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1997.1.31
1981年より、化学肥料、農薬を一切使わない有機農業に取り組んでいます。野菜を中心に年間約40種を作っています。
一般には、全く肥料・堆肥・厩肥・飼料を購入しないで、自前の堆肥のみを利用して、完全無農薬での栽培により生計を立てる、ということは不可能です。
こうした野菜を手に入れることもまた、私の知る限り、限られたごく一部の提携関係にある方々のみに可能で、市場にはありません。
シェルパ農場は、初期13年間程は専業でやっておりましたが、全くの自給堆肥のみの使用に切り替えてからは兼業でやっております。
従って、数量に限りがあります。
無農薬での栽培は、何年やっても失敗はあり、時に品目数においてご迷惑をおかけします。特に、冬場の品目数の減少には、ご利用される方にも忍耐(?)が必要です。
栽培法等については、シェルパ農場へお出かけ下さり、ご自分の目でお確かめ下さい。
(以下、おりにふれて書き足している野菜栽培その他についてのエッセイ風シェルパ農場のご紹介です。)
◆ 不自然な自然
◆ 完全自給堆肥
落葉を利用した自給堆肥を使用。
◆ まずい野菜
◆ 有機農産物基準
近年、有機農産物基準の論議がさかんですが、基準づくりは、基準スレスレの農産物を市場に氾濫させるだけの効果があり、シェルパ農場のように、基準をはるかに凌駕するもの(昔の普通の野菜にすぎないのですが)にとっては意味がありません。
◆ 市場を通さない
一般市場流通では、大量の取扱、低コストの追求で、どうしても農薬・化学肥料依存、または「有機らしき野菜」の生産をせざるをえない、という状況です。
◆ 共生関係
シェルパ農場では、食べる方とのいわば共生関係により、つまり持続的に支えていただくことにより、環境・健康にふさわしい食べ物の生産・供給を継続し、単なる商品の売り買いでないお付き合いができればと考えております。テレビの番組(女性タレントによる人生相談)で、あるタレントが言っていました。
「あなた、なにもあっちの男、こっちの男、すべてにもてる必要ないんだから・・・。たった1人にもてればいいんだから。」
このホームページも世界に向けて発信され、あらゆる人を対象としているともいえるでしょうが、こちらの生活や安定生産に本当に必要なのは、数十の家庭の顧客(リピーター)であって、数百、数千の単位ではありません。
シェルパ農場も顧客を最初から限定してもいいわけですが、例えば会員制にしないのは、いろんなライフスタイル、さまざまな条件の中にある人たちにも取っていただきたいと思うからです。と同時に、より深くこちらを理解して下さる受け手を求めているということでもあります。
シェルパ農場のこの活動も、半分は社会へのボランティアです。商売本位ではこういうのは続けられません。熱意ある賛同者の数が多くなり、理解が深まるにつれ、この活動のより安定した持続が可能となります。
◆ 双方向型から以心伝心型
◆ ゆとりのある社会
「ある社会が享受する余暇の量は、その社会が使っている省力機械の量に反比例する」(シューマッハー「スモール イズ ビューティフル」)・・・キャベツでもかじりながら、山脈の上にたなびく白い雲をながめていると、「ボロは着てても、心はのんびり・・・」になります。
が、家族のためにはゼニも稼がないといけないし、マチもムラも実際、たいへんですよ!
