2.誌上法話(テキストファイル)

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  1. 誌上法話(テキストファイル) 『生きる』ということについて
  2. 友よ幸福になってくれ 「衣裏宝珠の話」
  3. 12月8日は 仏教「誕生の日」です
  4. たらいの水
 

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誌上法話(テキストファイル)    『生きる』ということについて

 メールボックスに、Iさんより、『生きるとは?』・『人間やその人生とは?』とい
うことについて、お話しを聞きたいとありましたので、少しくそのことについて書いて
みます。

 日蓮聖人のお言葉に「人身受けがたし,仏法にはあいがたし」というのがあります。
よくよく考えれば,牛馬や鳥や象や虫ではなく,私たちが人の身として生まれたことを
不思議に思うことがあります。
 その生まれがたい人の身に生まれたから,ただちに私たちは「人間」になったという
わけではありません。「人間」としての心や生き方を持つことによって,はじめて人は
「人間」になれるのです。

 人はなぜ生まれてきたのでしょう
 それはなぜ生まれてきたのかを知るためです

 命の尊さ,出会いの大切さ,苦しみや喜びや恐れや感謝や善悪を知り,真実とは何か
を探求するためです。
 本来私たちは「生きとし生ける者を哀れみ,助け合うため」(法華経法師品)に人間
に生まれてきたのです。その真実の生き方を示されたのが仏法であり,法華経なのです。

 あらゆる生物の中から人間に生まれ,たまたま仏法に会うことはむずかしいことで
す。たとえ仏法に会えても,この上なく深い教えの法華経に出会うことはもっとむずか
しいことです。
 それは「この経(きょう)は甚深微妙(じんじんみみょう)にして諸経(しょきょ
う)の中の宝,世に希有(けう)なる所なり」(法華経提婆達多品)といわれているほ
ど,めったに会えない、尊く珍しい宝珠、それが法華経だからです。
 お釈迦様は,「甚深微妙の法を私はすでにそなえ得た」と宣言され法華経を説かれま
した。
 私達は今人間に生まれ,法華経に出会い,お経(きょう)の文字を見聞きして,真実
の教えを受けたもつことができました。お釈迦様が私達を救おうとされているみ心にふ
れ,その姿や声を見聞きすることができたのです。
 法華経に出会った「ありがたさ」をかみしめながら,「どうかお釈迦様の説かれた第
一のすぐれた教えを信じ習いきわめることができますように」(開経偈の意味)と心か
ら誓願を立て,法華経の正しい教えを理解していくことが大切です。

 日蓮聖人は,「仏の御意あらわれて法華経の文字となり,文字は変じてまた仏の御意
となる。だから法華経を読む人は単なる文字と思ってはならない。そのまま仏の御意と
思わなければいけない」と述べられています。
 法華経の功徳は平等です。法華経は平等に救う教えなのです。知恵のある者も,ない
者もわけへだてはありません。これまでおかしてきたあらゆる罪をなくし,善い心をお
こさせます。

 法華経を信ずる者も、また法華経をそしる者も,この法華経の限りない功徳に包まれ
ることによって,ともに仏に成る道をなしとげることができるのです。
 過去・現在・未来その三世にあらわれたもろもろの仏様は,いずれも法華経を悟って
仏に成られました。日蓮聖人は「法華経は釈尊の父母,諸仏の眼目なり」といわれまし
た。 一切の仏を生み出した深い教えが法華経です。法華経に出会えた喜びを忘れるこ
となく,法華経を読み,御題目を唱えて信仰していきましょう。
 

  『仕事について』
 日蓮聖人は、『妙法尼御前御返事』の中で、次のように述べておられます。
「日蓮は、幼少の時から仏法を学んできたが、念願することは、人の寿命は、無常であ
り、はかないものである。賢い人もおろかな人も、老人も青年も、順番などなく、いつ
生命を失うか解らない。だから人はまず死に対する心構え、悔いのない生き方の道につ
いて教えを受けて、その後に他のことを学ばなければならないということなのです。」

