信行必携U

                      平成13年8月28日 初版発行


      目次


第一章 法華経と日蓮聖人
第一節 日蓮聖人の誓願
第二節 法華経の教え
第三節 法華経の行者、日蓮聖人
第二章 お釈迦さまのご生涯
第一節 誕生
第二節 出家
第三節 修行
第四節 成道
第五節 梵天勧請
第六節 初転法輪
第七節 教団としての仏教
第八節 霊鷲山にて
第九節 涅槃への道
第十節 入滅
第十一節 久遠のご本仏
第三章 お題目の意義と功徳
第一節 日蓮聖人とお題目
第二節 南無のこころ
第三節 なぜ蓮華の教えなのか
第四節 一念三千とは
第五節 末法為正
第六節 自然譲与
第七節 三業受持
第八節 下種結縁
第四章 お題目と社会
第一節 仏国土の顕現
第二節 国土成仏
第三節 法華菩薩道
第四節 一天四海 皆帰妙法
第五章 日常信仰生活の在り方
第一節 ご本尊
第二節 お仏壇
第三節 日々の信行 @受持 A読 B誦 C解説 D書写
第四節 知恩・報恩 @衆生の恩 A父母の恩 B国の恩 C三宝の恩
第五節 久遠の光、身延山
お題目に生きた人々
  新居日薩 小川泰堂 田中智学 幸田露伴 高山樗牛 姉崎正治 宮沢賢治
  綱脇龍妙 湯川日淳 山田三良 石橋湛山 土光敏夫 武見太郎





第一章 法華経と日蓮聖人

 私たちは、日蓮聖人によって体験せられた法華経を人生すべての基本と致します。
第一節 日蓮聖人の誓願
 建長五年(1253)四月二十八日、一人の青年僧が安房国(現在の千葉県)小湊の清澄山、旭が森に立ち、今しも太平洋上から昇り来る日輪に向かって、「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・・」と、声高らかに唱え始めました。
 青年僧とは、私たちの宗祖、日蓮聖人です。御年三十二歳でした。私たち日蓮宗はこの日をもって立教開宗の聖日としています。
 日蓮聖人がお生まれになられたのは、貞応元年(1222)二月十六日であったと伝えられています。ご遺文に「日蓮は東海道十五カ国の内、第十二に相当たる安房の国、長狭の郡、東条の郷、片海の海人が子なり」(本尊問答抄)とあるように、漁を生業とする家に生を受けられました。
 他宗の祖師たちの多くが貴族や豪族の出身であるのに対し、日蓮聖人は民の子としての立場を生涯貫かれたのです。十二歳の時、清澄寺のお山に上がられた日蓮聖人は、幼名の善日麿から名を薬王麿と改められ、道善房を師として教育を受けられることになりました。そして聖人は十六歳の時に髪を剃り、出家得度して名も是聖房蓮長と改められました。その時、聖人は、清澄寺の本堂にまつられている虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となしたまえ」(清澄寺大衆中)との願を立てられたのです。
 「仏教をならはん者の、父母・師匠・国恩をわするべしや。この大恩をほうぜんには必ず仏法をならいきわめ、智者とならで叶うべきか」(報恩抄)という決意のもと修行に励まれましたが、修行が進めば進むほど、聖人は疑問を持たれるようになりました。
 当時の清澄寺は慈覚大師円仁の流れを汲む天台宗のお寺でした。本来、天台宗とは天台法華宗と称し、法華経を至上の教えとしています。天台宗は中国の隋の時代に天台大師智(538〜597)によって開かれました。当時の中国には八万四千の法門といわれるほどの厖大な量の経典がシルクロードを経て入って来ていたのです。
 その経典を分類し、法華経を中心とする仏教体系を大成したのが天台大師でした。その天台大師の教えに共鳴し、平安時代、桓武天皇の外護を受け、比叡山に大乗戒壇創設を願い、日本で天台宗を開いたのが伝教大師最澄(767〜822)だったのです。
 ところがその頃、弘法大師空海(774〜835)も、中国から密教を持ち帰り、嵯峨天皇の外護のもと、高野山に真言宗を開きました。
 その影響を受け、伝教大師の亡き後、比叡山は密教化していきました。加えて平安時代後半、永承七年(1052)、末法の世を迎えるに到り、世間は厭世ムードが漂い、浄土教が人々の心を捉え始めたのです。
 末法の世というのは、お釈迦さまのご入滅後二千年たつと仏さまの教えを信じる者はいなくなり、この世は乱れ、救いがたい状態になるということです。
 そんな時代には、この世に執着するよりもあの世で阿弥陀如来に救っていただこうというのが浄土教の信仰です。
 当然のことながら、その時代の流れは清澄寺にも入り込んでいました。天台宗の教えは残っていたとはいうものの、その信仰形態は雑多となり、師の道善房はお念仏三昧の毎日を送っていました。
 弟子として仕えた聖人もその姿に習うときもありましたが、疑問は日に日に募るばかりでした。そして、「何れの経にてもおわせ、一経こそ一切経の大王にておわすらめ。而るに十宗七宗までが、各々諍論して随わず。国に七人十人の大王ありて、万民おだやかならじ。いかんがせんと疑うところに、一つの願を立つ」(報恩抄)と決意された聖人は、二十一歳の時、天台宗の根本道場である比叡山へ真実の法を求めて旅立たれました。
 そして習学研鑚すること十年あまり。天台大師の示されたごとく、法華経をおいて外にはお釈迦さまがこの世にお出ましになった本懐が説かれたお経はないとの確信を得られ、お題目の信仰によって人々の心を安んじ、末法の世を救おうと、故郷への道を急がれたのです。
 しかし、その道が決して安易な道でないことは聖人ご自身が十分に承知されていたことでした。
 「日本国にこれをしれる者、但日蓮一人なり。これを一言も申し出すならば、父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来たるべし」(開目抄)との予感はありました。けれども「虚空蔵菩薩の御恩をほうぜんがために、建長五年四月二十八日、安房の国、東条の郷、清澄寺道善之房持仏堂の南面にして、浄円房と申す者、並びに少々の大衆にこれを申しはじめて、その後二十余年が間退転なく申す」(清澄寺大衆中)と、法華経にいのちを捧げた聖人の不惜身命の歩みが始まったのです。
 このとき、聖人はその決意を示すべく、ご自身の名を蓮長から日蓮へと改められました。
 その胸のうちを「明らかなる事、日月に過ぎんや。浄き事、蓮華にまさるべきや。法華経は日月と蓮華となり。ゆえに妙法蓮華経と名く。日蓮また、日月と蓮華との如くなり」(四条金吾女房御書)と語っておられます。
 法華経の中にも「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く、斯の人、世間に行じて能く衆生の闇を滅す」(如来神力品)という経文があります。
 この世を厭う浄土教に対し、法華経こそはこの世を浄土にするためにお釈迦さまが説きおかれた唯一のお経であると聖人は感得なされたのです。
 それならば、お釈迦さまのご意志に応えることが末法の世に生まれ合わせた仏の御弟子の使命だと聖人は受け止められました。
 なればこそ「我れ日本の柱とならむ、我れ日本の眼目とならむ、我れ日本の大船とならむ」(開目抄)という三大誓願を立てられたのです。
 私たちがお唱えするお題目には、広大な慈悲に生きようと誓われた日蓮聖人の永遠の願いが秘められていることを決して忘れてはならないでしょう。

