近代日蓮宗における宗教統制
宗教と政治の関係は、古くは一体の関係であり、また、相互に利用関係にあったり、国民統制のために一方的に政治が宗教を押さえたりと、善し悪しに関わらず密接な関係を有してした。日本国憲法による政教分離により、この関係は解消されのであるが、21世紀の現代においても微妙にしてデリケートな問題は存在する。
明治以後の近代に於いても、国家神道の名のもとに、体制護持のため国家が宗教に深く介入した歴史が近代日本仏教史の中にある。近代史は歴史の闇とも言われ、その事実は忘却されるにまかされている状況であるが、今後の宗教発展のためにも事実の忘却は許されるものではない。日蓮宗では伝統的宗義解釈の変更、御遺文削除などの思想統制が見られるが、以下、時系列的にこれを確認してみたい。。
関 係 年 譜 カッコ数字(1)(2)等をクリックすると解説にジャンプします。
関係事項 | 社会 | ||
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文化14 | 1817 | (1)平田篤胤『神敵二宗論』 | |
明治1 | 1868 | (2)神仏分離令 (3) 廃仏毀釈 | |
明治22 | 1889 | (4)大日本帝国憲法 | |
明治24 | 1891 | 内村鑑三・教育勅語礼拝拒否事件 | |
明治27 | 1894 | 日清戦争 | |
明治37 | 1904 | 日露戦争 | |
明治40 | 1907 | 不敬罪強化 | |
明治43 | 1910 | (5) 大逆事件 | |
大正3 | 1914 | (6) 国柱会結成 | 第一次世界大戦 |
大正10 | 1921 | (7) 大本教弾圧 | |
大正11 | 1922 | (8) 立正大師号降賜10/13 | |
大正12 | 1923 | 9/1 関東大震災 | |
大正14 | 1925 | 普通選挙法・(9)治安維持法の成立 | |
昭和6 | 1931 | (10) 勅額拝載 宗祖650遠忌 | 満州事変 |
昭和7 | 1932 | (11) 内務省より御遺文中の不敬文句の削除命令。『日蓮聖人御遺文講義』 削除1 | |
昭和8 | 1933 | (12) 教学刷新(思想統制の強化) 仏教各宗満州開教 | 国際連盟脱退 軍部の台頭 |
昭和9 | 1934 | (13) 東京日々新聞「日蓮宗聖典断固発禁処分か」10/1 削除2 | |
昭和10 | 1935 | 3月 映画「国を護る日蓮」 4月 映画「国柱日蓮聖人」 12/8 大本教弾圧 |
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昭和11 | 1936 | 2月 不敬罪取締強化 「日蓮聖人遺文全集講義」一部伏せ字として出版2/21 大林閣版 (14)ひとのみち教団廃教命令 (15) 曹洞宗用語不敬問題 |
2.26事件 |
昭和12 | 1937 | (16) 簑田胸喜による日蓮不敬事件(本門法華宗の天照・八幡神解釈) (17)曼荼羅を不敬として徳重三郎(兵庫県 神道会会長)日蓮宗を告発3/26 本門法華宗「日蓮教義綱要」回収焚書11/7 (18)『日蓮聖人自叙伝』削除問題 削除3 |
支那事変 |
昭和13 | 1938 | (19) 文部省の日蓮教学刷新に関する項目 (20) 皇道仏教行道会発足 宗義擁護連盟結成 9月教科書より釈迦の記載削除 |
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昭和14 | 1939 | (21) 山川智応「御本尊御遺文問題明弁」 (22) 龍谷大学の教科書 真宗『真宗要義』の不穏文句削除 2月 大塚圭八「山川智応氏の反国体学説を破す」 (23) 宗教団体法成立(宗教統制)3/23 12/26 管長望月日謙 曼荼羅国神不敬にて国神削除を計る |
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昭和15 | 1940 | 真宗『教行信証』等の聖典の不穏文句削除 (24) 2/6皇道仏教行道会が文部省に宗内不敬についての上申書提出 6月 真宗門徒の神棚不設置にて真宗の信仰調査 (25) 9/24 福田素剣゛国家神道違反として日蓮宗を告発 (26) 12/5『清水龍山先生古希記念論文集』中谷良英「祖文に於ける国判法門一考察」伏字出版 |
紀元2600年 9/23 日独伊三国同盟 (27) 10月 大政翼賛会発足 |
昭和16 | 1941 | (28) 3/2 三派合同(日蓮宗 本門法華宗 顕本法華宗) 4/11 旧本門法華宗幹部を曼荼羅国神解釈(現相鬼畜)を不敬として検挙 5月 皇道仏教行道会 山川智応・浅井要麟 不敬罪で告発 (29)7月 新たな遺文編集を模索(不敬部分自主削除を上申) |
10月 金属類回収令(仏具等) 12/8 太平洋戦争開戦 |
昭和17 | 1942 | 4/11 皇道仏教行道会・宗義擁護連盟解散 8/9 守谷貫教没 9/13 法華宗 遺文削除反対決議 12/30 浅井要麟没 |
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昭和18 | 1943 | 1/8 清水龍山没 9/23 望月日謙没 6/20 創価教育学会 牧口等 不敬罪にて検挙 8/31 法華宗の刈谷・株橋に有罪判決 9/5控訴 |
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昭和19 | 1944 | 日蓮各派(除・旧法華宗)御遺文35部中135ヶ所を削除訂正決定 | |
昭和20 | 1945 | 2月 旧法華宗徒3名 大麻不受不敬にて検挙 | 8/15 終戦 12/28宗教法人令発布(政教一致否定) |