 私たちは、食べるために働いているのではありません。
 人としての、尊い生き方をするために、その身を養い、働くのです。
 仕事は、私たちの目的ではありません。生きていくための手段です。
 仕事が忙しい忙しいといって、尊い生き方の教え=仏法『法華経』を知らないで、人
生を終えてしまってはもったいないと思います。
 たとえどこの職場にいても、他を大切にする生き方を学んだ人は、生甲斐を持ち、他
から尊敬され、明るい人生を歩くことができます。

 『大霊界』の映画ではありませんが、自分が何をするためにこの世に生を受けたのか
考えると、この人生を粗末にできません。

 『華厳経』という御経の中に「心は絵師のごとし」とかかれています。
心は、絵描きさんのようなものです。どんなふうにもかくことができると言うのです。
同じ出来事に出会っても、心の持ち方一つで、幸せにも・不幸せにも感ずることができ
う。何事にも感謝して暮らしていけば、人生は明るくなり、人もまたたくさん集まって
きます。
 人生百年。長いようで短いもの。尊い仏法に少しでも多くふれあって下さい。

                             妙光寺住職 宮淵泰存

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  1.   友よ幸福になってくれ 「衣裏宝珠の話」 『法華経』五百弟子受記品第八より)

 ある所に大変貧乏な男がいました。あるとき、その男は友だちを訪ね、そこでたいそう
ごちそうになりました。男はお酒を飲んでいるうちに酔いつぶれてしまい、眠り込んでし
まいました。
 友だちは、わざわざ訪ねてきてくれたこの男をどうにかして救ってやりたいと思いました
が、どうしても用事があり、出かけなければなりませんでした。そこで、少しでも役立てても
らおうと、眠り込んでいる男の着物の裏に、大変高価な宝石を縫いつけてやりました。

 男は、酔いがさめると、宝石が着物の裏に縫いつけてあることなど、まったく知らず、友
だちの家を去り、またあてもなく、あい変わらず仕事を探しては、苦しい生活を続けました。
 それからしばらく後、男はぐうぜんにも、先日ご馳走をしてくれた友だちと道でバッタリ会
いました。友だちは言いました。
 「何だ、君はまだそんな苦労をしているのか。
私は、君にご馳走したあの日、君が一生、幸せに暮らせるようにと、君の着物の裏に、た
いへんに高価な宝石を縫いつけておいたんだよ」
 友だちに言われ、男は自分の着物の衿の裏に手をあててみました。そしてはじめて、縫
いつけてあった宝石に気が付きました。
 「全く知らなかった。なんてことだ。本当にありがとう」男は友だちの気持ちに感謝し心か
らお礼を言いました。
 【注】ご馳走した友だちは、お釈迦様です。貧しい男は、私たちのことであり、縫いつけ
てあった宝石こそ『法華経』なのです。
                       
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12月8日は 仏教「誕生の日」です

 大乗仏教では,この日を「成道会(じょうどうえ)」と呼び,お釈迦様が正覚(悟り)を開いて
ブッダ(仏陀)に成られた記念日としています。いわば仏教の《誕生の日》といえる大事な日
なのです。

 今から二千五百年の昔,ヒマラヤの山麓を領していた釈迦族のスッドーダナー王の子とし
て, お生まれになられたお釈迦様(ゴータマ・シッダールタ太子)は,恵まれた王宮での生
活ではありましたが,〈人生の苦〉を感じて二十九歳の時,出家しました。やがて滅びるであ
ろう弱小の国の王になることをやめ,名誉を捨てたのです。そして,とうとう全ての人々が救
われる教えを開かれました。

  お釈迦様出家の動機

 シッダールタ王子「なぜ人は苦しみ,悩まなければならないのだろう。なぜ生まれ,なぜ死
ぬのか。この世を正しく生きる道はないのか……。救われる道はどこにあるのだろう……」 
 王様は,考えに沈む王子の心を明るくしようと,毎日パーティを開きました。けれど
王子「この楽しみはつかの間にすぎない。あの美しい姫たちもやがては年をとり,ついに…
…」
ヤショウダラ妃「王子様,楽しゅうございましたか」
王子「ありがとう,ヤショウダラは楽しそうでよかった」
妃「王子様もお楽しみください。この世を楽しく暮らしましょうよ」
王子「いや……楽しいのと幸せということは同じではないのだ」
妃「王子様はお幸せではないのですか」
王子「人の幸せはうわべだけでは解らないよ……心の中に悩みがあるのだ」
妃「でも王子様,皆幸せそうに暮らしています」
王子「いや……それは夢を見ているようなもの,本当に生きていることではないのだ……う
かうかとその日暮しをすることはまるで古井戸におちた旅人みたいなものだ」
妃「それはどんなことですか」