第二節 法華経の教え
 法華経は仏教の発祥の地インドで編纂されたお経です。インドでの経典名は「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」といいます。
サッダルマとは、正しい教え、プンダリーカは白い蓮華、スートラは、お経という意味です。
 シルクロードを経て中国に伝えられたこのお経は、鳩摩羅什(344〜413)によって翻訳され、『妙法蓮華経』と名づけられました。ほかにも漢訳されたものはありましたが、羅什の訳出した法華経が最高の名訳とされ、これが日本へも伝えられたのです。
 妙法蓮華経の冒頭に「如是我聞」(是の如く我れ聞きき)とあるように、お経はお釈迦さまの言葉を聞いたお弟子たちによって編纂されました。
 お釈迦さまがご在世の時には、お弟子たちはそれぞれがお聞きしたお釈迦さまの教えを心に刻み、その教えをもとにそれぞれの修行に励むという方法が用いられていました。このように相手の機根すなわち能力や悩みに応じて法をお説きになることを対機説法といいます。
 ところがお釈迦さまがご入滅になられた後には、それぞれがお聞きしたことを集めて大成するほかに、お釈迦さまの教えを伝える方法はありません。そこで、お弟子たちは集い、お経を編纂することになったのです。これを仏典結集といいます。
 この仏典結集は何回も行われました。四十年あまりの間に説かれたお釈迦さまの教えは深く広く、お弟子たちの間からもさまざまな解釈が生まれました。
 それは、歴史的に見れば、分裂の始まりともいえるでしょう。しかし、見方を変えるならば仏教が大きく発展していくエネルギーになったともいえるのです。
 それから何百年もの間に八万四千の法門といわれるほど厖大な量のお経や論釈書が出てきました。
 そんな仏教の歴史の中で、お釈迦さまがこの世にお出ましになり、一切衆生に説き示し、悟り、入らしめたかった真実の教えこそ、法華経(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)だったのです。
 では、法華経がなぜ最高のお経であり、真実の教えなのかということを鳩摩羅什訳の「妙法蓮華経」を基に考えてみましょう。
 法華経は八巻二十八品から成るお経で、その字数は六万九千三百八十四文字です。
 開経偈に「色相の文字はすなわち是れ応身なり」とあるように、お経の一文字一文字には仏さまのいのちが宿っていると受け止めて、天台大師も伝教大師も、そして日蓮聖人も、お経の中からお釈迦さまの真実の教えを聞こうとなさいました。
 そして天台大師はその内容を前半と後半の二つに分けて教義の体系を整理されました。前半は迹門、後半を本門の教えといいます。
 迹門の中心となる教えは皆さんが朝夕のお勤めで読む方便品第二、本門の中心は如来寿量品第十六です。
 迹門で説かれるのは二乗作仏という教えです。二乗というのは、声聞乗と縁覚乗という二つの修行の段階です。声聞はお釈迦さまの声を聞き、その教えのもとに修行するお弟子たち。縁覚とは、それより一段レベルが上で独り静かに瞑想し縁起の法を覚る修行者たちです。
 お釈迦さまはこれらの人々を導くためにさまざまな手立てを用いられました。これをお経の言葉では方便といいます。方は正しいという意味、便は手立てです。
 ところがこの二つの段階では、まだ、自分のことを考えるのが精いっぱいで、他人のことまで思う気持ちには到りません。
 そこでお釈迦さまは、もう一つ上の段階として菩薩乗をお説きになられたのです。
 菩薩とは、自分のことより他のために生きることを喜びとする人々のことです。最も仏さまに近い立場だといってもいいでしょう。
 それでも二乗の人々はなかなかこの段階までは上がって来ようとしませんでした。乗とは乗り物に喩えたものです。より多くの人を乗せ、より大きな救いの世界へと妙法蓮華経の教えは展開してゆきます。「舎利弗、如来はただ一仏乗をもっての故に、衆生の為に法を説きたもう。余乗の若しは二、若しは三あることなし」(方便品)と示されているように、声聞乗も縁覚乗も、そして菩薩乗も、生きとし生けるものすべてを仏の世界へ導かんがための方便だったのだとお釈迦さまは説き明かされたのです。これを開三顕一(三乗を開いて一仏乗を顕わす)といいます。
 そして声聞の代表ともいうべきお弟子の舎利弗に「自ら当に作仏すべしと知れ」(方便品)と語りかけられるのです。
 その一仏乗の教えを説く理論として示されているのが諸法実相(この世に存在しているものすべての中に真実の相がある)という教えであり、その後に説かれているのが十如是「如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等」というお経文です。
 十如是については第三章で詳しく学習しますが、法華経の教義の鍵となる重要な言葉ですからしっかりと憶えていてください。
 さて、後半の本門では、どのお経にも説かれていなかったお釈迦さまの真実のお姿、すなわち永遠のいのちと無限の慈悲の本体である久遠実成という教えが説き明かされています。
 それが如来寿量品第十六、お自我偈の冒頭に出てくる「我 仏を得て自り来、経たる所の諸の劫数、無量百千万、億載阿僧祇なり」というお経文なのです。
 このお言葉が発せられるまでは、だれもお釈迦さまがそんな計り知れない昔から私たちに語りかけ、私たちを御仏の世界へ導こうとする永遠の存在者であるとは思ってもいませんでした。
 ただ、インドの小さな国で生まれた王子が出家して苦行した後に悟りを開き、人々を救おうと誓った聖者の一人だという程度にしか受け止めていなかったのです。
 しかし、お釈迦さまは、お自我偈の中ではっきりと「我 時に衆生に語る。常に此にあって滅せず」と宣言されています。
 ここに、お釈迦さまが久遠のご本仏として位置付けられている法華経の教義の根幹が示されているのです。
 たとえ八十年のご生涯をもって身は滅するといえども、お釈迦さまのお悟りになった真理と人々を救おうとの願いは永遠不滅なのです。
 そこで「衆生を度せんが為の故に、方便して涅槃を現ず」というお経文が、本門の重要な鍵となります。
 永遠不滅であるはずのお釈迦さまが、なぜこの世から姿をお隠しになったかというテーマが、そこには秘められているからです。
 お題目の信仰をいただく私たちは、それをしっかりと理解しなければなりません。
 ヒントは、法華七喩の一つとして最後に語られる「良医狂子の喩」の中にあります。
 毒を飲んでしまった子どもたちを救おうと医者である父は最高の薬を調合して与えましたが、自らその薬を口にしようとしない子どもたち。そのために父である医者は一計を案じて姿を隠し、使いの人に「汝が父、已に死しぬ」(如来寿量品)と告げさせるのです。この知らせを受け、やっと目の覚めた子どもたちは、自分たちの手でその薬を手にするほかに救われる道はないと悟ります。
 お経文には「是の好き良薬を今留めて此に在く。汝取って服すべし」とあります。
 日蓮聖人はこの良薬こそ法華経のお題目であり、お釈迦さまが末法の世に生まれた私たちのために説き置かれた教えだと感得なさったのです。
 お自我偈には「我も亦これ世の父、諸の苦患を救う者なり」と、御本仏が親であり、私たち衆生は子であると示されています。
 それ故に「何をもってか衆生をして無上道に入り、速やかに仏身を成就することを得せしめんと」というご本仏であるお釈迦さまの久遠の誓願があるのです。そのご本仏の誓願に応えられたのが私たちの宗祖・日蓮聖人です。
 それでは次に、日蓮聖人はどのように法華経をお読みになり、仏子としての道を歩まれたかを学んでゆきましょう。
第三節 法華経の行者、日蓮
 日蓮聖人はご遺文の中でしばしば、ご自身のことを法華経の行者といい表しておられます。
 行者とは仏道を修行する人という意味です。仏教は仏の教えであると同時に仏に成る教えでもあります。だから、仏の教えを信じるということは、自分自身、成仏への道を歩もうとする心構えが大切です。
 そこで日蓮聖人は「行学の二道をはげみ候べし。行学たえなば仏法はあるべからず。我れもいたし人をも教化候え」(諸法実相鈔)とお説きになり、自らも本化の地涌の菩薩の上首である上行菩薩としての自覚を持たれ、法華経の行者としての道を歩まれました。
 本化の菩薩とは、法華経の本門の教えを受け、その教えに感激し、お釈迦さまのご入滅の後に、お釈迦さまの願いを人々に伝え、弘めようと誓った菩薩たちです。
 その菩薩たちのことを地涌の菩薩といいます。それは、文字どおり大地より湧出した六万恒河沙ともいわれる数え切れないほどの菩薩たちだったのです。
 この世を救い、この世を浄土にする者はこの大地から生まれた者でなければならないと、法華経の中でお釈迦さまは語っておられます。
 その大地から生まれた者の一人が自分であると日蓮聖人はお受けとりになり、地涌の菩薩の使命に生きようとなさったのです。
 「帰命と申すは我が命を仏に奉ずると申す事なり」(事理供養御書)ともお示しになっているように、それは我が身を賭して法華経の真実を顕わそうとする生き方でした。
 これを色読といいます。日蓮聖人がお弟子の日朗上人に送られたといわれる『土籠御書』にある「法華経を余人の読み候は、口ばかり言葉ばかりはよめども心はよまず。心はよめども身によまず。色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ」というお言葉が、日蓮宗徒としていかにあるべきかということをよく物語っています。
 さて、清澄のお山を下り、故郷安房を離れられた日蓮聖人は、法華経弘通の拠点を当時の政治の中心であった鎌倉に定められました。
 源頼朝によって開かれた幕府は北条氏の世となり、その庇護の下、各宗各派のお寺が建ち、鎌倉は新しい文化の中心地ともなっていたからです。
 当時一番盛んであったのは念仏であり、続いて禅、真言、律という宗旨宗派がぞれぞれに権勢を誇り、覇を競っていました。
 そのような時代の流れのなかにあって日蓮聖人は「法華経こそ、お釈迦さまのお説きになった最高の教えである」との声を発せられたのです。
 それは、新しい宗派を興すというのではなく、「釈尊に帰れ。釈尊の真実の教えに目覚めよ」という求道者の叫びでした。
 そのころ鎌倉では三年にわたって天災地変が相次ぎ、地震、火災、暴風雨が起こり、人々は飢饉、疫病に苦しめられていました。
 そんな窮状を打開し、人々を救うために著されたのが『立正安国論』です。
 「汝早く信仰の寸心を改めて、速やかに実乗の一善に帰せよ。然ればすなわち三界は皆仏国なり」
『立正安国論』はその題名の如く、正しい教えを立てて国を安んじたいという聖人のご生涯の願いが熱く語られた国家諌暁の書でした。
 しかしながら聖人の願いは幕府には理解されず、他宗の僧たちは聖人を世の中を騒がす悪僧として讒訴し続けたのです。もとよりそんな試練は覚悟のうえでした。
 なぜなら法華経勧持品第十三の中に「悪世の中には多く諸の恐怖あらん。悪鬼その身に入って我を罵詈毀辱せん。我等仏を敬信して当に忍辱の鎧を著るべし」「我身命を愛せず、ただ無上道を惜しむ」という菩薩の誓願があるからです。聖人には「我は是れ世尊の使いなり。衆に処するに畏るる所なし」という大いなる決意がありました。
 だから大難四ヶ度、少難数知れずという度重なる法難に遭われても、法華経の行者としての信念と誇りは高まる一方だったのです。
 四大法難とは、@松葉谷草庵の焼き討ちA伊豆流罪B小松原法難C龍ノ口の頸の座から佐渡島遠流を指していますが、そのいずれの場合にも聖人やお弟子たちはもとより、信徒の人たちにも多くの試練が待ち受けていました。しかしそれを乗り越えたときの聖人の喜びはそれ以上に大きかったのです。
 なかでも「生きて帰る者はなし」といわれた佐渡島での二年余ヶ月の試練は、聖人をして法華経の行者たる絶対の認識と本化上行菩薩としてのご自覚を得せしめるようになりました。
 「死ねよ」と捨て置かれた塚原三昧堂では「経文に我が身普合せり」とあるように、人開顕とよばれる『開目抄』を著され、その翌年、移された一谷では、聖人自ら「日蓮当身の大事」とお書きになっている法開顕とよばれる『観心本尊抄』(如来滅後五五百歳始観心本尊抄)を著されています。
 そして、この地において私たちが御本尊と仰ぐ大曼荼羅を始めて図顕なさったのです。
 この間、世間では聖人が『立正安国論』の中で予見された二つの国難のうち、自界叛逆の難(北条一族の同士討ち)が現実となりました。そして蒙古(元)からも、日本を支配下におくべく、たびたび使者が訪れて来ました。
 これに畏れをなしたのでしょうか、文永十一年(1274)の春、幕府は日蓮聖人の罪を赦し、鎌倉へと呼び戻しました。
 そしてもう一つの国難である他国侵逼難、すなわち蒙古の襲来はいつごろであろうか、と尋ねたのです。
 これに対し「よも今年はすごし候わじ」(撰時抄)と聖人はお答えになりました。このお言葉どおり、その年の秋、蒙古は日本を襲いました。
 しかし、そのことにしか興味を示さず、法華経の教えには耳を傾けなかった幕府の態度に失望された日蓮聖人は、「三度国をいさむに用いずば山林にまじわれ」(報恩抄)という故事に習い、身延のお山に入られたのです。
 それは、心静かに法華経を読もうというお気持ちと、未来のためにお弟子の教育や信徒の教化に力を注ごうというお気持ちになられていたからです。
 『報恩抄』に述べられた「日蓮が慈悲広大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし」というお言葉がそれを物語っているように思われます。
 そして九ヶ年の身延山での隠棲の後、病の養生に向かう途中の武蔵の国(今の東京)池上で病身を横たえられた日蓮聖人は、お弟子や信徒に立正安国論の講義をなさり、弘安五年(1282)十月十三日の朝、聖寿六十一歳をもってご入滅なされました。
 そのご生涯はまさに「帰命と申すは我が命を仏に奉ると申す事なり」(事理供養御書)というお言葉のとおり、一心欲見仏、不自惜身命のご生涯だったのです。