昭和21 | 1946 | 1/1 天皇の人間宣言 | |
昭和22 | 1947 | 5/3 日本国憲法施行(信教の自由) |
上記年譜の解説
(1) 平田篤胤『神敵二宗論』
平田篤胤(1776-1843)江戸期の国学者・復古神道の大成者。著書の『出定笑語』は仏教の批判書として著名だか、これは富永仲基(1715-1746)の大乗非仏説を主張する『出定後語』の影響を強く受けたもの。『神敵二宗論』は『出定笑語』の付録2巻で、真宗と日蓮宗を「吾が神の道の妨害を為すもの」として非難している。しかし、その論理は粗雑独善的な中傷に満ち、真宗・日蓮宗の教線が庶民に深く浸透している状況を恐れたものと云える。後述するところとなる神仏分離令や日蓮聖人の曼荼羅・御遺文に対する不敬問題もこれによる影響が大きい。
篤胤の日蓮宗批判の概要を羅列すれば以下の通りである。
1.曼荼羅に「天照・八幡」等、国神の名を書き連ねている。(天照は皇祖神で、八幡は15代応神天皇の神格化で天皇の祖先神)
2.死者に着せる経帷子に「天照・八幡」を書いている。
3.御遺文に歴代天皇の悪口がある。
4.三十番神信仰は国神不敬で、行基、弘法、親鸞等の真似である。
5.日蓮は下賤の生まれであるにもかかわらず、高貴の家系を偽造している。
6.菩薩号を僭称している。
7.浄土宗との宗論に負けている。 等々。(安土及び慶長の宗論)
(2) 神仏分離令
明治維新直後より政府は天皇・皇室を中心とした国家神道を国体とすることを目指し、1868年3/13神祇官を再興し、神仏を分離しその意志を明確にするべく、3/27に太政官布告として、神仏の混淆を禁止する「神仏分離令」を発した。尚、この布告の背景には仏教に対する批判とキリスト教への危惧もあった。
具体的には*神社内の仏像を神形に変える。*神社内の仏具を撤去する。*八幡大菩薩を八幡大神に改称する。*神官の葬儀執行を禁止する。等々。
同年10/18 久遠寺、本門寺、誕生寺等42本寺へ太政官より「法華宗諸本寺へ達」として具体的に下記の指令が発せられた。
1.三十番神信仰の禁止。 本地は仏で、垂迹として姿を変えたのが国神であるとする本地垂迹説を否定するため。
2.曼荼羅に天照大神・八幡大菩薩(大神)の神号書写の禁止。
法華経・釈尊が主で他は全て従。国神も従である小神ということを否定するため。
3.経帷子に天照・八幡の神号書写の禁止。
死者に着せるものに国神を書くことは国神への冒涜であるとするため。
また、同じ日に京都16本山に対し「法華宗三十番神其他神祇の称号混用を禁ず」の通達が出された。これらの措置に対して京都16本山、駿河8ヶ寺、東京16ヶ寺寺は概要以下のような申し合わせを身延に提示した。
1.三十番神は焼却したとして戸を閉める。隠す。
2.天照・八幡の神号を本尊に書くことを見合わせる。
3.菊の紋は色紙で隠す。
4.七面大明神は七面天女と改称する。
これを受けて身延久遠寺では明治2年1月「触書」として以下事項を全末寺へ通達することになる。
1.天照・八幡等神祇に関する分は仕舞置くこと。
2.鎮守などは氏子へ、神像は神社に渡すこと。
3.三十番神を記載したものは仕舞置くこと。
4.曼陀羅本尊に国神号が書かれているものは仕舞置くこと。
5.経帷子には神号を除いて書くこと。
6.菊紋付の法服は遠慮すること。
7.各寺に勧請されている仏道神号を私的に改めてはならないこと。
上記に見る限り、焼却や削除には触れず、太政官達の命令に100%従うものではない。神道国教化政策に抵触しない範囲での苦渋の選択として、神仏分離令を応諾したものとなっている。「仕舞置く」の表現は事実上、寺内部に秘匿保持する事で、混淆禁止にある程度対応しながらも、従来の信仰内容を保とうとした苦肉の表現であったのであろう。
国は国家神道として神官を全国に宣教師として派遣し、国民の神道教化を計るが、従来の神道に布教実践の実績がなかったため至難となり、後に仏教教団を活用して(皇道仏教)国策的思想善導を計ることになる。
(3) 廃仏毀釈ハイブツキシャク
神仏分離令の国家の方針に呼応した平田派、水戸学派らの有力国学者指導の元、寺院の廃寺や合併、破壊が半ば政府公認のもとに強制的に為された仏教排斥運動。この動きは有力な国学者や神学者がいる一部の所では大きな高まりを見せたが、全国的なうねりとはならなかった。代表的な動きは以下の諸藩であった。(廃藩置県以前であったので県ごとではない)以下の数字は資料によって異なる。
薩摩藩
1660ヶが廃寺(日蓮宗130ヶ寺)。明治2年、藩の還俗令により僧侶2964名が兵役、教員、商工業に還俗させられ、経巻・仏像、仏具等は焼却、または兵器に鋳造された。明治4年に合併令は消滅。
富山藩
明治3年一宗一ヶ寺の合寺政策を断行し630ヶ寺を7ヶ寺に合併。日蓮宗は32ヶ寺が大法寺一ヶ寺に合併された。梵鐘等金属仏具は兵器に改鋳、寺院敷地は兵器工場へと転用された。
土佐藩
639ヶ寺が廃寺(日蓮宗6ヶ寺)
松本藩
80ヶ寺が廃寺(日蓮宗4ヶ寺)。
福井藩
日蓮宗寺院7ヶ寺が4ヶ寺へ合併。
佐渡藩
404ヶ寺が廃寺(日蓮宗53ヶ寺)。
この動きは仏教界ににとって大きな痛手であったが、必ずしも民衆の支持を得たものでなく(民衆の反対運動もあった)、一部の過激な行為に政府は「神仏分離実施を慎重にすべき令」を出し、行き過ぎを押さえたが、明治8年頃まで影響が残った
(4) 大日本帝国憲法
明治22年2/11公布 同23年11/29施行の日本最初の近代的成文憲法。1章1条「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」とあるように、天皇主権の憲法。信仰の自由についても2章28条に「日本臣民は安寧秩序を妨げず、および臣民たる義務に背かざる限りに於いて信仰の自由を有す」とあるように、天皇主権の範囲内限定的なものであった。
