Saddharma mail  1


平成8年頃からsaddharma mailというメールマガジンを檀家の方などへ発信しています。内容はお寺の出来事、社会の出来事に対する感想、ちょっとした法話等々。住職の100l勝手な言いたい放題です。


Saddharma Mail from HOUZENJI NO.71 2005.5.19

4/5東部中学の入学式に出席した時に校長先生が下記の言葉を式辞に引用していました。

十有三春秋 逝者己如水 天地無始終
人生有生死 安得類古人 千載列青史

十有三春秋。 逝く者はすでに水のごとし。 天地に始終なく。
人生に生死有り。いずくんぞ古人に類して。千載青史に列するを得ん。

頼 山陽が13歳の時の作で略訳は「あーもう13歳になってしまった。時は水のようにながれて再びは帰ってこない。天地は無限の広まりがあるが、人生には必ず終わりがある。過去の偉人のように歴史に名を残す事ができるだろうか。是非にもそのようになりたいものだ」
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『問題な日本語』 北原保雄 編  大修館書店 八〇〇円 「法善寺だより」の再録です。

 最近の横文字・カタカナ語の氾濫には大いに憂うべきものがあると思い、折にふれて苦言を呈しているが、「首を傾げたくなる日本語もなんと多いものか」と思っていた時に書店で見た本です。
 高尚なる・奥行きのある美しき日本語の大切さは、新聞等にても論説されているところであるが、身近な言葉も怪しくなっている。暇なときに日本語の再発見をしましょう。164頁ですが1時間で読了可能です。

 レストランで…「こちら〜になります」「〜でよろしかったでしょうか」「〜の方をお持ちしました」…。
 若者のの会話で… 「私って〜じゃないですか」「私的には〜です」「なにげに〜」「きもい、きしょい、うざい」…。
 誤用の例では「やむおえない」「こんにちわ」…「おざなり」と「なおざり」の混同。
 雰囲気「ふんいき」を「ふいんき」と思い込んでいる高校生が何と四割は驚き。ワープロで「ふいんき」と入力して変換できずに苦情を言うは論外!
 敬語の「お」と「ご」については認識を新たにしました。通常「ご連絡」と言うが「お連絡」とは言わない…その理由は?。《漢語(中国より来たって日本語になった言葉で、字音で読む語)には「ご」を冠し、和語(日本固有の言葉で字訓で読む語)には「お」を冠する》のが原則であるそうです。「ご記入」「ご家族」「お一人」「お体」等々。但し、変則的に使用されているものも多いようです。例えば「ゆっくり」は和語であるので「お」を冠するべきですが「ごゆっくり」。「時間」は漢語であるので「ご」を冠するところであるが「お時間」等々。 
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小泉内閣メールマガジン184号[大臣のほんねとーく]より。

● "もったいない"の心を世界へ(環境大臣 小池百合子)

 "もったいない"という言葉を忘れていませんか?

 先ごろ、ノーベル平和賞を受賞されたケニアの環境副大臣、ワンガリ・マータイさんが来日されました。そのマータイさんが「私は来日初日のインタビューで"もったいない"という日本独特の言葉を知った。私の一番の関心である資源の持続的活用を訴える上で探し求めていた言葉に出会った感動の
瞬間だった。」と語られたのです。さらに、マータイさんは、翌3月にニューヨークの国連本部で開かれた会議では、"MOTTAINAI"をみんな唱和しようと呼びかけました。

 私たちは、このアフリカからいらした一人の女性を通して、もう一度"もったいない"という日本語の重要さ、すばらしさに気付きました。

 "もったいない"という言葉は、"そのものの値打ちが生かされず、無駄になるのが惜しい"ことを意味します。そこには、自然を愛し、物の量よりも質素さや風雅さを好む日本人の心が凝縮されています。ものを大切にする日本の心とともに、これまで我が国が一生懸命に育んできた環境をよくする
ための社会の仕組みや、それを支える環境技術を世界へ広げていきたいと思っています。

 そのきっかけにと考えているのが、3Rです。3Rとは、ごみを減らし(Reduce)、使えるものは繰り返し使い(Reuse)、ゴミになったら資源として再利用(Recycle)を進めることをいいます。

 3Rに取り組むため、4月28日から30日にかけて東京で「3Rイニシアティブ閣僚会合」という国際会議を開きます。この会議は、昨年のG8首脳会議で小泉総理が3Rを世界的に進めようと提案されたことに端を発しています。

 今後、世界的に資源需要が急増し、いっぽうで廃棄物の大量発生が見込まれています。水や大気、さらには地球環境に対する影響が悪化する心配もあります。またリサイクル資源や廃棄物が国境を超えて取引されるケースも増えており、近隣の国々との間のトラブルも起こっています。

 先進国、開発途上国、国際機関は、お互いに協力して、こうした問題を解決するための処方箋をつくらなくてはなりません。特効薬はないのかもしれませんが、世界の人々が3Rを進め、地球をいたわるようになれば、長い目でみれば大きな進歩につながると思います。閣僚会合がその一里塚になるよう、リーダシップを発揮して取り組みたいと考えています。 
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長野県の日蓮宗寺院会では、毎年夏休みに青少年の健全育成を願って、一泊で仏教合宿を実施しています。近年の少年問題の底辺に、正常な精神教育の欠如があることは、多くの人々が既に承知している事であり、家庭・学校・地域等の大きな問題であります。一口に精神教育と言っても、人間は社会の中で生きているのですから、倫理道徳はもちろんの事、社会構造の変化、経済生活の変容、個人と地域関係の変化等々、実に多用な側面を持っています。

そして、宗教的情操も大きな関わりを持っている事も事実でありましょう。神仏の前で理屈ではなく、謙虚に自然に手を合わす事は、将来は必ず人の心を、そして命を大切にする事につながるものと信じています。

今年もかような事を信じて仏教合宿(少年少女学園と言っています)を下記にて開催いたします。地域寺院合同開催ですので、1ヶ寺の参加割り当ては少ないのですが、子供さん・お孫さんに参加をおすすめ致します。

期日 平成17年7月29日〜30日 一泊。
会場 佐久穂町「高明寺」及び「臼石荘」
会費 5.000円
職員 地域寺院住職及び若い僧侶。
申込 当山の割り当ては3名程度ですので、ご連絡は早めにお願いいたします。資料をお送り致します。尚、友達を誘っての参加も歓迎します。
対象 小学校2年以上中学2年まで。

日程内容の一部をご紹介します。
ごく簡単な仏前作法。お経も少し読みます。ビデオ等による仏教のお話。花火等の遊び等で仏教の合宿と言っても厳格なものは一切ありません。団体生活が苦手の子供さんも若い坊さんがしっかりとサポートしますので、ご心配にはおよびません。

昨今は子供も学校の合宿や塾で多忙のようですが、永い将来のこのわずかな日々は大きな財産となる事と信じていますので、是非ご検討下さい。

 蔵の宝より身の宝 身の宝より心の宝すぐれたり。
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Saddharma Mail from HOUZENJI NO.72 2005.6.16

我あえて汝等を軽しめず、汝等みなまさに作仏すべし。 法華経 常不軽品

意訳
「私はあなた方がどんな人でも、どんな立場でも、たとえ悪人と云われる人でも、決して軽蔑したり見下したりはいたしません。何故ならば、全ての人は仏様になることができるからです。」
………………………………………………
お釈迦様のお弟子の中に、「私は、あなたを尊敬します。決して軽んずるような事はいたしません。あなたは、やがて菩薩の道を修行して仏様になるでしょう」と云って、どんな人にでも合掌礼拝をしている修行者がいました。この修行者はお経を読んだり、勉強をしたりはしないで、ただひたすらに人々に対して合掌礼拝をしていました。

ところが、これを聞いた人の中には「この坊さんは何を云っているのだ。皆が仏になるなんて信じられるか」「人殺しや奴隷が仏になれるはずはない」等々と云う人がいて、石を投げられ棒で打たれたり罵られたりもしました。が、この修行者は決して怒らず、少し離れた所からその人たちに向かって合掌礼拝をしていました。この修行者は、その行いから常不軽ジョウフギョウと名付けられました。
……………………………………………………
あらゆる人間を、人間として、心から尊重し尊敬する態度は、まさに民主主義の基本である。常不軽
の態度は徹底した人間尊重主義とも云える。多数決を民主主義と錯覚している現代の民主主義と側面を異にした人間尊重精神の民主主義である。

常不軽が合掌礼拝したのは、万人に普遍的に存在する「仏性」に対してであり、仏性への信仰である。仏性については「法善寺だより」またこのメルマガでも少しく記しているところですが、全ての人が持っている「仏の種」「仏の因」ともされるものです。常不軽は、どんな人でも持っているこの光り輝く仏性に対して尊敬の念をもって、そして、万人が仏性の存在に気づくことを願って合掌礼拝をしたのです。
……………………………………………………
目には目を・毒をもって毒を制すの考えではなく、毒さえもそれを大きく包んで無毒にする人間尊重の考え方です。恨みによって恨みは決して解決せず、それは恨みの連鎖を生むのみ。世界の戦争・紛争、人間界の争い…仏教は既に結論を出しているのですが……。。。
………………………………………………………
宮沢賢治は詩人・小説家でありますが、熱心な法華経の信仰者でもありました。この宮沢賢治に「常不軽菩薩」という詩があります。心して読みたいものです。

あらめの衣 身にまとい 城より城をめぐりつつ 
上慢四衆の人ごとに 菩薩は礼をなしたもう。

われは不軽ぞ かれは慢 こは無明なり しかもあれ
いましも展く法性と 菩薩は礼をなしたもう。

われ汝等を尊敬す 敢えて軽賤なさざるは 
汝ら作仏せん故と 菩薩は礼をなしたもう。

ここに我なく彼もなし ただ一乗の法界ぞ 
法界をこそ拝すれと 菩薩は礼をなしたもう。 
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15日の朝、車のラジオを聞いていると(TVの音で)「現代社会でがんばっているお寺」とか云うコーナーが聞こえてきました。運転中ですのでよく聞きませんでしたが、あるメルマガに一部が紹介されていましたので以下転写します(無断で転写してもいいのかなー?)


