
俳人加舎白雄(かやしらお)は、元文三年(一七三八年)江戸深川の上田藩邸で、加舎吉亨の次男として生まれました。本名は吉春。幼くして母を亡くし、二〇歳ごろには僧侶を志したこともありました。
明和二年(一七六五年)松露庵烏明に入門しましたが烏明の師・白井鳥酔から大きな影響を受け、初号の白尾は鳥酔から与えられたと言われています。芭蕉の作品を模範とし、その作風を近世後期の俳壇に定着させました。安永九年(一七八〇年)四二歳のとき江戸日本橋鉄砲町に春秋庵を設立、関東、中部地方に門人三千を擁する勢力を築きました。この時期にも信州上田には親類が多くいたため、たびたびこの地を訪れ、白雄は上田を「ふるさと」と呼んでいます。
生涯独身で清貧孤高、その作品は無技巧、繊細な秀句が多く、
人恋し火とぼしころをさくらちる
は代表作として知られています。また白雄は能筆家としても知られ今日なおその書を愛する人が多くおります。寛政三年(一七九一年)九月一三日病気のためなくなりました。享年五四。
上田とその周辺の白雄門人には、小島麦二(ばくに)、岡崎如毛(じょもう)、成沢雲帯、荒井三机(さき)、小島玉馬、宮本虎杖(こじょう)、倉田葛三(かつさん)、など全国にその名を知られた人々がおり、地域に俳諧を広め庶民文化の向上に大きく貢献しました。江戸時代、寺子屋が普及し「読み」「書き」を学んだ多くの人々は働きながら文芸に親しんできましたが、その伝統は近・現代まで続いております。そのような庶民文化の一つの源流となったのが、加舎白雄とその門人たちでありました。
| 元号 | 西暦 | 年齢 | 白雄に関する出来事 |
| 元文三年 | 1738 | 1 | 加舎白雄(本名:吉春) 江戸深川の上田藩屋敷にて生まれる。 |
| 寛保二年 | 1742 | 5 | 母が亡くなる。 |
| 寛延三年 | 1750 | 13 | 継母が亡くなる。 |
| 宝暦三年 | 1753 | 16 | 父が亡くなる。 |
| 宝暦六年 | 1756 | 19 | 兄吉重江戸から上田に移住。このときより加舎家が上田と直接的に関係を持つ。 |
| 宝暦七年 | 1757 | 20 | 白雄、寺院生活を送る。 |
| 宝暦九年 | 1759 | 22 | 妹が上田藩士石合忠太夫に嫁ぐ。ますます白雄と上田の関係が深くなる。 |
| 明和二年 | 1765 | 28 | 松露庵鳥明に入門する。昨烏の号を名乗る。
また鳥明の師である鳥酔に多大な影響を受ける。白尾の号は鳥酔から与えられた。 |
| 明和四年 | 1767 | 30 | 俳人として初めて上田に来る。兄を訪れて「ふるさとや梅に柳にはなしあり」の句を詠む。 |
| 明和六年 | 1769 | 32 | 鳥酔品川で病没。享年六九歳。 |
| 明和七年 | 1770 | 33 | 処女出版である「おもかげ集」を出版する。 |
| 明和八年 | 1771 | 34 | 上田において春興帖「田ごとのはる」刊行。俳諧師として独立。 |
| 安永元年 | 1772 | 35 | 吉野山に花見、「人恋し火とぼし頃を桜ちる」の原案を作る。 |
| 安永三年 | 1774 | 37 | 別所北向観音堂に芭蕉句碑を建てる。上田滞在中、代表作「菖蒲湯や菖蒲寄り来る乳のあたり」を作る。
「鄙曇かならずよ山子規(ほととぎす)」の句を碓氷峠にて作る。 |
| 安永五年 | 1776 | 39 | 松露庵一門と不和になり、鳥明より破門される。諸国を旅する。 |
| 安永九年 | 1780 | 43 | 兄吉重、上田から江戸に移る。江戸に帰り日本橋に春秋庵を開く。
「春秋編」初編刊行。 |
| 天明三年 | 1783 | 46 | 兄吉重再び上田に移住。 |
| 天明四年 | 1784 | 47 | 兄が亡くなる。江戸から上田大輪寺に墓参りする。 |
| 天明八年 | 1788 | 51 | 品川の海晏寺で芭蕉百回忌の俳句大会を行う。 |
| 寛政三年 | 1791 | 54 | 江戸春秋庵にて病没。享年五四歳。
品川鮫洲海晏寺に葬られる。 墓碑は、正面に「白雄居士之墓」、裏面に「たち出(い)て芙蓉(ふよう)のしぼむ日に逢り」の遺吟、右側面に「寛政三年歳在辛亥秋九月十三日没鴻台彭卿題額」と刻んである。 |