本尊は一塔両尊四士・十界曼陀羅像型形式
鬼子母神堂 明治31年建立
仁 王 門 明治40年建立
最上堂・妙見堂 明治36年 35年建立
最上堂
妙見堂
願満堂
明治36年建立
庫 裡
明治26年起工、同29年に完成。 203.57u
開基の日文上人は飯山出身であるので、大工職は飯山の人が多く、飯山型の建築といわれる。
総工費は当時の約2000円と記録される。
境 内 散 策
島木赤彦はアララギ派の歌人ですが、大正13年7月に当山に一泊して、その時に詠まれた3首中の一句が歌碑として昭和31年5月に建立されています。
『七月に入りて雪ある遠き山 山門外に出で立ち見れば。法善寺にて赤彦』
他の2首は以下の通りです。参考(太虚集)
門前より傾く丘の裾遠 川をめぐらし音のきこえぬ。
山門のあいだに月照らし 涼しさ過ぐる夜はくだちつつ
赤彦が何故当地に来たかというと、現在の東部高校の前身である組合立の実科中学であったころ、町中の教員を集めて「万葉集」の講義にきたのだそうです。その折りに当山に泊まられ時の一句。当然地元有力者等々が大歓迎会をしたが、赤彦はお茶が大好きな風流人だったので、俗っ気満タンの酒宴はお気に召さなかったらしい。何故ならば、赤彦は再度当地を訪れているが「宴会だけは真っ平ごめん」と前もって云ってきたそうである。
これらの経緯は田中にいた新聞記者の「尾沼南子」氏が昭和32年の週間上田新聞に掲載されています。尾沼氏は小生もまだ記憶していますが、長身痩身の紳士で檀家ではないのですが、当山には何故か非常に好意的で、信州民報などにもたびたび寺の記事を書いてくれていました。
記事の中で「こんな田舎だが、法善寺という寺や赤彦の歌碑も、その立派さにてんで気づいていないものが多い」と嘆いている。さらにこんな記事が続く「東部町が滋野と合併すると、法善寺あたりが中心になる。町営グランドをつくり、池を掘り、ボートを浮かべ、桜を植え、あのあたりを一大公園にする夢を、筆者はもっている。。。。」昭和32年10月27日の記事である。泉下の尾沼氏は現在の有様をどのように見ているのだろうか。
当山には大正時代に建てられた「犬塚」「猫塚」があり、先代時代より「動物の墓も必要だナアー」と話し合っていました。時折に猫や犬を埋めて欲しいという
依頼があり、境内の一角に埋葬したことも幾度か・・。時は移りペットも正に家族の一員となり、かつてのように野辺に埋葬することは、心情的に、又、環境衛
生上からも配慮が必要な時代。その「埋葬」もある意味では、寺の社会的要請となりつつあると思っていました。
そして、動物の火葬が容易となった事が、この計画にはずみをつけ、平成13年年9月このプランを実施に移し、「動物供養塚 蓮生」として十月二日完成致しました。
狭い世界に住んでいたことを思い、墓地のスペースは円形の十二畳位の多少大きなもので、中央には大宇宙の大きな「生命のうねり・波」を象徴する白御影石
のモニュメント(1m×2m)を置き、周囲には仏教で言う「悉有仏性」「十界互具」。全ての生命・存在は仏界の世界を持っている、仏様の世界に至る可能
性・因を持っているということで、今生ではたまたま動物世界(畜生界)に身を置いていたが、仏さまの世界に生まれ変わることができますよ、という意味で十
界の石を置き成仏を願いました。
モニュメントには「蓮生」と彫ってありますが、お経の中に「法華経の縁に触れて、仏様の前で蓮の華の中に生まれる」という文章がありますので、この蓮と生を短き命に捧げたいと思う住職の気持ちです。 施工・北沢石材
