仏教では生老病死を四苦といい、誰れしもが避けては通れぬ大きな苦しみであるととし、この苦をどのように脱却するべきかを説いています。駒ヶ根市大法寺の藤塚上人は日蓮宗新聞に、この問題について、老い・病・看護や看取り・臨終などの側面より、どうにもならないこの現実をどのようにとらえて、如何に納得し、それを受容してゆくべきかを連載しています。
 当山では「法善寺だより」に藤塚上人の記事を連載させて頂いていますが、改めて通読する時、日本人の死の受容・死生観が、我々の晩年に更に光を増すために大きなものであると気づきます。死を人生の完結であると思えるために、逝く人も、見送る生きている、今この時に考えておきましょう。老病死いは万人に必ず来る天命であり、それを豊に受容する事は必ずできると信じています。 以下に藤塚上人の記事を(平成22年1月まで)再録しますので、多くの方にお読み頂きたいと思います。
                                 法善寺 清水要晃
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老いること-老いこそ明日の我が身 19.1.20


今回より高齢者とのふれあい、そして介護について述べてみます。介護に関しては二十四回にわたり執筆された林妙和師が、現場から技術的なアドバイスを懇切に紹介されました。私は別の視点から老いを見つめ、さらに在宅介護の周辺についてふれていきたいと思います。
団塊の世代が第一線を退き、高齢化社会の門口に立つときが近づいています。高齢者の力は大きな支えで、その技術や知識、経験を生かすことが期待されています。しかし、加齢とともに誰にも自立の限界が訪れます。

お盆の棚経に、昨年まで這ってきて私の後ろで手を合わせていたお爺さまの姿がありません。介護の公的支援を仰ぎ、ヘルパーの手を借りている由。ベットサイドで励まして、その家を後にしました。入寺した四十二年前と比べ、施設介護を含め、老親介護の家庭が多くなり、ここでも高齢化社会を実感します。

私は時に法事の席へお数珠やお経本、香合などを忘れるようになりました。お布施だけは忘れたことがありませんが。捜し物の時間も増え、人や物の名前がすぐに口を出なくなり、思わぬ失敗をしでかします。自信のあった正座も、立つ時膝に違和感を覚えます。年とともに心身の機能が衰え、、記憶力、適応力まで欠落し、かわりに身に付くものが増えていく。老眼鏡になって久しいが、次は入れ歯が、補聴器が、先々は衣の下に失禁パンツかもしれません。

仏教でいう六根清浄(眼・耳・鼻・舌・身・意)の働きが減退し、ついには機能しなくなります。社会福祉辞典では「老いとは障害を持って生きる世代」と定義しています。老いは私たちの生命に組み込まれた厳しい摂理です。「老いはのがれえぬわざなり」とは紫式部の嘆きであり、そのまま高齢化社会を生きる私たちのおののきであり溜息といえましょう。

夫婦共白髪はこれまでの理想、これからは否応なしに親子共白髪です。母子家庭は若い母とその子を連想しがちですが、「母米寿子は還暦の母子家庭」となり、「親も子も年金貰う長寿国」です。「親孝行したい時には親はなし」は人生五十年の過去の時代。「親孝行したい時まで親は生き」となり、若者は「親孝行したくないのに親がいる」とひねり、子が担う責めを笑い飛ばして見せます。

来客に茶菓子をすすめていたときのこと、せんべいの包み紙がとれないでいます。つい手を差しのべると「指先に力が入らねぇ、お上人もじきにこうなるさ」という声が返ってきました。老いこそ明日の我が身なのです。「階段の手すりや踊り場が有り難く思えるようになった。踊り場で一息入れてまた登る。踊り場の意味が体を通してわかってきた」と話す八十代の男性。「通院する実家の父を長いこと送迎した。若かった私は動作の鈍い父の背に”のろまね、早くして”と叱咤していた。自分が父の年齢に近づいて悔やみきれない」と玄関に腰掛け、草履の鼻緒を足の指に押し込んでいる七十代半ばの女性。その年齢に達してはじめて気が付き、わかることがあるのです。

「年寄りは、言葉がうまい」と聞きました。「年寄りはやさしい言葉をかけられるのを喜ぶ」と言う意味です。盆や正月に帰省する息子や娘たちに、「家へは一度でも多く電話をいれてよ。親が三ケ月、半年経っても忘れられない言葉をかけてよ」と話しています。

中阿含経の「頭白く、歯落ち、感情日に衰え、見曲り、脚戻り、体重く、気上り、杖を支えて行く、肌縮み、皮緩みて、皺麻子の如く、諸根毀熟し、顔色醜悪あり。これを名付けて老いとなす」の一説は見事なまでに老いの身体的特質をつきつけてみせます。

日蓮聖人は「大雪は重なり寒は責め候。身の冷たきこと石の如し」という身延の御草庵で晩年を迎え、老いの厳しさを「(身延の山に入ってから一歩も山を出たことはない)但し八年が間病と申し歳と申し、歳歳に身よわく、心老耄候ひつるほどに・・・」と『上野殿母尼御前御返事』に書き留められております。黒潮洗う房総でたくましく成長し、四ヶ度の大難も乗り越えた頑健なお体も老いと病にさいなまれておられます。その一方、本仏釈尊への帰依を深め、霊山浄土を期す法華経の行者として、心豊かな内面を披露されています。
 次回は老いの豊かさを考えてみます。





老いの豊かさ-老いとは「聞くこと多き人」
19.2.20

人生の素晴らしさは、若き日の輝きや壮年期の活力だけてはありません。老境の安らぎがあって、その生涯は一層意味あるものとなります。それまでの人生が苦難の連続であっても、過去を肯定し、来世を期して、賜った生を満ち足りたものにしていきたいものです。日本人が初めて遭遇する高齢者社会。後に続く世代のためにも、老いの生き方が改めて問われています。
 敬老週間の特集記事に「長命地獄」の見出しがあり、印象深く心に残っています。マスコミの造語ですが、長生きがゆえに地獄の苦しみを受けるというものです。「長命」と「長寿」はいずれも寿命の長いこと。長寿には地獄がつきません。寿はことほぐ(寿ぐ・言祝ぐ)と訓じて、言葉をもって祝福すること。自他共に長生きを喜ぶ意味合いがあります。

長生きをしたいと言いながら、その口で年はとりたくないと話します。「老」の文字を忌み嫌う風潮があり、地域の文化活動でも、老人学級、老人クラブを、朗人学級や高齢者クラブなどと改称しています。しかし、老には、さびる(品がある)。なれる(老練・老熟・老巧)。年功を経る(年輪・老識)という意味があります。また、老いは長者の尊称であり、徳を積んだ人の敬称(長老・老師)でもあります。原始経典では老いとは「聞くこと多き人」として、経験の豊かさを強調しています。

95歳の日野原重明氏(医師)は、「年をとれば、人生は終わりだと始めなくなる。夢を持たなくなる。何かを始めてみよう。新しいことにチャレンジしよう。〈古い切り株に新しい芽が育つ〉」として「老いを創める」ことを提唱しています。
 「しみじみと百歳の顔初鏡」。これは土方由さんが100歳で編んだ句集「初鏡」の第一句です。初鏡は、年が改まって最初に見る鏡をいいます。俳句を始めた時は何と90歳だといいます。
 「いくばくの余生か知れぬ身にはあれ 未だ幼き山椿植ゆ」新聞歌壇の一首。山から引いてきたものか、椿を植える作者。その手の先には、もう真紅の花が咲いているのだと直感しました。あやかりたい生き方です。

老年期の在り方に寄せた発言に「自分らしく生きる」ためには、周囲の気兼ねや思惑は気にしないとありました。しかし、身近な人の幸せを踏みにじってよいものでしょうか。また、生涯現役を主張し、気力の若さを誇って、老いを拒絶する向きもあります。しかし、老いを認め、受け入れて、はじめて見えてくるものがあります。
老いは、青年期には観念であり、中年期には予感となり、60代ともなれば実感となります。50代に見えなかったものが、60を越えて見渡すことができれば、うれしいものです。たとえ、耳は遠くなっても、辛酸をなめてきた、老いの身に届く人生の音に耳を澄ませてみましょう。
 仏教語大辞典を編纂した中村元氏は「老いは幸せの果実である」と述べ、老いそのものが恵まれた生の結実であり、喜ぶべき事としています。生かされ、生きてきた事実に心が及べば、感謝の想いが溢れてきます。老いて、今いのちのある事はあたりまえの事でしょうか。

晩年の日蓮聖人は「今日の存命不思議に覚え候」と述懐されています。生死の境を、数知れぬ法難を越えられた聖人のお言葉は、まことに重く、深いものがあります。私達に「おかげさま」の眼があれば、老いの喜びが見え、足下の小さな幸せを拾うことができます。若い日にはない、老いの豊かさを享受したいものです。
 そして「老いは死に至る病い」い言いますが、お題目に全てをゆだね、「次の生の仏前を期すべきなり」(持法華問答抄)のご教示にしたがって、生死を貫く安心を頂こうではありませんか。


老いと若きと-次世代へ継承されていく暮らしの文化
19.3.20

家庭内の老いと若きの交流が希薄になっていないでしょうか。就労世代は多忙で、早朝出勤と遅い帰宅という時間のズレ、価値観や関心の相違があり、共通の話題も少ないように感じます。互いの居室にあっても干渉しない生活形態で、時に何日も会話がないという事を聞きます。老若のふれ合いが欠けるとお年寄りの心身の変化に気づきません。認知症のサインも見落としかねません。認知症の病状は徐々に進み、早期発見で進行を遅らせたり、改善することが出来ます。また、世代間の交流は心の安定に欠かせません。

ある檀家のお婆さんはベットの暮らし。玄関脇の小部屋が居室です。家族は農作業に出かけるとき財布をあずけ、お婆さんは集金人を招き入れ、用事を足しながら地域の情報を得ています。家族はテレビを見るお婆さんから天気予報を聞き、農事の段取りを考えます。息子は「ラジオを持って出て、わかっている時もお婆ぁに聞いている」とさりげなく言います。ほっとする話です。

保育園の祖父母参観に出講した折りのこと。「先生、今日からお彼岸だって」「今夜はお月見だよ」などと声を掛けてくる子は三世代同居の家族。園児が土手に咲く小さな花を摘んで家に帰ると、ママはすぐ枯れるからとゴミ箱にポイッ。祖母は乳酸飲料の小さな空ビンに花を挿すゆとりがあるとは、園長先生の話でした。孫とのふれ合いは祖父母の喜びであり、生き甲斐です。幼き者の人間形成によき影響を及ばすことは間違いないでしょう。孫とのふれ合いは、ママ(嫁)との関係を心掛け、節度をわきまえる必要があります。
私事になりますが、亡母が九十を過ぎた頃の話です。繰り返し同じ事を話すようになりました。それを告げると、昔、中国に母一人、子一人の家があり、終日水の音が響いていた。年老いた母が、しきりに何の音だと聞くようになった。幾度問われても「あれは谷川の音だよ」と優しく答えていた孝行息子の話を耳にしたことがあると言うのです。すぐには返す言葉がありませんでした。

母はやがて介護の日々に移行しました。朝は行き先を告げ、寺に戻って母の部屋を覗くと「どこへ行ってきたの」と聞きます。ある日、今言ったことを忘れたのか、それとも承知して聞くのかを尋ねると「両方あるよ」の返事に苦笑したものです。家族(息子)と話したいという「心の渇き」を知りました。暑さ寒さがしのげて、腹さえくちければ事足りるものではありません。

新盆の回向に伺った家のことです。「お爺さまに教えてもらったように飾りました。間違っていないでしょうか」という挨拶に接し、老いから若き(次世代)へ継承されていく暮らしの文化、その形と心を思いました。夏座敷に家族のお題目が響き、盆棚の遺影はあるべき位置から子孫を見守るように、温かい眼差しを注いでいました。

若い世代は祖父母や父母たちに家の歴史、戦中・戦後を生き抜いたエピソードを尋ねてください。老いた世代は生きてきた証を、お題目と出会えた悦びを語り継ぐ責務があります。若きは聞き流すのではなく、心に留めるゆとりをもってほしいと思います。語り継ぎ、受け継がれた、老いた者の心は喜びに満たされ、安らぎに包まれることでしょう

 日蓮聖人は「有智の高徳をおそれ、老いたるを敬い、幼きを愛するは内外典の法なり」(新池御書)とお示しです。仏教の経典を内典といい、これに対し仏教以外の教えを外典と言います。老いを敬う、幼きを愛するとは仏法に限りません。私達にとり、老いを尊敬し幼き者へ注ぐ愛情の中にお題目の相続があります。お題目は人生に揺るがない安心をもたらすものと確信します。次回は介護の周辺を考えてみます。 


   生きる喜びを引き出し、支えます。
命を見つめ、人生を学び、家族の絆を強くする。
 19.4.20

山間の集会所で葬儀がありました。寝たきりになり、在宅介護を受けて三年有余、天寿を全うした農に生きた一人の女性。秋の収穫が一段落して、集落の人々が総出で野辺送りの行列を見送っていた時です。人垣の中から「いい嫁に看てもらって幸せだっつら、ほんとによくしてやったわ」と言う声が聞こえてきました。

同じく家族の介護を受けた母の葬儀で、喪主である息子が謝辞を述べました。会葬者への型通りの挨拶の後、公務が多忙で介護は女房にまかせきりだったこと、小、中学生の娘達がオムツの交換を手伝ったこと。心根の優しい娘達に育ったのは母のお陰だと、一部始終を話しました。そして「A子、苦労をかけたなぁ、おふくろをよく看てくれた、俺はうれしかった。A子ありがとう」の言葉で結びました。思いがけない夫の一言に、妻は袂からハンカチを取り出すと目頭を押さえました。嫁いでから姑とのふれあい、そして介護の日々、さまざまな思いを洗い清める涙だったにちがいありません。言葉にならない余韻がしばらく式場を包んでいました。
 しかし、嫁を讃えるこれらの美談は、もう過去のものにしたいと思います。夫(男)たちも介護と向き合い、考えることは時代のテーマです。
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ピンピンコロリは誰もが願うところですが、運動や健康管理に努めても、寝たきりにならないと言う保障はありません。若い者たちに世話を掛けたくない、としきりに言っていた人が、意に反して介護を受ける身となり、ひどく落ち込んでしまいました。自らを責め、愚痴をこぼし、申し訳ないと言うばかりです。一方、ピンピンコロリも、ありがとうの一言すら交わせなかったと、後に残る者の嘆きは深いものがあります。いずれも避けがたい人生の局面です。

介護との出会い-介助する者、それを助ける者。それぞれの立場に身を置くことも、仏教的に言えば、因縁によって生起する事柄です。与えられた境遇を諦めるのではなく、事実を受け入れ生かしていくしかないのです。嘆いてみても益することはありません。自分でできる幸せ。そのありがたさは失ってみて初めて実感するといいます。してもらえる、そして、してさしあげる幸せを、それぞれが見いだしていきたいものです。

介護はきわめて人間的な営みです。生きる喜びを引き出し、支えます。介護は命を見つめ、人生を学び、家族の絆をたしかめ強くする機縁になります。
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とはいえ、介護の現実は本当に厳しいものです。食事、排泄、入浴とどれをとっても容易ではありません。体験した者でなければわからないことです。義父を介護する主婦に様子を伺うと「相変わらずだに」という返事でした。そこには相変わらすでほっとする気持ちと、そうはいうものの、いつまでこの相変わらずは続くのかという思いがあるのです。
 介護はゴールを期待してはならないマラソンレース。その立場を周囲が理解して、どのように支え、応援するかがポイントの一つです。介護を受ける側の心配りも大事でしょう。日常の介助でも、「すまない」「申し訳ない」よりも「うれしい」「ありがたい」の言葉が手をかける側の心に響くそうです。