現在、変化する社会環境の中で寺院が厳しい現実に立たされており、これからの寺院のあり方について多くの僧侶が苦悩しているという問題提起がなされていました。
この問題提起が、「お坊さんたちが苦悩する──人の集まるお寺のつくり方」というタイトルにあらわれています。
          ◇◇◇◇
番組の構成としては、一般の人への街頭インタビューや統計などによって、現代の寺院が危機にたたされていることが述べられ、続いて、「生き残りをかけて様々な挑戦をしているお寺」のルポが写されるというものです。

街頭インタビューでは、「お葬式がある時、法事がある時、そんなくらいでしょ」「信仰心無いもんね」といった話をする人ばかり取り上げられていて、少々、いやな気持ちになりましたが、ルポでは、
真剣にお寺の将来を考えて活動する寺院が取り上げられていたので、視聴者にも、「お寺もけっこう頑張っているな」ということが伝わったのではないかと思います。
          ◇◇◇◇
ひとつは、東京都神谷町のオフィス街で、境内に無料でお茶を出すフリースペースをつくり、誰でも自由にくつろぐことのできるよう工夫している寺院(浄土真宗本願寺派光明寺)です。
そこでは、たくさんのサラリーマンやOLが、昼休みや営業の途中で、弁当を食べたり、お茶を飲んだり、パソコンで仕事をしたりしていました。
寺側としては、まず多くの人に親しんでもらうという趣旨で始めたようで、こうした活動を契機として、さらなる展開を考えているようです。


もうひとつは、新潟県月潟村で、毎日、放課後の子どもたちに勉強、書道や礼儀を教え、休日は境内でいっしょに遊ぶという、昔ながらの「寺子屋」を復活させた寺院(真宗仏光寺派梵行寺)です。
当初は、10人ちょっとで始めた寺子屋だったのですが、現在では約60人の子どもが、入れ替わり立ち替わり境内で過ごすようになったそうです。
          ◇◇◇◇
こうしたお寺の取り組みが放送された後、キャスターやゲストがいろいろなコメントを述べています。
特に印象に残ったのは、タレントのピーコさんの「お寺が人が来るのを待ってちゃダメよ。自分から出て行かなけりゃね」。という発言です。
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ピーコさんがおっしゃるように、現代の寺院の問題の多くは、寺院が一般の社会との接点を失ってしまったことに起因しています。
そして既に社会の側は、あえて寺院と接点を持とうとはしていません。だからこそ、寺院の側から、社会に対して働きかけをしていかなければならないと思います。そうしないと、これからますます寺院の存在は、忘れられてしまうでしょう。
          ◇◇◇◇
ただ、こうした番組で、お寺が取り上げられるということは、まだ、社会には潜在的にお寺に対する期待感があるということかもしれません。
この期待が、完全に無くなってしまわないうちに、寺院は社会との接点を取り戻さなければならないと思います。
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今年も6月中旬となり、新緑もだいぶ色を増して夏の色になりました 。お寺もそろそろ御施餓鬼8/3の準備に入りつつあり、例年の事ながら寺務忙殺の時です。住職になってから20年以上になりますが、年回の書き出しをしながら、戒名を書きながら、その方の顔や声、いろいろ聞いた話を思い出しています。

皆んな懐かしさがこみ上げ、心の中でそっと云います「娑婆に残っている方はみんな元気ですよ」でも、こんなことも思います「あの家の人は最近顔を見ないがどうしたのだろうか」「変な噂があるが大丈夫かな」そして、お願いするのです。「先に逝った方は責任あるのですよ!残った者を見守っている!どうか頼みますよ!!」と。。。
NO71 05.5 NO72 05.6   NO73 05.10 NO74 06.3 NO75 NO76
NO78  06.11 NO79  07.2.6 NO80 06.4.23 NO81 07.5 NO..82.83 .NO.84
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Saddharma Mail from HOUZENJI NO73. 2005.10.14

ご無沙汰しています。いつの間にか夏が過ぎ、初秋の気配があったと思ったら既に10月。そろそろ暖房の心配をする時期、灯油もだいぶ値上がりとなっているので、灯油節約の算段をと思っています。 ***********************************
立正大学社会福祉学部10周年記念の会が長野にあり、縁があって参加しました。その中で、卒業生で目下、子育て支援活動をいろいろな所で展開している鈴木 翼さん(20代の若い方)のお話と歌がありました。その中の一つの歌が、子育てで悩んでいる方にとって、ホットするものがあると思ったので以下に紹介します。

タイトル「ゆっくり ゆっくり」作詞・作曲 すずき つばさ

完璧じゃなくていいよ 肩のちからぬいてごらん
ちょっぴりほほえんでごらん

失敗いたっていいよ 無理しないでいいよ
だいじょうぶ だいじょうぶ あせらないで

気づかない間に進んでいるんだ
できなかったこともほら いつのまにかできてる

ゆっくり ゆっくり 前を見て
ゆっくり ゆっくり 一歩づつ
ゆっくり ゆっくり 前を見て
ゆっくり ゆっくり 一歩づつ

比べなくたっていいよ 誰かと自分を
ちょっぴりほほえんでごらん
競わなくたっていいよ 自分は自分でいいよ
だいじょうぶ だいじょうぶ いそがないで

あなただけにしかできないことがある
あなただからほら できることがある

ゆっくり ゆっくり 前を見て
ゆっくり ゆっくり 一歩づつ
ゆっくり ゆっくり 前を見て
ゆっくり ゆっくり 一歩づつ
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子育てでなくても、何か希望を見失っている時、今の自分の心をそっと包んでくれる優しいものを感じませんか。内容は誰れしもが納得するものですが、声に出して読んでみると、心が温かく少し余裕が生まれるような気がします。

然し。。。「ゆっくり」「比べない」「競わない」という事を現代の社会は認めてくれていない、そんな事は「落ちこぼれ・負け組」の言い訳。「ゆっくり」も小学校入学までの事、やるべき時にやるべき事をすべき。。。。という声が聞こえてくるようですが、そうしようと思っていてもできない人がいた時、こんな気持ちでソット肩をたたいてあげたいものです。
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長野県宗務所でホームページ開設をリードしているので、当山も大急ぎでなんとかアップしました。お寺でHPを開いても、そんなに更新する情報が多いわけもなく、ある程度形になったらそのままになるかも知れません。寺の布教面でもその力は微々たるものであるかも知れません。しかし、寺も社会の中の公益性をもつ法人である以上、理屈では檀信徒だけの存在であったはならない。でも、檀信徒以外の不特定多数を対象とした法人活動は、どの寺でも可能というわけにはいかないのが現実。この面でHPは多くの人に(見てもらえればですが)寺の存在をアピールできる格好の道具となります。

こんな理由でとりあえず開設したのですが、時々のぞいて見て下さい。今のところ少しずつ動かしていますので多少の変化があるかも知れません。他のものと比べてこのHPはここが違うんだよ。。という事ができたら・・・またお知らせします。いつになるのか。。。。。
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今年も法善寺仏教セミナーを下記の通りに開催します。お誘いあってご参加下さるようお願い致します。

期日 平成17年11月19日(土)                      
会場 東御市田中「平安閣 みまき会館」 電話0268-62-3222      
時間 12:30 受付  17:00まで。 その後懇親会(希望者のみ)    

第1講義 「未来を見つめて−社会に於ける諸問題・子供達を中心にして」
    講師 中田宏先生 丸子町 経蔵寺住職 家庭児童相談所主幹
                    
第2講義 「子供は親のいう通りにはしないが、する通りにする。・・ と云うけれども」
    講師 中沢要良先生 千曲市 法輪寺住職 児童福祉施設「恵愛学園」理事長 

中田先生は永年の教員生活と養護児童施設の中の体験を通して、子供達の未来と大人との関わり合いについて。 中沢先生は児童福祉施設の現況の中に見る子供と大人、大人の責任について。

お二人共に現代社会が将来に対して深刻に考えるべきテーマでお話を頂きます。青少年問題は全ての大人が真剣に考えるべきこでありますが、実状は漠然とした事が多く、何が起こっているのか(マスコミ報道の水面下で)、 何をすべきなのか。ある意味で我々は傍観者ではありませんか?

しかし、いつ我が家庭の中に起こっても不思議ではないのが現代社会です。子供達の未来のために、未来の子供達のために、大人達は何をすべきでしょうか。真剣に考えてみましょう。先に生まれてきた者の責任として。!!
      
今回のセミナーは必ずしも宗教的帰結を求めているものではありません。両先生の訴えを真剣に聞くべきである思い計画致しました。どうぞご参加下さい。

参加費は無料ですが、親睦会参加の方は3000円当日御負担下さい。
参加ご希望の方は懇親会参加の有無と共に御一報下さい

Saddharma Mail from HOUZENJI NO.74 2006.3.4


たいへんにご無沙汰しています。73号は去年の10月でしたから5ヶ月ぶりのメルマガで申し訳ありません。昨年の暮れから岐阜、名古屋、三重へと何回も会議等にて出向。暮れの名古屋は最悪でした。ちょうど22日で名古屋大雪の日・・いつもは車での出向が多いのでしたが、この日はさすがに電車。長野行きの特急「しなの」の最終が19時でしたが乗れずにアウト。

会議場6時にタクシーを頼んだのですが、待てど暮らせど来ない。。。「バスの方が早いよ」の声でバスに飛び乗ったが、雪のため渋滞しバスもストップ。。運転手さん「お急ぎの方、次のバス停で地下鉄に乗り換えて下さい」それでっは地下鉄に乗り換えたのはいいのですが、なにせ田舎者で名古屋の地下鉄なんぞは初めて・・・ホットして行き先を見ると
何と「名古屋港」・・・行き先に名古屋とあったのでてっきり名古屋駅と勘違い。あわてて側にいた女の子に乗り換えを聞いて何とか駅に到着。

到着したのはいいが、既に「しなの」最終は出発して、東京回りの新幹線の手段のみ。しかし、これも雪(この時の雪は関西中心)で新幹線も軒並み1〜2時間遅れ、時刻表はあって無きがごとし。何とかなるさとホームの東京行きの新幹線に乗った。 ゴトリと動き始めたのは7時20分ころか。気が付くと夕食ぬきで無性に腹がへった。車内販売もあてにならず、イライラしても仕方がないと、少々難解な本を引っ張り出して読み出した(多分眠くなって東京まで寝てしまうと思って)。

ウトウトしていると「お忙しいしころ恐縮ですがしばらく停車いたします」の声。ナニッ!雪の中を驀進してきたので、列車についた雪を落とすとの事。何だそんな事かと思ったが、「まてよ・・長野新幹線の最終は?」と不安になり、携帯で調べ始めた。最近は時刻表なしでも携帯電話でわかる・・尤も子供達から教えてもらったのだが・・。最終は10時4分とでた。間に合うか?時刻表通りの運行でないのでなんだか解らない。もう15分も停車している。。。だめだったら東京泊まり、東京の方が名古屋より心強いなぞと時計とにらめっこの空元気で深夜の東京駅に着いたのは10寺少し前。何とかセーフ。

