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城下町上田の形成

 真田昌幸の上田築城は、同時に城下町上田の出発となる。第一に行なわれたのは城郭周辺への武士の集住であったと考えられるが、これには兵農分離の目的があり、江戸時代の身分制度の下準備がすすめられた。次に真田氏とゆかりの深い小県郡原之郷と海野郷のひとびとを移住させ、町家の中心とした。これが原町と海野町で、それぞれ故郷の郷名をとって町名にしたのである。一方もといた場所は地名に元(本)の字を加え、本原・本海野とよぶようになる。海野町と原町はともに六斉市を開く権利を持ち、また問屋が設置されていて宿場としての役割も果していたから、上田の経済・運輸・交通の中心となった。問屋は海野町が柳沢太郎兵衛家(本陣兼帯)、原町が瀧沢助右衛門家で、それぞれ世聾していた。
 続いて本海野の鍛冶職人と紺屋職人を招いてつくられたのが鍛冶町と紺屋町で、職人町の形成および城下町東西両端の決定という二重の意味をもっていた。ちなみに城下町上田の南は千曲川、北は矢出沢川で区切られていた。城下町の区域の決定は村方(在)と町方を明確にわけることになり(町在分離)、村方での店商いを禁止して百姓と町人の職分をはっきりさせ、これも身分制度へとつなげていった。城下町上田の始まる年を示す確かな資料はないが、天正一三年の上田合戦で市街戦が行なわれたとあり、間接的ながらこの時期すでに城下町の一部が形成されていたことを示している。

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