特養ホームの研修に臨んだ時でした。講話をされた施設長に、世間の人たち一番訴えたい事は何かと尋ねた時の「身近な者、なかでもお嫁さんをもっともっと大事にしてほしい」という答えが、印象深く心に残っています。

介護を受けた方の枕経や通夜に参ることがあります。永年の重荷を下ろして、やれやれといった思いの家族もいます。一方、老親の介護をなしとげたという達成感が伝わってくる家族は、介護の労を分かち、心を合わせ、さまざまな局面を克服してきた家族のように思われてなりません。
 介護は制度だけにゆだねられません。介護の基本は「人」にあり、「心」にあるといえないでしょうか。


「お母さんをたのむね」 老親介護は孝養 
 2007.5.20 

「曜日が消えました、日付が消えました、月が消えました、季節が消えました、残っているのは朝から始まる現実」(「あなたがそばにいるたげでいい・介護する家族に贈る言葉」より)

義母の介護をした人が、深夜の対応に備え、パジャマを着たことがない、枕元にはカーデガンを置き、ズボンのまま床に入って休んだと言います。介護すると四六時中、念頭から離れることがありません。時間的にも精神的にもゆとりを欠き、本人が気づかぬうちにストレスが溜まります。

介護に全力を注ぎたいという思いは尊いものです。しかし、頑張りすぎないことです。上手に手を抜き、いい加減にすること、そうしないと共倒れになります。また、頑張りすぎると、周囲の頑張っていない人を許せなくなるものです。これはお互いに不幸なことです。更に認知症などの障害が伴うと、世話する側の優しさや誠実だけでは抱えきれません。介護のストレスからくる殴る蹴るの暴力「いつまで生きとる気だぁ」といった暴言、介護放棄や経済略取などの虐待が行われます。高齢者虐待は発見が遅く深刻化の傾向にあります。介護家族を孤立させない配慮が必要です。

幸いにして介護の社会化がすすみ様々なサービスがあります。行政の窓口や介護支援の施設等に相談し、上手に活用しましょう。それは私達の権利です。
 ある介護家族の主婦の嘆きです。義姉たちが見舞いにきては、シーツがしわだらけ、枕カバーが汚れていると言って帰っていく。介護と家事の合間に家業を手伝うのは長男の妻です。このような外野席からの言葉はいかがなものでしょうか。見舞客ではなく、ヘルパー、サポーターとして手を差し伸べ、声をかけてほしいものです。

私事になりますが、90を越えた母の在宅介護5年4ヶ月の時期があります。近隣、知人からの励ましや支援は忘れられません。ことに介護を経験した人のいたわりの言葉はうれしく「お婆(お母)さんをたのむね」と言われると、素直にうなずき、元気づけられました。母の話し相手になった方も幾人かいて助かったものです。顔を見たい、会いたいとしう声に、多少乱雑な部屋へも入っていただきました。家族以外の人と交わることは刺激になり、母は楽しみと生きる力をいただきました。

川柳の「老いた母 持てる幸せ不幸せ」の一句は、思わずハッとさせられました。優しくしてあげたいのに、それができない時と場面があります。介護には二律背反や葛藤が生じやすく、嫌な自分と向き合うこともあります。

母の最期のステージで、日に日に衰弱していく様を見守って、その時が来るのだと胸迫るものがありました。
 「衰えた厳しき母の手 母の足に頬ずりをする一人なるとき」。新聞の歌壇の一首。作者は50代の男性。妻や子のいない時、そっと頬を寄せるという男の情念に共感を覚えました。もう一首「いずれ行く道と知るべし し尿取る霜月の朝 父の肌温し」。作者は女性。娘か嫁なのか。いずれ行く道として、自分の将来を重ねる優しさと温かさは何ものにもまさります。

老親介護は孝養に他なりません。年老いた父母の身を手厚く扱い、尽くすことの大切さは数多くの経典に見ることができます。増支部経典の次の一節に目が動かなくなりました。

「比丘らよ、われは二人に報いを尽くすことあたわず、誰をか二人となす。母と父なり。(中略)一肩に母を荷うべし、一肩に父を荷うべし。父母を塗身、揉和、沐浴、按摩によりて看護すべし。父母は肩の上にて放尿するも、なお父母の恩を報い尽くすことあたわず…」と。比丘とは男子の修行僧。 両肩に荷なう年老いた父と母が失禁しても、父母の恵みには報じなければならないとしています。

日蓮聖人の「親は十人の子をば養えども、子は一人の母を養うことなしと」(刑部左右衛門尉女房御返事)のお言葉は厳しい少子高齢化の条件のもと、介護現場にどう生かしたらよいのでしょうか。




6 「あんただれ」「誰だったかなぁ」
認知症の現場、介護する側も心にお題目を唱えたいもの
  2007.6.20 

「あんただれ 誰だろうねと 母を拭く」年老いた母の介護をする娘の川柳です。毎朝、蒸しタオルを絞り、顔から首筋、手足を清拭するにっかとなっています。母はもう娘の判別がつきません。「何言ってるの、嫌だねぇ、娘の○○子じゃない。忘れちゃったの? だめね、しっかりして!」と何度言ったことでしょう。見上げる母の目差しに幾度涙したことでしょうか。今では、「誰だったかなぁ」と笑顔で応えるようになりました。全てを受け入れ、肩の荷が少し下りて、心にゆとりを持って介護に臨んでいる様子が伺われます。

痴呆の「呆」は、赤子が両手両足を高く上げている形からできている文字です。年老いて子供に返っていくことを「にどぼこ」「にどわらし」と言います。「ぼこ」は小児、赤ん坊のこと。「わらし」は童衆と書きます。
 
「にどぼこ」は東北地方で女性が老いて再び子供のようになることと辞典にありました。この状態を死の恐れをなくす天の配剤と受け止め方があります。
 「痴呆」は「認知症」と改称され、広く知られるようになりました。神経細胞が消失してしまう脳の病気です。遺伝、環境、加齢など複合的な原因で発病し、悪化すると感情が乏しく意欲もなくなり、ぼんやりしたり、寝たきりの状態になる「アルツハイマー型痴呆」、脳梗塞や脳出血により発症し、多くはこれを繰り返す中で進行する「脳血管性痴呆」があり、障害が生じた脳の場所により能力がまだら状に低下することがあります。

妄想、徘徊、失禁などがおき、理解できない行動や言動に介護者はとまどいを覚え苦闘します。本人もまた、混乱と不安を抱えています。
 対応としては、
A否定をしないで受け入れること。本人に合わせ安心に導く。
 Bプライドを傷つけないこと。叱られた理由はわからなくても、屈辱感は残ります。
 Cわかる言葉で正面からゆっくり話します。

こうした配慮がされないと介護者への信頼が失われ、介護は一層大変になります。認知症の病状に直面すると、ともすれば人間失格と見放しかねません。家を思い、子や孫達のため、また社会に骨身を削ってきた過去の栄光を切り捨てていいはずはありません。その人なりのプライドや喜怒哀楽の感情は失われていません。ましてその内奥には仏種を宿しています。

日蓮聖人は法華経の常不軽菩薩の生き方を慕い、師表とされました。「常に軽んぜず」と呼ばれた菩薩は、どのような人も仏と見て礼拝を続けました。認知症の老いた父や母たちを、なお仏と拝することができるでしょうか。
「お自我偈を みんな読めて 呆けている」の一句を目にしたことがあります。
 日蓮聖人は『眼開抄』で自我偈は天の月、国には大王、山河の中の珠、人の神がごときものと教示されました。私達が常々読誦するこの根本経典に「お」の字をつけて尊崇します。

永年にわたって信行を重ねてきた方なのでしょう。間違いなく速身成仏まで暗唱していますが、痴呆の症状をみせます。それでもなお救いを覚えるのは私だけでしょうか。
 日蓮聖人は、法華経を捨てよと責められても恐れることはない、「たとい頸をば鋸にて引き切り…足にはほだし(足かせ)を打っても錐をもってもとむとも、命のかよわんほどは南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、と唱えて唱え死ぬならば…」(『如説修行抄)と説かれました。

こうした激しさとはまた別の局面にある認知症の介護現場、そこに響くお題目は限りなく尊いものです。この世の命を全うするとき、ご本仏は手を取り、肩を荷って、霊山浄土に迎えとって下さるはずです。

西か東か、昼か夜か、食べたか食べないのかわからなくなっても、お題目が口に出るといいなぁと思います。ことさら厳しい認知症の場合、介護する側も心にお題目を唱えたいものです。光がさしてくるでしょう。 


おばあちゃん 長生きしてね
お題目の声あるところ・・ 生きることも死することもその救いの中に

                             2007.7.20 

「在宅死」。畳の上で息を引き取りたいという願いは叶えられない時代です。在宅看護は限られたスペース、人手不足などから施設入所を余儀なくされています。入所の方からは「家に帰りたい」という声をよく聞かされます。

こうした事情もあってのことでしょう、地方では葬儀に続き野辺送り、埋葬という形が習慣でしたが、「あんなに家に帰りたがっていたから、しばらく家に置いてあげたい」という喪家があります。「ボロ家でも家ほどいいところはねぇ」と訴えます。愛犬の鳴き声、ベッドの傍らで眠る猫、見慣れた窓越しの風景、台所からの匂い、子供の笑い声…。家は生活の場、家族の歴史が、思い出が詰まっています。在宅医療に取り組む医師が「病院では独りの患者の顔だが、家では主の顔つきで威厳がある」と話してくれました。

しかし、介護を含む死に場所を選ぶことは容易ではありません。少子高齢化の進展は「多死」「孤立」の社会を現出します。我が国の年間死亡者は平成15年に100万の大台に乗り、平成47年には160万のピークを迎えると推定されています(人口問題研究所)。その多くが高齢者です。昭和初頭、80歳以上の死亡は5パーセント未満でしたが、ここ数年のうちには5割に達するといいます。

独り暮らし、夫婦のみの世帯は増える一方、3世代世帯は2割に過ぎません。夫婦のみの世帯はいずれ単独世帯になります。看取る者のすくない、あるいはいない淋しい終末、孤独死が増えると想定されます。介護はどうなるのでしょう。

そこで在宅支援や、看取りを組み入れた地域でのグループホームの試みが生まれています。寺院の一部を地域のディケアなどに開放するケースも出てきました。寺を中心とした信仰共同体として、信仰の仲間同士による介護支援も考えてみたいものです。
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わが寺の盆の棚経は息子2人と私が分担して回向廻りをします。梵妻(僧の妻・だいこくの意)は介護家族には住職が出向くように日程を組みます。読経が済めば限られた時間ですがベットサイドに腰掛け言葉を交わします。衣の袖をつかんでいつまでも離してくれません。「お上人さん、たのむねぇ、よろしく」と、私の目をじっと見据えます。それには様々な意味があり、最期はお釈迦様、お祖師さまのもとへしっかり導いてほしいという願いも入っています。手をとって大きくうなずき、合掌に合掌を重ねお題目を唱えることもありました。

「こんなになって生とってもしょうがねぇ」「厄介かけるだけで、おらぁ何もできん」というお爺さまがいました。「無理もないね、そう思うよね。休んだままでいいから、家族の幸せを祈ってお題目を唱え祈りましょう。お題目はいつでもどこでも、誰にでも唱えられるもの」と話しました。寝たきりになって下のことがわからなくなっても手を合わせる人を誰が足蹴にできるでしょうか。

「ねぇ、おばあちゃん、おばあちゃんはそこにいるだけでいいの、息しとるだけでいいの、長生きしてね」と小学生の孫から声をかけられたお婆さんがいます。孫の優しい心根に涙が止まらなかったと話します。孫の言葉を通した仏様のお心だと思うのです。

「そこにいる」存在することはすごいことです。老いていくこと、いのちの火が燃え尽きるありさまを子や孫が見届けること、それは一歩先を行く者からの最大にして最期の贈り物でしょう。
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母が在宅介護になって迎えた正月のこと。書き初めに日蓮聖人の『可延定業御書』の「一日も生きておわせば功徳積もるべし、あら惜しやの命や命や」の一節を大書して母の居室に掲げたことがあります。節くれ立ち細くなった手を合わせ、何度もうなずいていた母の姿を思いだします。90半ばの老いの声とは思えないお題目が、日に幾度か聞こえてきました。お題目の声あるところ、生きることも死することも全てがその救いの中にあると思うのです。


心にゆとり、持たせることも必要   介護は順送り、父や母、しゅうと、しゅうとめ、そしていずれは自分の番

                              2007.8.20 

介護の想いを短歌にたくす「介護短歌」と呼ばれるジャンル(部門)が生まれました。新聞の歌壇でも介護に関する作品を度々目にします。
   この野郎覚えていやがれ忘れぬぞ 母の罵声を背中に受ける
作者は男性。対応が気に入らなかったのか、虫の居場所が悪かったのか、母は部屋を出て行く息子に思いの丈をぶつけています。私は介護を受ける者も、折々の想いを言葉に出して吐き出すことが大事だと考えます。弱音を吐いてもいいのです。ベットの暮らしが長引けば苛立つことだってあるでしょう。幸いなことに息子は作歌することによって心の浄化を得て母を受け入れています。

   恍惚の童女となりし母なれど 忘れず「有難う」「きれい」「うれしい」
認知症状を見せる母、さしのべる手にいつも決まった言葉が返ってきます。ありがとう、きれい、うれしいの三語に生きる母から、娘は今日も元気をもらっています。小さな幸せを拾えそうな母と娘がいます。

    さまざまな話題もちくる息子のありて ホームのひととき彩りそえくる
ホームで暮らす母のもとを訪ねる息子、今日はどんな話題を届けてくれるのか、談笑する母と子の姿が浮かぶ一首。入所して時がたち家族の足が遠のいて捨て置かれるような高齢者もいると聞きます。一度でも多く顔を見せに、また顔を見に出向きたいものです。訪ねる側が思う以上に待つ身の喜びは深く大きいのです。
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介護は少しでも心にゆとりを持つ、また持たせることが必要です。心のゆとりで思い出す新聞の投書があります。介護の話ではありませんが、おおよそ次のような内容でした。

雨の日のバス停の出来事。土地に不案内のお婆さんが運転手の後ろに座っている。このお婆さん車内の放送にはおかまいなし、バスが止まるたび「ここはどこ?」と聞く。運転手はその都度親切に答える。やがて「お婆さんの降りるところがきたら教えるから」と答えると返事をしなくなった。するとお婆さんは持っていた傘で運転手の背中をつつき「ここはどこ?」。投書者がハラハラしてながめていると「ここはどこ?」「そこは私の背中!」。こんな運転手さんが増えるといいね、という結びでした。心のゆとりからユーモアが生まれます。
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 「柏餅の葉っぱ」と題された文があります。柏餅の葉っぱは、食べられないだよって、小さいとき、おふくろに云われたにちがいない。この僕が、そのおふくろに向かって、柏餅の葉っぱは食べられないだよって、言い続けている。これも人生、これが人生。(「あなたがそばにいるだけでいい・介護する家族に贈る言葉」より)
介護は順送り、父や母、しゅうと、しゅうとめ、そしていずれは自分の番になります。
 Aさんは農家に嫁いで三十年余、頑健だった義父も年と共に衰え、やがてくるであろう介護を心に決めていました。義父は野良で一服したとき、「俺も年を拾った、厄介かけるがおたのみな」と口にしました。Aさんは、その言葉を聞いてなぜかほっとしたと話してくれました。
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加齢と共に人は案じられ、支えられる身になります。何か事のはずみがあっても「おまえ達若い者の世話にはならん」などという強がりはいかがなものでしょうか。川柳に「手を引いてくれる嫁のいる老いの坂」があります。年積もり老いを深めるさまを坂道を登るにたとえています。「あぶないよ」と差し伸べられる嫁の手に感謝したいものです。