(5) 大逆事件
大逆(大逆罪)とは帝国憲法下の刑法が定めていた、天皇・皇后・皇太子等 皇族に害を加える者に対しての罪で、裁判は非公開で極刑であった。
大逆事件とされるものには、1910年の幸徳秋水事件、1923年の虎ノ門事件、1925年の朴烈事件、1932年の桜田門事件の4件あるが、1910年の幸徳秋水の事件を指すことが一般的である。
この事件は、社会主義者の幸徳秋水コウトクシュウスイが明治天皇暗殺を企てたとして検挙された事件で、社会に大きな影響を与えた。
しかし、後の研究等によれば、その実際は社会主義の台頭を恐れた官憲が、運動弾圧の口実として事件をでっちあげたものとも言われている。思想弾圧の典型的ケースとして知られる。
(6) 国柱会
田中智学(1861-1939 本名は邑之助)が日蓮宗門に入り智学と称したが、当時の宗学に疑問を持ち還俗(故に智学居士とも称せられる)し、大正3年に設立した在家日蓮主義集団(明治17年に前身として立正安国会があった)。
主義の特徴は「天業たる世界統一を実現すべき実行者は神武天皇であり、指導者は日蓮聖人である」(『獅子王国体篇』)から導かれる「王仏冥合論」(国家・政治と仏法は共に相関関係にある事)の絶対主義天皇制と日蓮主義の統合論にある。
また日本を世界の中心と考える思想は、『日本書紀』第3巻「皇孫、正に養う心を弘め、然る後、六合を兼ね以て都を開き、八紘を掩ひて宇と為さん」より「八紘一宇」ハッコウイチウの造語を新設した。この言葉は当時の軍部社会に大きな影響を与え、軍人や国粋主義者の好むところとなった。*八紘一宇の意味は「全世界を一家とする」意味であるが、侵略主義の代名詞ともなった。
高山樗牛、宮沢賢治、石原莞爾なども国柱会の信者であった。
(7) 大本教弾圧
大本教は明治25年、「出口なお」に降りたとする神示を始めとし、霊能力者の出口王仁三郎と共に明治31年に設立した神道系の教団。(正式名称は大本で教はつけない)
教理に1.型の論理(大本内での出来事が日本で起こり、日本でおこった事が世界で起こる)と、2.立て替え・建て直し(一種の終末論)の二つがあり、これが革命思想であるとして弾圧される原因となった。
大本の弾圧は大正3年と昭和10年の2回を数える。
大正3年のもは、不敬罪と新聞紙法違反として王仁三郎が逮捕され、マスコミの攻撃をう受けたものだが、昭和10年の2回目のものは不敬罪と治安維持法違反として、幹部の一斉逮捕、主な信者の逮捕や拷問、全建物のダイナマイトによる破壊、土地の強制売却、印刷物の発禁処分等で、教団の事実上解体を意図したものであった。
高橋和巳の小説『邪宗門』はこの大本弾圧をとりあげたものである。
(8) 立正大師号の降賜(下賜・宣下)
大正11年、日蓮門下9派(日蓮宗・日蓮正宗・顕本法華宗・本門宗・本門法華宗・法華宗・本妙法華宗・不受布施派・不受布施講門派)合同請願により、日蓮聖人に「立正大師」の称号、大師号が天皇より与えられた事をいう。
大師号は中国や日本に於いて、天皇・朝廷から高徳の僧に贈られる尊称で、日本では最澄が伝教大師(天台宗)、空海が弘法大師(真言宗)、道元が承陽大師(曹洞宗)、隠元が真空大師(黄檗宗)、源空が円光大師(浄土宗)、親鸞が見眞大師(浄土真宗)等とあり、日蓮聖人に下賜がないことを理由に願い出たが、これには門下統合という目標もあった。
9/11請願書に名を連ねたのは、各宗各派の管長及び憲政会総裁・加藤高明、海軍中将・佐藤鉄太郎等 日蓮信奉者11名で、宮内大臣 牧野伸顕にこれを請願した。だが、その請願理由には時の天皇中心の国体に対し、以下に示す意図的歩み寄りが見られた。大師号の宣下には日蓮聖人を天皇が公認するという意味があったのである。
イ.日蓮聖人は慈仁深厚の聖者であると共に、国家善導の先覚者である。
ロ.日蓮聖人は熱烈なる勤王愛国の国士である。
ハ.日蓮聖人は法華一乗の正法を宣布すると同時に、神儒仏三道の融合を期した。
10/10牧野宮内大臣は本多宣生(顕本法華宗管長)に大師号の宣下を通達、10/13正式の宣下となった。ここに日蓮門下は国家天皇公認の宗教となったのであるが、同時に国策としての思想善導に関与すべき立場ともなったのである。門下は国家の公認と保護を求め、国家はその国策推進に、感化力を持つ日蓮門下を利用したと言うことになる。本多宣生に宣下書を渡した牧野宮内大臣の、その時の言葉が如実に一面を語っている。
「..日本の現状思想界のこの状態に対して、どうしても是は健全な思想殊に鞏固なる宗教の信念よりして善導しなければならぬという御思召から出たことである..。」
当時の社会は、第一次大戦後、朝鮮や中国に於ける反日運動、国内では米騒動、小作・労働争議、あるいわ天皇機関説(美濃部達吉)が問題となり、これらは天皇制に対する不健全思想とされた。政府はこれら自由主義的思想を悪として、宗教の感化力を期待していた。
しかし、大師号の宣下には、民衆仏教の祖として、国家を諫めた日蓮の姿をうち消し、日蓮を貴族化するものとの反対があったが、この考えは民主主義を容認する不健全な思想とされ「非論理極まりない愚論」として排除されてしまうのであった。
(9) 治安維持法
大正14年4/22発布、5/12施行の、国体(天皇制)や私有財産を否定する活動を取り締まるために制定されたもの。特に共産主義の激化を懸念したものと言われるが、普通選挙法と共に成立を計ったもので、国民の権利要求に対応しながら、その権利を抑制するという法律の二面が注目される。
この法律は、国体改変の動きと治安の維持を有機的に考慮したものであったが、宗教や極右翼、民主主義者、自由主義者のとりしまりにも用いられ、総じて反政府的言動の弾圧の口実として機能した一種の弾圧法である(大本教弾圧や後日の不敬事件等もこれにあたる)。当時の日本社会はまさに「..ものえば唇寒し..」の状態であった。