第二章 お釈迦さまのご生涯

 久遠にわたり衆生を救おうとされている釈迦牟尼仏は、智慧と慈悲をすべて備えられた本師です。私たちはこの御仏に絶対の信仰をささげます。
第一節 誕生
 ゴータマ・シッダルタ、それがこの世にお生まれになったお釈迦さまの最初のお名前です。
 お父さんはスッドダーナ(浄飯王)、お母さんはマーヤ(摩耶)夫人といい、インド平原の北部、ヒマラヤ山脈の麓にあるカピラ城という小さなお城の太子として、およそ二千五百年前にお生まれになりました。
 その国の大きさは東西八十キロ、南北六十キロほど。隣にはコーサラ国という大きな国があり、お釈迦さまの晩年には、一族はこの国によって攻め滅ぼされています。それでもお釈迦さまが誕生されたころのカピラ城は、王さまの名前でもわかるように、稲作を中心とした平和な農耕国家でした。
 マーヤ夫人はある夜、天から六牙の白象が降りてきて右脇から体の中に入ってくる夢を見たといいます。その後に夫人は懐妊し、お産のために実家のあるコーリヤ国に帰る途中、ルンビニーの園に立ち寄りました。
 その日は四月八日。園には春の訪れを喜ぶかのように花が咲き乱れ、池のほとりを散歩していた夫人が真っ赤な花をつけたアソーカ(無憂樹)の木に誘われ、その一枝を手折ろうと右手を伸ばした時、一人の男の子が誕生したのです。その子は、産まれ出ると東に向かって台地を七歩あゆみました。
 そして右手で上を、左手で下を指してこのように宣言しました。
 「天にも地にもただ我一人尊きもの(天上天下、唯我独尊)」
 誕生偈といわれるこの言葉にはさまざまな解釈がなされています。しかし後に悟りを開き、すべての生きとし生けるものを救おうとする聖者がこの世に現れたことを、天も地も祝福したことに変わりはないでしょう。
 太子の誕生を知り、お祝いに駆けつけたアシタ仙人は、王子を一目見るなり涙をこぼしたといいます。
 人々が不審に思ってその涙のわけを尋ねると、「この子は長じては世界を統一する理想の帝王たる転輪聖王か、真理を悟って人々を導くブッダ(仏陀)になるお方です。その時まで私が生きていられないのが悲しいのです」と語りました。
 両親にとってもシャーキャ(釈迦)族にとっても、王子は希望の星だったのでしょう。
 しかし、お母さんのマーヤ夫人は出産の後、七日でこの世を去りました。
 夫人亡き後、シッダルタ太子を養育したのは夫人の妹マハーパジャパティ(摩訶波闍波提)でした。
 後に仏教教団の尼僧となる人ですが、やはり王子にとっては、母親との死別ということが、王道の道より聖者への道を歩む大きな動機となったのではないでしょうか。
第二節 出家
 シッダルタ太子が宗教心を目覚めさせた発端となる一つのエピソードがあります。
 ある春のこと、カピラ城下でその年の豊作を祈る祭りが行われました。
 王さまはもちろん、後継者となる太子もこれには出席しなければなりません。
 古いインドの宗教を司るバラモンが祈りの言葉を捧げ、農夫が牛に犂を引かせて田をおこした時、冬の眠りから目覚めた虫たちが土の中から姿を見せました。そのときどこから飛んできたのか、一羽の小鳥が舞い下りて虫をついばむと、アッという間に舞い上がったのです。するとどうでしょう。それを待っていたかのように、今度は大きな鳥がやってきて小鳥を捕まえると、大空高く飛び去りました。
 その光景の一部始終を目にした太子はショックでした。弱肉強食という自然の掟に驚きと深い悲しみを覚えたのです。太子はその場を離れるとだれもいない木陰に行き、その下で瞑想したといいます。
 そんな物思いにふける太子をスッドダーナ王が心配しないはずはありません。
 太子のために暑期と寒期と雨期の三つの客殿を建て、適齢期になるとヤソーダラ(耶輸陀羅)という美しい姫と結婚させました。しかしどんなに恵まれた何不自由ない生活も、太子の心を満足させはしなかったのです。
 そこでお城の中に閉じこもっている太子に王さまは、郊外に出かけてみてはどうかと勧めました。
 お城に四つの門があります。東の門から出かけた太子はそこで何にであったのでしょう。
 それはヨボヨボになった老人の姿でした。
 いくら若さを誇っていても、いつの日にか自分も年をとってしまう。そう考えると太子の心はめいってしまいました。
 思い直して今度は南の門から出かけると病人に、西の門では死者にと、見たくない、知りたくない現実に太子は直面してしまったのです。
 そして最後の北の門から出かけた時に太子が目にしたのは一人の修行者でした。
 その清々しい姿に感動した太子は、いつの日か自分も出家して三つの門で出会った老・病・死の三つの苦しみを解決したいと思ったのです。
 その機会がやってきたのは、太子が十九歳の時、子どものラーフラ(羅?羅)が誕生した年でした。
 「これで世継ぎもできたし、思い残すことはない」と決心した太子はある夜、御者のチャンナに命じて愛馬カンタカに乗り、カピラ城を出て出家修行者としての第一歩を踏み出したのです。
第三節 修行
 太子の地位を捨てたシッダルタは、真っすぐに南の方へ旅をしました。
 南には当時のインドで強大王国だったマガダ国がありました。
 そのマガダの首都ラージャガバ(王舎城)に着いた時、この国の王ビンビサーラがシッダルタを呼び止め、「私の家来になるつもりはないか」といいました。これに対してシッダルタは「私も王族の生まれです。その身を捨てて悟りを求めているのです」と答えました。この言葉に感動したビンビサーラ王は、「分かった。それならば、あなたが悟りを開いた後には、この城に来て私のために法を説いて欲しい」と語りました。後にこのビンビサーラ王は、お釈迦さまに帰依し、仏教の大信者となりました。諸国を遊行し、悟りを求めるシッダルタの前には幾つもの困難が待ち受けていました。
 幾人もの仙人にあって教えを乞いましたが、何一つ満足できる答えはなかったのです。そこでネーランジャラー河(尼連禅河)のほとりにある苦行林に入り、自らの体を痛めることによって答えを求めようとしました。
 今のインドもそうですが、当時の修行者には様々な修行の方法がありました。
 苦行の目的は、それに耐える力を蓄えることによって、来世には天界に生まれ変わることができると信じられていたからです。
 シッダルタは、ありとあらゆる苦行を体験しました。なかでも断食の行はだれでもが真似のできないほど凄まじいものでした。
 肉は落ち、肋骨は見え、生きているのか死んでいるのかわからないような状態。
 こんな苦行をシッダルタは六年近くも続けたのでした。しかし、たとえ来世で天に生まれ変われたとしても、その後どうなるのかという疑問がシッダルタの心に起きました。
「その楽しみが尽きれば、また苦しみに落ちなければならない。六道輪廻といわれる生生流転の繰り返し。それでは真の救いにはならないのではないか」と思ったのです。
「一からやり直しだ」とシッダルタは河で沐浴し、再出発を誓いました。そのとき、村の娘スジャータが乳粥の供養をしたと伝えられます。
 それをありがたく頂戴し、今を生きる力を得たシッダルタ。そんな姿を見た修行仲間は「シッダルタは修行を放棄した。彼は堕落した」と言って周りから去って行ったのでした。
第四節 成道
 体力を回復したシッダルタは河を渡り、対岸のガヤの町に新しい修行場を求めました。
 そこは後にブッダガヤと呼ばれるところですが、一本の菩提樹の下に瞑想の座を定めると、「私は悟りを開くまでこの座を立たない」と、シッダルタは決意したのです。
 それから、ひたすら真理を求めるために座り続けました。
 悟りの完成は間近でした。
 悟りを開かれては困ると思った悪魔(波旬)がこれを邪魔し、あるときは脅かし、あるときは誘惑したといいます。 
 それはシッダルタ自身の心の中に生ずる悩みや欲望との戦いでもあったのでしょう。
 三十歳の十二月八日、明けの明星を見た時、シッダルタは「悪魔よ、汝は敗れたり」と宣言し、悟りを開いたと伝えられます。
 悟りを開いた者・真理と一体になった人、それをインドではブッダといいます。
 ブッダとは「目覚めた人」という意味です。だから人々は、釈迦族から出た聖者という意味でシッダルタのことを釈迦牟尼仏陀というようになりました。私たちがお釈迦さまとお呼びする理由がここにあります。
 さて、お釈迦さまがお悟りになられた真理とはいったい何だったのでしょう。それは縁起の法だったのです。
 それまでの修行者たちは自分という存在のみに心を奪われ、自分の救済だけを求めていました。しかし、お釈迦さまの体得された法は、「此れ有れば彼あり。此れ無ければ彼無し。此れ生ずるが故に彼生じ、此れ滅するが故に彼滅す」という、お互いに助け合い支えあっている生命の法則でした。言いかえるなら、他と無関係な自分という存在はないということです。
 縁によってこの世に生まれ、生かされていることのなかにこそ、私たちのいのちがあることを、お釈迦さまはお悟りになられたのです。これによって老・病・死という苦しみからお釈迦さまは解放され、今あるいのちの尊さを実感されたのでした。
第五節 梵天勧請
 その喜びにひたること二十一日間。仏伝はこう語っています。
 そして、悟りを開かれたお釈迦さまに新しい命題が生まれました。それは、この世を創ったといわれる梵天という神さまが、生きとし生ける衆生のために「あなたが悟られた真理を説いて下さい」と頼んだからです。(梵天勧請)