 自我偈には「質直にして意柔軟に」とあります。柔軟とは「やさしい心。人生のまことの姿に従って逆らうことのない心」を意味します。お題目は心を調える最善の方法といえましょう。


人は老親を看病し、看取ることによって初めて大人になる。
 介護は人を強くも優しくもする。 介護もまた仏道修行
。 2007.9.20

近くの村から「介護者の集い」に講話の依頼がきました。行政が在宅介護の人たちに情報交換と息抜きの場を企画したのです。集まったのは対象家族の約三分の二、40名ほどです。妻や嫁そして娘、孫娘という関係、また男性(夫)も2、3名います。保険師と私の話の後、話し合いの輪ができました。

「今朝は女房が父ちゃんありがとうというなり涙を流すんだよ。こっちもこみ上げるものがあって手元がかすむ。若いとき好き勝手なことをやった罪滅ぼし。何とかしてやろうと思う」と言う声がありました。二度三度うなずく人、目頭を押さえる人、介護を担う者同士が分かち合う感情です。こうした日頃の思いを語り合うことが明日のエネルギーとなっています。
 □ □
認知症のグループホームの介護士の話です。時には戦場のようになります。それでも周囲が本人の気持ちに添う対応ができれば、落ち着きを取り戻してくれます。異常な行動にも必ずそれなりの理由があります。介護する側の感情や人間性に敏感です。その人らしく生活に身を置くと穏やかな表情をみせてくれます。これが介護の原点ですと教えられました。

また認知症を理解し的確に支援できる人(サポーター)を増やしたいと呼びかけています。安心して暮らせる高齢社会の実現は、私達一人一人のありようにもかかっています。年老いた人をいかに遇するかは文化の尺度です。
 日夜介護に打ち込むスタッフには頭が下がります。ただそれに見合う報酬が得られていません。介護福祉の有資格者は47万人、そのうち現場に立つのは27万人です。離職するケースが多いと報道されています。介護の社会的評価は高いとはいえず、またハード(困難、激しい)な現場です。
□ □
介護は出来る限り本人の意思や持っている能力を引き出し、自立を助ける方向が望ましいとされています。寝返り一つでも自分で出来ることは、努めて試みてほしいといいます。年老いた惨めさ、思い通りにならない身にため息をつく、失ったものを嘆くばかりでなく、残された能力を活かすことに目をむけようと思います。

老いることは人間の定め、介護もまた自然の成り行き、誰もが親の老いに直面します。若いときは我れ関せずでも人生の時節は巡ってきます。「昨日は人の上、今日は我が身の上なり。花さけばこのみなり、嫁の姑になる事候ぞ」とお示しです。
□ □
介護は壁であり、また扉でもあります。介護は人を育て、人を大きくします。日本テレビの「NNNきょうの出来事」のキャスターを努め第一線を退いた小林完吾氏は語ります。「認知症の母の現実に付き合ってみて、人は子供を育て初めて大人になると云いますが、私は人は老親の看病をし、看取ることによって初めて大人になるのだと確信しています」と。介護は人を強くも優しくもします。壁と見るか、扉とみるか、扉の向こうに何が見えてくるでしょうか。介護もまた仏道修行にほかにりません。「是の処は即ち是れ道場なり」(法華経・神力品)の聖句を胸に捉えたいものです。
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仏教は人の生き方として慈悲を説きます。「慈」は“請わずの友”という意味があり、求めがなくても、そって手を差し伸べる優しさをいいます。「悲」は、人生のどうすることもできない悲しみや苦しみに共感、同苦する思いやりのことです。

釈尊がご在世の日常の一コマが今に伝えられています。老いて病に倒れた弟子を見舞われた時のことです。大小便の中に伏せっている弟子を見て、自ら湯水でその身を洗い清めておられます。その折りに弟子達を導かれたお言葉は次のようなものでした。「私に仕えようと思う者は病む者を看病せよ」(中村元訳)。いのちの尊厳に根ざした釈尊の大きな深い慈悲の心を思わずにはおれません。

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生 と 死
お題目の鋤をもって心の大地を耕そう
田畑が荒廃しては、人生の実りも、有終の輝きも望めない。
 2007.10.20 

「人生は出会いと別れに尽きる」といわれます。人と出会い、いつか別れを迎えます。さまざまな出来事にも遭遇します。また思想や宗教との出会いもあります。いずれも人生を方向づけ、喜びや悲しみをもたらし、転機や試練を与えます。人生は出会いより広がり、別れによって深みを増します。死は全ての人に訪れ、生あるものは死において平等です。

医学者で歌人の斎藤茂吉に次の一首があります。
  「暁の薄明に死をおもうことあり除外例なき死といえるもの」
「除外例なく」訪れる死に思いをはせています。「死の縁は無量なり」の言葉通り、死に至るきっかけは無数にあります。それはいつ、どこで、どのように訪れるか予測はつきません。日常の暮らしの中で心疾患や脳血管障害による突然の死。ガンなどによる闘病の果ての死。朽ちた木が倒れるような緩除な死。災害や交通事故。犯罪被害による非業な最期。また自死を選ぶ場合もあります。

10年連用日記を手にした時です。表紙をくくった左右の見開きは、向こう10年のカレンダーの小さな数字で埋まっていました。この中に私の命日になる日があるかも知れません。ふとそんな思いがよぎって、60半ばに達した年齢を自覚させられました。
 中学国語の時間に習った「少年老い易く学成り難し」の勧学詩。いま「階前の悟葉己に秋聲」を実感します。

信行会月例で「私は葬式の予約をしてあります。この大法寺の本堂です。ただし日取りは未定です」と話し、年輩の方に「私が皆さんの引導を申し渡すとは限りませんよ。私が先でご会葬いただくかもしれません。“生きてる者は同じ年”と教えられたことがあります。これを“老少不定”というのです」と法話をします。

          人生の降車駅
一年に幾度かは長距離バスやJRを利用して上京します。ターミナルは新宿駅。JRの路線は飯田線と中央東線のおよそ280㌔。人生80年と想定して40歳は甲府の東寄り石和温泉付近。私の列車は既に神奈川県境、小仏トンネルを出て都内に入っています。

この列車は信州へ戻ることはありません。時刻表は往路のみ、復路は載っていません。しかも新宿まで行き着くとは保障されません。何の準備のないまま突然、あなたはここが降車駅ですと告げられるかもしれません。私はあわてふためくことだろう。やり残したこと、果たせなかった夢の全てを投げ出していくしかありません。新宿までの命を賜れば、車窓には新宿副都心の高層ビル群が近づいて来ます。「間もなく終点です。網棚の荷物、お手廻りの品、お忘れ物のないように」とアナウンスが流れます。列車は静かにホームに滑り込む。その時私は心落ち着いてホームに立つことができるだろうか。いま走ってきた2本のレール、私の人生を振り返る余裕があるだろうか。何がしかの手荷物の中身は何だろうかと、思いをめぐらす時があります。

釈尊は「人は死の領域に近し」「山の狭間、海の底に隠れるとも、死の力の及ばざることなし」「この世にあるもの、動くと動かざるとにかかわらず、みなこれ滅びと移り変わりの姿なり」と無常観を示されます。
 仏教では生と死は別々のものではなく、一つのもの(生死一如)。生の中に死が、死の中に生があります。生の果てに死が待つのではなく、生と死は私と共に歩んでいるととらえます。

死を語る時はおおむね他者の死です。死を体験的に語ることは不可能であり、他界して再び戻ってくる者はいません。いつか迎えるその日に向けて何をどうすべきなのか、自らの死をどう引き受けるのか、安心は、覚悟のほどは…。生ある限り迷い、戸惑い、おののきは尽きないでしょう。

私達にとってはお題目の鋤をもって、自らの内なる荒野、心の大地を耕すしかないと思うのです。心の田畑が荒廃しては、人生の実りも、有終の輝きも望めないと考えるものです。

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生と死 2
死に価値を置く文化が宗教
日本人にとっては仏教です。 
 2007.11.20 

私が五十歳前後の頃でした。朝刊のコラムに「今日という日はこれからの人生の最初の一日である」とありました。その言葉は惰性になりがちだった心の隙間に飛び込んできました。やり直しができない人生だが見直しはできる、今日この一日は手つかずな新鮮な命だと思いました。朝の光を浴び時、この言葉が浮かんでくることがあります。

それから10年ほどしてNHKテレビの「百寺巡礼」で身延山にも登詣した作家・五木寛之氏の著書に「今日という日は人生最後の一日と思うべし」がありました。死は遠い先、観念であった若い時と違い、還暦の老眼鏡がこの言葉を拾い上げました。今日一日限り、明日はもうない、やることは山ほどある。良いも悪いもピリオドを打たなくてはなりません。これは容易ならないと思いしりました。

よく考えてみると、この二つのフレーズ(成句)は二つにして一つです。日蓮聖人の「一日の命三千界の財にも過ぎて候」(可延定業御書)に通底します。一日の光陰を無にしては、賜った命に申し訳がありません。タイムイズマネー(時は金なり)とは言いますが、タイムイズライフ(時は命たり)でありましょう。

長生きしたいものだと言いますが、長生きをして何をしたいのか、何ができるのか。量も大事でしょうが、質も考えてみたいものです。人のために使う時間もあれば、自分のために使う時間もあります。人は死に臨むと、私の一生は何だったのか、自分がこの世に生を受けた意味は何だったのか問うことになります。全てはいかないまでも、あれはあれで良かった、これはこれでまあまあだと幾分でも満たされるものがあり、「さようなら」ができればよいと思うのです。

境内の掲示板に「木の葉散るわれ生涯に何なせし」の一句を大書した時でした。郷里に帰り実家の法事に参列した白髪の男性が立ち止まっていました。紅葉も末となった山裾を過ぎていく時雨を見やりながら「胸に迫るなあ。よく死ぬとはよく生きることなんだなあ」と言い残すと、本堂に一礼して寺を後にされました。

日本人にとって花とは桜。日蓮聖人も御消息(書簡)に「春は桜」「さくらはをもしろき物、木のなかよりさきいず」と記されています。咲いて良し、散って良し、桜に寄せる日本人の情感はとりわけ繊細です。花に酔いしれるのも、やがて散るからでしょう。散るからこそ咲き誇るその時を愛でるのです。

死というものは人を謙虚にします。散るからこそ今日の一日をいつくしむのです。「死を見つめて生が輝く、生きるならば死を鏡とせよ」と書き遺したは、作家の山本周五郎です。死というものが視野にない生は軽薄であり、生の奢りを感じます。限りある生を思うとき、人との出会いを大事にしないではおれません。「一期一会」の所以です。死を忌み嫌い、目をそむけていては、死に向けての心の準備ができるはずはありません。

入寺して初めての葬儀が心に残っています。通夜の枕元には、81歳の天寿を全うした媼が手ずから縫い上げた白い経帷子(寿衣)が折り目正しく置いてありました。「見てやっておくれよ、いつ仕上げたものか、この縫い様を」と親類の婦人が感じ入った声で周囲に呼びかけていました。一針一針、どのような思いを縫い込んだものでしょうか。40年も昔のことになりましたが、その時の情景は今でも厳粛な思いにさせてくれます。「人は死すべきもの」という自覚は人間の証です。

死は全てを無に帰するもの、一切の終わり、無価値なものでしょうか。死を意味あるものとし、死に価値を置く文化が宗教であり、とりわれ日本人にとっては仏教です。
 死を恐れや不安というよりも、人生の完結ととらえ、希望が成就する時だと考える人がいます。加齢と共に肉体は衰えても、精神的には一層成就して満ち足りた老境を迎える人でしょう。日頃から御仏を拝し、寺に詣で、教えに触れて養われるものの見方・考え方(仏知見)は信行の功徳として頂戴できるものだと思います。共々にお題目を唱えようではありませんか。

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生と死 3
心豊かに、愛する家族への思いやり
  2007.12.20 

「死を語る時代」といわれ、書店には死に関する出版物が陳列してあります。しかし、私達は「死」という言葉に過剰反応を示しがちです。死を口にすることはタブー(禁忌)、縁起でもないとされてきたからです。死についての話など避けて通りたい。それはおぞましいこと、不愉快なことだからです。

近年、大地震に備え広域市町村が連携して、大がかりな防災訓練が実施されています。いつ発生するかわからない地震。同様にいつかわからないまでも確実に訪れる自分の死、家族の死。無防備でよいはずはありません。

中年の域に達した夫婦であれば、お互いの最期について、その願いを語り合っておきたいものです。「俺がもしもの時にはなぁ」という話題になったとき、「あなた、そんな話やめて」とさえぎらないことです。「冗談でも聞いとくわ」と受けとめてあげましょう。仮に夫婦のどちらかが入院した場合、ベットサイドで、もしもの時はどうしたらいい?などと声がけができるでしょうか。死の宣告をするに等しいではありませんか。お互いが健康なときにこそ交わすことができる会話です。夫はもしものとき誰に知らせてほしいと思っていますか。妻の一番気に入っている着物はどれでしょう。ご存知ですか。

手広く商いをしていた当主が急逝、遺された家族は、後のことについて何ひとつ聞かされていませんでした。その上、重要書類のありかがわからず、事後の対策や処理に苦慮して、悲しみを一層複雑にしたと聞いたことがあります。

Aさんのお宅を訪ねたときです。「これは葬儀用の写真だ」と、押し入れから取り出した風呂敷包みを開けてくれました。温厚そのものの白髪の老紳士、すでに額に納めてありました。「俺のお気に入り、ちょっとしたイケメンだろう。あとはリボンを付けるだけ」と笑ってみせます。本物より男前だと応じながら、その用意周到ぶりに敬服したものです。

葬儀の後には野辺送りがあります。葬列の役付は喪家の家と家、人と人との関係を後代に留める資料にもなります。その役付のメモを遺したお爺さまがいました。息子は、親父はここまで仕切って逝ったかと、驚きを隠せません。それでも親父が決めた序列、申し開きができると話すのです。背景に複雑な姻戚関係があり、口やかましい地域のこと、お爺さまの心配りが感じられました。

 「生前に墓を建てたいが、お迎えが早く来る、やめときなと言われたが・・・」と寺に来た方がいました。墓を建てなければ死なないで済むなら別。生前に建てる墓を「寿陵」といい、事が成就すれば心も落ち着き、長生きできるでしょうと応えました。

民俗学によれば、墓は命の果てたところをいう果処(はてか)、葬ったところの葬処(はふりか)に由来します。自分の命の落ち着き先を見届け、安心したいと希望する人がいます。一方、墓のことは次の世代にゆだねたいと考える人もいます。それぞれの人生観で答えは一つとは限りません。

遺産相続については、遺言書によりその意志を明確にしておきたいもの。とかく遺言は先送りにされがちですが、認知症が生じないうちに実行しておきましょう。家庭裁判所の調停を担当しますが、血を分けた者の確執はやりきれません。この辺で譲歩して、心おきなく墓参りができるようにしましょうと、収拾を試みることがあります。