駅弁も車内販売も立ち食いソバもなし。腹へったのお粗末。。。。長い一日だった。。。
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図書の紹介。これは檀家のMさんに紹介されたもので「法善寺だより」にもに掲載しました。
『気象大異変−人類滅亡へのカウントダウン』 船瀬俊介 著 リヨン社 2005.5
¥1600
誰しもが感じている「何だか天気・気象がおかしい…」世界的な異常寒波、熱波、集中豪雨、洪水、巨大ハリケーン等々… 。そして我々はそれが人類が引き起こした地球温暖化が大きな要因であることを知っている。しかし、漠然とした危機感はあるが、大きな現実の危機であるとはなかなか認識できない。本書は温暖化の因、その結果としての諸現象を世界の信頼できる情報を基に分析報告警告している書である。

著者は消費者・環境問題を中心とした評論執筆家であり、かなりショッキングな警告と緑化とエコロジーの重要を世に問うている。

都市の過熱地獄、電力不足の大停電、殺人熱波、極寒地獄、食料水不足で飢餓世界、食料戦争、砂漠化、北半球の亜熱帯化等々、目次の周辺を見ただけでも恐ろしげな文字が並び、話半分と思ったがかなり信頼できるデータが並ぶ。特に本書冒頭に記される「ペンタゴンレポート」には驚かされる。

云うまでもなくペンタゴン(米国防総省)は世界で最も情報に優れ、何よりも米国の国益を優先とする組織であるが、このペンタゴンが、テロよりも米国にとって驚異としているのが異常気象・温暖化であると報告している。 Day after tomorrowという異常気象のパニック映画がありましたが正にその通りの報告。(先にこの映画も見て、その後にこの本を読んだので何とも説得力がありました)

「…2020年まで続く未曾有の異常気象こそ、今後我が国、更には世界各国を苦しめて最も深刻な問題となり…温暖化によりヨーロッパ主要都市は水没、世界はパニックに陥り無政府状態となり、気象災害と戦乱で数百万人が犠牲になる…」 更に驚くにのは、この報告書は2003年10月のものだが、このレポートは公表されずに封印されてしまった事、そして、2004年4月、英国の「オブザーバー」紙がこれをスクープし世界に衝撃を与えた。しかし、日本のマスコミはこれを完全に黙殺。わずかに「週間現代」」が8月に特集としてとりげたのみであった。。。
本書後半に「今できること」の部分が現代人には重い課題……。。。一読おすすめ。
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もう一冊ご紹介。『鬼刑事、僧侶になる』大島龍穏著 サンマーク出版 1600円

著者の大島氏は神奈川県警を退職まで勤めた警察官でが、縁あって日蓮宗の僧侶になった方です。永年の刑事生活の中で感じた人生感を語ったものです。
1.父の死にざまが教えてくれたこと。
2.刑事が見てきた人間の「表と裏」
3.元デカ僧侶、修行に苦労する。
4.見えなくたって、いつも青空はある。

ちなみに今年9月10日(日)に東御市文化会館で著者の大島師の講演会が地元日蓮宗主催で開催されます。詳細は後日お知らせいたしますがご予定下さい。講師を紹介したのは小生ですので(小生の顔を立てて頂き)、多数ご参加下さるようお願いいたします。
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一生空しく過ごして、万歳悔ゆることなかれ

上記の言葉は日蓮聖人が56歳の時に書かれた「富木殿御書」という文章の一節です。何とも厳しい言葉ですが、仏教を学ぶ心構えを信徒の方に示したもので、読む我々の心に突き刺さるように強烈な訴えがほとばしるようです。

 若き日の日蓮聖人は、仏教の真髄を求めて鎌倉・京都・比叡山等々の大寺にある膨大なお経(一切経)を何回も読み返し、仏教の本体は法華経にあると結論されますが、この真意探求のための壮絶なまでの学求心の中から、この言葉が生まれたのです。

「此等の意を以てこれを案ずるに、我が門家は夜は眠りを断ち、昼は暇を止めて之を案ぜよ。一生空しく過ごして、万歳悔ゆることなかれ」
《仏教の本当の心を求めるには、夜も眠らず、昼間の暇も大切にしてこの目的のために努力精進しなさい。漫然と時を過ごして、後で後悔しないように》の意味ですが、我々凡人にとっての人生そのものにも当てはまる言葉です。「人生悔いのないように」「後の後悔先に立たず」「時は金なり」等々の言葉もありますが、この日蓮様の言葉を心に銘じて過ごしたいと思います。

そして今年の大晦日に悔いる点数がどのくらいか・・・・。でも、皆んなが必ずしも今年の大晦日を迎えることができるとは限りません。一生の幕はいつ引かれるか・・・。ですから一生空しく過ごして、万歳悔ゆることなかれです。
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昨年末から池の水が出なくなってしまい、まだアウトです。鯉のいるところの水はたまっているので循環させていますが、新しい水が入らないとそろそろ危ない。今日から一日2時間ほど水道水を送水しています。 早く出てこい池の水!!

Saddharma Mail from HOUZENJI NO.75 2006.5.7



この数年の間、草取りはビーバーなどで全て刈りはらっていたのですが、今年は閑を見て昔のように地べたにはいつくばって一本一本草を取っています。理由は日本タンポポ。昨年夏、近所のある方から「お寺に日本タンポポが沢山あるので保護してください」と言われましたが、その時はあまり気にもとめず「草取りメンドウダナー」程度にしか思っていませんでした。

ところが、今年の春タンポポを見ていたら、まさに西洋タンポポだらけ、田圃のどてにあるものなどは100パーセント西洋タンポポ。境内の隅にある日本タンポポの稀少さを改めて認識した次第。以来、がぜん愛国心に目覚め?タンポポを確認しながら西洋タンポポを引っこ抜き、日本タンポポを保護すべく奮闘中です。当山のホームページにも載せておきましたのでご覧下さい。白いタンポポ(シロパナタンポポ])もついでに発見!
区別は花房のガクが反り返っているのが西洋タンポポ、そっていないのが日本タンポポ。
http://homepage2.nifty.com/omigon/herb/herbj19a.htm

どうも日本は植物も文化も外国のものが優勢で、古来からのものはどうも衰退気味で残念。
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昨年末から池の水が止まってしまいましたが、4月にようやく復活。でもまだまだというところですが、今後に期待しています。が、いつもは緑がきれいな晩霞セリは影も形もなく寂しい限り、おまけに「川鵜」なぞが時々呼びもしないのに池に来て、小魚を餌にしている様子で、怒り心頭。。
家族の絆−日蓮宗新聞 一口説法より−
 
「咲いた花見て喜ぶならば、咲かせた根っこの恩を知れ」今の私達を咲いた花と思うならば、目には見えない土の中にあって、幹や茎をしっかりと支え、一生懸命養分を送り続けている根が、我々の先祖です。
 
自然の仕組みが、我々の命のつながりを、今の自分の先祖への感謝の心を教えてくれています。
 
先日、生まれたばかりの赤ちゃんを連れて、若い夫婦がお参りになりました。お墓を掃除してお花を供え「おやじ、孫を見せに来たよ」とご夫婦は笑顔で、御先祖様に報告されていました。何とも頬笑ましい光景でした。そして、先祖からの脈々と受け継がれてきた命の繋がりをきちんと認識しているのだと感心いたしました。
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命の繋がり・連鎖が「先祖」即ち「根」であるとと言えますが、根っこに養分を供給しているのは「土」ですね。この土は無限の命を支えているところの、いわゆる「縁」とも考えられます。我々の命は、数え切れない、目にも見えない多くの縁(土)によって支えられています。ところが多くの場合、我々はこの縁を、見たり聞いたりしたところの、つまり、「知っている」縁しか認識をしないことが多いのではないでしょうか。
 
しかし、我々の直接知っている世界なぞは狭いもので、知らない無数の縁によって支えられているのです。例えはおかしいかも知れませんが、自分のこのパソコンが世界中のパソコンにつながっているようのうなもので、自分の一台のパソコンが世界中のパソコンのバックアップを受けているよなものです。
 
命を支える縁は、あなたのとなりを通り過ぎている、知らない人かも、顔を上げてちらっと見ている犬や猫かも、道ばたの花や稲穂かも知れません。自分に無関係な縁なぞはないのです。。。。。そんな気持ちで周囲を見てみませんか。きっと心が柔らかくなると思いますか世。
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御施餓鬼もお盆も過ぎて「残暑お見舞い申し上げます」。天気予報によると残暑はかなりしつこくなりそうですので、皆さん体調管理に充分にご注意下さい。たいがい「この程度は大丈夫」と自分の体力を過信しがちですが、オットこれが落とし穴かも知れません。
 
自分のことを考えても、歳は57、視力は老眼がかなりきつくなり、体力筋力も衰え気味(運動不足)、アルコールもだいぶ弱くなりましたが・・日常的にはこんなことは考えずにがむしゃらに全てを夢中になってやってしまい、あげくの果てに「アー疲れたアー疲れた」の連発。自分を知ることは難しいものです。屋根に登ることは数年前からやめましたが。。。。
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『脳を活性化する 自分史年表』 出窓社 藤田敬治監修 1050円
誰しも自分の生涯を何かの形で記録したい願望がありますが、おいそれとはできるものではありません。この本はそんな願望を一寸満たすことのできる手がかりを与えてくれています。
 
1920年(大正9)から2009年まで書くことができ、左のページにはその時の大きな出来事などが書いてあり、右ページに自分のことをかくスペースがあります。その時に自分にな何があったなどという事は思い出せないものですが、大きな出来事が既に書いてあると、少しずつ思い出すものです。
 
1955年(昭和30)の記載されているものを少し挙げてみます。
1円アルミ硬貨発行
内閣総理大臣−鳩山一郎
三種の神器(冷蔵庫・洗濯機・テレビ)
トニー谷の長男誘拐
テレビ番組−私の秘密、日真名氏飛び出す
流行歌−この世の花、月がとっても青いから、別れの一本杉、南国土佐を後にして
 
小生は昭和24年生まれ、30年小学校入学前ですのでこれらの出来事から記憶を呼び起こすことはできませんが、60代以上の方はいろいろ思い出すのではないでしょうか。先ずは、入学、卒業、就職、結婚、子供の誕生などの事から少しずつ書いてみてはどうでしょうか。
 