(10) 勅額拝戴
(8)に記した立正大師号(大正天皇宣下)を昭和天皇染筆「立正」の勅額を身延山久遠寺に下賜された事を言う。この請願は、4月に管長の酒井日愼が発意、田中智学の起草、身延山法主 岡田日帰の出願、及び日蓮門下各管長連名のもとにすすめられ、6月に下賜決定、10月宮中にて授与された。
これを宗門は「宗門空前の盛事」として皇居二重橋前にて盛大な奏迎の儀、久遠寺でも盛大な拝戴式が挙行された。尚、この年は宗祖650遠忌の佳年でもあり、勅額拝戴は宗風高揚に大きな意義を持った。しかし、この事は大師号下賜にも記した通り、国家の公認、皇恩に奉答するという側面があり、宗門は更に国策に対しての思想善導に寄与する事になる。
(11) 内務省より御遺文中 不敬文句削除命令 削除1
昭和7年10/1内務省警保局は龍吟社発行予定の『日蓮聖人御遺文講義』(日蓮聖人650遠忌記念)に不敬文字ありとして、これの削除を命令した。該当個所は同講義の第13巻(浅井要麟編 この巻は檀越篇として四条金吾宛の書状を解説したもの)中、「告誡書」及び「崇峻天皇御書」の本文及び解説の一部であった。
これによって第13巻は該当文句を削除し「御遺文本文並びに講義削除に就いて」なる急告を付して発刊した。この告文は以下の通りのものである。
本篇は四条金吾への賜書のみを蒐めたものであるが、その配本間際に至り『告誡書』中六箇所並びに『崇峻天皇御書』中三箇所の御遺文本文及び講義を抹殺すべしとの其の筋より命令あり、事情已むなく之を削除して配本することにしたので、配本期日も遅延し且つ左記の箇所を空欄のまま配本するの餘儀無きに至ったことは最も遺憾とする所である。(以下に削除のページ 削除の文字数を示している)
削除された空欄個所を昭和33年に日本仏書刊行会から再版されたものから確認すると以下の通りである。
「告誡書」(建治3年 身延より四条金吾よりの書状、真蹟なし。「仏法王法勝負抄」等の別名あり)
又釈迦仏に怨を成せし故に三代の天皇に物部の一族空しく成りしなり。 上同巻p281 遺文本文32字
そして天皇と稲目とは辛うじて蘇生したが、尾輿は終に絶命したのであった p282 講義35字
すると忽ち天皇を初め守谷、馬子等は何れも疱瘡に罹り p283 講義26字
釈尊に怨をせられた三代の天皇及 p284 講義14字
三代の帝並に二人の臣下、釈迦如来の敵とならせ給ひて、今生は空しく後生は悪道に堕ちぬ p287 遺文本文42字
三代の帝及び物部・中臣等の臣下は、釈尊の敵となったので今生は命を失ひ、後生もめでたくなかった p288 講義48字
「崇峻天皇御書」
日本始まりて国王二人、人に殺され給ふ。其の御一人は崇峻天皇なり
君は人に殺され給ふべき相まします
動もすれば腹悪き王にて之を破り給ひき。有る時人猪の子を進らせたりしかば、笄刀を抜きて猪の眼をづぶづぶと指させ給ひて、「何日か憎しと思ふ奴をかくせん」と仰せありしかば、太子其の座に御坐せしが、「あらあさましや々、君は一定人にあだまれ給ひなん
p316中3ヶ所 遺文本文171字 尚、上記同御書に対する講義の部分には削除個所は見られない。
(12) 教学刷新
昭和8年、国際連盟を脱退し、中国に侵攻した日本は、思想的にも非常戦時体制を強め、文部省の「我が国教学の現状に鑑み其の刷新振興を図る」即ち、教学刷新と呼ばれる思想統制を強化した。
既にこの時には共産・社会主義運動は徹底した弾圧でで弱体化していたが、「教学の刷新については、教育界・学界に於ける国体の本義に副はらざるもの是正し排除とに努むると共に、教学と密接なる関係を有する政治・経済・宗教・社会・家庭等に関して十分に考慮するの必要あり」と、教育・宗教その他の内部にまでその力を強力に推し進めようとするものであった。京大の滝川事件(京大事件)はその第一弾である。
(13) 日蓮宗聖典断固発禁処分か 削除2
昭和9年11/10の東京日々新聞に「日蓮宗の聖典断呼発禁処分か・・内務省まず削除を厳命」の見出しで、日蓮遺文削除の問題を報道した。(11)にての削除問題は新聞の報道するところとはならなかたが、この報道により削除問題は一挙に社会問題となった。
その原因は、立正大学教授・浅井要麟の『昭和新修日蓮聖人遺文全集』(昭和9年 平楽寺書店 上・下・別巻)の中に「皇室の尊厳を傷つけるが如き不穏な字句を発見」とした事による。
削除命令を受けて平楽寺書店は直ちにの受諾を回避、宗門当局もこれが根本聖典なる故をもって抵抗したが、「宣伝力の強い日蓮宗の聖典にかかる不穏字句を許容しておくことは、国民思想を悪化すること甚大である」として削除処分を言明するに至る。この削除問題は上掲書が御遺文漢文体を書き下し仮名付きであったため、その影響が一般大衆にまで及ぶ事にあったと思われる。
山川智応は後日この問題等について『御本尊御遺文問題明弁』の中で「安徳天皇様は海中の魚の餌食にならせられた。後鳥羽法皇様、順徳天皇様、土御門上皇様は島の塵にならせられたというような言葉が、彼方此方に相当ある。そこでこんな事を書くのは不都合だという」と編者の浅井師が指摘されたと述べている。
宗門は削除の撤回を更に内務省に求め、12/10教務部長・新甫寛実と内務省警保局事務官・久山秀雄との間で、イ.削除は見合わせる。ロ.不敬部分の説話、解説は行わない。この二点の諒解事項が決定したのである。
しかし、この(11)(13)の御遺文削除問題は、時局の変化と共に以後の宗門に大きな波紋を広げ、(11)の龍吟社『日蓮聖人遺文講義』の伏字出版、昭和11年の大林閣『日蓮聖人遺文全集講義』の伏字出版、更には、普及版であった『縮刷日蓮聖人御遺文』の絶版や不敬文句を削除した新たな御遺文作成計画へと発展したのであった。
(14) ひとのみち教団廃教命令