日本に死生学を確立したアルフォンス・デーケン氏(上智大学名誉教授・哲学)は、「死の前になすべき六つの事柄」をあげて、
①少しづつ手放す ②許すこと、和解することを身につける ③感謝の気持ちを伝える ④意識がはっきりしているうちに「さようなら」をいう ⑤遺言を書く ⑥自分なりの葬儀方法を考え、周囲に伝えておく、を提案しています。日蓮聖人の「先ず臨終のことを習う」の一環でありましょう。

「死への準備」に早すぎることはありません。それは心豊かな生のためであり、また愛する家族への思いやりです。その基底をなすものは、お題目を唱え、唱えることに尽きるのです。
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生と死 4
 最期の拠り所は家族の温もりです。
  200.1.20 

前回はアルフォンス・デーケン氏(死生学)の「死の前になすべき6つの事柄」をとりあげました。さらにアメリカのホスピス医、スコット・エバリィ氏の「死を迎える心の仕事5つ」を紹介します。

A人生の意味を見直すB自分を許し他人を許すC「ありがとう」と感謝の気持ちを伝えるD「大好きだよ」と愛する気持ちを伝えるE「さようなら」を告げる。というものです。
Bはデーケン氏の「許すこと、和解することを身につける」と重なります。 
四十九日の法要と墓参がすみ、会食が始まった席のことです。施主の夫人にとって、姑の供養の日です。
一年余の在宅介護は、五十半ばの夫人が支えてきました。その間に嫁と姑が交わした言葉やエヒソードを問わず語りに話し始めました。このような時は、ほとんど良き看取りと別れができた場合が多いものです。

ある朝のことでした。食後のお茶を下げるために部屋に入った夫人に、「お母さん、まあそこにお掛けな」と椅子をすすめました。孫達の母親であり、お母さんと呼ばれていました。あらたまったこの声にいぶかしく思った夫人が姑と向き合うと、「お母さんが家に来てくれてから、随分きついことを言ったよね。この家の人になってほしかったの。ごめんね」「あとはお母さんにおまかせ。もうすっかり安心しているの。いろいろな事があったけど許してね」と手を合わせました。予期しない姑の言葉に思わず「おばあちゃん、私の方こそごめんなさい。至らぬ嫁で・・」の一言が口に出たそうです。
 あとはこみあげるものがあって言葉になりません。姑のベットの布団に顔を埋めた夫人の肩に姑の手の温もりがありました。

法要のさなか、遺影に向かって、素直に手を合わせることのできる仕合わせに感謝しました、と。姑の言葉は夫人の心にいつまでも生き続けることでしょう。自らを許し、他を許し、こだわりから解き放たれる、身軽になることは、仏教でいう懺悔です。

 朝刊の歌壇に次の一首がありました。
    最期まで腕の時計を見ておりし 国鉄マンが身につきし父
命の極みにあってなお生きてきた日常を見せています。至上命令は乗客の安全と正確な運行。大都会の朝夕のラッシュ、タイムテーブル(時刻表)の励行に心を砕いたことでしょう。職責を果たし、人生を全うしようとする父を思う娘の眼差しは、尊敬といたわりに満ちています。「育てたように子は育ち、生きたように人は死ぬ」のです。

人生の意味を見直す、少しずつ手放すことで思い浮かぶ話があります。
 一人の男がいました。オレはオレのもの。人の物もオレのもの。ほしいものはくれ、くれと手を出す。そんなに日常を送っていました。年老いてこの世を去る日が近づくと、あの世へは何一つもって行けないと思い知りました。そこで身内に命じ、棺の両側に穴を開けさせ、腕を伸ばし、手を広げて死んでいきました。何一つ持っていけないのだと言いたかった男の意志に反して、集まった村人は口々に「見ろやい、死んでもまだ、くれ、くれと手を出しているぞ」と。寓話に出てくる男の最期です。

人は誰しも人生を振り返り、その意味を自分に問うのです。よりよき死は、よき生き方に根ざします。急によい死に方を手に入れることは不可能です。棺から手を伸ばした男は、そのまま私達の姿です。よきにつけ、悪しきにつけ、それまでの生を切り捨てることはできません。

ところで、私達は何一つ持っていけないのでしょうか。そんなことはありません。お題目の功徳を携えていくのです。

日蓮聖人は、蔵の財、身の財より、心の財を積みなさい。お題目は後生を導く灯火であり、杖となり、柱ともなると示されました。

最期の拠り所、頼りとなるものは何ですか。布団の下にしのばせた貯金通帳ですか、証券ですか。それ以上に大切なものは家族の温もりです。またお題目に優る尊いものはありません。お題目の功徳を積もうではありませんか。

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生と死 5
死の不安から、いのちへの安らぎへ
2008.2.20

いづれかが一人になる日恐れつつ愛添ひて見る伊豆の夕映え
 新春の歌壇を読み目にとまった一首です。
 作者は東京の男性。西伊豆に旅した老夫婦なのでしょう。駿河湾の彼方に落ちる夕日が空も海も染めあげて、その中に立ち尽くす二つのいのち。お互いの心に通いあう思いは何でしょうか。

川柳に「どちらかが必ず座る通夜の席」があります。いつか二人を分かつ日が訪れます。無残にも「死」は愛するものを奪い去っていきます。誰もが避けがたい定めと知り、傍らにいる者を気づかうのです。

忘れがたい老夫婦がいました。私がまだ二十代の頃です。月回向がすみ、こたつをすすめられ、ひと休みしていた時です。お婆さまが「お上人さん、ご厄介になるのは、私が先か、お爺ちゃんが先なのか」というお葬式の話題になりました。「お爺ちゃんが先で、私があとに残ったほうが幸せですよね」と問いかけてきました。この手の話は年若い者にとっては不得手なもの、うかつな返事はできません。困惑していると「お爺ちゃんが逝ったら、私もじきに逝くでね」と言われました。話はこれで終わると思ったのです。口数の少ないお爺さまが言葉をつなげました。「あわてることはねえさ。ゆっくりしてこいや」と。あったかい、ほのぼのとした心地になったのを覚えています。お婆さまはお爺さまを看取って、住み慣れた信州を離れ、息子夫婦が暮す東京の家に迎えられ、お題目を唱え穏やかな日々を送りました。

同じようにつれあいを亡くしたお婆さまがいました。初彼岸に伺った時です。「淋しくなったね」と声をかけると、「淋しいことは淋しいけど、わしゃあ幸せね」といいます。それは前の年の秋、アルプスの頂に雪がきて、里山は紅葉の盛りでした。農家の午後の休み、縁側に腰を下ろしてお茶を飲んでいるときです。「ここまでお婆ぁと暮してきて俺は幸せだったぁ」とポツリを口にしたそうです。それからしばらくして、にわかな別れになってしまいました。しかし、生前のお爺さまの一言が、独り身となったお婆さまの内側から支えているのです。その言葉はお爺さまの真情であり、いのちといっても言い過ぎではありません。

生と死の境を越えて、残された者の胸によみがえり生き続けます。五年たち十年たっても心に生きるギフト(贈り物)ができれば、どんなによいことでしょう。お婆さまはあるとき、「あのような物言いをちょくちょく小出しに言ってくれたら、もっとよかったのにね」と笑みを浮かべました。

その人が亡くなった時とき、その人がどのような生き方をしたのか、人生の価値が問われてきます。その人の生き方が、残された者にどのような意味をもたらすかが、その人の人生を決めるのだと思います。またその人が残し、与えてくれた愛や、優しさや、生き方が、支えとなって、明日へ踏み出す力となるのです。

長距離トラックの運転手を夫にもつ方がいます。夫は酒を口にしませんが、気性は激しく、家庭内のささいなことから言い争いになります。しかし、次の日は気持ちよく送り出すように心掛けているといいます。一つは交通安全のためです。二つには万が一あってはならないが、事故にまき込まれ、命を失うはめになっても、夫との最後の会話に悔いを残すようなことはしたくなかいからだそうです、とさりげなく話す奥さんの心根に、いたく感銘を覚えたものです。死について思いをめぐらすことは、生を考えることです。今をどう生きるかというテーマを、私自身に課すことになります。

あらゆるものには終わりがあり、それを変えることはできません。死に向かっては非力、無力で手立てはないのでしょうか。自分ひとりで人生の究極を引き受けることはたやすいことではありません。私を超えた大きな存在にすべてを委ねることで道は開かれていきます。私たちはみ仏(本仏釈尊)の「唯我一人 能為救護」(ゆうがいちにん のういくご)《ただわれ一人のみ、よく救護をなす》という慈しみの手に包まれています。死の不安から、いのちの安らぎへと導く最上の手立てはお題目のほかに見出すことはできません。ゆるぎない信を養いたいと思っています。

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生と死 6
よりよく生きるためにも 法華信仰の姿を継承 
 2008.3.20

太陽と死は直視できないといわれます。太陽はともかく、自らの死と直面する日が当来します。死に対する恐れや不安には次のようなものがあげられます。死に至るまでの苦痛、一人で立ち向かう孤独感、未知であることの不安、心地よい体験ではないという恐れ、全てを放棄して生をまっとうできない不安、愛する家族や社会に及ぼすことの不安、私がこの地上から消え失せること、死後におねむく世界への不安などです。

誰しも安らかにこの生を終えたいと思っています。宗教学を東大で、医学を千葉大で修めた村尾勉氏の著した『死を受け容れる考え方』(人間と歴史社)があります。死を安らかに迎えるための5ヶ条が提示されています。

1.自分がこの世に享けた生の任務を充分に果たすこと。
2.自分がやがて後にするこの世に、気にかかるものが何もないように始末しておくこ  と。
3.自分の死後、自分の仕事を引き継いで立派にやってゆく後継者を養成しておくこと。4.身体を大切にし、なるべく長寿を保ち、死ぬ時は老樹が枯れるように生を終えるこ  と。
5.心の痛みをつくらないこと。

これらを思うと、老境に達している場合は別にして、年若く、また壮年の齢で死に臨まなくてはならない心はいかばかりでしょう。人としてこの世に生まれ得たこと、これまで歩んだ人生の意味付け、折り合いをつけある程度の納得なければ、死を受け容れることはたやすいものではありません。私達凡夫にとって、悔いのない人生だったと言い切れる人は多くないでしょう。

『一億人の辞世の句』(蝸牛社)は広く一般募集をして出版した句集です。辞世とは、この世に別れを告げることであり、また死に臨んで残す詩歌をいいます。実際のものと、自らの臨終を想定し作句したものが掲載してあります。

印象深いのは「馬鹿が付く堅さ一代悔やまれる」(岐阜・瀬尾勝美氏)の一句です。作者のコメントが添えられていて、戦前の小学校教育で、正直で堅くと教えられ、真面目に守り通した一代、はたして私の人生はよかったのだろうか、とあります。これに選者(坪内稔典氏)の評があり、心惹かれるものがあります。「馬鹿が付く一代梅咲いて」とでも直して一代を自祝すべし。と記しています。「祝う」には大切にするという意味があります。自らの人生に祝福できる何ものかを持ちたいものです。誰のものでもない、かげがえのない自分の人生だからです。

死ぬと云うことは最後に残された大仕事であると教えられました。「死に光」という言葉を知ったのは数年前で、死に際の立派なこと。死後に残る光栄という意で、死に花と同じ、とあります。

よりよき死は子供や後に残す者への最高の贈り物です。生を終える事実は重く深いものがあり、その姿は荘厳そのものです。私達が最後に示すものは死にゆく姿です。そのモデルは立派な死、納得のゆく死とは限りません。どのような死に方にもメッセージがあり、見せて頂くものは少なくありません。生と死について、命のありようについて考えさせ、また感動させられるものがあります。よりよく生きるためにも、目をそらさず、愛する者の死を看取り、死の文化や法華信仰の姿を継承していきたいものです。

私達は幸いなことに死への恐れや不安に対処できる最上の手だてを頂いています。法華経・お題目に値遇した、出会えたことは何ものにもかえがたい喜びというべきです。

「只得難きは人身、値い難きは正法なり(聖愚問答鈔)」です。「願くは現世安穏後生善処の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後世の弄引なるべけれ。須く心を一つにして南無妙法蓮華経と我も唱え、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思い出なるべき」(持妙法華問答鈔) 
 日蓮聖人のお言葉の趣を深く味わいたいものです。

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生と死 7
心のざわめきが消えた 読経の功徳 
 2008.4.20

棺の中に入ってみました。闇の空間は不思議な安らぎがあり、譬えようのない気分でした。
 I女子短期大学の看護学科の公開講座に入棺体験があると聞き、興味を覚えて受講しました。「いつか必ず迎える日のために」というテーマ。女子高生から80代までの30余名が机を並べ、最初に生と死についての講義を受けました。やがてセレモニーホールの部長と社員が、棺を持って教室に入ってきました。休憩時間に担当教授が受講者名簿から私が住職とわかったようで、最初の入棺者のために枕経をあげてほしい、あなたの宗門で一番有り難いお経を短くてよいので是非と依頼され、二つ返事で引き受けていました。

授業再開。「一番始めに棺に入る方、少し勇気がいるかな。さあ手を挙げて下さい」と声がかかりました。ことがことだけにみんな尻込みをして挙手がありません。教授は私に入棺をうながし、想定外のトップバッターになりました。ジュウタンの上に棺と真新しいふかふかの布団が敷かれ、指示されるままに横になり、胸の上で指を組み、目を閉じました。興味半分のおどけた気分は雲散霧消、本気で死んだふり、死んだつもりになりました。しかし、内心穏やかなはずはありません。模擬体験とはいえ未知のこと、それも死にゆく事となれば不安にかられて当然でしょう。帰り道で事故に遭ったら、それみたことか云われそうで、大丈夫かななどと考えていました。枕経をあげる役が棺に入ることになって、変わりに在学中の韓国の尼僧が呼ばれ、経机も置かれ舞台装置は整いました。

透き通るハングルの読経の声が頭上間近で心地よく流れていく、ふと気がつくと妙に落ち着いた気分、あの心のざわめきはすっかり消えていて、これが読経の功徳だと得心しました。
 やがて受講生が黒水引きの袈裟掛けをして棺の周囲に集まりました。足袋、脚絆、手甲とか足許から旅支度を調え、部長が一つ一つその意味を解説していきます。数珠、杖が添えられ経帷子で身が包まれ、みぞおちの辺にドライアイスの模型が置かれました。これは胃液の逆流を防止するものという解説です。日本人は一生の通過儀礼に三度、白を身につけます。それは産着と婚礼の白無垢とこの経帷子で、いずれも死と再生を意味しています。

いよいよ納棺です。全身をゆだねるとシーツごと持ち上げられてあっという間に納められました。花で飾られる自分の顔を見たいと思っても、叶うはずはありません。やがて静かにふたが閉められて、この時ばかりは家族の顔がまぶたに浮かびました。目を開けてみるとそこは漆黒の闇、物音一つしない静寂そのものの空間です。想像していた気味悪さ、怖さといったものは全くありません。不思議な安らぎに包まれていました。ああ、これが永遠の眠りなのだと再び目を閉じました。

「棺を蓋って事定まる」は杜甫の漢詩にあります。生きている間は公平な評価ができません。軌道修正も可能です。生前の真価は死によって定まるという、いつの日か周囲は私にどんな評価を下すのだろうかと思いました。