 自受法楽といって悟りの世界を楽しまれていたお釈迦さまはこれを拒否されました。それはお釈迦さまご自身が体得された真理を人々が理解するのはとても難しいだろうと思われたからです。そのため、やっと入り得た心の平安を乱されることをお釈迦さまは憂えられました。
 しかし、梵天は言うのです。「すべての者がその真理を理解し得ないとしても、なかにはあなたの心に叶う者もいるでしょう」と。
 その勧めにもお釈迦さまは応じられませんでした。
 それならばと、梵天は三たびお釈迦さまに語りかけたのです。「たとえ今すぐすべてを理解し得ないとしても、その一部だけでも心に感じる者がいるならば、あなたはその真理を人々に語りかけなければならないでしょう」と。
 この梵天の要請にお釈迦さまは「我、法を説かん」と、菩提樹の座から立ち上がられたのです。
第六節 初転法輪
 お釈迦さまがお悟りになられたのは縁起の法です。縁によって生かされているとお悟りになったお釈迦さまが、次には他の人々にも真理を悟らしめようと立ち上がられたのも、縁のしからしむるべき計らいだったのでしょう。そこで、お釈迦さまは、だれに最初に法を説くべきかとお考えになり、昔、サールナート(鹿野苑)で苦行を共にした仲間の五人の修行者とすることにしました。
お悟りを開かれたブッダガヤから、サールナートまでの道のりは二百キロ以上もありました。でもその道のりをお釈迦さまは歩み出されたのです。
 仏教は仏道ともいいます。仏の教えは頭でだけ理解するのではなく、自らの体をもって学ぶべき道です。お釈迦さまがサールナートに到着されたと聞いて、五人の修行者たちは最初こう言ったそうです。「苦行を捨てた修行者なんて、みんな相手にしないでおこう」と。
 けれども、そのお姿を一目見た時、だれもが一言の言葉も発せなかったのです。そんな彼らにお釈迦さまは宣言なさいました。「私はブッダ、悟りを得た者である。私は今、あなたたちのために真理を説こう」と。
 その真理とは、四諦の法であったと伝えられています。四諦とは、苦・集・滅・道といわれる仏の教えの根本です。
 苦諦とはまず、「人生は苦である」と見定めること。集諦とは「その苦の原因を集め考えると、それは自己中心的な生き方にあった」(煩悩)と知ること。滅諦とは「その原因を滅するには縁起の法を悟る」こと。そして道諦とは「その法の道に従って、正しく生きる」ことなのです。
 この四諦を共に学び、身に修めようとして生まれた修行集団、それが僧伽(サンガ)と称される仏教教団の始まりだったのです。
第七節 教団としての仏教
 私たちは「篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり」という言葉をよく耳にします。これは聖徳太子の『十七条憲法』にある言葉ですが、仏教教団は仏であるお釈迦さまと、その教えである法と、その教えを実践する僧の集団(サンガ)によって発展していきました。その一つひとつについて、学習することは、法華経を理解するためには大切なことです。
 たとえば、十大弟子の一人であるシャリープトラ(舎利弗)や、モッガラーナ(目連)がどんな人であったのか、あるいはお釈迦さま亡き後に教団を支えたマハーカッシャパ(大迦葉)のことなど、仏教説話には教団発展の歴史がたくさん語られています。お釈迦さまに出会った一人ひとりがその教えを大切に守ってそれぞれの人生を精いっぱいに生きていたのです。法華経の教えは、そんな人々の苦しみや悩みをくみ取りながら、蓮の花が泥沼にありながらも美しい花を咲かすように、彼らが成仏するための道へ導かれる姿がありのままに描き出されているお経だともいえるでしょう。
第八節 霊鷲山にて
 人々を苦しみの世界から安らぎの世界へと導かれたお釈迦さまの教えは、燎原の火のごとくインド全土へと広がっていきました。
 「人は生まれによって尊いのではない。行いによって尊いのである」という平等大慧の教えが、身分制度(カースト)に苦しむ人の心を開放し、上下の区別なく供養を受けられたお釈迦さまの姿勢が多くの人々の共感を呼んだのでした。
 なかでもマガダ国の王ビンビサーラはお釈迦さまを篤く敬い、その教えを守り、仏教教団を大いに外護しました。そのマガダ国の郊外に位置する小高い山が、八ヶ年の間、法華経が説かれた霊鷲山です。また近くにはナーランダ大学といわれる僧院の遺跡が今でも残っていて往時を偲ばせます。
 しかし、そんな仏教教団の発展を嫉み、お釈迦さまに叛逆、ビンビサーラ王の子、アジャセ(阿闍世)をそそのかし、クーデターを起こさせたのは、お釈迦さまの従弟だったデーヴァダッタ(提婆達多)でした。
 王舎城の悲劇として語り継がれているこの事件で、ビンビサーラ王は七重の塔に幽閉されて餓死し、仏教教団はさまざまな迫害と弾圧を受けたのです。
 しかし、お釈迦さまのお命まで狙ったデーヴァダッタは、爪に塗った毒で自らの命を落としてしまいます。また、改心したアジャセは事件以後、父王以上に教団を外護したことも記しておかなければならないでしょう。
 そんな悪道非道のデーヴァダッタも、いつの日か地獄界から救われ、必ず成仏すると説かれているのが法華経の教えです。言葉をかえるなら、多くの苦難の歴史があったからこそ、お釈迦さまの教えは平等大慧・絶対救済の世界へと開かれたのです。
第九節 涅槃への道
 お釈迦さまが一切衆生のために法をお説きになられたのは三十歳の成道から、入滅された八十歳までの五十年でした。
 入滅の遠くないことを感じられたお釈迦さまは、マガダの国から故郷のカピラ城へ向かって旅立たれたといいます。その途中、チュンダ(純陀)という鍛治屋が供養した料理にあたって、著しく体力を消耗なさったと伝えられています。しかしその場にあっても「決して気にすることはない。苦行を捨てた時のスジャータの乳粥と、私が涅槃に入ろうとする今のそなたの供養は二大供養とでもいうべきものだよ」と、お説きになっているのです。
 そしてクシナガラ(倶尸那城)の町に着き、サーラ(沙羅)の林の中にその身を横たえられた時、スバッタという一人の老人のためにお釈迦さまは最後の教化をなさいました。そのとき、スバッタは言ったそうです。「私は世尊(お釈迦さま)に帰依します。どうか私を最後のお弟子にして下さい」と。お釈迦さまはそのスバッタの願いに静かにうなずかれたのでした。
第十節 入滅
 お釈迦さまが涅槃にお入りになるそのときには、人間だけでなく数多くの動物たち。鳥や獣など、五十二種類もの生き物が集まってきたといいます。
 生きとし生けるものすべてが聖者との別れを悲しんだのでしょう。それは、涅槃図を拝すればよくわかることです。
 そんな中
なかでだれよりも悲しみ苦しんだのは、お釈迦さまのおそばにいてお仕えしていたアーナンダ(阿難)尊者でした。
 「世尊よ、世尊が入滅された後は、私たちは何を頼りに生きていけばよいのですか。どうか入滅なさらないで下さい。いつまでも私たちをお導きください」と、涙ながらに訴えたといいます。
 そのとき、お釈迦さまは諭すように語られました。「アーナンダよ、この世に生まれ来たものは滅していく。それが諸行無常、この世の定めなのだよ。たとえ悟りを得た身でもそれを免れることは出来ない。しかし、私が悟った真理は永遠である。これからは私が説いた言葉を灯明とするがよい。そしてそなたたち自身を灯明として生きるがよい」と。これが「法灯明、自灯明」というお釈迦さまのご遺言なのです。
 法を灯明とせよというのは、だれもが仏になる教えを信じて歩めということ。また、自らを灯明とせよと言い残されたのは、自分の不断の信心を大切にしなさい。他人に依存してはだめだよということです。(『長阿含経』所収の「修行経」による)
第十一節 久遠のご本仏
 それでは、法華経に説かれる久遠のご本仏とは、いったいどういうお方なのでしょうか。
 たとえ、お釈迦さまが入滅なさったとしても、昔も今もこれからも、仏さまは永遠だということです。お釈迦さまは、私たちみんなが成仏することを願っておられます。その願いを明らかにするために法華経が説かれたのです。殊に如来寿量品第十六では、そのすべてを語られています。
 そこには、お釈迦さまが人間としてお生まれになった八十年のご生涯だけではなく、お釈迦さまがはるか昔、数え切れないほどの昔から私たちに語りかけ、私たちを導こうとする永遠の真理の体現者にほかならないことが明らかにされています。
 如来寿量とは、そのお釈迦さまの寿命(慧命)が量り知れないほど長く、無限であるという意味です。そして後半には「我もまたこれ世の父、諸の苦患を救う者なり(我亦為世父 救諸苦患者)」との立場がはっきりと示され、「毎に自らこの念をなす。何をもってか衆生をして無上道に入り、速やかに仏身を成就することを得せしめんと(毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身)」という久遠の願いがこのまま説き明かされているのです。それゆえ、日蓮宗ではお釈迦さまのことを久遠実成本師釈迦牟尼仏と申し上げます。
はるか昔から、真実の仏として私たち衆生を導いてくださる唯一無二の師、お釈迦さまだからです。
 日蓮聖人は、主・師・親の三徳を兼ね備えられた久遠のご本仏は、お釈迦さまよりほかにはないとお考えになり、絶対の帰依を誓われました。お題目をお唱えする私たちはこのことをしっかりと知っておかなけばなりません。
 お釈迦さまと法華経と日蓮聖人、これこそ私たちがお題目の信仰を正しくいただく三つの宝、仏・法・僧の三宝なのです。