大正期に御木徳一によって開かれた神道系の教団(後のPL教団の前身)。昭和11年に天照大神や教育勅語の解釈から、教義が皇室不敬として弾圧され、昭和12年4/28に解散となった。
(15) 曹洞宗用語不敬問題
当時仏教の皇道化は時代の中で当然とも受け止められていたが、曹洞宗は昭和11年2月「両山貫首及び管長に対する尊称誤用に関する諭達」を発し、下記の点について注意通達を行った。
1.猊下・御親臨・御親修・拝謁の言葉の使用禁止。
猊下は陛下と似て誤解を生みやすく、御親修等は宮家にて使用の言葉であるので不敬とされ易い。
2.得度作法の中の「国王も汝よりは尊からず…」の字句も不敬の誤解を受けやすいので、削除して作法を行う事。
(16) 簑田胸喜による日蓮不敬問題
昭和12年 原理日本社の簑田胸喜(右翼思想家 1894-1946)が本門法華宗の『本門法華宗教学綱要』に説かれている、曼荼羅中の「天照八幡」二国神解釈が国体不敬として、文部省に処分を要請し、日蓮不敬の烽火をあげた事を言う。
上掲書には日隆の『私新抄』の「天照大神等の諸神は内証的には仏菩薩の二界に摂す可く、現相を以て之を云ば鬼畜に摂す可し。即ち、十界本有の曼荼羅也」を引いて解釈しているのであるが、簑田はこれを「我が天照大神を指して、人界に属する阿闍世王以下の鬼畜に摂属せしめて」とこれを国体違反反逆思想としたのである。
本門法華宗は同年10月、上掲書の不敬部分該当字句を削除するが、問題は拡大し11/7文部省の指示で同書の回収焚書をしている。
その後、昭和16年4/11兵庫県特高課は「鬼畜解釈」を国体不敬として、同宗幹部の三吉日照(前宗務総監)・松井正純(教務部長)・刈谷日任(前学林教授)・泉智宣(同)・株橋諦秀(学林教授)・小笠原日堂(同)を検挙。さらに刈谷と株橋は不敬罪で起訴される事になる。
(17) 徳重三郎による日蓮宗告発
昭和12年3/26徳島県神職会会長の徳重三郎が曼荼羅本尊の座配について、これが不敬として日蓮宗を告発した事件。
徳重は曼荼羅を示して「右の図式を見るに恐多くも、天照皇太神御尊号の御位地が何人の目にも恰も諸仏菩薩の最下位に位置し、猶且つ南無妙法蓮華経が天照皇太神を足下に踏みつけたる観有之誠に不敬の極みあらざるか」と糾弾したのである。
(16)に示した簑田の不敬問題は曼荼羅中の国神勧請解釈の問題であったが、徳重の指摘は曼荼羅中の国神座配(位置)が不敬であるとしたのである。
宗門は(16)の解釈論よりも程度の低いものと見たのか静観の構えであったが、徳重側がこれを更に社会問題化しようととたので、昭和12年7/26布教師会本部として全国の布教師会へ下記の通達を発した。
先般兵庫県の徳重中堂氏我宗の本尊たる大曼荼羅中に天照大神を勧請せるは不敬に非ずやとの立場より其筋へ上申したる由なるも、宗務院としては、恐らく其筋にて斯る問題を取上げることなかるべしとの見解の下にて静観の方針を取り唯だ中央布教講習会、「日蓮宗教報」誌上等其他適当なる機会に於て誤解を一掃する方法を講じ居候処、其後に至り徳重氏は更に全国政治界教育界等の方面に向かって意見を徴する旨の檄文を配布したるため、地方新聞等にも掲載せられて社会の注意喚起し、檀信徒間には事態を憂慮せられ、向も有之趣に付、茲に宗学上の解釈とは別個に、一般に理解せらるるよう常識的説明を立案致候條檀信徒教化上の参考とせられ度候。
但御承知の通り時局頗る重大にして真の挙国一致を要する時に候へば、當方より之を刺激する如き言動は差控へられたく、尚経帷子等に「天照大神、八幡大菩薩」等を認めらるることは此際慎まれ度此段為念申添候也
上記中「宗学の解釈とは別個に一般に理解せらるるよう常識的説明」とある別紙の中には、曼荼羅中に国神を勧請する意義を説き、国神の座配(位置)が不敬でない理由を下記3点挙げている。(取意)
1.曼荼羅の上部は理想を表し、下部は現実を示したねので、上下位置は「価値・尊敬」の高下を示すものではない。
2.題目と天照・八幡は大曼荼羅の中軸をなすもので、最も尊敬すべき位置である。
3.題目の筆尖が伸びているのは大生命の光を意味する「光明点」で、国神を踏みつけているが如き解釈は全くの錯覚である。
また、国神勧請が太政官達に抵触しない理由にも言及し、「憲法は国家の治安を妨げない限り信仰の自由を認めているので、その対象を自由に選択できる。・・但し、経帷子と称し、死人に着せるものに国神の名を書くことは差し控えるべき」。(取意)
この問題は昭和13年、貴族院通告質問の形で木戸文相の知るところとなり、宗教局長より日蓮宗に対して、その解釈答申を求められ、日蓮宗は立正大学に答申案を依頼し文部省に答申することになる。答申の一部は下記の通り。
上段は法華経の中心たる本門八品虚空会上の儀相に則本宗の宗教的理想たる十界皆成仏、本有常在の寂光土を示し、下段は我が国神を代表し玉ふ天照太神八幡大菩薩を勧請して本尊建立の国土たる我が国を以て、上段の宗教的理想実現の現実国家たることを標示すると同時に国神及び法華経守護の善神等の御加護を願ひ、且つ法華伝灯の諸先師を勧請して、付法相承を明らかにしたものにして、特に国神に対し奉りては、十界皆成仏、寂光土実現即ち世界一仏土成就の暁は全世界を守護し玉ふ本誓を表す
(18) 『日蓮聖人自叙伝』削除 削除3
宇都宮日綱著『日蓮聖人自叙伝』(日蓮宗布教助成会)〈昭和11年10月〉の6ページが削除された。削除個所は「種々御振舞御書」の「…天照大神、正八幡などと申すは、此の国には重んずれども梵・釈・日月・四天に対すれば小神ぞかし…釈尊の御使いには天照八幡も頭を傾け手を合わせ地に伏す…」の一節と、著者(宇都宮)の国体論中「凡国日本は…凡夫が住んでいる種々醜い事実の行われている国…いかに御国体を崇め奉る神道者流や国学者にしても、毎日の新聞面を賑わしている現実の日本の姿を指して「神の国」「理想の国」とは言えないであろう…」等の文章が不敬とされたものであろう。