闇の中にいたのは、わずか数分のことです。それにしても狭いところ、何としても窮屈です。いつかこんな所に入るのだ。いや、入るのは亡骸なのだ、魂は果てしなく天空を飛翔していくに違いないと思ったことでした。

ナースを目指す学生達の入棺体験は、臨床の場で看取った患者(死者)の人権と尊厳を守るためのものだといいます。私には、死の恐れを緩和するイメージトレーニングになり、また、死から生を考える機縁となりました。棺から生還?し、いかがでしたかと感想を求められ「人生には終わりがあるという自明の理をあらためて思い、賜った今日一日を意義あるものにしなければ…それにしても不思議な安らぎを覚えました」と答えたものでした。

かけがえのない人生のために、日蓮聖人の「命はかぎりある事なり。すこしもをどろく事なかれ」(『法華證明鈔』)のお言葉を深く心に刻み、お題目を唱えましょう。


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看取り 1
心にお題目を唱えながら…
臨終の際の心得 ひたすら傍にいてあげたい
  2008.5.20 


私事になりますが、10年ほど前に99歳の母を在宅で看取りました。死に逝く母の思いを真に理解することなど、死に直面したことのない私にわかるはずはありません。しかし、母の死を前に謙虚になっている私がいました。私もいつか母と同じようにターミナルのステージに横たわる日がくるのだと、自分を重ねていました。

その思いが母への優しさを引き出してくれた気がしています。そして山に向かっても、空を仰いでも、最後の日が安らかであってほしいと祈らずにはおれませんでした。母もまた数日の後に死を迎える人とは思えない透き通る声で、日に幾度となくお題目を唱え、私達家族の幸せを祈ってくれました。母を看取ることによって、人生を眺める眼が深くなったように思います

Kさんの父親の葬儀がありました。参列者に謝辞を述べる中で「久しぶりに親父と話ができました。こんなに親父の傍にいたのは今までになかったことです」というくだりがありました。私はいぶかしく思いました。父親は脳溢血で倒れ意識が回復しないまま亡くなったと聞いていたからです。Kさんは急ぎ休暇をとって帰郷、妹と交代で入院中の父に付き添っていました。Kさんは「父の寝顔をじっと見つめていると、物心ついてからの父との思い出が呼びさまされ、幼い日の少年の頃に返ったようでした。

そして言葉にならない会話を随分交わすことができました。手を握り足をさすりながらの数日間を父の傍で過ごすことができ幸せでした。父が最後に私や妹のために用意してくれた時間のように思われてなりませんでした」と話しました。別れの悲しみは尽きないが、充分な看取り、お別れの時間が持てた安堵の思いをみてとれました。父親は息子の見守りがわかっていたにちがいありません。

釈尊のご在世、人々はそのお姿を拝し、そのお声に接したいと、遠くより歩いて釈尊の許、説法の旅先を尋ねています。釈尊は遠方より会いに来る弟子や信徒に道中のこと、食事や仲間の様子などを聞かれています。道路は今よりはるかに悪く、盗賊も出没し、食事に事欠いたり、病人が出ることもあったでしょう。釈尊の伝記を見るとけっして頑健なお体ではなく、病む者にはことさら心を寄せておられます。
釈尊が一団の弟子や信徒に声をかけられた時です。
 仲間に病人が出たこと、そして私にかまわず行ってくれ、返りに連れ帰ってほしいと言われ、お目にかけたい一心で病人を道沿いの木陰に置いてきたことを告げました。その時、釈尊は「皆が私に会いにきてくれた事はうれしい、しかしそのため、病人を一人残してきたことは心配でならない。病人の傍にいてくれる者は私に会いにきたと同じことである」とお話になったと言います。

その時のお言葉は経典(梵網経・四分律など)に記されています。「病める者を看取るは、我を看取るとなり。いささかも異なることなし」と。身近な者にとって看病は辛いこと、極めてエネルギーを要することです。それでもなお、重篤な病人、ことに終末期の病人の傍にはできるかぎり誰かがいてほしいものです。病人をひとりぼっちにさせない事です。何もすることができなくてもそこにいる事、その事に大きな意味があります。

私達は愛する家族と死別したことを知ると、死の目に会えたの?と聞くことがあります。これは死に逝く人を孤独にさせないことをいいます。看取りの心得、その最も基本的なことは、ひたすら傍にいてあげることです。最後の息づかいに心を寄せ、その場の空気と一つになり、一刻一刻の時の流れを包み込む思いで寄り添いましょう。心にお題目を唱えながら…。それが釈尊のお心に叶い、釈尊のお傍に給仕するのと同じ事になるのです。看取られる人の魂はどんなに安らぐことでしょうか。

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看取り 2
あたたかい眼差しで 真実の言葉交わしたい
心残りや憂いのない最期を        
  2008.6.20 

若かった頃を振り返り悔やまれてならないことがあります。寺の総代を務めていたTさんが入院していた時のことです。重篤と聞いて案じていたところへ、息子さんから「お上人、会ってやってほしい、面会時間にかかわらず都合のいい時に来てください」という電話がありました。病室にはいると、息子さんが父の上半身を起こし、ベットに上がり、後ろから抱きかかえました。全身痩せ衰え誰が見ても臨終の近いことがわかる状態です。

Tさんは手を合わせ、私に何か語りかけるのですが、声にも力がなく聞き取れません。口元を見つめていた息子さんが「ありがとう、ありがとうと言っています」と教えてくれました。その時、どう言葉をかければよいかわかりませんでした。口をついたのは「頑張って下さい」の一言でした。若さといえばそれまでですが、看取りの知識や経験がなかったのです。悔やまれてなりません。

今なら、「私こそありがとう、お世話になりました」「たくさんお題目をあげましたね、もう心配することはありません」「後のことは私達にお任せ下さい、安心していいんですよ」と伝えられた事でしょう。

臨終が近づくと、意識が混濁したり眠りの中にあって、コミニュケーションがとれない場合があります。最後までしっかり会話ができることもあります。

私の母は目を落とす十数分前まで言葉を交わすことができました。孫がいて家族からお婆さんと呼ばれていました。「お婆さん、言いたいことはある?」と聞くと「山ほどある」と答えました。そこへ私の従兄弟が見舞いに訪れ、これが母と子の最後の会話になりました。山ほどあった母の言いたかった事、その一つ一つを探していく時が、私にとっての人生の宿題になりました。

告知されなくても、多くの人が、自分の死が近づいていることを知ると言います。話したい事、話して起きたいことを抱えているのです。ときに気分が落ち着き、元気になり、周囲にこのぶんならまだまだと思わせる事があります。言い残すこと、して欲しいことを伝えたり、和解を求めて仲直りするなど、その絆を豊にしようと、人生をしめくくる仕事をすると言われています。

死に赴く人がどんな思いで、何を望んでいるのか、こちらの心を近づけます。不安や気がかりし一緒になって考えます。託された事柄があればその願いを叶えることを約束し、安心するように促します。このような時は、何を話してもあるがままに受け入れてくれる人を求めています。

昨年秋、国際的にも著名な建築家、黒川紀章氏が亡くなりました。夫人は往年の映画スター、若尾文子さん。篤信の永田雅一社長にともなわれ、度々身延山に参拝し、大映の黄金時代を築いた人です。若尾さんは身延の祖師堂でN氏と結婚式を挙げた経過があり、黒川氏とは再婚同士だったようです。十代で学僧だった私は、白無垢の花嫁姿をまのあたりにして、その美しさに息を呑んだ記憶があります。黒川さんが亡くなる二日ほど前のこと、若尾さんが「至らない妻でしたね」と話しかけると、「そんなことそんなこと…本当に好きだったんだよ」と言葉を返したという事でした。テレビのインタビューに答える若尾さん、悲しみの中にも充たされるものがあったことでしょう。人生の最後のステージで交わした二人だけの真実の会話、本当に幸せな夫婦です。

看取る者はその別れに臨み、たじろぐことなく、温かい眼差しをそそぎ、真実の言葉を交わし合いたいものです。

お題目のあるところ必ず光がさしてきます。お互いに最期の瞬間に救いをめざし、心残りや憂いのない、これでよかったという看取りに励みたいものです。


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看取り 3
患者の人生を理解し信頼を深める
人生を納得することが次の世に向かう一歩 
 2008.7.20 

先年、仏教看護・ビハーラ学会で柳田邦男氏がご子息の死と向き合った体験を語りました。その中で「人は物語らざるを得ないもの」だと述べられ、このことが強く心に残りました。

 四半世紀以上前の私の古びたノートには市井の家人の作品が記してあります。
「病む妻を 看取りする夜に聞く雨は 二人はるかに歩みきし音」
「タイプ打つ 妻の夜なべを病む床に 聞きつつ思う遠き日の出会い」

感動を覚えて、新聞の文芸欄から書き写したものです。看取りまた、看取られる夫たちが、夜半の雨音や今は見かけないタイプを打つ音に耳を澄ませ、妻との出会いや共に歩んだ歳月を回想する愛のうた、相聞歌です。喜びや悲しみを紡ぎ合い織りなした二人の物語、その豊かさがうかがわれます。

最近、終末期医療の現場で、スタッフや家族が患者のアルバムなどを整理しながら、その生活史を共有しようという試みが報じられています。 人は人生を歩む過程で、それぞれ固有の物語を綴っています。その物語に周囲が気づくことで信頼関係が深まるといいます。病気以外は知ろうとしなかった反省から、患者の人生を理解することで、新しい看取りの文化をつくろうというものです。
□Sさんの枕辺で。

もう十数年も前のことです。特養ホームから電話が入りました。「入所しているSさんが、住職さんに会いたいと言っています。大分弱ってお別れはそう遠くないと思います。来てあげて下さいませんか」という依頼でした。Sさんとは晩年の3.4年という短いおつきあいでした。縁あって寺に参るようになり、ご宝前で祈りを捧げる後ろ姿は敬虔であり、純真そのものでした。

ある日、これが最後のお参りです。近々ホームに入ります。お世話になりましたという挨拶をされ、幾度も会釈をして境内を後にされたのです。身よりはなく、人づてに苦労の多い半生だったと聞いていました。

ホームを訪れると既に個室に移っていて、顔を見るなりすぐ分かり喜んでくれました。小柄だったSさんがまた一回り小さくなって休んでいます。会話は次第に間があいて、やがてそれも途切れました。難儀そうです。あとはベッドの横にただ座っていました。
時折目を開けては天井の一点を見上げ、また閉じています。窓からは初夏の日射しを受けたさわやかな緑が目に入り、当たりは静かです。Sさんのかすかな息遣いが聞こえるだけになりました。

どれだけの時が流れたか分かりませんが、「私はねえ…」とつぶやくと、途切れ途切れに言葉をつなぎました。「私はこれまで…」「人の情けというものを…」「大事にしてきました」と口にされたのです。私は「人の情けは仏様の慈悲の心に通じます」そして「Sさんどんなところへ行っても、どななことがあっても、人の情けをわすれないでね」と応えました。すると、それまでになかった大きな声で「ハイッ」と返事をされました。

静かな部屋に響いたその澄んだ声は忘れられないものになりました。その横顔は童女のように輝いてみえました。自らの人生、その物語を回想していたのでしょうか。Sさんの物語を引きだすことはもう叶いませんでしたが、このような会話と共にしっかりした返事をいただけて、私の方が救われる思いがしたのです。

臨終が近づいた枕辺に私を呼んでくださった事に感謝しました。Sさんの手に手を重ね、お題目を唱えホームを出ました。その後、施設長さんの来訪があり、納牌と永代供養の希望があったこと、78才の眠るような臨終であったという報告を受けました。

人は最期にその人生(物語)に満足し、納得さえすれば、安心して次の世に向かって歩み出せるのだと思いました。そして私達はお題目によって生死の苦しみより解き放たれていくのです。今年も御施餓鬼にはSさんの法名を言上します。もうすぐお盆です。

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看取り 4
死生観を暮らしの中で養い
終末期に臨む希望を伝えておく
お題目は看取る者・看取られる者に最期の安らぎをもたらす 
 2008.8.20

近くの町に住むKさんから久しぶりに電話がありました。Kさんとは数年前に家庭問題の相談が機縁となり交流が始まりました。忘れた頃に「また愚痴を聞いてやって下さい。先生ならわかってもらえると思って」と電話が入ります。その日は「主人が突然亡くなりました。四十九日を済ませたところです」という衝撃の一言から始まりました。

働き盛りの五十代半ば。クモ膜下出血で手の施しようもなく、もはや回復不能という状況になりました。そのことの説明を受け、機器を装着するか否かは家族が選択を迫られることになりました。医師の説明は丁寧で、家族の立場になって共に考えてくれました。しかし、年老いた母親はどうしても、息子の容体を理解できないようでした。私と3人の子供たちが出した結論は、普段のたくましい日焼けしたありのままの、このお父さんとお別れしようというものでした。もはや主人の意志を確かめることは出来ません。4人の思いがこの方向にまとまるまでは言葉に表しがたい苦渋を味わいました。それでも家族が一つになってお父さんに寄り添い看取ることができました。田畑や果樹は家族の事情など待ってくれません。親類の助けを借りて今日も夢中に過ごしています。いまでもこれでよかったのろうか、いや、これでよかったのだと、どこかで自問自答しています、という話でした。

    咽頭に垂直に管差し込まれ 言葉失い父生きている
ある朝の新聞の投稿歌です。最先端の機器に繋がれ囲まれる医療の現場。作者の戸惑いと胸をしめつけられる思いが伝わってきます。科学の恩恵がもたらす生命の延長は、私達一人一人が何に価値を置くか、これまでになかった選択を迫っています。

簡単に死なせてくれない、嫌でも生かされる、と嘆きともとれる発言があります。一方、どのような形であろうと最後まで生かして欲しいと考える人もいるでしょう。 息をしているだけ、それだけで充分とする家族もいるに違いありません。
 在宅で介護を受けていた90近い老母が急変しました。息子である主が、救急車を呼ぼうという家族を制し、もう皆で最期を見届けてあげようと、ホームドクター(家族医)に家族の思いを訴え、その指示を受けて看取りを成し遂げたという手記を見ました。

その前提となったのは、老母が折にふれて口にしていた言葉でした。「自然のままで逝きたい。苦しむのはごめんだよ。もう充分生かしていただいて思い遺すことはない。みんなにありがとうを言うよ」息子は本人の希望に添うような選択に、母も満足しているでしょうと綴っていました。

これは、本人の生前の思いや意思表明がなければ、非情な行為として受けとられがちです。終末期に臨む希望を述べていたことが後ろ盾になり、家族の決断を促しています。 回復の見込みがなければ延命治療を望まない人が増え、医療スタッフや家族が板挟みになるケースがあります。患者の周辺が治療費や介護の負担から延命を望まないとすれば、命の切り捨てにつながります。医療のあり方や死生観が問われる重要なテーマです。患者の意志が生かされるようであって欲しいものです。

地域の高齢者クラブで死についての話題を向けると「なるようにしかならない」という言葉を返してくる人がいます。はたしてそうでしょうか。

誰もが命の尽きる日が来ることを知っています。雨の確率何%という予報には雨の用意をして出かけるでしょう。健康なうちに夫婦で家族で考えておきませんか。終末期の選択に直面するしないという保証はありません。認知症が進み、意思表示ができない状態も想像できます。呼吸ができなくなった時どうするのか、せめて病名を告げられた時、きちんと話し合っておかないと家族が後悔することにもなりかねません。先に行く者が果たさなくてはならない責務であり、人生の完結に向かう積極的な姿勢です。それは看取る者への心遣いであり、看取りの質や死別の悲嘆からの回復につながるものです。そのために一人ひとりの死生観を日常の暮らしの中で徐々に養い育てることが重要になります。