第三章 お題目の意義と功徳

 南無妙法蓮華経は衆生が成仏するための肝要な行法です。私たちはこの御法を堅く心身にたもちます。
第一節 日蓮聖人とお題目
 法華経がお釈迦さまの最高の教えであると確信された日蓮聖人は、その教えを体得し、成仏への道を歩むには、何よりも南無妙法蓮華経とお題目をお唱えする事が大切であるとお説きになりました。
 それは、「南無妙法蓮華経の題目の内には、一部八巻・二十八品・六万九千三百八十四の文字、一字ももれず、かけずおさめて候」(妙法尼御前御返事)と御遺文にあるように、日蓮聖人はお題目を受持することによって、私たちは法華経の功徳を自然にいただくことが出来るのだとお説きになっています。
 当身の大事として著された『観心本尊抄』の中にある「釈尊の因行・果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等この五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう」というお言葉をよく噛みしめてみましょう。
 お釈迦さまはお悟りを開かれるために長い間修行を積まれました。そして仏となられてからはその徳をもって一切衆生を救おうとなさいました。そのお釈迦さまの願いを信じる素直な気持ちがお題目をお唱えする上で最も必要なことなのです。だから日蓮聖人は「仏道に入る根本は信をもって本となす」(法華題目鈔)ともお説きになっておられます。
第二節 南無のこころ
 南無はインドの言葉ナーモを音写したもので、漢訳では帰命・帰依・敬礼と訳します。その意味は、心からのまことを捧げ、絶対の信を持つということです。 
 だから仏教の各宗各派では、信仰の対象に向かって必ず南無という祈りの言葉を発するのです。たとえば南無阿弥陀仏というお念仏は「阿弥陀さま、あなたを信じます。どうぞお救い下さい」という祈りであり、南無大師遍照金剛は、真言宗の開祖である弘法大師空海に対する帰依を意味しています。
 そして南無妙法蓮華経とは、真実最高のお釈迦さまの教えである妙法蓮華経(法華経)に絶対の信をささげ、この教えのもとに成仏への道を歩みますとの誓願なのです。
 お題目の信仰はただ仏さまのお慈悲にすがろうとする他力の信仰でもなければ、自分が悟りさえすればお経など必要ないという自力のみの信仰ではありません。まして現世の利益を求めるだけの宗教でもなければ神秘主義に走ったり、戒律偏重の宗教でもないのです。
 日蓮聖人が、「妙とは蘇生の義なり」(法華題目鈔)とおっしゃっておられるように、いかなる時もいのちの輝きを求める信仰でなければなりません。
 「今身より仏身に至るまでよく持ち奉る」という姿勢こそ、法華経に南無するお題目信仰の神髄なのです。
第三節 なぜ蓮華の教えなのか
 法華経が白い蓮華に喩えられるお経、すなわち教えであることは前にも述べました。では、なぜお釈迦さまは蓮華に喩えてこの教えを説かれたのかということについての論を進めてみましょう。
 お釈迦さまに限らず、どの仏さまも菩薩たちもそのお像や絵は蓮華の台に坐ったりしたお姿になっています。それは悟りとは泥沼に咲く蓮華のように悩みの中から生まれることを意味しています。
 蓮華は決して清らかなところに咲く花ではありません。むしろ濁ったように思える水の中に根を下ろしながらも、その濁りに染まることなく清らかな花を咲かせるのです。
 法華経の従地涌出品第十五にある「不染世間法 如蓮華在水」(世間の法に染まらざること、蓮華の水に在るが如し)という、地涌の菩薩の姿をあらわした言葉が、法華経を行じる人のあるべき姿をよくあらわしています。
 どんなに苦しかろうとも、世の中の悪に負けることなく悟りの華を咲かせようと生きなければならないのです。
 「法華経修行の者の所住の処を浄土と思うべし。なんぞ煩わしく他処を求めんや」(守護国家論)と日蓮聖人がお説きになっているように、今生きているこの世の中で一生懸命に生きてこそ、成仏への道は開かれるのです。
 その上、蓮華には他の花とは違ったもう一つの特徴があります。それは花が咲いてから実のなる梅や桃、あるいは花が咲かなくても実のなるように見えるイチジク(無花果)など、花にはさまざまな咲き方がありますが、蓮華は花が咲くときには実がなっている。(花果同時)これを喩えて日蓮聖人は、「他の多くのお経では凡夫は諸の善根を積んで後、仏となる実が得られると説かれているが、法華経はそれを手に取り、口に唱えるだけでも成仏の果が得られる」とお説きになっています。お題目を一生懸命になって受持すればこの身このままで成仏への道が開かれるのです。だからこそ法華経はお経の中のお経、諸経の王だと日蓮聖人はおっしゃっておられるのです。
第四節 一念三千とは
 法華経が諸経の王であるという理論体系を整えられたのは天台大師です。その天台大師に一念三千という理論があります。これによって一切衆生の成仏の原理が示されています。
 ひとことでいえば、一念三千とは、一瞬一瞬の念いの中に三千種の現象世界があるという考え方です。すなわち、一切の現象世界を三千という数で表わそうとするのです。これを説明するためには天台大師の十界互具、十如是、三世間という言葉を説明しなければなりません。
 十界とは、上から仏界・菩薩界・縁覚界・声聞界・天上界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界の十の世界に一切の存在を分けます。その十界のうち、下から数えて地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つの世界を六道といい、迷いの世界を指し、声聞・縁覚・菩薩・仏の四つの世界を四聖といい、悟りの世界を表わします。
 仏教が起こるまではインドには六道までの思想しかありませんでした。ただ天上に生まれ変わることのみを願い、地獄に堕ちることを恐れるだけだったのです。
 それでは真実の救いにはならないと考え、悟りの世界を開かれたのがお釈迦さまです。
 しかもその悟りへの道は、たとえ地獄に堕ちた人にも開かれていると、お釈迦さまはお説きになりました。
 それは一切衆生、生きとし生けるものすべてが仏身を成ずるようにとの願いをお釈迦さまが永遠にお持ちだからです。
 だから仏界から地獄界へ、地獄界から仏界へと十の世界には相互の世界が存在することになります。そこで、十界×十界=百界という細分化した世界が考えられるようになりました。
 これに加えて法華経には方便品第二に説かれている十如是という事物の観察法があることは第一章で述べました。
 すべてのものには外から見えるありのままの姿(相)があり、内面には性質・性能(性)が秘められ、その本体(体)から原動力(力)が生じ、作用をおよぼす(作)。その作用はさまざまな原因から起こり(因)間接的な条件が寄り集まって(縁)、直接的な結果(果)と間接的な現象(報)を生み出す。そのように存在するものはどれもが本(相)から末(報)に到るまで、互いに密接に関連しながら等しく活動している(本末究竟等)というとらえ方をするのです。
 そして一つひとつの世界にこの十如是が存在するとして、百界×十如是=千如是と世界は広がってゆきます。
 さらに仏教には三種世間という分類法があります。
 それは生きとし生けるものを意味する衆生世間・その生きた物たちを育む大地を意味する国土世間・そして対象物を認識するために働く五陰世間です。
 五陰とは、色(対象物)・受(それを感受する五官の働き)・想(五官から刺激されて起こる想念)・行(想念に続く行動)・識(それによって頭脳に蓄えられる認識)という五つの過程です。
 そこで千如是×三世間=三千ということで、この宇宙には三千種の現象が存在し、だれの心の中にも三千種の念いが生じると天台大師は論じたのです。
 すなわちこの宇宙全体はご本仏・お釈迦さまの救いたもう世界であり、そのなかに生きるものすべては仏の子であることを知らしめるための理論体系なのです。そして三千も在る思いのなかには、一人ひとり必ず成仏するための仏性が宿されていると理論は展開するのです。
 このように、天台大師が迹門の中心である方便品を基盤にして理論を組み立てられたのに対し、日蓮聖人は本門の中心である寿量品の中にご本仏の真意を求められました。
 一念三千の理論をもとに日蓮聖人は、末法という時代を迎え、人々にどのようにして仏性を開かしめるかということをお考えになったのです。そして、それはお題目を受持することである、との結論に至られました。
 このことから天台大師の理論を理の一念三千とし、お題目受持を事の一念三千とする日蓮聖人独自の教学が立てられたのです。
第五節 末法為正
 末法というのは、お釈迦さまのご入滅の後、人々の信仰が薄れ、世の中が乱れ、だれもが仏さまの教えに耳を傾けようとしなくなる時代のことをいいます。
 仏教の歴史のなかでは、ご入滅の後、千年の間はその教えが正しく守られる正法の世が続き、続いて次の千年は像だけが何とか残る像法の世となり、その後は末法の世が万年も続くという考え方があります。
 歴史的には、日本では平安時代の後期、永承七年(1052)から末法の世が始まると考えられていました。
 そしてこの頃になると、人々はこの世の幸せを求めることよりも来世に期待し、もっと素晴らしい世界に生まれ変わりたいと願うようになったのです。そこから浄土の教えが広まり出しました。
 「厭離穢土 欣求浄土」という言葉のもと、穢れたこの世を離れて阿弥陀如来の極楽浄土へ行き、生まれかわろうという信仰が人々の心をとらえるようになりました。
 そんな風潮の中、浄土宗を開いたのが法然(1133〜1212)です。法然は、それまで貴族中心だった仏教を、ただ南無阿弥陀仏と唱えれば極楽往生できると説き、庶民仏教への道を開きました。
 それは、末法の衆生が下根下機といって仏の教えは何一つ分からないという考えから浄土門以外の教えである法華経などはこの時代には何の役にも立たない、という説でした。その説に疑問を感じられたのが、法然が没してから後、十年して誕生された日蓮聖人です。
 ご遺文を拝すると「日蓮は日本国、安房の国と申す国に生まれて候しが、民の家より出でて頭をそり、袈裟をきたり。この度いかにしても仏種をもうえ、生死を離るる身とならんと思ひて候し程に、皆人の願わせたまう事なれば、阿彌陀仏をたのみ奉り、幼少より名号を唱え候し程に、いささかの事ありて、この事を疑いし故に一の願をおこす」(妙法比丘尼御返事)というお言葉が出てきます。
 果たして浄土門の教えで本当に末法の世の人々が救われのだろうかという疑問が、日蓮聖人の心に芽生えました。それらの疑問を解くために、鎌倉から比叡山へと、一切経のなかから真実の教えを求める求道の旅が始まったのです。
 その旅の結論として得られたのは、法華経こそは末法の衆生のためにご本仏が留め置かれた最高の教え、人々を救う良薬であるということだったのです。それはいまだだれも読み明かすことのできなかった法華経の真理でした。
 日蓮聖人は、ご本仏が、いずれ末法の世が来るだろうことを予見なさり、如来寿量品第十六の中にその思いを語られていると感得なさったのです。
 だからこそ『開目抄』の中で「一念三千の法門はただ法華経本門寿量品の文の底にしずめたり」と表されていますし、『法華取要抄』の中では「寿量品の一品二半は始めより終わりに至るまで正しく滅後の衆生のためなり。滅後の中には末法今時の日蓮等がためなり」との感激にひたられたのです。この日蓮聖人独自の二つのお考えを文底秘沈といい、末法為正と称するのです。
 穢土といわれる娑婆世界こそ、ご本仏・釈迦牟尼世尊が救わんと願う絶対の浄土ではないかと日蓮聖人は受け止められました。
 「極楽百年の修行は穢土一日の功に及ばず。正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか。是はひとへに日蓮が智の賢きにはあらず。時のしからしむるのみ」(報恩抄)というお言葉の中に法然を超えた日蓮聖人の浄土観があったのです。これを娑婆即寂光土といいます。
第六節 自然譲与
 ご本仏は寿量品の中で「我も亦これ世の父、諸の苦患を救う者なり」と語っておられるように、いかに私たちが下根下機であろうとも、その救いの道を用意されていたのです。このことを日蓮聖人は「天晴れぬれば地明らかなり。法華を識る者は世法を得べきか。一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こして妙法五字のうちにこの珠をつつみ、末代幼稚の頸にかけさしめたもう」(観心本尊抄)と、お示しになっています。
 たとえ一念三千の理を知らなくても、お題目を受持すれば、私たちは前述したお釈迦さまの因行・果徳の二法をおのずからいただくことができるのです。これを自然譲与といいます。しかもこの功徳は、いかなる世間の法をも超えた絶対安心の世界の功徳なのです。
 ただし、この絶対安心の世界に入るには「この経においては信を以って入ることを得たり」(譬喩品)とあるように、ご本仏の大慈悲を信じることが何より肝心だと心得なければなりません。
 だから日蓮聖人は「信なくしてこの経を行ぜんは、手なくして宝山に入り、足なくして千里の道を企つるが如し」(法蓮鈔)とも述べられています。
 信心を本と為す(信心為本)ことこそお題目信仰の根本であり、信を以って智慧に代え(以信代慧)、信の一字を柱として日常生活の中において成仏の道を歩むべく努力することが末法の世に生きる私たちにとって、何より大切なことなのです。
第七節 三業受持
 信仰はこころの世界から始まります。しかし心の世界にとどまるものではありません。それは行動の世界へと広がり、社会をも動かす大きな力ともなります。
 世間ではお題目を唱えるということを、口先ばかりで実行のともなわないことだと揶揄(やゆ)する人がいますが、私たちの信仰はそうであってはならないのです。それは口に唱え、心に思い、身に読む信仰でなければなりません。これを身・口・意の三業にお題目を受持するといいます。すなわち、全身全霊でお題目と共に生きようとすることが三業受持なのです。
 言葉をかえていうなら、私たちは単なる法華経の信者ではなく、法華経の行者でなければなりません。それを身をもって教えてくださったのが日蓮聖人でしょう。
 地涌の菩薩の上首である上行菩薩としてのご自覚をお持ちになられた聖人は、「日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん」(開目抄)とお述べになっているように、「我不愛身命 但惜無上道(我れ身命を愛せず、ただ無上道を惜しむ)」(勧持品)との菩薩の誓いを立て、お題目弘通の道を歩まれました。そしてついに「経文に我が身普合せり」(開目抄)との確信を得るに至られたのです。