その時の出来事を見てじっと考えていると、記憶が少しずつよみがえってくるものです。頭のトレーニングにも最適かもしれません。例えば昭和43年の出来事には、3億円事件があり、小生の場合には。大学入学、町中パトカーだらけでビックリしたら3億円事件だった。学園闘争、反戦運動最盛期で留学生とデモに行って逃げて来た。ヘルメットの学生と酒を飲んで論争をしたがコテンパンに論破されてしまった。100円持って銭湯へ行って帰りにラーメン食べるかハイボール飲むことが出来た。パジャマの上に学生服を着て大学へ行った。。。。等々。
          
でも、これはきっと誰かが見ると思って書くもの。「あの時好きだった〇〇さんと・・・」の類
は止めた方がいいと・・・自主判断にお任せします。
Saddharma Mail from HOUZEN   NO76

Saddharma Mail from HOUZENJI NO.78 2006.11.21

11月落葉の季節。毎年この時期は「あーやだなー」と「あーいいもんだなー」の繰り返しの時です。勿論「あーやだなー」は際限なきように舞い散る落ち葉の掃除です。でも、「落ち葉はそのうちに土になるからいーや」と放っておくと、雨に打たれて掃きにくくなり、それでもほったらかしにしておくと、春になり草取りがやくにくくなる。土にするには一カ所にまとめておかなければダメ。

自然のサイクルは正直なので、手を抜くとそのシッペ返しがあるものです。故に、多少面倒ーと思ってもやるべき時になすべき事をすべき、、、、なのです。。庭掃除も植木の手入れも。そして、家庭のしつけも、教育も。。。手遅れの時が必ずあるのです。飛行機が離陸する時、滑走中に、もう止まることが出来ない地点、どんなにトラブルがあっても離陸せざるを得ない地点「ノーリターンポイント」。引き返すことが出来ない地点、時を考えましょう。環境問題や生命倫理、科学、医療の世界にも叡智に照らして、このポイントがあることを真剣に考えるべきだと思います。

「あーいいもんだなー」は、落ち葉掃き後の爽快さと清々しさ。。。でも、またすぐハラハラと散る落ち葉、、、あー無情、、、。前にも書いたと思いますが「掃けば散り 払えばまたも塵積もる 人の心も 庭の落ち葉も」をつくづくと感じながら、セッセと掃除と我が身の反省の日々。然し、掃除した後に、紅葉したきれい葉が散っている様は、「あーいいもんだなー」これも何とも言われぬ風情、、、少し負け惜しみですが。枯葉の上をサクサク、カサコソと歩くことができるのは、今は贅沢、、、これも負け惜しみ。。。。。
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先日、100歳で亡くなった方の7回忌法要があり、施主の方が個人(母上)の88歳の時の日記を見せて下さいました。ご了解を頂いておりますのでご紹介いたします(寺報)にも掲載の予定です。

朝、障子を開けると もう朝日が上がっている。
朝食をすませ さて 今日は何をしょうかなー 。
仕事始めに造花でもと思って出した。
赤、白、黄色、みどりの紙。一本出来た赤色の花。二本、三本・・・。
スイスにいる家族の数を、モルモットと家の一員だ。
今頃はみんなで何をしているかナ、来年は帰ってくる・・・・。
どんなに大きくなっただろう、子供達は。
私も9月で88歳になるんだもの。
笑う日も多々あった。
10本の指を折って数えても まだ余りある苦労もあった。
今は仕合わせ春の花。子供、孫、ヒコ孫、人もうらやましがる。
寿命のつきるまでボケたくない。
年寄りの淋しさは 若い人には分からない。
お迎えが来ても心の準備はできている。
曇りない美しい余生を送りたい。
それは心の問題だ。
こんなことを自分に言い聞かせて ことしも元気に頑張ってやろー。
よろしく。
昭和64年1月4日 88歳

88歳刀自のたんたんとした、ほのぼのとした、気負わない自然体の姿を彷彿とさせます。誰しもがこの寿命を約束されているものではないのですが、88歳で前向きに、この文章が書けること自体が羨ましいと言おうか、、、偉い!文中の「年寄りの淋しさは 若い人には分からない」は我が81歳の母を思って、少々心が痛い。
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11/19法善寺カップゴルフ大会が東御市の浅間高原カントリークラブで開催されました。寺との交流の一つとして以前より話題になっていたのですが、10月にガゼン具体的に計画が進行し、役員会及び当山青年会を中心に実施しました。

少々突然でしたので大会の周知が困難で参加者は12名でしたが、雨天にもかかわらず熱戦を繰り返したようです。小生は法務が既に予定されていたので参加不可能でしたが(ゴルフは未経験なのです)、懇親会に参加したところ大いに盛り上がり、寺の輪が一層広がった思いをもちました。「ゴルフぐらいできなきゃーだめだよ」の声しきり、、、、「はい」。 **********************************
様々な寺の研修会で「若者の寺離れ」がテーマとなり、いろいろと検討されていますが、我が寺のその理由は何か? ノーリターンポイントになる前に考えるべきと思い、ご意見を頂戴したいと思います。
1.お寺との関係は「たしなみ」程度でいい。
2.行事等参加のメリットがない。
3.年寄りになってからでもいい。
4.話が解らない。難しい。
5.寺のアプローチが少ない。
6.何となく敷居が高い。
7.葬儀・法事の時に勤めてくれればよい。
8.期待するものがない。
9.寺、僧侶に親しみが持てない。
10.閉鎖的だ。
11.信頼関係が希薄だ。等々

今後の法善寺のために、是非ご意見を頂きたいと思いますので、お暇の時にでもお考えをお聞かせ下さい。

Saddharma Mail from HOUZENJI NO.79 2007.2.6


2/3は節分でした。当山では併せて「星祭り」という法要を行いました。古今東西の占いで星座にすがるものが多いのですが、仏教でも九星というものがあります。個人の運命は個々の星座の運行に影響されるというものです。生年月日とともに多くの方の申し込みがあり、個人個人のお守りに読経祈願してお送りしています。

占いにもいい加減なものもあり、必ずしも100パーセント支持をするわけではありませんが、憂き世の中で、人力の及ばざる大宇宙の力の中に我が身を置いて、大自然と一体となり、人為でない大きな力に安心を求める事は、宗教の一側面の役割と思っていますので、善星が来て、悪星が遠ざかるようにと祈願をしています。

しかし、「厄難・困難・悲しみ・苦しみ等」はこの娑婆世界にいる限り、来るなと言っても来たってしまうものです。娑婆という言葉は古代印度語のりサーハという言葉の音写で、意味は「忍土」・・・悲しみ・苦しみ等を堪え忍ぶ所という意味です。どんなに祈っても祈願しても、厄よけをしても、困難・悲しみ・苦しみがないという事はあり得ないのです。この「忍土」に生きている以上は。。。

雑草は生えるなと言っても生えてくるもので、いやだといって強い除草剤を使うと、健康にも害があり、そして肝心の土も死んでしまいます。(ちなみに当山ではもう20年以上除草剤は使用していません)再生する土の力を奪ってはなりません。艱難辛苦は再生の力だとも云えるのではないでしょうか。山中鹿之助のようにはいきませんが。。。ね。

そこで、私はこんな気持ちをもって祈願をしています。「苦しみもあるでしょう、悲しみも、辛いことも、嫌なことも、、、でも、その時に何とかファイトを出して乗り切る力を与えて下さい」と。。。「雪の重みで垂れている竹が、雪が融けるととともにパンとはねて元にもどるように」と。。。星祭りのお守りご希望の方は、生年月日とともにお申し出下さい。お送りします。
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昨年の冬は池の水がストライキをおこして枯渇。今年は順調に湧いていますが、昨年冬の影響で「バンカゼリ」が見えない。そこで、池の隅にわずかに遠慮して生えているものを移植して、現在様子をみています。気のせいか少しは増えているような、、、。一面にバンカゼリの緑がこんもりとしている景色はいいもんです。「おしたし」にして一杯
やるともっといいもんです。。。
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昨年末からイヤな事件が多く、仏教の言うところの「末法」の様相。読売の1/12編集手帳に以下のコラムがありましたのでご紹介します。
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吉野弘さんに、「ほぐす」という題名の詩がある。「小包みの紐(ひも)の結び目をほぐしながら/思ってみる/――結ぶときより、ほぐすとき/すこしの辛抱が要るようだと」◆詩想はやがて、愛が冷めた男女の別離に向かう。人と人とが日々に連ねた熱い結び目も、「冷めてからあと、ほぐさねばならないとき/多くのつらい時を費す…」のだ、と◆小包の紐は解かれることを想定し、ほどきやすいように加減して結ぶこともできる。解く日が来ようとは万が一にも思っていない男女の結び目に加減はない。悲劇はしばしば、冷めた結び目の上に宿る◆外資系の資産運用会社に勤める男性(30)の切断された遺体が東京都内の数か所から見つかった事件で、被害者の妻(32)が逮捕された。「暴力を振るわれているうちに殺意を抱いた」と犯行を認めている◆夫との日常がいかなるものであったかは分からないが、結び目の解き方としては最悪の選択であろう。暴力が事実ならば法に委ねる別の解き方があったろうにと、記事を読みつつ首を振るばかりである◆男女の仲に限らず、縁を結んでは解く繰り返しのなかで人は生きている。殺し、殺されるような結末には至らずとも、結び目にいらだち、ナイフで紐を断つように人と別れて悔いることもある。ほどく時の「すこしの辛抱」を忘れまい。
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昨年亡くなった児童文学者の灰谷健次郎氏の『兎の眼』を読みました。灰谷氏の名前は知っていましたが著書を読んだのは初めて。正直に言うと文学・小説の類はもう何年も読んでいません、、(いや、、『ダビンチ コード』は読んだ)ので文庫本330ページは少々手こずりました。文庫本の小さな活字は老眼にはきつい。。

教育問題が論議されているところですが、若い先生と心を閉ざした子供達の物語です。全編、昭和30年前後と思われるセピア色の雰囲気の中に、まさに「育む」手作りの教えがつづられ、読了後、何となくホットしたものを感じました。

*効果があればやる、効果がなければやらないというのは、合理主義だが、これを人間の生き方にあてはめるのは間違いです。
*たちまち人の困るような事はやるな。どんなに苦しくともこの仕事をやり抜け。それが抵抗というものだ。
*弱い者、力のない者を疎外したら、疎外した者が人間としてダメになる。
*裏切られた者より、裏切った者のほうが辛からう。
*みんな人間の命を食べて生きている。戦争で死んだ人の命を食べて生きている。戦争に反対して死んだ人の命を食べて生きている。平気で命を食べている人がいる。苦しそうに食べている人もいる。