日蓮聖人の「先ず臨終のことを習うて他事を習うべし」の御教示は、いつの時代にも蘇り、新たな切り口をもって迫ってきます。真摯なお題目の信行は死生観の骨格を作り上げるものです。私達がいただいているお題目は、看取る者、看取られる者に最期の安らぎと光をもたらしてくれるでしょう。

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看取り 5
限られた生 いただいたこの生を全うしましょう
お題目の祈りがあれば深い安らぎが・・
 2008.9.20

先頃特別養護老人ホームの敬老会の講演に出向きました。大ホールは車椅子の利用者に家族と職員が加わって賑やかでした。最高齢の百二歳を筆頭に長寿の記念品授与があり、市長をはじめ来賓の祝辞が続きました。

祝賀の席で死にまつわる話題はいかがなものかと案じていたところ、担当者から看取りにも触れて欲しいと希望が寄せられました。施設を終の住処と考える利用者が多くなり、また終焉が近いことを家族に知らせても施設に看取りをまかせ、臨終に立ち会わないケースが増加傾向にあるそうです。

かつて老人や病人を介護し、また看取ることは私達の暮らし中に文化として存在していました。家族、ことに次の時代、子や孫は家族の死に立ち会って、いのちの尊さや死について自然に学んだものでした。現代人は、老いや病、そして死までも家庭から遠ざけてしまいました。

それなりの理由はありますが、人が死を迎えるとはどういうことなのか、その知識や体験を持ち合わす機会を失うことになり、考えてみなくてはなりません。

ホスピスケアの研修を受けたことがあります。感覚器官では、耳の機能が最後に残ります。家族が枕元で交わす会話も、本人を苦しめ、悲しませる言葉を弄しないようにと教えられました。はたには意識がないと思われても、本人は家族や肉親の声を聞いて安心する事があると言います。応答がなくても、できるだけ声をかけて欲しいものです。また呼びかけることによって看取る側の思いは浄められます。

朝日の歌壇の入選歌に次の一首を見ました。「きみが家族を生かしているんだ」夫の呼びかけ意識なき妻を十四年生かせれ。東谷節子
 夫は松本サリン事件で加害者扱いを受けた河野儀行氏です。テレビニュースで妻澄子さんの頬を撫でながら話しかける映像はまだ記憶に新しいものがあります。

ことさら可愛がっていた孫が臨終に駆けつけて「おばあちゃん、○○だよ、わかる?遅くなってごめんね、いま帰ってきたの、わかるよね。おばあちゃん!」と呼びかけました。それまで全く反応を見せなかった祖母の両眼から涙が溢れたという話を聞きました。

仏教では聴覚を耳識といい、耳とその能力を耳根といいます。法華経は耳根清浄を説き、あらゆる世界の声を聞き、仏の説法も菩薩や僧尼の読経の声を聞くと教えています。「この法華を持たん者は、未だ天耳を得ずといえども、ただ所生の耳を用うるに功徳己にかくの如くならん」(法師功徳品)とあります。

たとえ聴覚機能が消滅しても、その心(意根)に、その魂に呼びかけたいものです。「こころにてやがて心につたふる」という、「以心伝心」は仏教より生まれた言葉です。
 厳しい経済状況に人々は働かないではおれません。忙しさは承知の上でなお、一度でも多く年老いた父や母のもとに足を運び、顔を見せ、言葉をかけ、一刻でもその衰えた手足をさすり、積年の苦労をねぎらいましょう。いのちの尽きる日が迫ればなおの事です。こうした日々が限りなく尊いものであったと振り返る時が必ずあるものです。

私達が産声をあげたとき、助産師の手を借りたように、人が死に臨むとき助死婦(夫)がいても不思議ではありません。肉体的精神的苦痛から開放され、人と交わり、見守られ息を引きとりたいという願いは私だけではないでしょう。そして看取り、看取られる場にお題目の祈りがあれば深い安らぎを得られることでしょう。

敬老会では「いつまでもお元気で」という祝辞が続きました。看取りについて語った私は「限られた生です。賜った、頂いたいのちの火を燃やし尽くし、この生を全うしましょう」と呼びかけました。
 どのようによき死を迎え、よき死を看取るかは、いつの時代でも変わることはありません。

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看取り 6
死は全てを無に帰するのか?
     ふれあいを通して安らぎへと導く
 2008.10.20 

人は生きている間だけ、この人生が全てでしょうか。信じられるものは生のみ、死ねば何もなくなる、全ては終わりだと思いますか。そうであれば死は敗北です。死が視野に入って来た時、嘆いたり、恐れおののく事にもなりかねません。

もし看取りの場で、死んだらどうなるの?と聞かれたとして、死ねば何もなくなるおしまいよと言えるでしょうか。仮に私がその場に身を横たえていたなら、死は全てを無に帰すと考える人に、安らぎを得ることはないでしょう。

死生観とは死と生についての見方、考え方です。それは私達が持つ心構えであり、一人一人みな違います。それは死後の世界に対する観念が重要な部分を占め、人生経験、自然や宗教などにより形づくられています。看取りに大切なことは、ふれ合いを通し、その人の死生観、死後観を養い、安らぎへと導く事です。来世への希望を持って生を全うする事、それはまた死を生きるということになります。

息子や娘を前にして「幸せにおなり、人にはよくしてあげなさい…。いつも守ってあげるからね」と言葉をかけていった母がいました。また、後に残していく夫に「お父さんごめんなさい、一足先に行きます、待っていますよ」と言い遺した妻がいました。別れに臨んで語りかける真情は美しくもあります。

檀信徒の通夜に伺いますが、読経を済ませた後も、なるべく納棺に立ち会うよう心掛けています。業者が事を進めますが、私も最後に花を添えてお別れします。このとき家族や縁者が呼びかける言葉は、哀切であり、いつも胸を打たれます。

夫が妻の前髪をなでながら「苦労かけたなあ…」と云ったまま言葉に詰まったり、年老いた母が息子に先立たれ「何で私を置いていっちゃうの」と泣き崩れています。そして多くの人があの世、来世を考えています。母の棺に手を添えて「おかあちゃん、いいところへ行きなねえ」と送り出した娘がいました。いいところとはどこでしょうか。「気をつけていけよう」「待っててね、また会えるよ」などと声をかけています。いずれも来世への期待と願望がそこにあります。
 芭蕉が信州木曽谷を紀行した折りの一句に「送られて送りつ果ては木曽の秋」があります。送っては送られる人の世、早い遅いの違いだけです。作者不詳とされ、よく知られる句に「散る桜残る桜も散る桜」があります。看取る側もいつか散りゆく身、先に往く者の思いをしっかりと受け止めたいものです。お互いに散りゆく桜という自覚に立つとき、そこに共感と優しさが生まれてきます。また、看取る側の死生観が看取りの質を左右するともいわれています。

さて、私たちお題目を唱える者はどこへ往くのでしょうか。どこを目指すのでしょうか。それは法華経に示される御本仏、お釈迦様のまします霊山浄土です。日蓮聖人も必ず待っていますとはっきり述べておられます。

お釈迦様が法華経を説かれるその座に導かれ、迎え入れられることを確信し、お題目を唱え、法悦と安らぎの世界に帰って往くことを霊山往詣といいます。

花びらが舞い、虚空に音楽が聞こえ、さわやかな風が吹きわたり、光に満ちあふれて、消滅変化を超えた永遠の浄土とされています。日蓮聖人はこの法華経を持ちなさい、お題目を唱えなさい、「各々励ませ給え」と呼びかけておられます。今生と来世、それは一つにつながっているものです。この世の想念は次の世に続いていくものです。「三世各別あるべからず」で、過去、現在、未来を貫くお題目の中に私達の救いは約束されています。

「南無妙法蓮華経とだにも唱え奉らば、滅せぬ罪はあるべき、来らぬ福やあるべき」(聖愚問答鈔 下)「此の経(法華経)を持つ人々は他人なれども同じ霊山へまいりあわせ給うなり」(上野殿御返事)。お題目を唱える私達にとって、何と安心を覚えるお言葉でしょうか。 

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看取り 7
人は死に直面し、いのちに目覚めます
看取る者、看取られる者が最期のステージをどう生きるか。
 2008.11.20 

看取りに関する二つの話題を紹介します。先年のことです。家族と近親者のみで執り行った葬儀がありました。始めて会う方々でした。兄と妹二人の三人がよく心を配り、力を合わせて父を送りました。ただ母親と覚しき人は一歩引いた様子が見受けられ、いぶかしく思いました。会話の中で、父母は十数年前に離婚し、子供達は父とも母とも交流を重ねてきたことを知りました。そして父の余命が告げられた時、兄と妹は相談して、父の病室へ母を連れてきました。これが機縁となり、その後の三ヶ月余りを母子四人で病床を見舞い、看取りを果たすことができたのです。

夫婦としての両親の暮らしや離婚の原因が何であったかわかりません。また最期に父と母がどのような言葉を交わしたのか知りません。そこまでは聞きませんでした。兄は子供として、父の臨終に母が立ち会い、こうして葬儀に参じてくれた事は本当にありがたく、嬉しいことでしたと話しました。

過去には愛し合った時があり、三人の子をなした両親です。私は様々な思いを超えて、子供達の父である元夫を看取った母に心を動かされました。「お母さん、母子でお父さんを見届けることができて何よりでしたね」と声を掛けると、二度、三度うなずかれました。父と母と子のそれぞれの看取りのドラマ、その心中に思いを寄せたのです。
 小さな葬儀でしたが、忘れられません。悲しみを分かち合う母子の背に温もりを感じました。

ターミナルケアの研修で傾聴ボランティアの女性から聞き及んだことです。プライベートなことに触れるため一部事実を違えて綴ります。

Aさん(患者)は70代の男性、ガンに冒され、別れの遠くないことを互いに知っていました。長らく病院を訪れており信頼関係が築かれていました。二人だけになった時です。「死ぬまでに、できたら成し遂げていきたいことがある」とAさんが口を開きました。その事情とはおよそ次のようなものです。

いまの妻と出会う以前、まだ20代のころ。愛し合ったBという女性と同棲し、女の子が生まれました、しかし、事情があって彼女を裏切るような形で縁を切りました。若気の至りと云ってしまえばそれまでかもしれませんが、母子の人生に大きな痛手を負わせてしまい、悔恨の重いがつのるばかり。このままでは死んでも死にきれない、許されることなら、最期に詫びの一言を述べたい。何とかならないだろうか。

胸の内を明かされたボランティアの女性は、どこまで関わっていいものか戸惑いました。すると更に、今の家庭は壊したくない、どうか内密にと添えられました。彼女は、恐らくこれが最後の願い、何とか叶えてあげたいと考えました。

しかし、どこに住んでいるかわからず、手がかりはなく途方にくれました。それでもかすかな記憶をたどり、昔の職場の同僚からさらに幾人かの人を介し、Bさんの娘の住むマンションが判りました。しかし娘さんは「母はもう会うことはないと思います」と拒否したのです。それでも諦めずに懇願し、母であるBさんの住居を知ることができました。

Bさんは死の床の切なる希望と聞いて心を動かされ、再会に同意しました。ボランティアの女性はBさんを、病室に迎え入り、あとは二人だけの大切な時間とその場を辞したということです。
 二人はどのような思いを抱いて再会したのでしょうか。何を語り合ったのでしょうか。読者の皆さんと推察するしかありません。その後、娘さんとも再会を果たしたAさんは、数日を経ずして安らかな臨終を迎え、旅だっていきました。その後に、家族はことの経緯を知り、異母兄弟・弟そろって父の墓参ができたということでした。

人は死に直面し、いのちに目覚めます。人生を回想し、大自然との関わり、人との絆に深く思いを至らせます。有終の輝きのために看取る者、看取られる者が最期のステージでどう生きるか問われています。

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看取り 8
死に方は生き方に他ならない
生と死はお題目の中にある 
 2008.1220 

前回は自分の人生を振り返り、若い時の過ちを悔い、かつての女性を病床に呼んだ人について記しました。思い残すことのない安らかな死を願ってのことでしょう。ボランティアも断裁の希望をよく叶えたものです。

過去に犯した罪があるとすれば、その軽重・多少にかかわらず精算していきたいものだと思いました。この世のことはこの世で解決しておきたいもの、立つ鳥跡を濁さずといいます。

病人の世話をし、死に臨む日々を支え、その最期を看取るにふさわしい資質や心得、看取られる立場から傍にいて欲しい人は、どのような心の持ち主でしょうか。仏教看護の歴史を見ると、修行中に病気となり床に就く者が出ると、病人は精舎(僧院)の一角にある延寿堂、また無常院(堂)と呼ばれる場所へ移され看護を受けています。誰もが病人の世話をするわれではありません。それにふさわしい人が病人の傍に立っています。
「寛心にして事に耐え、時に従い問訊し、務めて意に従う」とあります。寛心は心が広く、気持ちにゆとりがあること、人を受け入れ、思いやりがあることです。また、良き看取りは看取られる立場の人間性が最期のステージを左右します。

死をも積極的に受容しようとする人は死が迫っていることを知っても、取り乱すことなく、ゆとりさえ感じさせられます。周囲からの善意に心から感謝し、自分の心を開くことができ、死を前にして今何をしなければならないかわきまえています。全力で人生の行程を走りきった充実感、満足感を持ち、周囲の者にさわやかな印象を与えます。

自らの生命は神仏にゆだね、死は恐怖や不安の対象いうより、むしろ解放であり、希望が成就する時だと考えています。家族や医療スタッフに心から感謝の言葉を述べ、他者を配慮する言動が見られ、また、季節の移ろいや大自然の美しさに心を向けています。 精神科医師の平山正実氏(聖学院大学教授)は「自己完結委譲型」と名付け、このような人に接すると、看取る側が教えられ、すがすがしい思いを抱かせると解説しています。

仏壇のご供養が済みお茶を頂くとき、家族が生前の思い出を語る事があります。主の母親、妻から姑になる人です。身辺の整理がされていて、形見分けの贈り先、品物の由来や思い出を書いた紙片が添えてあり、遺されていた金品は多くなく、その処理についても記されていました。

それとなく生まれ在所の家を尋ね、墓参も済ませ、心のけじめをつけていた由、折々に子供や孫達には人生経験に根ざした教えを語り、感謝の言葉を遺し、また、それらが孫達の心にしっかり届いているのです。仏壇の給仕や月命日を疎かにしないこと、寺への付け届けについても妻(嫁)に話しています。その一つひとつが後に残る家族への配慮(愛)だったに違いありません。

介護を受ける身になっても、手の届くところに数珠と経本がありました。妻は看取りに心を尽くし、その間に姑は後事を託し、互いに別れの言葉を交わしています。心を打たれたのは、妻が「お題目を唱えたお母さんだったから…」と言えば、主も「そうだよなあ」とうなずきながら仏壇の遺影に目をやる姿でした。

「死にがいのある死、死なれがいのある死というものがある」これはホスピス医師から教えられたものです。死といえば自らの完結を目指して、生も死も肯定し、受け入れていく。死も価値あるものとして手の内に納めていく。死に方は生き方に他なりません。

「お題目を唱えたお母さんだったから…」と言わしめる生き方、死に方に深い感銘を覚えました。お題目のある人生の尊厳、お題目のある家庭の幸せを改めて考えたものです。私達の生と死はお題目の中にあることを、心にとどめようではありませんか。