第八節 下種結縁
 ご本仏お釈迦さまから地涌の菩薩たちに付嘱された使命とは、お釈迦さまがこの世を去られた後、お釈迦さまに代わって法華経の教えを広め、人々を成仏の道へと導くことでした。
 日蓮聖人が私たちにお題目の受持を勧められたのは、ひとえにこの地涌の菩薩の使命を果たされようとしたことにほかなりません。
「今日蓮は去る建長五年四月二十八日より、今弘安三年十二月にいたるまで二十八年が間また他事なし。ただ妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり。これすなわち母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり」(諌暁八幡抄)とお述べになっているように、末法濁世に生きる私たちに、お題目を唱えさせ、ご本仏との縁に目覚めさせることが日蓮聖人の願いでした。
 いかに一切衆生に仏性があろうとも、成仏するためには真実の教えである法華経を信受することこそ肝要なのです。
 法華経の方便品には「仏種は縁によって起こる」とあり、譬喩品には「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、すなわち一切世間の仏種を断ぜん」とあります。
 日蓮聖人は妙法蓮華経の五字こそ、その仏種であるとお考えになったのです。
 人々の心に成仏の正因であるお題目を下種するために、日蓮聖人は生涯を捧げられたのだと言ってもいいでしょう。それはお釈迦さまの前生として語られる不軽菩薩の「我深く汝等を敬う。敢えて軽慢せず。所以は如何、汝等菩薩の道を行じて当に作仏することを得べし」(常不軽菩薩品)という言葉とともに、人間礼拝の行をつづけた生き方に学ぼうとなさったからです。
 ご信者の四条金吾にあてられたお手紙のなかで「法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。不軽菩薩の人を敬いしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振舞いにて候けるぞ」(崇峻天皇御書)と述べられているお言葉が、そのお気持ちをよく物語っています。
 私たちがお唱えするお題目は生活のなかに生かされなければなりません。
 お互いが拝み合う気持ち、仏の子として生き、そして子から孫へ、あるいは縁ある人々へお題目のありがたさを伝えていくことが、私たちにできる下種結縁であり、お題目総弘通の根幹だといえるでしょう。