*の言葉はちょっと気になる文章の一部ですが、おすすめです。

addharma Mail from HOUZENJI NO.80 2007.2.23

『あとに残された人へ−1000の風−』 南風 椎 訳 三五館  917円

しばらく依然に時々テレビで テノール歌手・秋川雅史が歌ってる「千の風」なる曲が流れて「いい曲だなあ」と思っていました。フレーズはいわゆるサビの部分「1000の風になって−−」という部分だけでしたので、癒し系の曲だと理解していました。後日、新聞の書籍広告欄に上記の書籍紹介があり、これは癒しだけではないなと思って購入。

詩と写真との構成でわずか17枚ですが、なかなか考えさせられます。以下はその全文で、それぞれ一行一行の文章が一枚で写真と共 に構成してあります。

私の墓石の前に立って 涙を流さないでください。
私はそこにいません。
眠ってなんかいません。私は1000の風になって 吹きぬけています。
私はダイヤモンドのように 雪の上で輝いています。
私は陽の光になって 熟した穀物にふりそそいでいます。
秋には やさしい雨になります。
朝の静けさのなかで あなたが目ざめるとき。
私はすばやい流れとなって 駆け上がり。
鳥たちを 空でくるくる舞わせています。
夜は星になり。
私はそっと光っています。
どうか、その墓石の前で 泣かないでください。
私はそこにいません。
私は死んでないのです。

原文(上記の本にはこの原文はありません)
 A THOUSAND WINDS Author Unknown
Do not stand at my grave and weep,
I am not there,I do not sleep.
I am a thousand winds that blow,
I am the diamond glints on snow.
I am the sunlight on ripened grain;
I am the gentle autumn’s rain.
When you awake in the morning hush,I am the swift uplifting rush
Of quiet birds in circled flight.
I am the soft star that shines at night.
Do not stand at my grave and cry,I am not there,I do not die.
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ネットで知ったのですが15年8月28日付の《天声人語》に以下のことが記述されていたそうです。

だれがつくったのかわからない一編の短い詩が欧米や日本で静かに広がっている。愛する人を亡くした人が読んで涙し、また慰めを得る。そんな詩である。

英国では95年、BBCが放送して大きな反響を呼んだ。アイルランド共和軍(IRA)のテロで亡くなった24歳の青年が「ぼくが死んだときに開封してください」と両親に託していた封筒に、その詩が残されていた。

米国では去年の9月11日、前年の同時多発テロで亡くなった父親をしのんで11歳の少女が朗読した。米紙によるとすでに77年、映画監督ハワード・ホークスの葬儀で俳優のジョン・ウェインが朗読したという。87年、女優マリリン・モンローの25回忌にも朗読されたらしい。
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作者不詳の詩をコラムニストのアン・ランダースという人が「大好きな詩」として新聞で紹介したことから世界的に広まり、作者探しが始まったのですが、未だ不明だそうです。
この世から見えなくなってしまった命ではあるが、決して存在としてゼロではない。様々な形に姿を変えていつも私達の前にいます。たとえ、姿は見えなくとも。だから、泣かないで。。。。という事でしょうか。

外国の詩ですのでおそらくキリスト信仰者と思いますが、悠久なる大宇宙の中の個、再生の考えよりも、むしろ、「全てのつながり・現象・存在の中の自分」東洋的、仏教的(縁起)を感じられます。更にその中に宮沢賢治の仏教的宇宙観にも通ずるもを感じます。読み過ぎでしょうかね。。

死がある限り残る人々がて、苦しみ・悩み・恨み・後悔などの葛藤の中で、時間の手助けを受けながら、死の事実を納得していかねばならない宿命を背負っています。いろいろな宗教でそれぞれそれに対応する考え(教理)がありますが、「死々てもなお、実体としては見えなくとも、我々の前にいてくれる」と考えることは、宗教教理のいかんによらず、ホットに残る者たちにとって大きな支えであり、安心・安らぎでもありましょう。そして、また、死への恐怖からも逃れる考えの一つでありましょう。多くの宗教も残る人々に対して、慰めと生きる勇気のために「生と死」を訴え続けています。
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カーステレオに入れてこの「千の風」を聞いています。ちなみに、今入っているのは、
「千の風」とジュピター(平原綾香)、小田和正と羽田健太郎(ピアノ)のアルバム、そして時々は綾小路きみまろ、、、、、。

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Saddharma Mail from HOUZENJI NO.81 2007.4.10

いつのことか期日は失念してしまいましたが、珍しく深夜のBSをみていたら、小椋桂のステージでしっとりしたメロディーが流れていました。いつもはあまり音楽番組は見ないのですが「未だ 教えを説く期 熟さず 悟りとは 無縁の未熟を愉しむ」という歌詞が耳に入り、しばし聞き入ってしまいました。

あとで調べたところ、此の曲は「未熟の晩鐘」という曲だとわかり、歌詞との関連を想い「なーるほど」と納得。小椋氏は62歳とか、、、初老の域でなお謙虚にして吾は未だ未熟と達観することは多くの先輩が口にすることであるが、「無縁の未熟を愉しむ」とはなかなか云えない。「愉しむ」余力と余裕そして何よりも流れる時間に抗せずに、豊かな時間を大事にすることを教えられるような気がする。旨いウイスキーかワインを深夜にゆっくりと傾けたい気分。。。そういえば、しばらく、心静かにそんな豊かな時を過ごしたことを忘れてしまっていた。

「未だ 教えを説く期 熟さず」とも、熟したような顔をしている自分を振り返り、正に汗顔・忸怩たる思い。反省の極みであるが、いつの日にか晩鐘が温かく「よくやってきたね」と優しく聞こえている事を願い、改めて自己精進を誓った次第。

命の 幽(かそけ)さを
欲望の影 認めず
誘いか あがきか
晩鐘の 鳴りやまず

未だ 教えを
説く期 熟さず
悟りとは 無縁の
未熟を愉しむ
CDが店になかったので現在ネットで注文中です。

教科書に演歌などか取り上げられるという記事を見たが、奥深く美しい、心にしみいる日本語の表現が陰をひそめ、意味よりも感覚だけの言葉の洪水を思うと当然とも思う。
また、日本語表現の豊かさ豊富さは心ににも豊かさをもたらし、感受性を高め自ずからそこに人間としての優しさ品格が培われるのではないかと思う。

このメルマガの70号と71号にもカタカナの濫用について書いたことがありましたが併せて読んでみて下さい。読んでいない読者諸氏は御一報下さい、お送りいたします。オット、メルマガもカタカナでしたが、、、、、。。。ご寛容下さい。。
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4/9は小生の58回目の誕生日、、、あまりめでたいとは思わないが、兎に角何とかここまでやってきたという充実感はある、この意味では少々自分を誉めてやってもいいかなあと思う。しかしながら、我が友のうち既に数人は他の土に逝きて、再会は叶わず胸中寂寞の想いも湧く。この日、タイヤ交換をしたが、つくづくと体力の衰えを実感。タイヤを持ち上げる手に力が入らない。倅に「もう40年もタイヤ交換してきたんだから、もう選手交代だ」と監督に徹したが、これは少々惨めでもあったし、誉められるものではなかった。
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境内には野良猫が3匹ほど居着いているが、一週間前に新顔が参入。娘の友人の車にいつの間にか珍入し(彼女は猫アレルギー)困り果てて我が娘に相談「うちに野良猫がいるから1匹増えてもいい」なぞと言ったらしく境内猫になった次第。若くはない猫ですが、これが人なつっこく、、、、少々迷惑だが、、可愛くないことはない。。。。。
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4/15(日)は当山の願満様の法要です。4月新学期の時期でもありますので、子供さん達に学業増進の「知恵の輪」のお守りをさしあげます。日曜でもありますので子供さん、お孫さんもご一緒にご参詣下さい。お昼も一緒にどうぞ。
時間 11時より法要
12時 昼食 お酒が出ますので飲酒運転のないようにして下さい。

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Saddharma Mail from HOUZENJI NO82  2007.511

一般的に「お経」と言うと難しい理論書時なイメージをもつと思いますが、ちょっと違います。一口にお経といっても大きくは3分類されます。即ち、経典、律と論書の3つです。律は戒律のことを書き示したもので、論書は経典の解説書と思って下さい。そして、経典は仏の教えを、聞く人の立場によって解りやすく説いたもので、多くの経典が例え話等をもちいて仏様の教えを示しています。

例え話は時代によって必ずしも普遍的なものとは限りませんが、大きな説得力を持つことは確かです。「法華経」は数ある経典の中では比較的短いものですが、多くの比喩を含んだドラマチックな内容を持っています。当山のホームページ、法善寺ギャラリーの絵画の中に「法華経説相図」がありますが、これは法華経の内容を絵で描いたものですので是非ご覧下さい(素人写真ですので鮮明度はご容赦下さい)

法華経の例え話は古来から法華七譬ホッケシチユと称される以下の7つが有名ですので、しばらくこの7つのお話を順次にお伝えしたいと思います。尚、ネットで法華七譬と検索すると内容が理解できますが、小生なりの理解と解説を付けてみたいと思います。
1.三車火宅の譬え  2.長者窮子の譬え 3.薬草の譬え 4.化城宝処の譬え5.衣裏繋珠の譬え 6.髪中の譬え 7.良医の譬え

1.三車火宅サンシャ カタクの譬え。
これは法華経の中で譬諭品第3品(章)の中で説かれているものです。

物語
昔のインドのある町に、大きな長者がいました。その家やしきは広大なものでしたけども、門はごく狭いのが一つしかありませんでした。しかも、家は大変荒れはてていました。
ある日、その家が突然火事になりました。家の中には、長者の子供達が大勢いて、夢中で遊んでいるので長者の「逃げろ」という言葉に全く気づきません。その時、長者は、ふと子供達がいつも車の玩具を欲しがっていたのを思い出しました。

そして、火事のことではなくつぎのように呼びかけたのです・・・。

『おまえ達の好きな、羊の車や、鹿のひく車や、牛のひく車が門の外にあるぞ、みんなあげるから早く行ってとりなさい!』

すると子供達は、その言葉を聞いて正気にもどり、われ先にと燃えさかる家から出て助かることができました。長者が、子供達が助かって安心していると、子供達は、口々に約束の車をせがみます。 しかし子供達は「私は羊の車がいい」「ダメ鹿の車だ」「大勢乗れる牛の車がいいよ」と勝手なことを言っていて争い初めてしまいました。