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看取り 9
死に今日一日に祈りをこめ 最善を尽くしていく・・
お題目の力、限りなく大きなもの 
 2009.1.20 

人は真の幸福を求めるために神や仏を拝し祈らずにはおられません。私達には実に様々な苦悩があり、それらは幸福の妨げ、不幸の元にもなります。どのような苦悩が生じても、それを解決する方法、また見方、考え方があれば人は救われます。いかなる境遇にあっても生きる意味を見いだす人は幸いです。苦悩を克服する道や生きる力をもたらすものが宗教、信仰の力です。

宗教とは何か。宗教学者の三枝充悳氏は「宗教とは、人間がみずからの有限性を自覚し、しかもその自覚を徹底した有限者(人間)の働き、そして、その有限性からの解放・脱出・救済・超克・超越を追求する有限者(人間)の営みである」と定義しています。神様、仏様どうかお助け下さい、病気を治してください、という祈りだけでよいものでしょうか。どのような困難にも立ち向かう、勇気と平静さをいただく祈りと誓いを立てたいものです。

 私の寺は市街地より総合病院へ向かう道筋をはさんで、神社と並ぶ位置にあります。家族の病気平癒を願い、お堂の前で手を合わせてゆく方がいます。ある日、姉妹とおぼしき二人が入院中の父の祈願をしてほしいと訪ねてきました。病状を伺うと誰が聞いてもその死が近いことが想像されるものでした。奇跡を願っていますが、覚悟もしています。病気が治るというより、苦しむことなく旅立ってほしい、父はもとより私たちも少しでも平穏な心でいたい、その事を祈っていただきたいというものでした。

鬼子母神様の御宝前に案内してしばらく読経祈願を申しました。覚悟のほどを尊く思うこと、一日一日が貴重であり、出来る限り傍にいてほしいこと、苦しみが軽くなるように共に祈ることを伝えました。
 看取る者は、先々を思い悩むより今日一日に祈りをこめ最善を尽くしていく、それが心残りのない看取りにつながります。心を尽くすとき、支えとなるのは祈る心です。祈るという行為は看取る者を内から支えます。

「祈り」それは看取られる側にとっても重要な事です。他者の幸せを祈るという点において、それは何にも増して尊いものです。「何もできなくてごめんなさい」という人がいますが、そんなことはありません。何もすることができなくても、親ならば子のために、最愛の家族のために祈ることはできるはずです。その祈りは重く、つらい思いを抱いている周囲の気持ちを軽くし、た看護の日々を明るくするものです。病床、看取りの場も修行の道場。在宅なら、遠慮なくお題目を唱えることができます。お題目をすすめて下さい。父が唱えて息子が唱和、また、姑が唱え、嫁がその声に和したという家族があります。お題目はあらゆる思いを浄化し、私たちを包み、安らぎと力をもたらします。

寺の信徒の先達として日曜勤行の会をリードしたMさんのことが思い出されます。信行を重ねて教学に精通し、また歌人でもありました。病床を訪れると常に日蓮聖人のご遺文について問われ、求道者の立場を最期まで貫きました。病室でも祈ることを欠かさず、ナースステーションでは「ナンミョウホウレンゲキョウのおじいさん」と呼ばれ、その祈りは「お父さんは観音様になる、みんなを見守るからな」という言葉に凝縮され、娘達に伝えられました。私たちには、体のいのちと心のいのちがあり、移ろい、滅びていくのが体のいのちです。心のいのちは決して滅びることはありません。

私たちには幸いに法華経・お題目という、心のいのちを養う手だてを持ち合わせています。お題目の力、その功徳、真価は凡夫の私たちが考える以上に限りなく大きなものです。釈尊ご自身が「此の経(法華経)の功徳を説かんに、なお尽くすこと能わじ」(神力品)と述べている通りです。
 お題目はどのような定め(運命)も積極的に受け入れる力をもたらし、苦しみを操る心の技を磨いてくれます。日蓮聖人はお題目の意味を知らなくても「小児乳を含むにその味を知らざれども自然に身を易す」(四信五品鈔)と述べておられます。お題目に生き抜く力と安らぎをいただこうではありませんか。

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看取り 10
日頃からお題目を唱え 死生観を養っておきましょう
法華信仰に根ざした安心と尊厳ある死  
2009.2.20 

私たちは加齢と共に人生観を変えていくことがあります。ちょうど夏服が冬に合わないように、老境になれば、若く盛んだった頃と相違した見方、感じ方、捉え方をするものです。無宗教・不信心を誇示し宗教的な事柄にはまったく無頓着だった人から、神社仏閣の前に立つと自ずから手を合わすようになったと告白されたことがあります。まして避けがたい死が視野に入ってくれば、終末期の医療や介護、相続や遺言、葬儀や墓のことに関する話題が交わされます。

人生を振り返って悔恨の情や罪の意識、死の恐れや死後の不安から宗教的なものを願い求めることがあります。また、さまざまな困難を克服して、今なお命あることを喜びとなし、大いなるものに寄せる感謝の念を表す人も少なくありません。私たちは心の奥深いところで、いのちの拠りどころを求めているものです。

看取られる側は看取る者に、常に関心を向け、訴えを心から聴き、苦しみや辛さを感じ、受け止めて欲しいと思っています。看取る者は言葉の理解だけでなくその感情をくみ取ります。こちらが指示するよりも本人が望む道を選べるように働きかけます。
 Sさんは80才を超えて在宅介護を受ける身となり、寺参りも叶わなくなっていました。ある日、本人が話をしたいと云っていますので出かけてきて欲しいという家族からの電話です。会うのは久しぶりのことでした。体は弱ってもそれなりにしっかりとした口振りでした。娘や家族に厄介をかけています、お寺には長いことお世話になり御礼の一言も述べたかったといいます。そしてぜひ戒名をいただきたいととう希望でした。そこでSさんが歩んできた道を断片的でしたがお聞きしました。先だったおじいさまと農事に励み苦労もたくさんあったが、子や孫達の成長を楽しみに何とかここまできました。案ずることはあるものの、安らかな最期を迎えたいと話す言葉の端々に、周囲への感謝の気持ちが感じられました。

その後、日を改めて予修法号の授与のために伺いました。起きあがることは容易ではないというので横になったまま行うことにしました。Sさんのベットからは次の間の仏壇が見えます。灯明を点じ香炉を移動しSさんと家族が焼香して、自我偈とお題目を唱えました。Sさんが手を合わせ「今身より、仏身に至るまで、よく持ち奉る、南無妙法蓮華経」と一節ずつ復唱して、法華経の信を持つことを誓いました。

お題目を唱え続けるが戒を持つことなのです。仏壇の引き出しに大切に納めてあった身延山の輪番奉仕で拝受した「霊山の契り」と法華経のお経本をかざし、お経頂戴の儀を行いました。

日蓮聖人は戒名のことを法名といい、生前うちに多くの信徒に授けられていること、法名は仏弟子となった信仰の証であること、Sさんの心がけの尊さを称え、法号の意味を説明させていただきました。喜びを浮かべ差し伸べられた手を握ると、それはまぎれもなく節くれだった農婦のものでした。Sさんは純真な信をつちかいその生涯を全うし、家族に看取られて静かに霊山へ旅だっていかれました。介護や看取りの場で、本人が住職に会いたいと望んだとき、また本人に言葉をかけて欲しいときはお知らせ下さい。僧侶は檀信徒の皆さんの心に寄り添えるよう努めたいと考えています。

法華経信仰の究極の安心は、肉体は身の移ろい滅びていくものの、その魂魄は仏の世界(釈尊の霊山浄土)に往き、仏になるのだという確信を抱くことことです。これこそ絶対の安らぎでありましょう。送られる者はこのような思いで最期を迎え、また看取る側は別離の悲しみに耐え、身近な者を仏の世界に送り出し見送るのです。そのためにも日頃からお互いに臨終正念をめざし、お題目を唱え死生観を養っておきましょう。

お題目は限りあるこの身を限りなく久遠の命に結び、看取り、看取られる者を生と死の境を越えて結ぶものです。そこに法華経信仰に根ざした安心と尊厳ある死(臨終)を見る思いがします。


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臨終 お題目を信受して 心安らかに迎えたいもの
死と向き合う覚悟と心構えを 
2009.3.20

臨終とは死に臨むこと。死のまぎわ。命の終わる時を指します。釈尊の死は「入滅」、また「涅槃に入る」と称され、涅槃は吹き消す、消滅を意味し、煩悩を滅して迷いのない静寂な境地を云います。また釈尊や高僧の死をさす言葉となっています。日本など北伝の仏教では、釈尊の入滅を紀元前383年2月15日と定め涅槃会を営みます。

鳥獣や昆虫、木々までも
涅槃図の釈尊は4本の沙羅双樹に囲まれた宝床に、枕を北に顔を西に向け、右脇を下に足を重ねて横たわっています。周囲には多くの菩薩や仏弟子、また信徒たちが集い、悲しみの余り泣き叫ぶ者、あるいわ気絶する者などが描かれています。

右上には?利天の浄土から父母・摩耶夫人が急を聞いて下りてくる姿が、下方には多くの鳥獣や昆虫などの生き物が群集しています。沙羅の葉は枯れ、雲間にかかる十五夜の月も光を失い、樹々の間に跋提河の流れが見え隠れしています。

日蓮聖人は「祈祷抄」にご入滅の情景を記され「一切衆生の宝の橋をれなんとす。一切衆生の眼ぬけなんとす。一切衆生の父母主君師匠死なんとす(中略)血の涙、血のあせ倶尸那城に大雨よりもしげくふり、大河よりも多く流れたりき。是偏に法華経にして仏になりしかば、仏の恩の報じがたき故なり」と受け止められました。

身をもって無常を示す
釈尊は次のような言葉を遺されています。「弟子達よ、私の終わりはすでに近い。別離も遠いことではない。しかし、いたずらに悲しんではならない。世は無常であり、生まれて死なないものはない。今わたしの身が朽ちた車のように壊れるのも、この無常の道理を身を以て示すのである」(遺教経)と。

また弟子のアーナンダ(阿難)に向かい「師の私には握り拳はない」と伝えています。この「握拳なし」とは隠している事柄、教えていない秘密の奥義はないということ、全ては説き明かしたということです。そして、「自らを灯とし、拠り所となし、法を灯とし、法を拠り所として生きよ」が最後の教えとなりました。「法によって人によらず」は日蓮聖人の弘教の指針、態度となったのです。

 大いなる死
「うつろいゆく世界から、うつろわぬ世界へと世尊は旅だってゆかれた。草木の悲しみの中に、鳥獣の涙の中にそれは孤独にして、尊い涅槃であった。ああ80才のおんいのちの火よ今なお多くの人に、光と救いを与えて、永遠に消えるひとはない」詩人の坂村真民(故人)は釈尊の入滅をこのようにうたい、次の一文を添えています。「私が一番心引かれるのは涅槃絵である。人間最高の死である。私は十字架にかかって息絶えられたイエス・キリストの絵にも頭が下がるが、やはり世尊のように木々も悲しみ、鳥獣もなき、一時は光さえもその光を失ったという静かな死が最高だと思う。世尊の大いなる死を心底から考え見つめよう。鳥獣たちと悲しみを共にしよう」と。釈尊の死は不滅の滅(不死の死)であり、それは全ての人のための死というべきものでした。

涅槃図のやすらぎ
臨終(死)は一人の例外もなく誰にも平等に訪れます。生ある者にとって死は当然の帰結。日頃から死と向き合う覚悟と心がまえを養っておかなければなりません。その方途はお題目を信受することの一点に尽きます。

信州の二月はことさら寒さが厳しいため、私の寺では春の彼岸に享保年間より伝わる涅槃図を掲げる習慣になっています。幼い頃、茅葺きの薄暗い本堂に父が掛けた大きな絵図を見ると怖くて逃げ出したものでした。それは下方に描かれている獅子(ライオン)が私を睨みつる鋭い視線におののいたからです。今ではご涅槃の釈尊を飽きることなく拝し、不思議な心の安らぎを覚えています。
 涅槃図のやすらぎを追う老いの坂 中田たつお


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臨終 2 「おくりびと」とやがて「おくられびと」
死にゆく姿は最後のメッセージ 
 2009.4.20 

4年前の5月のこと、Sさんのお婆さまが96歳の天寿を全うされました。その臨終に周囲は驚いたものです。若くして夫に先立たれ、残された4人の子を育て、舅姑を看取るなど、苦難にめげず懸命に生きてきた老婦人です。家は酪農を営んでおり、丈夫なお婆さまは90を越えても家族の手助けにと、這うようにして畑や周囲の草取りをしていました。

昼下がりのひと時です。家族に「わしは明日逝くでな。長いこと世話になった。あとはたのむなぇ」と語りかけました。三度の食事もいただき、普段と変わらない生活にお婆さまの言葉を誰が信ずるでしょうか。「そう簡単にお迎えはこないよ」と応えたと言います。ところが翌日、朝食を済ませたお婆さまが、自分の部屋の縁側で拝むようにうつ伏せになって事切れている姿を曾孫が見つけました。

家族は親しみを込めて「ばあば」と呼んでいました。息子は「えらいばあばだ、伏し拝むように亡くなった先は、身延山の方角だ」と。牛飼いの作業を息子や孫娘にまかせるようになってからは、寺の年中行事に欠かすことなく参詣していました。「あらかじめ死期をを知る」「成すべきを果たし言うべきを伝える」ことを、絵に描いたようなお婆さまの臨終は関係者の語り種となりました。

いのちの極み、臨終。そのドラマは人さまざま、似たようでありながらみな違います。私たちの誕生はおおよそ似通うものの、その最期は「時を選ばす、所を定めず」です。

予測できる緩徐の死、突如やってくる死。枯れ木の倒れるような死、年若いまま逝く夭折、家族に看取られる死、孤独の内に迎える死、安らかな最期もあれば、断末魔と呼ぶ息を引き取るまぎわの苦しみもあります。思うようにならない、願い通りに叶わないものの一つが臨終の有り様だといいます。それ故にこそ人は最期の安らぎを求めるのでしょう。

人間の最期などわからない、なるようにしかならないと言う人がいますが、迷いを除き道理を悟る臨終の覚悟を養い、その日を迎えるまでの過程が重要なのです。こうありたいと切に願い、祈るところに大きな意味があるといえます。また成すべきこともせず、ただ延命を図ろうとするところに尊厳ある死はありません。

『これからの老い』(託摩武彦・講談社)を読みました。最終章は「自分の最期の姿を見せること」と題し、次のように結びとしています。引用がやや長くなりますがその一部をご紹介します。

「高齢者が自分の子供や孫、あるいは親しくしていた人に最期に示すのは、死ぬときの姿であると私は考えている。どのような経験の人の、どのような経過による死であっても、生を終える瞬間というものは荘厳なものである。

死にゆく見せるということは、そこで生きることの意味、死ぬことの意味を考えさせることになる。お互いに好きであり、多くの共通体験や思い出がある場合には、その時の感動は更に大きくなる。

なかには長い病気でやせ衰えた姿を他人には見せたくないと言う人もいる。他人に対してはそうだろう。しかし子供や孫、それにごく親しい人には、一人の人間の生命の果てる姿を見てもらったほうがいい」と。「最後の姿を見せていく」の言葉に共感を覚えると共に襟を正さずにはおれません。