尚、本書は昭和53年法華ジャーナル・山口晃一氏により、削除個所を復元して再版されたが、その付記には、下記の通り資料消滅のため類推のやむなきに至ったことが述べられている。
〔付記〕
本書は検閲による印刷がなされたため、本文中6頁(241・242・291・292・441・442)が欠除したままで世に出された。ために、文義のあい通じぬことを恐れ、今度の再版に際して増補せんことをこころみた。関係諸方面への問訊にもかかわらず、初版から40余年の歳月と、今次大戦の戦火のため、資料の消失を完く補うことはできなかった。しかしながら、幸いなことに「凡国日本」の箇所2頁は原本に類似の題下で、日蓮宗の教誌「日蓮主義」(昭和11年5月号)に掲載の文がみつかったため、その文に従じて若干を加筆して転載した。その他の4頁については、前後の遺文の引用から類推して、その箇所と思われる御書を摘出した。
尚、「近代日蓮宗年表」によれば「法門可被申様之事」の「…日本秋津島は四州の輪王の所従けも及ばず、ただ島の長にすぎない…」の文章も削除されたと示されている。
(19) 文部省の日蓮教学刷新に関する項
(11)(13)(16)(17)に示したように、遺文の天皇不敬文句、曼荼羅国神勧請解釈及び座配不敬の問題は、一部思想人の糾弾に止まらず、一般からの抗議、更には軍部や内務省も動く事となったので(大師号下賜、勅額拝戴にて日蓮宗が国体皇室に如何に恭順の意志を示したのにもかかわらず)文部省は昭和13年5/10「日蓮宗教義中教学刷新に関する事項」をまとめ思想監督強化に乗り出し、「日蓮教学の刷新指導に関する試案」を作った。当局の日蓮観(不敬問題)を要約すると以下の通りとなる。
1.皇室の尊厳を害する思想。
法華経を尊ばない天皇の悪口を言う。また、災難にあったり地獄に堕ちると云う。
2.日本の神祇を軽視する思想。
天照・八幡を小神とする思想。
3.学者の不敬思想。
神社への不参拝、大麻(神社のお札)を受けない、天照・八幡を鬼畜に摂するとする思想。
特に天照・八幡の国神勧請解釈の不敬については、各派の説を以下の5点に整理している。
イ.天照・八幡を十界中の鬼畜に摂する説。
ロ.天照・八幡を十界中の人界に摂する説。
ハ.守護神としす説。
ニ.更に意義を高め、世界神等特別な意味を認める説。
ホ.曼荼羅より除く説。
上記各説を、イ.ロ.の説は近代は採用していない。ハ.は各派の代表的見解。ニ.は国柱会等によって最近支持されるようになった。ホ.は不受不施派や顕本法華宗で採用していると分析し「明治の神仏分離不徹底の結果」としているが、教義の是正については「単なる言語文学上の粛正たるに止まらず、其の根底たる思想についても刷新を計るべき」と述べている。
しかし、研究者の小野文b師によれば「..内部文書を熟読すると、文部省当局は主管官庁として日蓮宗を擁護助長しようとの姿勢を保持していることが窺える。..文部省は日蓮不敬キャンペーンには冷静であった」(大崎学報NO148)と見ている。
(20) 皇道仏教行道会 宗義擁護連盟
皇道仏教行道会は昭和13年、宗門内の高佐貫長(善行寺住職)が首導となり、増田宣輪(本行寺住職 後日の久遠寺法主)、西入景文(本法寺住職)、坂井智見(大雄寺住職)等と共に結成された、宗門内の天皇中心主義団体。
主張の特徴は、伝統的教学の本尊が釈迦本佛論である事を、理念・観念の旧教義とし、現実と実践を本とすべしとして、本尊は「印度応現の釈迦牟尼仏でなく万世一系の天皇陛下であらせられます。また曼荼羅は本仏果海の十界當祖ではなく日本国民が、天皇陛下の御稜威を奉戴して分担精勤する諸職業である」とあるように、明白なる天皇本尊論である。
この考えは清水梁山の『日本の国体と日蓮聖人』(明治44年)を受け、(6)の国柱会の王仏冥合論と密接な関係を持つ。即ち、王仏冥合は王仏一乗であって、これは天皇を本尊とする皇道仏教であると導き出されている。
この会の考えは伝統教学が釈迦本位の法主国従であることを旧教学と切り捨て、天皇本位の国主法従の立場であって、国体護持権力サイドの立場を鮮明にしたものであった。この動きは当然、立正大学等伝統教学の批判の的となり、伝統教学的立場は四本山を中心にした宗義擁護連盟を結成し(昭和14)これを宗義違反として対峙し、宗門内の大きな対立へと発展する。また昭和15年宗門の不敬問題を文部省に指導要請の上申書提出と動き、昭和16年山川智応・清水龍山を不敬問題で告発するなど、一宗門内対立に留まらず大きな社会問題を呈した。
同会の動きは、日蓮宗内にあって日蓮遺文及び解釈の一部を国体に不敬として糾弾したもので、(11)(13)(16)(17)が国家・社会からの糾弾であったものに対し立場が異なるものである。尚、これは同会と宗門内(四大本山側)の権力闘争の側面でもあった。
(21) 山川智応『御本尊御遺文問題明弁』
上来記した日蓮聖人御遺文・曼荼羅本尊に対する不敬問題について反論したもの。一連の不敬問題とされたものの経過を示しながら
A 御遺文削除について。
国体に反する不敬の文言は一切なく、今日の感情から不穏当の見えるという事であれば、古来からの文献『源氏物語』『愚管抄』『太平記』『真宗和讃』等にも同類語義が山積しているが削除の命はない。全て削除となれば日本文化の変遷は不明になってしまう。まして、現下にて「誤解を引き易いものは、なるべく宣伝的なものには用いないようにしよう」としているのであるから削除の指示は見当はずれである。
B 御本尊中の天照八幡国神勧請について。
(イ) 本尊中に両国神勧請を禁じた明治の太政官達は、教務省が廃止され、法的に神道を国教とする制度は存在しないので、これをもって不敬とする事は論外。(神仏混淆禁止の太政官達時代の薩師の曼荼羅には両国神のないものもある)
(ロ) (16)の両国神の解釈について。