すると、長者は、子供達が欲しがっていた3つの車ではなく、見たことのない様な大きな白牛のひく大変豪華な車(大白牛車)をみんなにひとしく与えたのでありました。
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解説。
父の長者は、いうまでもなくお釈迦さまです。子供たちは、われわれ凡夫です。荒れはてた家は、現実の人間社会です。火事は、われわれの煩悩をさしています。 火宅の人なる小説もありましたが、我々凡夫は日常にて否も応なく、財欲・色欲・食欲・名誉欲・睡眠欲(五欲)等の欲望(煩悩とも言います)の中に生きて行かざるを得ない存在ですが、これを火事で示しています。

われわれ凡夫は、物質、肉体などにとらわれて(執着)、なかなか苦しみからのがれられません。ここに出てくる3つの車、羊・鹿・牛は我々がこうありたいと思っている心の姿を示しています。

羊の車は、仏の教えを聞いて自分だけはこの苦しみから脱却(覚る)しようとする自分本位の考え方を示しています。自分の知識や経験に拘り、思いこみ、他を尊重しない利己主義ともいっていいでしょう。

鹿の車は、自分一人だけのカラに閉じこもり、周囲と断絶し、自分だけは苦しみを無くしたのだと独りよがりに覚りすましている排他独善主義のことです。

牛の車は、汚れた世の中をきれいにして、人の苦しみ、喜びを分かち合い、自らをさしおいても、全て見人々の苦しみや悩みをなくしていこうと努める心と行いをさしています。
子供達が父の声を聞いて、自分で火事の家から出てきた事は、父の声を信ずるという他力と自分からの判断という自力をしめしています。つまり、仏の声を信じ(他力)と自ら積極的に判断する(自力)を仏教は持っているという事です。

長者の父が、羊、鹿、牛の車ではなく、大変豪華な車(大白牛車)を与えたという事は、
羊、鹿、牛の三車は火宅から子供達を脱出させる仮の手だて(方便)であって、本当は更に大切な真実を教えるためである事を示しています。

仏教的には羊の車は仏に至る段階の7ランク、鹿の車は8番目のランク、牛の車は9番目の段階(菩薩の位)、そして大白牛車は10番目の仏の位を指しています。仏教には沢山のお経や経説がありますが、それは聞く人の立場や理解度によってさまざまに説かれているからで、仏の真意は言うまでもなく、全ての人々が10番目の仏の世界に至ることです。

つまり、仏教のいろいろな教え教説を羊、鹿、牛の三車に例え、それらを否定するのではなく、肯定しつつ、更にその上の教えに導く方便である事を示しているのです。そして、10番目の教えが法華経なのです。

添付写真は上記の物語の説相図、フキノトウの綿毛の2枚。
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Saddharma Mail from HOUZENJI NO83 2007.5.23

5/12子猫救出大作戦
境内には勝手に居候をきめこんでいる野良猫が3匹いるが(81号記載の新参者が一番顔をきかせている。通称はオスのゴロ太)2週間ほど前に子猫が2匹産まれた。ところが親猫は子育ての安全地帯を庫裡の屋根裏に設営、通常はしばらくすれば餌を食べさせるために外に連れ出すので、さほど心配はしていなかった。

しかし、3日ほど前から子猫の鳴き声が、壁の間の一カ所から離れない。どうも、天井から落下した可能性が大。親猫の鳴き声がしないので、親も救出不可能と判断したのではないか、、、、、されば、何とかしてやりたいと、何年かぶりで屋根裏に上がったり、床下に潜ったり救出作戦を開始。が、素人の悲しさで、梁は歩けるが天井部分は、どこを歩いてよいやら皆目不明、ジット見ているだけで埒なし。

しかし、3日も飲まず食わずの状態では、このまま死んでしまう、さすれば又違う心配もあるので、檀家の荒井大工さんに急遽の救援依頼をしたところ、日曜日にもかかわらず駆けつけてくれた。やはり専門家は偉い、声を聞いて、いろいろと計った末に「このボードの後ろだ」と推定。しかし、その場所はやはり壁の間で、どうやっても手が入る場所ではない。さーどうしよう。。。。哀れな鳴き声は人の気配を感じてか、一層強く訴える調子になった様子。。。。「この壁壊すしかないよ」の荒井さんの声に「やって下さい」と決断。

「おっしゃん、カッターあるかい。ボードだからカッターで切れる」だが、当山にはボードを切れるような強靱なものはない。紙をきるヤワなものばかり。引き出しをかき回していると子供が小学生の時に使った工作用の小刀を発見。大工さんニヤニヤしながら「やってみるか」。

20センチ四方を切ったが、裏に何かあってはずれない。やむを得ないと鉄拳一撃。荒井さんの推定通り、ドンピシャリ、、、いた。。。とたんに鳴き声が大きく聞こえ、3日も暗黒の中に閉じこめられていた子猫の姿が見えた。「生きていたい!」そんな声がその時聞こえたような気がした。。。。荒井さんありがとうございました。

結果、2匹の内、1匹は元気に鳴いていたが、1匹は体温もなく虫の息。。救出までは無我夢中だったが、サテどうしよう。。とりあえず水をやったが飲む気配がない。外に出しておけば親猫が来るかとも思ったが、子猫の鳴き声に親猫が来る様子もなく、このままではのたれ死には明らか。

「もしもし土屋先生ですか。死にそうな子猫がいるのですが一寸みてもらえますか」とやはり檀家の土屋獣医さんに電話。土屋さんも日曜でお休みなのに「いいよつれてきて」と言ってくれて診察。危篤の猫にはカンフル、元気な猫には離乳食のようなものを頂きました。土屋さんありがとうございました。

深夜、様子を見に行くとちょうど親猫が子猫をくわえて走り去るところ。やはり親です。人間世界では、親子間で虐待や殺人が悲しくも非日常と云えなくなった時代に、、、野良猫の方が偉いよ全く!!。寺に産まれたのもきっと何かの縁。元気になってくれるを願っています。
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5/19の読売新聞に面白い記事がありましたのでご紹介します。1991年銀河書房発行の「あんたが大将信州人」のはしがきに、信州七不思議として次のように掲載されているとのこと。
1.海なくして 塩辛きを好む。
2.水清くして 面洗わず。
3.木多くして 生木をたく。
4.茶の木なくして 大茶を飲む。
5.田畑多くして 子だくさん。
6.理多くして 事運ばす。
7.よき仏あれど 仏心知らず。

だいぶ前の記録ですので、現在ではちょっと首を傾げたくなるものもありますが、1.4.6は納得。では7についてはどうでしょうか。
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   研修講演会へのおすすめ
寺と次世代をつなぐための、檀信徒青年会が各寺にて結成されていますが、丸子の経蔵寺青年会が、子育て講座として「いじめ」についての研修講演会を開催の予定をお聞きしました。病んでいる現代社会の混迷の一側面として看過しえない問題ですので、当山も青壮年会を中心に是非参加協力したいと思います。

 期日 6/10 日曜日
 場所 上田市 長瀬3580−2 「経蔵寺」 
    電話 0268−42−3860
 時間 午後1時から60分ほど。
 会費 なし
 テーマ 「いじめってとういうこと?」
 いじめの実情体験などを通しての検討、質疑応答。

 講師 山城俊一氏 長野県教育委員会 
         子供支援課 事務局員

 参加ご希望の方は法善寺へ5月末日までに御一報下さい。正確な人数でお知らせしないと失礼ですので必ず法善寺を通してください。
んには後日ご連絡致します。
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寺の山林整備のお願い。
ご承知の通り、当山は豊かな場所と緑を有し、境内にたたずむ時に理屈ではない安らぎと宗教的雰囲気を醸し出しています。考えてみるに、この財産は寺として何にものにも代え難い大きなものです。いくらお説教として法を語っても、この場所に立つだけで得られる大きな安心と安らぎは、完全にこれに勝るものです。 また、緑の保護は環境問題とも大きく関わっていることは周知のことでもあります。

このような理由で過去に数回、有志による山林の整備を実施していましたが、平成11年以来実施できず、ツルや下草が大変多くなってしまいましたので、下記にて山林の整備を実施致したいと思います。当山の青壮年会のメンバーを中心にお願いをいたしますが、当日ご奉仕をお願いできる方は是非お願いいたします。
期日 7/1日曜日
時間 午後1時より3時間程度。5時過ぎに簡単な慰労会を予定。

参加お願いできる方は寺までお知らせ下さい。

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Saddharma Mail from HOUZENJI NO84 2007.7.25

暑中お見舞いもうしあげます。7/16の新潟中越沖地震、長野県北部も被害ありの報道でご心配の問い合わせもありましたが、幸い一切被害はなくホットしました。しかし、新潟では日蓮宗寺院が3ヶ寺崩壊の情報もあり、8/3の御施餓鬼法要には義捐募金をしようと思っています。何卒御協力下さい。
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8/3の御施餓鬼法要について。既に文書にてお知らせ致しましたが、下記により御施餓鬼大法要を行いますので、お暑い中ではありますがご参列下さい。この法要の意味については「施餓鬼」にて検索するとその意味が解りますのでご覧下さい。この法要は日蓮宗だけではなく全ての仏教に共通する心を訴えるものです。

この法要は一般的にお盆の前に行われるので、先祖供養のためと思われがちですが、決してそうではなく、動物・植物を含めた一切の命に対しての報恩感謝の法要です。我が先祖に対する報恩供養は当然でもありますが、人種や宗教の違いを越え見知らぬ多くの人々の命に対し仏様の慈愛の雨が注ぐように、また、我が命を支えてくれている多くの動物や植物の命に感謝の心を捧げるためのものです。

一人自分の先祖のためでなく、仏様の大きな心で一切の命が救われるようにと祈りたいと思います。ですから法要の中で「願わくはこの功徳をもって、あまねく一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜん」と祈るのです。

法要の中で住職一人が仏様に申し上げる言葉があります。仏教の伝統では文語体の格調高い文章ものであるのが一般的ですが、当山では数年以前より、耳で聞いて解る口語体の文章を読んでいますので、一寸注意して聞いて頂けたら幸甚です。(葬儀の時もできるだけ口語体にすることを心掛けています)
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日蓮宗新聞の「一口説法」欄に同感(そうだそうだ)の記事がありましたので一寸ご紹介します。タイトルは「本末転倒」

夏期唯一の祝日・海の日が終わった。これから秋まで祭日はないが、衆議院選挙の人気取りかのためか、与党内には秋のゴールデンウイーク構想があるという。11月には体育の日、文化の日、勤労感謝の日をまとめて3連休にするというのだ。愚考としか云いようがない。祝日にはそれぞれ伝統と由来がある。連休にするというのは本末転倒である。