第四章 お題目と社会

 人々の仏性を開き、御仏の国土を建設することは日蓮聖人の誓願です。私たちは聖人を導師としてその実現に精進します。
第一節 仏国土の顕現
 日蓮聖人のご一生は立正安国に始まり立正安国に終わりました。それは日蓮聖人の願いが、正しい教えによってすべての人々が幸せに生きてゆくことのできる国を実現することにあったからです。
 国とはこの場合、ただ単に政治的国家を意味するものではありません。私たちが生かされているこの大地、自然環境を含めた国土そのものを意味するのです。
 法華経には「今この三界は皆これ我が有なり。その中の衆生は悉くこれ吾が子なり」(譬喩品)と説かれています。お釈迦さまは、この広い宇宙世界はすべて仏の国土であり、その中に住む生きとし生けるものはことごとく仏の愛し子であるとお説きになりました。
 これを受けて日蓮聖人は、「今この日本は釈迦仏のご所領なり。天照大神・八幡大菩薩・神武天皇等の一切の神・国主並びに万民までも釈迦仏のご所領の内なる上、この仏は我等衆生に三つの故おわします大恩の仏なり」(弥三郎殿御返事)と述べられています。三つの故とは、主・師・親の三徳をいいます。この三徳を備えたご本仏であるお釈迦さまこそ、私たちの住む娑婆世界の主であると、日蓮聖人は感得なさったのです。
 言葉をかえるならば、私たちはこの世の中を穢れた世界と思っているけれども、本当はご本仏の慈悲に包まれた清らかな仏の国土なのだ、ということです。
 そのことは如来寿量品の中に、「我が此の土は安穏にして、天・人、常に充満せり」と説かれています。これは「仏の国土には神々も人々も常に満ち満ちている」という意味です。しかしながらその後に「我が浄土はやぶれざるに、しかも衆は焼け尽きて憂怖諸の苦悩、かくの如き、悉く充満せりと見る」という経文が出てきます。
 ご本仏は、私たちが感謝の念を忘れ、素直な心を失ってしまうと、この世の中を愚かにも逆さま考えで見てしまう、いわゆる?倒の衆生になってしまうとお説きになっておられるのです。だから日蓮聖人は「それ浄土というも地獄というも外には候わず。ただ我等がむねの間にあり。これをさとるを仏という。これにまようを凡夫という。これをさとるは法華経なり」(上野殿後家尼御返事)と、信者に語っておられます。
 人は法華経の教えを信じてこそ、生きるべき道が明らかになるというのが、日蓮聖人の教えなのです。だからこそ立正安国という理想のもとに死身弘法というお題目弘通の道を歩まれました。それは末法という危機的状況を乗り越えられ、人々に仏の子としての進むべき道を唱導する地涌の菩薩の上首である上行菩薩としてのご自覚を日蓮聖人がお持ちになられたからです。
 法華経の従地涌出品第十五の中で、仏の滅後の後、だれかこの娑婆世界に在ってこの経を説くべきかをご本仏は解き明かされます。
 この世界を救い、この世界を浄土とするものは、この世界に住するものでなければならないとお釈迦さまはお説きになったのです。だから他の世界から集まってきた菩薩たちの申し出をお許しにならず、「我が娑婆世界に自ら六万恒河沙等の菩薩摩訶薩あり」と、お言葉を発せられました。そしてこれに応えるように大地の中から無量千万億の菩薩たちが涌き出てきました。
 「この菩薩衆の中に四導師あり。一を上行と名づけ、二を無辺行と名づけ、三を浄行と名づけ、四を安立行と名づく。この四菩薩、その衆中において最もこれ上首唱導の師なり」とお経の中では語られています。だからこそ日蓮聖人は私たちに、「いかにも今度信心をいたして法華経の行者にてとおり、日蓮が一門となりとおしたもうべし。日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑んや」(諸法実相鈔)と、語りかけておられます。地涌の菩薩とは、この世に生を受け、お題目のご縁をいただいている私たちにほかなりません。大事なことは、その意識に目覚めるか否かです。そしてお釈迦さまの願いのうち、日蓮聖人を末法の唱導師として仰ぎ、この世を浄化し、仏国土を顕現することが地涌の菩薩として生きる私たちの使命といえるでしょう。
 そして、私たち自身の中に仏性という素晴らしい宝が宿されていることに気づくことが大切なのです。
 ご本仏の願いと私たちの心が一体になった時、日蓮聖人は「今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり。仏すでに過去にも滅せず未来にも生ぜず、所化もって同体なり」(観心本尊抄)と述べられています。
 耐え忍ばなければならないという意味の娑婆世界を、生きがいのある世界、喜びの世界へと転じてくれる教えこそ法華経に説かれる真理なのです。だから私たちが、その教えを身と心に読むならば、この娑婆世界はそのままに仏さまの常住の浄土、寂光土になると日蓮聖人はお説きになっているのです。
第二節 国土成仏
 私たちのいのちが天地自然の働きによって生まれたものであり、私たちの住む地球がいのちをはぐくむかけがえのない天体であることは、だれもが知っていることです。
 天地の恵みを受けて生かされている私たちはそのことに感謝し、地球環境を大切にする心を養わなければなりません。たとえば食前の祈りとして唱えられる食法には、「天の三光に身を温め、地の五穀に精神(たましい)を養う。みなこれ本仏の慈悲なり」という言葉があります。
 私たちの周りにある物には、すべてご本仏の慈悲が満ち満ちていると考えられるのです。
 一念三千を説明する三世間の一つに国土世間が挙げられていますが、山川・草木、そして国土に至るまで仏界の働きがあると受け止めるのが、お題目の信仰なのです。
 日蓮聖人が、「吹く風もゆるぐ木草も、流るる水の音までも、この山には妙法の五字を唱へずということなし」(波木井殿御書)と、身延山の風光を愛でておられるように、私たちはお題目を唱える心によって自然と一体化できるようになります。
 しかしながら、一念三千の理論はどんなものにも、上は仏界から、下は地獄界までの十界を相互に内包していると説くのですから、国土が地獄の相を示すこともあります。それは私たちが正しい行いをしなかった場合、すなわちご本仏の願いに背くような生き方をした時だと日蓮聖人はお説きになっています。そう考えてみると、開発、進歩の名のもとに自然を破壊し続けてきた現代文明がさまざまな災害を招く原因となり、地球は今や瀕死の重症に陥ろうとしているということが理解できるでしょう。
 まずは核問題・大気汚染にはじまり、異常気象・温暖化・酸性雨・オゾン層の破壊、あるいはゴミ問題など、数えれば切りがありません。なかでもダイオキシンによる環境ホルモンの問題や、遺伝子構造の破壊など、いのちそのものに関する危険を生み出しています。
 日蓮聖人は、そんな人間の愚かさを予見してか、「国土破れんとする兆しには、まず山くずれ、草木枯れ、江河つくる兆しあり」(瑞相御書)と記しておられます。
 現代文明が豊かな社会を作り出しながらも、一方では心をどんどん貧しくさせてしまっていることに気づかなければなりません。
 私たちの果てしなき欲望は、お経の中では火に喩えられています。
 欲望の炎は我が身ばかりか、世界という棲み家を焼き尽くしかねないのです。だから法華経には「三界は安きことなし。なお火宅の如し」(譬喩品)という警告が説かれるのです。ところが思い上がった人々は「放逸にして五欲に著し、悪道の中に堕ちなん」(寿量品)という結果を招きかねない状態にあります。
 悪道とは地獄・餓鬼・畜生界の三悪道のことです。そして悪道に堕ちる原因として貪(むさぼり)・瞋(いかり)・痴(おろかさ)の三毒が説かれているのです。まさにそこには現代社会の醜い姿が映し出されているのではないでしょうか。
 「川の汚れは心の汚れ」という標語がありましたが、汚れた心が世の中を汚してしまっていることを私たちは反省しなければなりません。河川の浄化運動によって川に蛍や魚が帰ってきたように、心が浄化されれば世の中も清らかな仏国土となるでしょう。
 「共生」という言葉が国際的なテーマとなっています。今、環境問題に取り組まなければ人類の未来はないのではないかという不安が世界中の人々の心の中に広がっています。そのためには政治的にも経済的にも科学や工業生産等のあらゆる分野の研究、努力が必要となるでしょう。しかしそれ以上に、この問題は宗教的命題であることを知らなければなりません。
 日蓮聖人が「仏法は体のごとし、世間はかげのごとし、体曲がれば影ななめなり」(諸経与法華経難易事)とお示しになっているように、仏さまの教えこそはすべての思想の中心なのです。それだけにその教えを正しく理解しなければ、あらゆることが間違った方へと傾いてしまいます。
 法華経には、私たち衆生の世界も草木国土の世界も共に仏国土の中に在り、仏の大慈大悲の中に生かされていると説かれています。だからご本仏の眼から見れば、この世界は私たち衆生も環境も同時に生かされているのであり、一体なのです。すなわち、環境を大切にし、生きとし生けるものと共生する世の中こそが、法華経に説かれている仏国土なのです。
第三節 法華菩薩道
 浄化とは、本来の在るべき姿に変化せしめるということです。法華経の方便品第二には「諸仏世尊は衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう」という一節があります。
 仏知見とは一切のことがらの本質を見きわめる仏の智慧と眼光という意味です。その正しい智慧をもって世の中を見つめ、「苦をもって苦を捨てんと欲す」る人々に「清らかな心を取り戻させたいと願うが故に、種々の仏さまが世に現われたのだ」と、このお経文は私たちに語りかけています。しかもその後に、開・示・悟・入というステップを踏んで、私たち衆生を仏知見の道に入らしめんとの願いのために、仏はこの世に現れたのだとお経文が続き、それこそ「仏の一大事の因縁」なのだと説き明かされています。
 一大事とはいうまでもなく一番大事な事という意味であり、因縁とはその仏さまの願いと働きかけだと解すべきでしょう。さらに「諸仏如来は、ただ菩薩を教化したもう。諸の所作あるは常に一事の為なり」と語られます。
 これは二乗と位置付けられている声聞・縁覚という仏さまの弟子たちが、自分の悟りだけに満足し、他を利そうと願う菩薩の境地にまで自分を高めようとしないことに対する、仏さまの戒めなのです。
 現代でも、宗教は心の問題だから自分が納得し満足すればそれで良いと自分の殻から出ない人がいますが、法華経はそんな生き方は決して仏さまの願いにかなう生き方ではないと説いています。
自行化他、つまり自らも行い、他をも化すという菩薩の道を行じることが法華経信仰であり、成仏するただ一つの道なのです。だからこそ「如来はただ一仏乗をもっての故に衆生の為に法を説きたもう。余乗のもしは二、若しは三あることなし」と法華経の開会の教えが説かれています。
 では、法華経に説かれる菩薩の道とは、いったい、いかなる道なのでしょうか。それは、すべての生きとし生けるものが成仏することを願うご本仏の思いを我が願いとして歩む道なのです。
 法華経には数多くの菩薩が登場しますが、そのなかでも前章でお話しした常不軽菩薩は最もその精神を体現している菩薩だといえるでしょう。
 常不軽という名前は、決して人を軽んじなかったというこの菩薩の生き方に由来します。
 この菩薩はどんな人でも仏の子であり、その心の中には成仏する性が宿されていると信じたのです。そしてその意識を啓発することこそ、自分の行であると定め、ひたすら人間を敬い拝み続けていったのです。
 もちろん、これを心良く思う人ばかりではありませんでした。むしろ増上慢の人々(二乗)は不軽菩薩の言葉に反発し、敬遠し、あるいは馬鹿にしたり、杖や石をもって迫害しました。しかし、菩薩は一度も怒ることなく、合掌し続け、人々が目覚める時を待ったのです。
 人間不信におちいりやすい私たちですが、この意義を考えることは極めて重要ではないでしょうか。
 自分を大切にしたいと思いながらも、大切にしたい自分とは何なのかをまったく見失ってしまっているのが現代です。そんな混迷の時代であればこそ、お題目のご縁をいただいている私たちは世の中に合掌で光をもたらし、"あなたを拝みます"という信行によって人間の尊厳を取り戻さなければなりません。
 法華経の菩薩とは決して難しいことではありません。お互いがお互いを信じあえる世の中になって欲しいと願い続けることに他なりません。そのために不可欠なことは、それぞれが「大慈悲を室とし、柔和忍辱を衣とし、諸法の空を座とす」(法師品)とすることだと法華経には説かれています。これが「弘教の三軌」とよばれる菩薩の心構えです。
 すなわち、常に人を慈しみ、悲しみを分かち合い、どんなに苦しいときも耐え忍ぶ柔和な態度を持ち、すべては縁によって生じるものだとの思い、平等の心に座することが必要なのです。それを理解するには、法華経の詩人と称される宮沢賢治の、『雨ニモマケズ』という詩を読んでみるのがいいでしょう。
  雨ニモマケズ
  風ニモマケズ
  雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
  丈夫ナカラダヲモチ
  欲ハナク
  決シテ瞋ラズ
  イツモシズカニワラッテイル
  一日ニ玄米四合ト
  味噌ト少シノ野菜ヲタベ
  アラユルコトヲ
  ジブンノカンジョウニ入レズニ
  ヨクミキキシワカリ
  ソシテワスレズ
  野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
  小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
  東ニ病気ノコドモアレバ
  行ッテ看病シテヤリ
  西ニツカレタ母アレバ
  行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ
  南ニ死ニソウナ人アレバ
  行ッテコワガラナクテモイイトイイ
  北ニケンカヤソショウガアレバ
  ツマラナイカラヤメロトイイ
  ヒデリノトキハナミダヲナガシ
  サムサノナツハオロオロアルキ
  ミンナニデクノボートヨバレ
  ホメラレモセズ
  クニモサレズ
  ソウイウモノニ
  ワタシハナリタイ