古来からの両国神と十界の関係は、十界に含まれる説(鬼畜に属する・人界に属する・天人界に属する)と十界に属さない説がある。国神を鬼趣に含める事は平安時代からの仏法の通説で、日朗門流・身延門流・中山門流の相伝にもこれを伝えている。(日向・日興は人界に含めたり、天照を天に八幡を人に含めたりしている)法華宗派祖の日隆の鬼畜論は、単に従来的な解釈を踏襲したもので、真宗和讃にも見られるものである。しかし、日蓮聖人の真の宗義は「日女御前御返事」にあるように、両国神は十界内のものではなく「日本の守護神」の位置を有するものである。このことを上掲書では下記のように説いている。
天照大神・八幡大菩薩を十界の中に入れるか入れないかという点では、大聖人の御妙判では「日女御前御返事」には十界の中には入れられていない様だ、即ち十界の聖衆を挙げられた後に別に「加之、日本国の守護神たる天照大神・八幡大菩薩」と仰せになっている。十界の中に入れるというのは、後の諸山書流の「本尊相伝」の中にあることである。
しかし、この「日女御前御返事」(真筆の疑義が有力のようだが、宮崎英修博士、勝呂博士などは真筆論)の「加之」を『昭和定本』『縮刷遺文』それぞれ敢えて「しかのみならず」とルビをつけている事は、両国神は十界の中にあるものとの認識と愚考する。しかし、ともかくも時局切迫の中、国体を容認しながらも何とか不敬たる立場を回避しようとしている苦しい立場であったようだ。尚、山川博士の上掲書中にも時局をおもんぱかってか○で伏せ字の箇所が数カ所見られる。
(22)真宗「真宗要義」の不敬字句削除
龍谷大学教科書「真宗要義」中に不敬文句ありとして文部省より改訂命令が下り、宗門当局は下命文句のみでなく広く真宗聖典を再検討し、拝読遠慮を至当とする53ヶ所を抽出。その後、更に検討を重ね13ヶ条に整理「聖教の拝読並引用の心得」を宗門役員に配布した。
この配布は極秘扱いであったが、中外日報に「同教団未曾有の勇敢なる事」として報道されるに至り、宗内外にて問題化されるところとなった。
(23) 宗教団体法
(12)(19)に見るように天皇中心主義国体のもとに、宗教思想にも種々な圧力が加えられてきたが、明治憲法下の信仰の自由と国家の監督権との関係論議に於いて確たる法的根拠成立には至らなかった。しかし、国家明徴運動の高まり、国民総動員運動の展開を背景にし強硬論が進み、昭和14年平沼内閣のもとで成立(翌15年4/1施行)した宗教統制を目的とした法律。
第16条
「宗教団体または教師の行う宗教の教義の宣布もしくは儀式の執行または宗教上の行事が安寧秩序を妨げ、または臣民たる義務に背くときは主務大臣はこれを制限しもしくは禁止し、教師の業務を停止しまたは宗教団体の設立の認可を取り消すことを得」
これにより国家は国策遂行に便なるために、宗教団体の統合合併を推し進め、仏教各宗諸派55が28派、キリスト教は2団体に整理統合され、大日本宗教報国会(宗教翼賛体制)、昭和16年大東亜戦争完遂宗教翼賛大会、17年大詔奉戴宗教報国大会、興亜宗教同盟への結成へと進のである。
つまり、この法により宗教界も否応なく国家総動員戦争協力体制に組み込まれ、仏教も皇道仏教とならざるを得なくなるのである 。
(24) 皇道仏教行道会の上申書提出
(20)に示したとおり皇道仏教行道会は宗門内の天皇本尊論の立場で、釈迦本位の「法主国従」の教学を不敬とする(天皇本位の国主法従であるべきとする)もので、この主張を昭和15年2/6時の管長・望月日謙に上申書として提出した(提出者は高佐貫長・増田宣輪・西川景文)。更にこの上申書には「宗団的不敬問題及び宗団的反国体思想に就き宗門の自粛自戒を要望す」という小冊子が付され、これは文部省や各末寺に送付され、一般社会にても大いに注目されるところとなった。
この鉾先は清水龍山を核とする立正大学と宗義擁護連盟に向けられ、12項目に亘り日蓮宗と立正大学を非難して、「宗門は恐懼して自粛自戒の実を挙げ、御皇室に対し奉り謝罪の誠意を表す可きである」とし、
1.奉献本尊を宗定本尊とすべし。2.王仏一乗の宗学を組織し、立正大学等の教育力を粛正、人事の刷新。3.四大本山、宗義擁護連盟会員の処断等を求めた。
(25) 福田素剣の日蓮宗告発
福田素剣(1887-1971)社会主義から転向した右翼で「皇道日報」紙上にて日蓮宗を攻撃し、昭和15年9/24警視庁に国家神道に対する逆賊として日蓮宗を告発した。「皇道日報」は日蓮宗攻撃を「大不敬大逆賊日蓮宗抹殺建白書」として日蓮宗掃討運動を展開し、内大臣、宮内大臣、侍従長、総理大臣、内務大臣、文部大臣、陸海軍大臣等々にもこの建白書を提示した。
建白書は曼荼羅の天照八幡に対する不敬、歴代天皇に対する不敬の御遺文があることを非難し「…当に是れ昭和の聖代を汚し、又、銃後国内を攪乱するものに非ずして何ぞ、故に日蓮宗禁制すべし、曼荼羅押収すべし、日蓮遺文発売禁止すべし。日蓮像焚くへべし。以て国体明徴を徹底し、又以て臣道実践に邁進せられんことを建白す」と結び、その不敬思想の証拠として『昭和新修・日蓮聖人遺文全集』より「種々御振舞御書」「諫暁八幡鈔」「下山御消息」「報恩鈔」「開目鈔」「撰時鈔」等々中より37ヶ所を指摘している。
(26) 『清水龍山先生古希記念論文集』の伏せ字出版
昭和15年12月『清水龍山先生古希記念論文集』が清水龍山先生教育五十年古希記念会より出版されたが、その中の、中谷良英「祖文に於ける国判法門一考察」に示された御遺文「本尊問答鈔」「秋元鈔」「清澄寺大衆御書」「下山鈔」の7ヶ所25文字、また、中谷論考中に5ヶ所10文字が伏せ字(○にて表記)として出版された。
この伏せ字出版は当局の令により削除されたものでなく、時局に鑑みて日蓮宗側が摩擦を避けるため自主的にされたものと思われるが、下記該当個所の一部に見るとおり、過敏に過ぎる反応とも考えられる。
本尊問答鈔