成人の日が15日から連休日に移動するようになった頃から、世の中妙になったと指摘する識者がいるほどた。法華経の如来寿量品には「転倒」が説かれている。 「転倒」とは正しいことが正しく行われない逆さまの心を云う。

連休は国民に休息を与え、消費も拡大させるという大義名分にかこつけ、祝日を平然と移動する政策はまさに転倒である。日蓮聖人が教えられた「体曲がれば影ななめなり」という金言の通り、転倒が社会全体を歪めているのではないだろうか。
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まさに同感!の極み。。。と思うのだが。。如何?。伝統と由来を忘却したものの一つに新しい市名がある。当地は現在「東御市」なる珍妙な名前となっている。このメルマガ62号にこれについて慨嘆したので繰り返せぬが、、、実のある市名になってくれることを祈るのみ。62号のない方ご連絡下さればお送りします。

伝統や由来を無視して、便利・効率等々のためにその言葉や心がどんどん忘れ去られている。恐ろしいのは言葉の消滅とともに、言葉の裏にひっそりと潜んでいる思いやり、優しさ等の消滅であるような気がする。デジタル社会となり文字離れ・本離れと云われて久しいが、文字本来の意味の忘却は文化や情緒が危うく薄くなってしまうのではないかと危惧することしきりである。81号 に述べたところの 「未熟の晩鐘」の歌詞なども日本語文字の奥深さを感じる。

『美しい日本語の辞典』なる本を読んだ。小学館 2100円。「美しい日本」はどこかで聞いた気がするが、政治家のカタカナ語乱発は勘弁してほしいところ。 本書はの帯書きには「味わい深い日本語、懐かしい日本語、日本人として忘れてはいけない言葉を再確認するための辞典」とある。

収録語は難解なもの多いが、面白いのは、いろいろな色の日本語の名前、例えば「亜麻色」「浅黄色」「江戸紫」「千草色」等、、、、何となく名前自体に奥行きがあるではないか。また、雨・風・雲・雪・空のいろいろな名前があり日本人の情緒感覚の繊細さを感じる。

Saddharma Mail from HOUZENJI NO85 2007.8.21

残暑お見舞い申し上げます。8/3の御施餓鬼は風もあり、比較的過ごしやすかったが、その後、連日の酷暑。。で。。そのままお盆に突入。夏の法衣は紗ですので、見た目は涼しそうですが、下着、襦袢、白衣、と重ねて、その上に紗の法衣ですので暑いのです。が、、、、涼しそうな顔をして「はい、こんにちわ」と云うのも修行。やせ我慢と時には必要。。。一式お貸ししますのでやってみますか。尤も、ネクタイ、スーツの方には脱帽ですが。。
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作詞家の阿久 悠氏が8/1 70歳にて他界し追悼の記事があちこちに見られました。その歌に青春の陰影を思い出した方も多いと思います。小生もその一人ですが。。。

8/2の読売新聞に「阿久 悠さんを悼む 叙情を蘇らせた詩人」のタイトルで宗教学者の山折哲雄氏が一文を寄せていました。その中に共感を覚える一文があった。

「そう云えば、日本の歌は空を飛ばなくなった、と云ったのも彼だった。今から15年以上も前のことだ。著書『書き下ろし歌謡曲』の冒頭にも書かれている。叙情の翼をもぎとられたような、乾ききった歌ばかりが目につくその嘆きの声だったように思う」
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今年の春、池の水が枯渇してしまい、鬼ヤンマのヤゴがいるところがカラカラになってしまい、これで境内の鬼ヤンマも絶滅かと案じていたのですが、野生の力は強かった。みごとに命を盛り返しました。今では池の周囲を中心に何匹もの鬼ヤンマが空中旋回。ほんとによかった。でも、少々気がかりなのはセミが少ないこと、そして蛇が少ないこと。もっとも蛇さんはあまり見たくはないのですが、、、やっぱり気になる。

セミが少ないこと。。。。仁王門付近には例年多数のセミの穴があるのだが、今年は3ヶ所の確認のみ。。。と思っていたら出てきました。いっぱい・・・朝ちょっと歩いていたらセミの脱皮に遭遇。しめたと思ってパチリ。添付写真の一枚がそれです。

しかし、セミは7年地下にいて地上の命は一週間とか。。。。7年ぶりに出てきたらそこがアスファルトだったら。。。と。。。
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本のご紹介。
☆『お題目ランド』 中村潤一著
日蓮宗新聞社 2000円
法華経と日蓮聖人・お釈迦様のご生涯・お題目の意義・お題目と社会・信仰の在り方の全4章。いままでいろいろな法華経、日蓮聖人の本を読みましたが、最も簡潔で理解しやすい本ですのでおすすめします。320ページありますが読み物としてすぐに読めます。
 寺へ申し込んで頂いても結構です
Saddharma Mail from HOUZENJI NO86 2007.9.18

檀家の宮本理容店さんからのメルマガに「夏バテ解消法」がありましたのでご紹介します。
夏の終りから秋にかけては「夏の疲れ」が表れやすく体調を崩す人が多くなります。
夏の間に蓄積された身体への負担は自律神経系を乱し内臓の不調や肩こりを起こします。
そこで自律神経と免疫力に注目した「爪揉み療法」はいかがですか。
自律神経には交感神経と副交感神経があり、交感神経の緊張が続くことで
白血球に含まれる顆粒球が増えてしまい症状の悪化につながるとのことです。

    ☆  方法は爪の生え際をもう片方の指で挟み揉むだけです  ☆
薬指以外の4本の指は副交感神経を刺激する事ができるため10秒ほどずつ揉みましょう。
人差し指は胃の症状、小指は肩こり、不眠、腰痛などに効果があるそうです。(薬指は交感神経を刺激)今のうちに猛暑の疲れを解消させ実りの秋に向かってエネルギーを充電しましょう!
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お寺の新聞「法善寺便り」に介護と死についての連載をしています。ところで平成9年9月の48号にデーケン教授の「新しい死の文化を求めて」なる講演会の記録を掲載してありますが、多少の関係もあり、再度考えたいので以下に再録します。10年前のものですが改めて考えるべきものが多いと思います。(この頃は小生もかなりまともに取り組んでいたようです・・懐かしい気もします。)

九月四日東京ヒルトンホテルに於いて標題の講演と日蓮宗の社会問題のシンポジウム「命の倫理:脳死・臓器移植を考える」が開催され、参加の機会を得たので、その一部を紹介したいと思います。
 デーケン氏(ドイツ人・上智大学教授)は日本に「生死学」の概念を定着させた人物として、多くの著述と共に高い評価を得ている人物。

「新しい死の文化」とは「新しい生の文化・新しい生の発見」であり、その前提となる物は告知(ガン・エイズ・余命)である。日本では告知の問題は国民性もあり欧米に比べ遅れているが、ドイツでは全ての学校に宗教の時間があり、死に対する教育がなされ生命尊重が説かれ、死に対するタブーはかなり低い。新しい生の文化を目指すには、このタブーを除くことが第一条件である。医療サイドと共に大衆のレベルの双方がこの意識の払拭に努力しなければならない。

 人間の生命は物理的・運命的には右下がりの放物線を描いて死に至るが、精神的な面に於いては晩年右上がりの生活が可能である。右上がりの精神活動とは、ただ死を待つのみではなく、その時まで人間らしく尊厳を持って生きることであり、生き甲斐を持っての生の探求である。これはより豊かな自己実現を目指す事であり、自分の仕事を使命、転職と自覚すること等によって可能になる。

 死には四つの側面がある。A肉体的死B社会的死(孤独)C文化的な死(潤いの欠如)D心理的な死(生きる意欲の欠如)。右上がりの生はCDを避けて向上させることで、生命や生活の質を高める努力をすることで、音楽、絵画、読書なども重要な要因となる。

 己の死を受容するブロセスはA麻痺状態B否認CパニックD怒りと不当感E怨みF罪の意識G孤独と憂鬱H新しい希望I立ち直り死の受容となり、これは告知された人の殆どがたどる道であるが、不告知であれば大切な残された時間をHIを経ることなく終わる事となってしまう。即ち、充実した最後の時を持たない事であり、これは人生の大いなる損失である。

 日本では未だ死をタブー視する傾向が強いが、これからは死に対する準備教育が不可欠となる。確率100lの死であるのでそれに対する備えは大切で、知的レベル、感情レベルで死に対して考えておかなければならない。

 死に対する恐怖、不安には肉体的なものと、精神的(霊的)なものがあるが、肉体的恐怖(苦痛)は現代の医学的レベルでは、その殆どが緩和できるようになっている。(しかし、医学者がそれを実施するかどうかは、今の日本に於いては残念ながら別の問題。医療者は緩和医療をもっと積極的に推進すべきである)だが、自己の消滅に対する精神的不安恐れは医学では解決できず、これに応ずるのは家族や宗教である。

人生の最期に於いて患者、医者、家族のコミニュケーションが最も大切になるが、告知がなされていないと、よりよいコミニュケーションが望めず、患者は一層の孤独と疑念に陥ってしまう。

  「共に喜ぶのは二倍の喜び、共に苦しむのは半分の苦しみ」
宗教を持つことは人生の価値を高め、未来に対する不安を消して安心をもたらすことができる。これからの日本の社会に於いては、個人、家族、医療者、社会の全てが死のタブーを排し、死に対する準備教育death edcationを考えていかなければならない。具体的には家庭内で、告知について、延命医療について、リヴングウイルのこと、脳死になった時のこと、さらには臓器移植のことなど、また、自分の個性的な葬儀を考えることなどもそれぞれ準備教育となるのである。 

氏の著述には数冊接しているが実際にお会いして、穏やかでユーモアがあり想像していた通りの人でした。講演の中で「死のタブーを除くには宗教者の役割が一番である」という言葉に思いを新たにしました。

告知について「自分は告知を望むが、家族に告知することには躊躇を感ずる」とする意見が大勢であったが、これでは告知は進まないのではないだろうか。しかし、現状では告知後の精神的ケアが圧倒的に不足しているので、家族に対する告知には正しい認識と自信と覚悟が求められよう。皆さんはどうでしょうか。

 後のシンポジウムにおいて「ターミナルステージに於いて、人は死に向かって如何に人生を完結するかという宗教的時間を過ごすこととなる。宗教に求められるものは祈りと救いである。死の恐怖から解放、安らぎを得られるのは、宗教者が共に祈ることによってのみである。但し、それは絶対的に信頼される宗教者のみに可能な事である」というパネラーの言葉が忘れられない……。
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法善寺仏教セミナーを下記にて開催します。詳細は後日お知らせいたしますが、御都合よろしかったら御参加下さい。