◆ 大規模農業
◆ 農作業と自然の力
農業を始めた頃、近所の人たちがその年の作柄について話す時、よく「今年は芋がアタリだな。」とか、「大根はチガイだ。」という表現をするので、怪訝に思ったものです。隣の庭石を扱う造園屋さんが、お盆の休日開けに言いました。
「野菜はいいな、ほうっておいてもかってに大きくなる。
石は寝かしておいても目方が増えない。」
しかし、野菜は悪い時は、虫に食われてなくなってしまうし、時期が過ぎればトウが立ち、やがて消えてなくなってしまう。が、石はほうっておいてもなくならなし、サビが出てきて価値がでる。
◆ 因果応報
◆ 有機農業の二本柱
普通、有機農産物を求められる方が、まず念頭におくのは、「安全性・おいしさ」というものでしょうが、生産者の動機としてもうひとつ欠かせないのは、「自然を汚染しないリサイクル」です。[参考関連記事]
◆ キーワードは「労働」
―人間の労働に、排気ガスはない。〜1999年
2002.2.28
◆ 働かざるもの
先日テレビでも紹介された中田正一さんが、「楽して金もうけは泥棒のはじまり、力いっぱい働いて得た金だけに値うちがある。」と言っている。岩波新書で『風の学校』を出しているのでご存知の方も多いと思うが、残念ながら、数年前にお亡くなりになった。こういう真直ぐな人が希少になった日本を思うと、逃げ出したくなってしまう。腰を「く」の字に曲げた農村の老人は、体に「苦」を刻み込んでいる。
農業の大変さを表すに、何も言葉はいらない。
パソコンを使っての仕事がどんなに大変と言っても、私に言わせれば、所詮「遊び」の範疇である。
インターネット株取引も、パチンコと同類。(比べるのはなんだけど、ついでながら、最近のこちらの村民新聞に、「村長の仕事は名誉職なので、最初は無給であった」とある。)
遊びも、皆が共有すればいいが、例えば家族の中で、ある者だけが炎天下畑仕事や雑用、別の人が冷房の効いた部屋でパソコンをやっていればぶつぶつ文句も出るだろう。そして、前者より後者の方が収入が多い、というのが、後進国と先進国、あるいは第一次産業と第三次産業、それぞれの相関関係になっている。農業は勉強ができないものがする、という考え方も農家の中にもあるようだが、農業は頭が悪くてはできない。
私の方にも、生産物を扱わせて欲しいというネット販売業者が時たまあるが、「ド厚かましい! いいとこ取りはヤメテンカ!!」 と言いたいところだが、丁重にお断りしている。
「お前に、ワシの野菜について、食べる人に説明できるのか!?」とも付け加えたいが、黙ってお断りする。
ムカムカと色々こみ上げるが、生来の口下手のため言葉が伴わない。
これからの百姓にとって自分自身で発信していくことの重要性を痛感する。
職人的に農についてばかり腕をみがいていてはダメである。
◆ 自給と兼業
これを逆に言うと、
1. 専業で大量生産でやると、機械エネルギー、農薬、化学肥料に頼らざるを得ない。
2. 大量生産は、面白くなく、重労働をますます科学技術で補っていく農業になる。
つまり、環境保全農業から程遠い、工業生産業になっていく。畑仕事で、他の職種と同等の収入を稼げ、というなら、手作りという訳にはいかなくなってくる。
福岡正信さんも、自給を基本として、総兼業化、ということも言っている。
つまり、皆が自分の食べるものをつくり、他に教育とか、医療とか、職人の仕事とかを兼ねればいい、という考えだろう。
ただ、そういうのは現実からあまりにもかけ離れているので、それ的な考え方でやる方向を模索していくということだろう。
(また、自給といっても、実際には、2反歩作るも5反歩作るも、そんなに労力は変わるもんではないし、当然余剰も出るので、その分を皆さんに食べていただく、というのが私の姿勢です。)
そもそも、農産物に限らず、健康とか、教育とか、政治等々、重要な事柄を分業化で全く他人任せにしてきたことが、生産物・サービスの劣悪化や様々な腐敗を生む土壌を作ってきたとも言える。
どんな人に、生産、医療、教育を委ねるのか、安い高いでなく吟味する必要がある。
結局、自分のどの部分まで自分自身で面倒みるか、ということであるが、すべてを自分でやることは不可能なことなので、それをいかに自分たちで作り上げたネットワークで質の高い環境を作っていくか、ということになる。つまるところこれが本当の自治の姿かもしれない。
これからの世の中は、中央の政府から離れて、インターネットを介して、そこここで同好の士が経済的政治的に独立していく、というのになれば面白い。
◆ 大農家の自家用無農薬野菜
現在の私には、この2つの例は、珍しくもありませんし、気持ちも幾分わかります。
農業を嫌い、楽な生活を求める人が多くなればなるほど、一部の人に農業の負担がかかるようになればなるほど、自ずと作り方もそれなりのものにならざるを得ない。
単に体がえらい、というのではない。天候のせいで収穫がなければ、働いても収入がなく、豊作であったらあったで、価格が暴落してトラクターで野菜を踏みつぶすことになる。
上の例で、なぜ大農家が、売る分は無農薬で作らないか、消費者といわれる方々には熟考していただきたい。
その大農家は、自身の生産物の大部分が食べ物としての価値がないと、自ら立証している。そんな食べ物が世の中に蔓延しているのである。
双方が、より良き生活を求めての結果がこれです。お互いに不幸になっているんじゃないでしょうか?