王子「昔ある旅人が旅をしていると,大虎に追いかけられました。逃げて行くうちにいい具合
に古井戸があったので,その旅人はつるにつかまってその中に隠れました。虎は降りてこら
れませんが,自分も出ることができません。目を凝らしてみるととても深い井戸です。つるに
つかまったままで廻りを見ると食べられそうな実がありました。この実を食べて飢えをしのい
でいると,上では2匹の鼠がそのつるをかじっています。白い鼠が昼間で,黒い鼠が夜です。
鼠たちが人の命のつるをかじっているのに旅人は何も知らず『そのうち何とかなるだろう……
この実でも食べておこう』とのんきなことを考えています。その旅人の命のつるはいつ切れる
かわからない。つるが切れたらはてしなく暗い世界(未来のこと)におちる。この旅人と私達は
同じ者なのだ」
妃「まあ何と恐ろしいことでしょう」
王子「だから私はどうすべきか,それを見つけたいのだ。けれど私一人がその迷いから目覚
めたいと思うのではないのだよ。その道を求めたらこの王国の人々はもちろん,全ての人々
が救われるのだ……」
 そして,お釈迦様はみごとに世界中の人々を永遠に救う教えを悟られたのです。

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  1.   たらいの水

たらいの水を
かきよせれば

水は向こうへ
回ってしまうように

自分のことだけを
考えている人は

幸福をついに
取り逃がしてしまうだろう

まず 人を幸いに
してあげるように努めることだ

そうすれば 人が
幸いになると同時に

自分もいっしょに
幸いを得ることができる
  (身延山法主 岩間日勇猊下の御言葉)
 

  環境も自分の持物です

人は転ぶと石のせいにする
石がなければ坂のせいにする
坂がなければ靴のせいにする
人はなかなか自分のせいにしない

 誰が言った言葉か忘れてしまいましたが、なかなか私達の姿をよく言い当てているような
気がします。
 お寺に来られる方にも、二とうりの人があるような気がします。

 昨年の暮れ、「おっしゃんいるか。護持会費持ってきた。」と言って訪ねて来られた方が
ありました。普通だったら「ごめん下さい」と言っていくぶん頭を下げながら入って来る方が
多いのですが、その方は逆に少し後ろにそっくり返っていました。私も、まだ人間ができて
いないため、「いるか」などと言われるとすこしムカッとしたのですが、そこは抑えて「はい、
おります」と言って応対しました。

 そこで世間話が出るのですが、その方は「近頃の若いものは……」から始まって、「家の
嫁は返事が悪い……動作がのろく……」、「隣の○○は……」等々、次から次と人の悪口
が出てきます。この方にとって世の中の人は全て悪い人なのでしょう。
 あまりに回りの人を悪く言うので、かえって人から煙たがれて、人から粗末に扱われたり、
無視されたりするのではないかと思いました。

 この方とは逆に挨拶のとても丁寧な方もいます。「こんにちは、いつも大変お世話になり…
…」この辺でいいと思って頭を上げると、その方はまだ頭を下げているので又頭を下げる、
三回くらい頭を下げてやっとつりあうくらいでした。私も最近は覚えてこの方には丁寧に挨
拶をするようになりました。行事の時など見ていますと、他の人には簡単に挨拶する人も、
このおばあさんには丁寧に、又きれいな言葉を使っています。このおばあさんは「嫁にはと
てもよくして貰って……息子はよく働くし、孫が優しい……」、「あの方はとてもよくお寺のお
手伝いをなさっていい方ですね……」等々、いつも人をほめています。そして「世の中には
いい人がいっぱいいますね。この間荷物がいっぱいあって駅で階段のところでひとやすみ
していたら若い人がやってきて改札口まで一緒に持ってきてくれました」と言いました。

 このおばあさんの感謝する心が相手に写り、相手の人が(その人が持っている)優しい心
でこのおばあさんに接するのだと思います。かくして「世の中の人は皆いい人だ」とおばあさ
んは言うのです。
 

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