである。これから約三〇年ののち寛文元年(一六
六〇)八月二七日、幕府は小湊誕生寺、碑文谷法華寺、平賀本土寺の各本末寺
院が不受不施制を守るべきことを確認する布告を下しているから、このころまで幕府
は不受不施公許の方針であったことが知られる。しかも間もなく施行された御朱印
地調査と御朱印再交付に関し、幕府は今度の御朱印地は徳川家より供養として下
さるからその請書(手形)を出せと命じた。即ち寺領には供養と仁恩の施との二つが
あるという不受派の主張をしりぞけ、寺領供養と限定する身延・池上の義を取上げた
のである。平賀本土寺日述らは供養の寺領は宗義・宗制に反するから受け取ること
はできぬと手形提出をこばんで流罪となったが、小湊誕生寺日明、碑文谷法華寺
日禅らは「供養」とは三宝崇敬の仏法上の供施ばかりでない、供とは上より下に供
給し、養とは上が下を養育する義であって世間法である。敬田、恩田、悲田の三福
田にあてれば悲田に相当するから「悲田供養」として受ける旨の手形をした。よって
幕府は平賀本土寺等供養を受けぬ不受不施義を禁止し、悲田供養として手形した
小湊、碑文谷等を悲田不受不施派(悲田宗、悲田派ともいう)として認容した。禁制
された不受不施の諸師及び信徒は地下に潜んで不受不施派を形成組織したが、
これを悲田派に対し恩田派という。《『万代亀鏡録』、宮崎英修『不受不施派の源流
と展開』》(宮崎英修)


感応寺(かんのうじ)

東京都台東区谷中にあり、元日蓮宗巨刹の寺院で、山号は長耀山と号した。元禄
一一年(一六九八)に天台宗に改宗させられ、現在護国山天王寺という。当時九世
日長による『長耀山感応寺尊重院縁起』(慶安元年=一六四一)によれば、当時草
創は日蓮聖人鎌倉より安房野州塩原等往還する折、関小次郎長耀の家に宿した。
よって深く聖人に帰依し、草庵を結んだという。また開山は岩本実相寺を開いた中
老僧日源とする。寛永年間(一六二四−四三)、日長は三代将軍家光・英勝院の
外護を受け寺領を拡大、寛永一八年には二万九六九〇余坪の地を拝領した。元
禄(一六八八−一七〇三)になり、『江戸名所咄』(元禄七年=一六九四)には「寺
内は広大にして本堂の前に五重の塔あり、鐘楼経堂三十番神左に立給ふ。坊舎も
二十余ケ所あり」という程で、当宗不受不施派巨刹の寺院であった。寛文年間(一
六六一−七二)に入り、徳川幕府は、不受不施派を抑圧。寛文五年の時は、当寺
日純は、寺領が悲田供養(仏法による慈悲)であるとの立場を取って存続したが、
元禄一一年(一六九八)一一月、幕府は悲田派を禁じた。その結果、当寺は天台
宗に改宗され、日遼・日饒は配流された。天保四年(一八三三)一一代将軍家斉
の時、日蓮宗に帰属させる達書が提出され「感応寺」という寺号のみ存続された。し
かし天台宗側は、この達書を受入れず、その結果天保四年一二月一七日「護国山
天王寺」に改称された。天保五年五月に至り、将軍家斉・中野美代の外護により雑
司谷安藤下屋敷(目白四丁目・二万八六〇四坪)に新感応寺が建立された。真間
山弘法寺と同格で、開山は池上本門寺四八世日萬であった。しかし天保一二年に
新感応寺も廃寺処置が講じられた。これが世に言う「鼠山感応寺」である。天王寺
境内には、本宗に関係し現存するものに元禄三年日遼代鋳造の大像あり。また歴
代墓碑があり、それには開基日源・初祖日耀・二世日嘉・三世日昌・四世日春・五
世日隆・六世日運・七世日進・八世日圓・九世日長・一〇世日妙・一一世日誠・一
二世日純・一三世日映・一四世日饒と刻まれている。《『東京都社寺備考』、『江戸
西北郊郷土誌資料』、『本化別頭仏祖統紀』、宮崎英修『禁制不受不施派の研
究』》


日純(にちじゅん)

(1624〜84年)谷中感応寺九世領玄院日長の資で同一二世を継ぐ。並びに感応
寺一三世日映の弟子日員が伊予宇和島に創建した妙長山法門寺の開山祖となっ
ている。寛文六年(1666)「感応寺縁起」を記す。感応寺は碑文谷法華寺の末寺と
して不受不施派に属していたが、寛文五年の御朱印再交附に際して日純は、碑文
谷法華寺日禅や小湊誕生寺日明と行動を共にし、朱印寺領を慈悲供養、悲田供
養として受取った。これがために信徒の不評をかうこととなり、寺は徐々に衰退し始
めた。あたかも日純在山時代は、隆盛の頂点から衰退への過渡期に当っていたの
である。

  (『日蓮宗事典』)