◆ 顔の見える関係
私も数年前に、腰を痛めてしまった。
以前、農業をやりたい、という若い人がうちに来てくれた時も、起き上がれずに、寝たまま話をして、ずいぶん無様で、また、折角遠くから来てくれたのに、畑の案内もできずに申し訳のないことをしてしまった。
これからは、畑は縮小せざるを得ない。減収分は他の職種で補うほかはない。
現在は、消費者が生産者を選ぶ時代だが、将来、生産者が相手を選ぶ時代になればさぞ痛快だと思う。しかし、そんな時代は来そうにもない。
出来得れば、本当に理解してくれるひとには生産物を差し上げて、その代わりに何かプレゼントをもらう、という関係は理想ですね。
シェルパの社会や、日本の以前の農村ではこういう関係はどこでもあったようだ。
地域貨幣の考え方にもそういうのがあるようだが、ベーシックなところが崩れている日本で、どれだけのことができるか、ちょっと懐疑的にならざるを得ない。地域全体に広める、というよりも、顔を知っている身近な人間関係の中で広げていくのが着実な方法だろう。
以上で、なぜ農産物にとって、顔の見える関係が大事か、おわかり願えたかと存じます。
信頼できる生産者を選ぶこと、支えてくれる固定した購買者を求めること、双方のおもいが一致する関係。これなくしてまともな生産物の流通はあり得ない。
◆ 通信販売と一期一会
例えば、A宅に知り合いBがその友人Cを連れて来るとする。通信販売も同様に、一度買ってくれた人がもう一度買ってくれ、そして更に引き続いてずっと買っていただくこともあります。が、たいていは一見さんです。しばらくあちこちまわってみてどこかに落ち着くのか、ずーっと特定のところを決めないのか・・。販売する立場から言うと、何回も注文して下さるのはありがたいが、一度きりで終わった場合は、何か悪い印象を与えたのだろうか・・? とか考えてしまいます。
お客さんは一度で○×を決定してしまう。
畑は、諸条件で、いつもベストの生産物を提供してくれるとは限らない。でも、そんな言い訳は、一度きりのお客さんには通じない。
一期一会として、これっきりとして、常にベストの箱をお届しなければならないと思う。
送り手がベストのつもりでも、受け手がこれは自分には合わないと考えるかもしれない。
考えてみれば、万人向きのものなんかないのかもしれない。
スーパーでどこどこ産のコカブとか、産地で選ぶ人なんかいないように、そもそも野菜なんてどこで作ったものでも構わないという人がほとんどだろう。
2003.6.10
◆ 親切な助言?
これまで何回か、
「ちょっとくらい薬をやってもいいんじゃねえかい。」
と、虫に食い荒らされたりして苦労しているのを見かねて、こう助言してくれる農家の人たちがいた。
実の成らないうちだからとか、苗の段階ならとか、根を食べるんだから葉はいいんじゃないかとか、作物にやるわけではない除草剤はいいんではないかとか、色々言う人がいた。
雨で畑や土手から流れ出た薬が川から海へ流れ、プランクトンに吸収され、魚から、再び自分たちの人体に帰ってくることを知らないわけではないだろうが、そんなことまでかまっていられねえ、ということだ。
働いても、作物がろくに取れなかったり、半減したりするんなら、薬をかけるのは当然、という考えだ。
それでも「薬はやらない。」と言うと、
「それじゃあ、よっぽど高く買ってもらわねば合わねえ。」という。
もうからないのは生活できない。それくらいなら、農業をやめて他の職業に転職したほうがいい、という結論だ。
食えないならやる価値ねえ、まず食うことが第一、という言葉に返す言葉がない。
転職しても、他の業界も、メッキ、半導体の洗浄、リサイクル品の汚れ落とし、不要になったコピー用紙・・等々、どんな仕事も、川、海、大気の汚染の原因を作っている。
今や、海は広いから、空は大きいから大丈夫、とは言えなくなってしまった。
自分も毎日ゴミをたくさん出しているので偉そうなことは言えない。
農機具のオイル交換をすれば、廃油が出る。その捨て場がない。
以前、近所の農機具屋が、廃油を私が借りていた畑の上流で埋めていた。
皆がゴミでアップアップしている。
せめて自分の仕事で害になるものを出来るだけ出さないようにすることしかできない。
話は変わるが、うちのカミさんは、ゴミ箱にゴミを捨てる習慣がない。
ゴミの分別も、なかなかきちんとやってくれない。
ゴミ箱が家になかった、という。
彼女が育ったシェルパの村では、食料品の包装紙なんかは全くといっていいほどなかった。
わずかに出るゴミは、床に捨てておいて、あとでほうきで掃いてもしれている。焚付けにもたりないくらいだっただろう。
ゴミの整理が出来るのがいいのか、そんなことを知らないで済んだライフスタイルがよかったのか…。
もう誰も戻れないところまで来てしまった・・。
2005.6.6
◆ 本が売るもの
How-to ものが多い中、本が伝えることができる最たるものは、心とか、考え方とかいうものだろう。
言いかえれば、心とか、考え方とかいうものは、本というメディアでこそ伝え易い。
(つづく)