どのような姿を後の者に残していくのでしょうか。またどのような臨終も、周囲に無言のメッセージをいるはずです。見聞きし、また立ち会う臨終を他人事とみなしてはなりません。「臨終」それは送るもの、送られる者にとってこの上もない大事。「おくり人」はやがて「おくられ人」です。
さて私自身の最後の姿は? お題目を唱えるほかにはありません。

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臨終 3 いい臨終を見せてくれた99歳の母
最期の日、寄り添う者にありがとう 
2009.5.20 

家族の臨終に際して、とまどったという人は少なくありません。人の臨終に立ち会う機会は、ますます遠のくばかりです。臨終の場所や時間、病気や事故などの死亡原因、看取られる者や、看取る者の死の受容の有無、その場に居合わせた者の間柄や年齢、価値観など、環境や条件によってその最期はさまざまな展開を見せるものです。

死が迫っても命が尽きるとは、本人も家族も考えていない場合があります。また、周囲は全てを承知していて、本人は知らされず、最期に欺かれた思いを抱いて死地に赴く人もいます。逝く人者が「ありがとう」「さようなら」と云えば、「死んじゃあいや」「がんばって」と叫ぶ者、「ようがんばった。よう生きた、後のことは心配いらんぞ」と語りかける人もいます。

私的なことを綴ります。私の母は在家から寺に嫁ぎ70年、在宅介護5年と4ヶ月を経て、99歳の天寿を全うしました。医師からあと4、5日ですと告げられ、家族は意を強くして見守ることにしました。身延山で修行中の孫は休暇を願い出て、最期の一晩を祖母の手を握って夜を明かしました。

幸いなことは瞑目する十数分前まで、ごく自然な会話ができたことです。その日の朝も休んでいるのかと目を凝らすと、口元がかすかに動いています。その動きには一定のリズムがあり、それはすぐにお題目だとわかりました。ベッドの暮らしとなっても自我偈やお題目の声が襖越しに聞こえていました。

死の幾日か前のことです。母はしきりに「いいかい、いいかい」と問いかけるのです。何のことだかわかりませんでした。私の顔を見てとった母は、言い含めるがの如く「いいか、いついつまでも、生きているわけではないぞ」と口にしました。親の死に臨む覚悟は出来ているいるか、覚悟はいいのかというのです。

いつかその時が必ず来るとはわかっていても、改めて母から問われ、一瞬だじろいたものの、ここは安心してもらうしかない、覚悟は出来ていないとは言えません。「うん、大丈夫だ。心配ないよ」と大きな声で答えました。その後は「いいかい」を口にすることはありませんでした。

それから2、3日が過ぎ、私は思い切って、しかしさらりと「俺はお婆さんの子で仕合わせだったよ」と告げました。母は虚空の一点を見つめたまま口元に笑みを浮かべました。

最期の日はベッドに寄り添う者にありがとうを云い、合掌しようと点滴の右手を持ち上げる仕草を見せます。「いいよ、片手でいいよ」とうなずきながら、家族もまた手を合わせて応えました。目を落とす30分程前のことです。「お婆さん、言いたいこと、言っておきたいことはある?」と尋ねると、即座に「山ほどある」という答えが返ってきました。そこへ遠方からの母の甥夫婦が訪れ、母子の会話は途絶えて、「久しぶりだね、元気だったかえ」という甥との話に移ったのです。

しばらくして異変を告げる声に急いで部屋に入るともうその時は目を閉じ、かすかな息づかいだけです。その時がきたのだと思いました。駆けつけた医師が臨終を告げると、私はまだ温かい母に頬ずりをしました。介護に尽くした妻の「お婆さん、ありがとうございました」の声に続き、それぞれがあふれ出る思い出を口にし、お題目を唱えました。それは9月の初秋の風が吹きはじめた昼下がりのことでした。

あの覚悟を促す凛とした声と、優しく微笑んだ横顔が今も蘇ります。山程言いたかったその一つひとつを探し続けていくつもりです。今にして思えば悔やむことの少なくない最期の日々でありました。

母はいい臨終を見せてくれました。母のように逝きたいと思っています。
老いた後の死は決して怖いことではないと考えるようになりました。そして亡き母や父と再会できる日を信じ、深い安らぎに導かれたいと思うばかりです。



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臨終 4 見届けることは生きる者の役目
お題目の功徳で魂の安らぎと救い
 2009.6.20 

親しき者の臨終に向き合うときは深い悲しみと、おののきが伴うものです。予め医師よりその時が告げられて、幾分か覚悟ができるものでしょう。愛する人の命が尽きるのをしっかり見届けることは生きる者の役目です。臨終に立ち会い、人生の意味、生きること、死することについて身をもって学び、知ることになります。

前回は私事ですが、母との別れを綴りました。その生を全うする姿は荘厳なものを感じさせてくれました。悲惨な事故や災害のケースは別として、家族の死に臨んで同様な感慨を抱く人は多いと思います。

歌人の吉野秀雄が妻を看取った歌は、いずれも胸に迫ってくるものがあります。傍にいながら、どうすることもできない辛さを秘めて、別離の悲しみと嘆きを詠んでいます。  「病む妻の足頸にぎり昼寝するむ」
  「末の子みれば死なしめがたし」
  「ほさな子の服のほころび汝は縫えり」
  「幾日か後に死ぬとふものを」
 四人の子を残して遂に瞑目します。それは昭和十九年の夏、妻が四十二歳の時でした。

臨終の一首は
  「母の前を我はかまわずこと切れし」
 「汝の口びるに永く接吻す」
年老いた母、幼い子供達の前で、いま息を引き取ったその唇に夫はしばし口づけて別れをなしています。余人の介在を許さぬ夫婦の愛を見る思いがします。

加齢や長い闘病生活よる衰弱、また疼痛緩和のための投薬などにより意識の混濁や眠りの中にあって、もはや言葉を交わすことが出来ない臨終もあります。握りしめた手を握り返すかすかな反応に言葉なきメッセージを感じ取ったという話も聞きます。

今、看取りの場は、およそ8割が病院や施設です。お題目を唱えることができない場合は、声に出さずにお題目を唱えて下さい。個室や在宅であれば周囲に気兼ねはいりません。

Tさんは永年信行を重ねてこられた方です。臨終に際し、お題目を唱え息を継いで休み、唱えては休みながら別れを告げ「死ぬことも容易じゃねえ」とつぶやき、家人に見守られてお釈迦様の霊山浄土へ旅立って往かれました。

いつどこで、どのような状況であっても往く者、送る者が「これでよかった」と、全てを受け入れることができれば幸せなことでしょう。また私達にとり、臨終の場に一声でもお題目が響くならばもうこれ以上の何も要りません。命が尽きようとする時、その人に代わりお題目を唱えてあげて下さい。その方が唱えるならば、ともに唱え、支えてあげましょう。

お題目は「有り難う」「よく頑張ったね」「お疲れさま」「世話をかけたね」「ごめんなさい」「また会おうよ」「さようなら」など、およそ命終に臨むあらゆる思いを包み、また凝縮します。

仏前における日々の信仰で臨終正念を祈る方もおられるでしょう。日蓮聖人遺文辞典の臨終正念の項には「臨終の時、心を乱さないこと。死に臨んで邪念を起こすことなく、ひたすら仏道の成就を正しく念じつつ、心安らかに死を迎えること」とあります。

日蓮聖人は真に安らかな臨終は法華経・お題目によらずしては叶うことはできないと「強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給え」(生死一大事血脈抄)と励ましています。さらに「最後臨終に南無妙法蓮華経ととなえさせ給いしかば、一生乃至無始の業罪変じて仏の種となり給う。煩悩即菩提、生死即涅槃、即身成仏と申す法門なり」(妙法尼御前御返事)と、私達の成仏を約束されておられます。

お題目の功徳によって生死の迷いを断ち、罪や汚れが洗い清められます。苦しみや執着から解き放たれ、霊山浄土に参って(往詣)、御仏にまみえることができ、魂の安らぎと救いがもたらされるのです。
 
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臨終5  お題目を唱え、迷うことなく
大きな力にすべてをゆだねて
 2009.7.20

映画「おくりびと」の原作「納棺夫日記」を著した作家の青木新門氏の講演をお聞きしました。氏は次のように述べています。

 「現代社会は死を隠蔽して、生は善、死は悪という価値観ができあがっています。ことに丸ごと認める力が衰弱して、物事を分けて考える癖、分けて物を見る科学的合理的思考が身についています。ヒューマニズムとは人間中心主義。そこには自我があります。あらゆるものを平等に、丸ごと認めるということではありません。自分に都合の良いものはという形で、生と死を分け、死を隠蔽して生にのみ価値を認めてきたように思います」。

「私は死の瞬間には計り知れない大きな力が働くのだと言いたいのです。次は私の作った詩です。『人は必ず死ぬんですから、いのちのバトンタッチがあるんです。先に逝く人がありがとうと言えば、残る人がありがとうと応える、そんなバトンタッチがあるんです。死から目を背けている人は、見損なうかもしれませんが、目と目で交わす一瞬の、いのちのバトンタッチがあるんです』」。

臨終の場に於ける死者と生者が交わす「いのちのバトンタッチ」があるということ。私達は愛する人の死を怖れることなくしっかりと見届け、見逃すことのないように心したいものです。

青木氏はまた「おくりびと」の原作の舞台であった富山が山形となり驚きつつも、映画の構成や俳優の演技力等を高く評価しています。ただ「いのちのバトンタッチ」の部分が切り取られ、おくりっぱなしという感じがしたと言います。また、いしぶみという形で、生きている人間だけの心の癒し、愛別離苦の悲しみを癒すところで映画は終わっています。人間愛では自分がいざ死ぬときの助けにはならないと言う指摘は心に留めておきたいと思いました。

臨終のありさまは、願ったり期待していたように迎えられないものです。それほど生命というものは不測の展開を見せるものです。それでもなお安らかな最期、満ち足りた臨終を願わずにおられません。

私達は生あるとき、死に赴くとき、いかなる時もお題目という支えを頂いています。考えてみれば何と幸せなことでしょうか。お題目は、生者死者共に臨終の助けとなると確信するものです。

家族、縁者の最期に立ち会い、刻一刻と臨終が迫る時の流れに身をおけば、人事を尽くした後は、目に見えない大きな力に全てをゆだね、おまかせするほかはありません。お題目を唱えてきた者は、心安らかに迷うことなく、全てをお任せできることでしょう。

日蓮聖人は『松野殿後家尼御前御返事』に人間として生まれ、お題目と出会うことができた有り難さを「一眼の亀」(盲亀浮木とも)の説話をもって説き示されてます。

海の底に住み千年に一度だけ大海原に浮かび出る一眼の亀が、運よく漂っている浮木の穴に入ることは容易でないこと。これを人として生まれることの困難さ、さらにその人が仏の教え(お題目)に出会う、値遇することの困難さに譬えています。大海は生死に迷う苦海、亀は衆生である私達です。「ただ得難きは人身、値い難きは正法なり」(『聖愚問答鈔』)です。

臨終を迎えるとき、その心に去来するものは何でしょうか。一つには人間としてこの世に生まれてきたこと。二つにはお題目に巡り会えたという喜び。この二つを心の奥底に感ずることができれば、以て瞑すべきでしょう。

私達は日常の折節にお題目を唱え、死に様を考えようではありませんか。死生観が養われ、臨終を迎える覚悟となり、また助けともなるのです。死にざまを考えることは、生きることに真摯に向かい合うことでもあります。

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臨終6 法華経を知己友人に-
宮沢賢治“最期”の生き方 
2009.8.20 

塵点の劫をし過ぎて いましこの 妙のみ法にあひまさりけしを
身延山の山門を抜け菩提梯の石段へ到る道筋、小さな橋のほとりにこの歌碑が建っています。「雨ニモ負ケズ」の詩で親しまれる宮沢賢治が病床で綴り、死後に発見された「最後の手帳」の紙片に記されていたものです。塵点劫という長い長い時を経て法華経に出遇うことができた無上の喜びを歌い上げています。

この歌碑が賢治の妹しげさんの手で除幕され、身延山86世藤井日静法主さまにより開眼供養が営まれたのは、昭和36年10月のことでした。その数日前、法主さまが随身の学生達に宮沢賢治に関する本を持っている者はいないかと問われました。たまたま私に『宮沢賢治と法華経』(普通社、既に絶版)があって、しばらくの間お手許に置かれました。法主さまが万年筆で誤植を訂正され、古びて赤茶けていますが、今も宝物のように書架に置いてあります。

賢治の生涯や業績、法華経との出遇い、父との信仰上の対立などについて触れるスペースはありません。ここでは『宮沢賢治と法華経』の記述に基づいてその最期の生き方をご紹介します。

昭和8年(1933)、38歳。岩手・花巻の鳥谷崎神社の祭礼の頃、病は小康を保っていました。9月19日の夜は母が案ずる中で、山車や御輿を拝礼するため門口に出て立っていました。3日間の祭礼が終わったこの日、絶詠となった次の2首を残しています。

  方十里稗貫のみかも稲熟れて み祭三日そらはれわたる。
  病のゆゑにもくちんいのちなり みのりに棄てばうれしからまし。(稗貫は故郷の稗貫郡。くちんは朽ちん。みのりは御法で法華経をさす。)

翌20日の夜は一人の農婦が訪れ、稲作や肥料の相談を受け、家人の心配をよそに病をおして懇ろに対応をします。その夜、弟の清六氏が床を並べて休みますが、電灯を見つめて「こんやはばかに電灯が暗いなァ」と声をかけています。

21日午前11時半。二階の部屋からりんりんとしたお題目の声が聞こえ、家族が階段を駆け上がると、床に端座し合掌してお題目を唱える賢治の姿がありました。

父が「賢治、今になって何の迷いもながべ」と呼びかけると「もう決まっております」ときっぱり答え、父は言い残したことはないかと、母に巻紙と硯箱を持ってこさせます。
賢治は国訳の法華経千部を印刷し知己友人にわけてほしいことを告げ、お経の後ろに「私の一生の仕事は、このお経をあなたのお手許にお届けすることでした。あなたが、仏様の心にふれて、この上なき、正しい道に入られますように、と言うことを書いてください」と伝えました。父が賢治に向かって「立派だ」とほめると、弟の清六氏に「お父さんにとうとうほめられたもや」と言い、心から嬉しそうだったいいます。

父や弟妹が昼休みに下がった後、母に吸飲の水を求めて、おいしそうに飲みました。「ああ、いい気持ちだ」と自ら、オキシフルを含ませた消毒綿で手から首、体を拭くと横臥して、再び「ああ、いい気持ちだ」と言いました。母が階下に下りようとして振り返ると、眠りに入る人のようにオキシフルの綿をポトリと手から落としました。母が「賢さん、賢さん」と呼びかけたその時が、臨終でありました。賢治は花巻市日蓮宗身照寺に眠っています。一度訪れて見て下さい。


 聖トマス大学のホアン・マシア教授(神父・スペイン)は、毎年授業で宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」を取り上げています。「生命のすゝめ」の講話で、「ソウイウ者ニ私ハナリタイ」とありますが、仮に「そういう人に皆さんはなるべきだ」とあれば詩ではなくなります。「そうありたいものです」「なかなかそうなれない私達ですが、努力しようではありませんか」「それにはどうしたらよいのでしょうか」と考えるところが人としての道ですと述べています。

お題目をいただく私達にとって、最期はこうありたいと願うこと、そのために成すべき事は何でありましょうか。

生 と 死

生と死 2