仏法の邪正乱れしかば王法も○○○(漸く尽ぬ)、結句は此国佗国にやぶられ○○(亡国)となるべし。
下山鈔
仏法の大科此よりはじまる。日本○○(亡国)となるべき先兆なり。棟梁たる法華経既に大日経の椽梠となりぬ。王法も○○○(下克上)して王位も○○○○○(臣下に随う)
べかりしを 乃至国又王と臣と譲論して王は臣に○○○○○(随べき序也)。
(27) 大政翼賛会発足
昭和15年第二次近衛内閣下で国民総動員新体制運動を推進するために結成されたもの。時局は対英米戦争を予測され、政府は政党・労働等の組合など全ての団体を解散統合を強行し、言論の自由は公然と圧殺された。この動きは宗教団体も例外ではなく、昭和14年の宗教団体法以後の合同運動へとつながるものとなった。
(28) 三派合同
日蓮宗・顕本法華宗・本門宗の三派が合同し、新たな日蓮宗が成立したことをいう。
各派合同の動きは「宗教団体法」や大政翼賛会の精神に沿うものであるが、真意は政府の教団一元管理のためにした国策遂行のため強制であった。昭和15年文部省は神道、仏教、キリスト教に対し各教派の合同を要請、仏教は一宗祖一宗派とする目標を示した。
これに呼応した日蓮各派は、日蓮宗・顕本法華宗・不受不施派・不受不施講門派・本門宗・本門法華宗・本妙法華宗・法華宗の8派がこれを検討し以下の2グループに収拾しようと計った。(日蓮正宗は当初から代表者を出さず合同の意を示さなかった)
A 日蓮宗・顕本法華宗・不受不施派・不受不施講門派の4派。
B 本門宗・本門法華宗・本妙法華宗・法華宗の4派。
しかし、本迹・勝劣の宗義問題等にて一致の解釈に至らず、Bグループは法華宗・本門法華宗・本妙法華宗が合同一致し新制の法華宗となり、Aグループは日蓮宗・顕本法華宗・本門宗が合同し、新制の日蓮宗が成立したのであった。
合同を拒否したのは、日蓮正宗・不受不施派・不受不施講門派の3派であった。他の仏教各派も政府の強制的要請により13宗56派が13宗28派に合同された。しかし、真宗の10派はこれに反対し合同を拒否した。
(29) 新たな遺文編纂を模索
数度に亘る御遺文削除問題、日蓮宗不敬問題は帝国議会にも及び、日蓮宗諸派は内外の圧力に抗しきれず、昭和16年6月重要遺文70余編中より208個所の削除方針を決定し文部省に上申した。しかし、文部省はこれを不充分とし更なる検討を命じたので、当時最も普及していた加藤文雅編『縮刷日蓮聖人御遺文』を絶版・販売禁止とし、不穏字句を除いた新たな遺文を『日蓮聖人御書』として発行する作業に着手した。
『近代日蓮宗年表』によると、「同年12/24新改編『日蓮聖人御書』編纂される」とあるが詳細は不明。
この遺文再編集について時局急変の中、当時の宗門人は如何なる思いを持っていたのであろうか。昭和17年3月号の「宗報」にその一端を見ることができる。
馬田宗務総監の「…宗定遺文の編輯、宗義綱要等着々進行中であります…」という方針演説に対し、宗会の木南議員の質問に「…現下国体思想の昂揚せられつつある情勢に鑑みまして、鎌倉期一般の時代思潮たる神仏本迹思想は国体明徴に副はぬと言う理由で、宗祖が苦難の中で御認になった朱玉の文字を末代門下の手によって削除することは、宗祖の尊皇護国の根本観念を誤解に導くもので本員は完く遺憾とするところであります。……伝え聞く所に依りますと、今度当局は御遺文中相当多くの文字を削除し制定出版されると言うことでありますが、如何なる程度のものでありますか。我々門下としては一字一句も削除して貰いたくないのであります…」
これに対し当時の久保田教務部長は「…霊艮閣出版による『日蓮聖人御遺文』は宗門自体が出版したものではありませんから、今度、宗網審議会の議に付し、名称も『日蓮聖人御書』と定めて今日並将来の布教に適切と思われる御遺文を収録して宗門に於いて出版することになりました。これに丁って宗祖大聖人が御認めになったものを七百年の時を経た今日、末徒の者共が削除するなどと言うことが可能であるかどうかはお互いの間では自明の問題であると存じます。然し、現在の国体観念の上から誤解を生じ易い字句は之を世に発表せずにおいても大きな差支へはないと思います…」と答弁している。
後日、この久保田正文師は「当時、削除に応じなければ日蓮宗は必ず消滅していたであろう…」と述懐していたと言う。
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奉献本尊
大正元年京都府燈明寺にて発見された曼荼羅本尊で、御首題七字下に「聖天子金輪大王」その左右に「天照大神」「八幡大菩薩」、花押左に脇書として「諸天昼夜常為法故而衛護大日本国」「弘安四年五月十五日」とあることから「護国本尊」とされていたものを大正4年11月大正天皇即位記念に日蓮宗から宮内省へ献上した本尊をいう。
献納の折り、清水梁山によって「奉献本尊玄釈」「奉献開光文」「奉献説明書」が付されたが、内容が王仏一乗で、中央のお題目は聖天子(天皇)であるという、天皇本尊論であったので、清水龍山はこれを強く批判し、天皇の位置づけが論争される事になった。
尚、この本尊は発見時より真偽に疑義があり(稲田海素は偽作と断定)真偽未決のまま献納された。
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当時の日蓮宗は、曼荼羅不敬問題、御遺文不敬問題に於いて、外からも内からも国体に対する不敬違反として糾弾され、その対応に苦慮懊悩していたのであるが、昭和16年12/8の開戦によって事態は宗門問題を論ずる状況ではなくなり、皇道仏教行道会も解散し一挙に戦争協力体制に突入していく事となる。
尚、不敬問題で提訴されていた諸件は、昭和20年8/15の終戦、21年1/1天皇の人間宣言によって雲散霧消(訴訟権消滅)し、改訂の宗定遺文もその発行には至らずに終わった。