ペット墓地「動物供養塚 蓮生」使用規定
*檀家以外の方(どなたのペットでも)のペットも埋葬できます。 只し、埋葬供養儀式は日蓮宗作法に従うものとします。
*原則として「火葬」後焼骨としての埋葬です。
*合祀の形での埋葬で個々別々の埋葬ではありません。
*埋葬供養料特に定めません御任意御志納で結構です。。
*供養塚前にて塔婆を立て読経埋葬供養いたします。
*専用霊簿記入。
*御施餓鬼法要時に供養。
昭和9年9月7日軽井沢御滞在中、当地千曲川畔に 御来遊の砌、屋上出現の黄金仏を御礼拝になられる。 昭和11年9月建立。
千曲川にて「ヤナ」の漁をご覧になったと云われる。
当山の屋根瓦は、今の上田市下吉田の瓦職人である山田要吉翁によって作成されたもので見事なできばえである。
しかしながら、仙人様姿や役者様姿等が何を意味しているのか残念ながら全く不明である。
右から「唐之高楼鬼状頭」とある。 魚の上に立つ仙人? 亀の上の仙人? ウサギの奥に何かの痕跡
当山開山、小林日文聖人の業績を称えたもので、題字は身延山83世法主 望月日謙猊下による。
昭和10年7月 法善寺信行團により建立。 裏面に「上田市 房山町 刻師 向山亀鶴」とある。
碑文は以下の通り。(読みやすくするためにカタカナをひらがなに、旧字体は新字体に、更に句読点を入れ、改行を加えた)
上人姓小林名日文要隋妙順院と号す。安政六年六月十日飯山藩主、甚平の四男に生る。慶応二年十月八日同町本光寺日敬師に従て得度し、明治十一年師跡を継承す。十五日薩和尚に随って大教院に学ぶ。十七年帰山し専ら寺門経営布教伝道に尽瘁す。二十年日薩和尚巡教の際、布教機関として清浄結社設置を委嘱せらる、今の第七結社是れなり。明治二十六年当地新寺創立の懇請に依り、本光寺を弟子要敬に譲り一寺建立を発願す。
幸に駿州大営大泉寺末、大営山法善寺移転の同意を得、二十八年四月本県知事の許可を得るや直ちに本堂建設に着手し、二十九年身延山直末なり。同年十一月身延七十七世日厳和尚を請し、開堂供養を修す。茲にに甫めて法善寺の基礎成る。陋来在職二十三年なり。
大正十三年九月弟子要山に譲り、老躯を提けて軽井沢の開教に志し、十五年八月同地に清浄結社を建設す。昭和三年六月、時の宗務総監望月日謙僧正の発議に依り、今上天皇御即位記念館を建設すべく、管長酒井日慎猊下身延山並びに帝都諸大徳の賛助を得、十月十六日開館式を挙ぐ。今の清浄閣是れなり。
昭和六年宿痾に華り七月二十七日遂に遷化す。世寿七十六歳。法六十有五年なり。上人と為り温良沈毅謙譲事に処して果断克く悦服す上人。常に報恩観念に住及し、歳々信徒を率い身延山に詣で霊感に浴する上人の功績枚挙に遑なしと雖も、本光寺、法善寺、清浄閣等在任五十有七年。其間、教会所参拝所等の設立数カ所に及ぶ。
誠に当代希に見る、護法芙宋の師と謂うべし。宣なる哉、昭和三年累進し僧正に叙せられ、昭和九年九月十三日法主日謙猊下大導師の下に本葬の儀典を営み、永く当山の蛍城に葬る。
嗚呼開山妙順院小林要隋日文上人偉なる哉、一代の行状真に止暇絶眠の祖訓を色読せられしことを。
左の聖文蓋し上人の銘とすべきか。
経曰 採薪久果? 髄時恭敬與 情存妙法故 身心無懈倦
普為諸衆生 勤求於大法 亦不為己身 及以五欲楽
甘利山十五世 保科日幹 謹撰
昭和十年七月下浣 柳洞 池田良司 敬書
本堂 本堂
仁王門 仁王門
昭和2年2月 建立 日文代 裏面に寄付者136名刻。