期日 11/25 日曜日
会場 東御市 県 「御牧会館」
時間 午後1時より4時まで。 4時から懇親会。(3000円)

第1講は、藤塚義誠上人の「老い・介護等と向き合う宗教の心」。
第2講は日蓮聖人が所持していたという刀について、副住職の清水要教がお話しする予定です。
このセミナーも10年目を迎え、大勢の方に参加研修して頂きました。解りやすい内容で仏教・宗教に対する縁を深めて頂きたいと思います。参加ご希望の方は寺までお知らせ下さい。(懇親会参加の有無も)
Saddharma Mail from HOUZENJI NO87.10.19

仏教のお経で最初期に属するものに「法句経」なるお経があります。この中に「仏の教えとはなんぞや」の問いの答えとして七仏通戒偈シツブツツウカイゲがあり、古来から全ての仏教説に共通なものとされています。お釈迦様は第7番目の仏としてこの世に出現された事になっていますので、全ての仏に共通する教えという事でしょう。

諸悪莫作ショアクマクサ  衆善奉行シュゼンブギョウ   自浄其意ジジョウゴイ  是諸仏教ゼショブッキョウ

簡単に意訳すると「いろいろな悪いことはするな、良いことをしなさい。そうすれば自分の心が清らかになります。それが仏の教えです」と、至極当たり前の意味です。そんなことは幼稚園の児童でも承知の事で、何も仏様に教えてもらうまでも無い!仏の教えとはもっと深く大切なもののはずた。それは仏教ではなく倫理だ、の声が聞こえるようですが、、、そうでしょうか。「良いことをして、悪い事をしない」は倫理かも知れませんが「自浄其意ジジョウゴイ」が肝心なる仏教の目差すところです。

「いろいろな悪いことはするな、良いことをしなさい」この当然のことが当然として行われていないのが現実の世界。この簡単なことが如何に難しいことかは、全ての人が承知している事ですが、人類には有史以前より困難なことのようです。

現代社会はモラルハザード・規範の崩壊と云われています。世間を見渡しても、いろいろな社会の規範(ルール)がなおざりにされているのがわかります。政治資金、税金等の浪費、年金や給食費の不払い、迷惑行為の横行、商品の欺瞞(製造年月日・材料・品質の偽装等)、優しさの欠けた医療制度、不法な株式操作、詐欺や殺人多発、特に親子尊属間の殺人など枚挙に暇がない状態。これらは全て政治規範・企業規範・医療規範・倫理道徳の規範・宗教も含めて社会全体の規範が崩壊していることに他ならないでしょう。

何故でしょうか。理由はみんなが解っているはずの事です。利益・富の追求、過度の競争意識による身勝手、自分だけ他より豊で良ければ、家族だけ、この地区だけ、自分の会社だけ、自分の国だけよければ。。。。の心の欠如。この欠如は相互の信頼関係の欠落へと繋がる恐ろしいものです。当然である「いろいろな悪いことはするな、良いことをしなさい」の当然が自分中心だけになっていませんか。

視点を環境問題に変えてみても、当然としてのあるべき社会規範が、自分だけの・自国だけの富みや便利の追求によって、温暖化等の環境問題を引き起こしている事は事実として認めなければなりません。世界環境危機時計が今年は9時31分(日本は9時34分)だそうです。http://www.af-info.or.jp/jpn/questionnaire/questionnaire.html

多少の論理飛躍はありますが、現在の環境問題も殺伐とした不信不安社会の解決は「当然」の復権以外にないように思えます。何が当然か?個々によって、立場によって、民族によって異なるのでしょうか。自分にとっての当然は、他者にとっても、他民族にとっても当然なのでしょうか。宮沢賢治の「世界全体が幸福にならない限り、個人の幸福はありえない」の言葉を今更ながらに重く思います。

当然が科学の発達や社会変化によって変化することもまた「当然」です。例えば、見る聞く知る、テレビや電話、携帯電話も常識の範疇になっています。このインターネットも日本では人口の過半数が使っていますので常識の範囲、車の保有、(かつての3種の神器 冷蔵庫・テレビ・洗濯機)医療の世界でもレントゲン、CT やMRI等々、人間にとって便利・科学の恩恵という視座で当然となっています。

しかし、この変化する「当然」は「現在の常識」としてもので普遍的なものではなく、エネルギー問題からすれば、一家に数台ある車の当然としての常識も、「かつての当然」になる事も大いに考えられるところでしょう。環境問題と「現在の当然」はエネルギーを背景にして悩ましくも避けがたいものになっています。

真の「当然・当たりまえ」は常識でなく普遍的なものでしょう。しかし、この普遍的当然は、利便性や富み、身勝手、力関係の前では、悲しいかな倒れやすく、力無い存在です。ですが、この「倒れやすく、力無い存在」が大きくならない限り、未来は暗澹たるものにしかならないのではないでしょうか。

当然を思う時、心の奥に自分と他者の「いのち」の存在を重く考えながら社会の出来事や現象を考えてみると、「諸悪莫作ショアクマクサ 衆善奉行シュゼンブギョウ」が何であるかが解り、それが「自浄其意ジジョウゴイ」となり世界の平安に繋がるのではないでしょうか。

日蓮聖人は「立正安国」という事を称えました。「正しきを立てて、国を安んずる」と読みます。立正とは正しい仏教すなわち法華経を意味しますが、現代の視座で考えると、正しい心イコール「当然の心」の復権復活こそが安国、安世界に直結する唯一の方法だと思って止みません。環境も荒廃した心の問題も。。。

日蓮聖人の書かけた「新池御書」に下記の一文があります。
「有智の高徳を畏れ、老いたるを敬い、幼きを愛するは、内外ナイゲの法なり」と。「内外の法」とは仏教もそれ以外の教えも全ての意味です。しごく当然の理ですが、過去の倫理ではありません。この心が自浄其意ジジョウゴイへと繋がるのです。 昨今の当然の忘却を思うとき、先ず、この心の復活こそ日本と世界を救う道だと信じています。

「当然・当たり前」については2004.10の68号にも多少述べたところですのでご覧下さい。見てないかた、お送りしますのでお知らせ下さい。
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松喰い虫被害については前々から危惧していたところでしたが、危惧に終わらずに現実となってしまいました。2日まえに何気なく本堂を見上げたところ「なに??松が茶色に!もしかしたら松喰いか!!」と周囲を見渡したところ3本が既に赤茶けた状態。

これは大変!と森林組合に連絡。翌朝早々にくてくれた方は一目みるなり「この3本は回復不可能」の診断にて泣く泣く伐採処理を依頼。しかし、樹齢は推定でも百年近くのもので、墓地にあったり伐採に手こずるところだらけで、見積額約30万円。。。市の農政課に問い合わせたら、費用の半額は負担してくれるとの事、しかしながら最大10万円だそうです。

残念だが仕方がない。昨年は防除の講習に行ったのですが、そのまま放置。その代償は斯くの如くの結果とあいなり、将棋ではないが、一手の遅きが大きな悔いを残すことになってしまいました。手を打つ時には躊躇なく打つ!大きな教訓でした。それにしても、当山を百年ちかくも見守っていた松を処分する事は、松にも、また、歴代の住職にも、多くの檀家の方にも申し訳なく慚愧の念しきりです。 夏の手入れ時は大丈夫だったのに・・・・・。

枯れたものは仕方がない。残った松を何とか予防しなければと、予防薬の注入も併せて依頼。グリーンガードエイドなるものだそうですが、これが安くない。木の大きさで費用が異なるのですが、とりかえず8本の見積もりで約で15万。8本ではすまないのでおそらくは倍額程にはなると予想。。。。。ああ無情。。。
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夏の御施餓鬼と秋の御会式に新潟地震の義援金募金を実施したところ、多くの浄財を頂き、お賽銭とと合算して144.884円を送金いたしました。感謝致します。
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前号にもお知らせ致しました「仏教セミナー」11/25に開催しますので御参加下さい。老いて死ぬことも、介護をすることもされる事も、当然としての問題の中のものです。そして、その場所に大きな輝く宗教があったら、たとえその場所がどんな修羅場であっても救いの光明がさしてくるでしう。今回はこのテーマを主として開催します。

今回も長くなって申し訳ありません。「おしょう人さんのメール長い!」時々お叱りを受けますが、夜、ウイスキーかワインをチビチビやりながら(このメールを打つときは日本酒や焼酎の雰囲気でないので)書いていると、種々なる思いが交錯し、行ったり来たり。。。。。でも小生のストレス解消でもありますので何卒ご寛容下さい。
Sadahharma mail from HOUZENJI  NO89  2008..1.16

新年おめでとうございます。そして寒中お見舞いを申し上げます。今年もあれやこれやとランダムに思いつくままに雑文を発信いたしますが(ご迷惑とは存じますが)お暇な時にでも読んで下さい。カマキリの巣が1メートル以上の処にあるという事で、今年は大雪かな?の報もありましたが、12日に4センチ程度の積雪。。。どうなりますことやら。
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1/20日曜日に当山の新年会を行い、各家各個人の年中平安と、世界の平和をご一緒に祈りたいと思いますので御都合よろしかったら御参加下さい。丸山喬央氏作成の寺のカレンターを差し上げます。尚、お酒もありますので、飲酒運転のないように呉々もご注意下さい。本当に頼みますよ!
受    付  10時半
法    要  11時
昼食新年懇親会 12時
Saddharma Mail from HOUZENJI NO88 2007.12.20

今年も師走中旬で落葉も一段落の時期、天気の良い日は落ち葉掃き。落ち葉の中に希にまだ青い葉が混じっていますが、成すべきを成して役目を終えた黄色や赤の葉に対し、未だ残る多くの時間を残して散る若き命をそこに感じて、ソット拾い上げます。そして多くの落葉と共に、次の命の糧となるよう祈りながら熊手を進めています。

草取り、庭掃き等単純な作業には、人の心を純化する作用があるのかもしれません。仏教の修行の第一は、お経を読むことではなく、作務(清掃)だといいますが、少しこの意味がわかったような気がします。そして、この作業ができる事をありがたい事だと思うことも少しできるようになった気がします。多少は成長しているのかも知れません。
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毎年の時の移りが早く思うことは多くの先輩が語っていた事ですが、小生も斯くの如く実感を覚えるようになりました。やはり年を重ねたということでしょうか。もっとも来年は数え年では60の還暦と思えばこれも当然。。。しかしながら、かく思うと、自らを振り返り、何を成してきたのだろうか、そして、これから何ができるだろうかと自問自答の年の瀬となりました。