 デクノボー精神ともいわれる宮沢賢治の生き方はまさに法華経の信仰によって体得されたものであり、お題目を受持する者が歩むべき道がこの詩には如実に語られています。
 私たちは暮らしのなかに生きる信行を身につけなければなりません。色心二法(身と心)に法華経を読むことこそ、日蓮聖人がお示しになられた私たちが歩むべきお題目の信行の道なのです。
 人々の信仰が薄くなり、世の中が濁れば濁るほど、お題目の信行に生きる私たちの道は厳しくなるでしょう。しかし、そんな時代になっている今だからこそ、人々の心をお題目の信仰へと導かなければならないのです。そんな時代を予見してか、法華経勧持品第十三の冒頭に、「我等仏の滅後において、まさにこの経典を奉持し読誦し説きたてまつるべし。後の悪世の衆生は善根転た少なくして増上慢多く、利供養を貪り、不善根を増し、解脱を遠離せん。教化すべきこと難しと雖も、我等まさに大忍力を起こして、この経を読誦し、持説し、書写し、種々に供養して身命を惜しまざるべし」との誓いの言葉が述べられています。
 勧持とは、その言葉のどおり、人々に法華経の教えを弘め、これを持つようにと勧めることです。
 真の菩薩道とは法華経の教えによって社会を浄化し、人々が明るく正しい暮らしを営む仏国土を顕現するためにお題目の信仰の輪を広げる道なのです。
 「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」(農民芸術論綱要)と、宮沢賢治は宣言しています。その世界全体への祈りこそ、ご本仏・お釈迦さまや宗祖・日蓮聖人の願いのなかに生きる法華菩薩道の要諦であることを私たちは心得ていなければならないでしょう。
第四節 一天四海 皆帰妙法
 立正安国・仏国土顕現という日蓮聖人の誓願は、単に日本という小さな国にとどまるのではなく、全世界・地球規模で語られているということは、すでに学びました。
 「天下万民諸乗一仏乗となりて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば、吹く風枝をならさず、雨壌を砕かず。代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払い長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各々御覧ぜよ。現世安穏の証文、疑い有るべからざるものなり」と、『如説修行抄』にあるように、日蓮聖人は、この世の中全体が妙法に帰依することによって、理想的な絶対安心の浄土になることを確信なさっています。
 まさに南無妙法蓮華経は、世界の平和を祈り、人々の幸せを願うご本仏・お釈迦さまの御心そのものなのです。その御心を、どうこの世の中に結実させるかが、私たちの信行だといえるでしょう。これこそ、私たちがお題目の総弘通を願う最大の目標であることはいうまでもありません。そうなるためには、家庭やお寺での信行はもちろんのこと、社会の隅々に至るまでお題目の功徳と意義を弘めるように信行活動に励まなければならないでしょう。
 言葉をかえるなら、法華経の教えに生かされた明るい家庭と、社会に開かれたお寺作りに精進することこそ、世の中の人々に信仰の大切さを知らしむる基本だといってよいのではないでしょうか。
 如来神力品第二十一に「当に知るべし、是の処はすなわち是れ道場なり。諸仏ここにおいて阿耨多羅三藐三菩提を得、諸仏ここにおいて法輪を転じ、諸仏ここにおいて般涅槃したもう」という経文があります。
 是の処とは、私たちが生かされている処すべてを意味します。すなわち、道場とはお寺をはじめ、家庭も社会も自然環境も、ありとあらゆる場所が私たちにとって真理を教えてくれる法華経の道場だということなのです。
 そしてそのことを悟るならば「日月の光明のよく諸の幽冥を除くが如く、この人世間に行じてよく衆生の闇を滅す」という理想への道が開かれるでしょう。
 日蓮聖人はそのご一生を、この経文のままに歩まれました。そして、この法華経が再びお釈迦さまの国インドに帰る日が来るであろうとも予見なさっています。
 「天竺国をば月氏国と申す。仏の出現したもうべき名なり。扶桑国をば日本国と申す。あに聖人出でたまわざらむ。月は西より東に向かえり。月氏の仏法の東へ流るべき相なり。日は東より出ず。日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり」(諌暁八幡抄)というお言葉がそれです。
 インドからシルクロードを経て、中国・朝鮮半島・日本へと伝えられてきた仏の教えを今度は逆に日本から世界に向かって弘めなければならないとの、日蓮聖人のお言葉を私たちはしっかりと受け止めるべきでしょう。
 六老僧の一人、日持上人は、日蓮聖人の十三回忌の翌年、永仁三年(1295)正月一日、国内での伝道を他のお弟子たちに託し、ご自身は一天四海皆帰妙法の祖願に生きるべく、北へと旅立ち、さらに大陸へと渡って行かれたと伝えられています。そして、これをもって日持上人は、宗門海外布教の祖といわれています。しかし、日蓮宗の本格的な海外布教の歴史は、開国された明治時代以降まで待たなければなりませんでした。日蓮宗には
現在、海外に二十以上の寺院や教会があり、インドやスリランカにも寺院が建立され、イギリスやドイツにも布教の拠点ができて、海外布教は宗門の重要な課題ともなっています。
 仏教はキリスト教・イスラム教と並ぶ世界の三大宗教といわれながらも、その教勢においては、インドのヒンズー教に次ぐ四番目の位置にあります。また一方、国際関係に目を転じると、これらの宗教の間には教義の相違が火種となり、紛争が起こり、戦争が繰り返されているという現実も見逃すわけにはいきません。
 そのような状況の中にあって、教勢は小さかろうとも、仏教は不殺生を戒となしています。平等大慧を説く法華経は、この世に仏国土の顕現を願う最高の教えなのです。
 インドの神話で、この世を創造したという梵天(ブラフマン)が、法華経の教えを聞いて感激し、自らの宮殿を仏さまに布施し、「願わくはこの功徳をもって普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆ともに仏道を成ぜん」と誓ったという話が化城喩品第七に語られています。
 諸天(神々)も、生きとし生けるものも等しく成仏への道を歩もうと誓う梵天の願いは、宗教間の対話が求められ、共に平和への貢献を模索する他の宗教にとっても示唆に富んだ教えではないでしょうか。
 『諌暁八幡抄』は「末法には一乗の強敵充満すべし、不軽菩薩の利益これなり。各々我弟子等はげませたまえ。はげませたまえ」というお言葉で結ばれています。
 「世も末と思われるような時代には本仏の教えに背くようなさまざまな生き方や考え方が蔓延するだろう。そんなときこそ、いのちを尊び人々をひたすら礼拝する不軽菩薩の生き方が大切なのだ」と、日蓮聖人はお諭しになっています。その日蓮聖人の門下につながる多くの教師や信徒が、世界各地で布教・信行に励んでいるのです。
 たとえ国を異にし、遠く離れていても、心はお題目のご縁で一体とならなければならないでしょう。
 「日蓮が一類は異体同心なれば、人人すくなく候えども大事を成じて、一定法華経ひろまりなんと覚へ候」(異体同心事)との御指南のもと、私たちの宗門・日蓮宗は、世界へ大きく飛翔していかねばなりません。それに加えて私たちは、教えばかりではなく、疫病や飢餓や戦争など、天災・人災に苦しめられている世界の人々に救いの手を差し伸べる善意をも忘れてはならないでしょう。
 慈悲を説き、善根功徳を勧めながらも、物資的援助や人的協力の面で、我が国の仏教教団は世界のほかの宗教に比べ、大きな遅れをとってしまっています。敗戦の焦土のなかから復興し、経済大国となった日本に世界中が驚きましたが、同時に信仰心や道徳心を失っている日本人は、進むべき道を見失っているのではないでしょうか。
 今や日本人は精神文化面でも成長することが世界から求められています。とくに仏教徒が多いアジアの国々では日本のこれからに期待しているのです。
 ご本仏へのご恩報じのためにも、日蓮聖人の願いに応えるためにも、それぞれ一人ひとりができる布施の行を積もうではありませんか。
 日蓮聖人は、「善根と申すは、大なるによらず。又ちいさきにもよらず」(窪尼御前御返事)とおっしゃっているのです。
 貪者の一灯という仏教説話にもあるように、あなたの真心が相手の心にも灯をともす、そんな信行こそ、今、求められているのです。
 お題目の灯が次から次へと人々の心に灯されていく信行活動を私たちは心がけなければなりません。
 日蓮宗でも、唱題行脚や歳末助け合い運動などの募金活動を展開し、喜捨いただいた浄財をユニセフを通して災害援助をしたり、「御仏の子を育てよう!世界平和のために」というスローガンのもと、ラオスで小学校の建設を勧めるなど、積極的に国際協力に参加し、お題目の輪を大きく広げています。
 一天四海皆帰妙法とは、妙法をよりどころとし、世界の人々が成仏への道を歩き、この世が浄仏国土となりますようにと願う、ご本仏とともに生きる久遠の祈りなのです。


第五章 日常信仰生活の在り方

 私たちは常に仏子としての自覚を持ち、すべての衆生とともに真実を求めて生活いたします。
第一節 ご本尊
 ご本尊を奉安し、その意義を理解しよう
 本尊とは、どの宗旨・宗派にもある、信仰の対象・礼拝の中心となるものです。しかし、日蓮聖人が定められたご本尊は、全ての宗旨・宗派の本尊を超える本門の本尊であることを知らなければなりません。
 本門の本尊とは、如来寿量品で初めて説き明かされた久遠実成の本師・釈迦牟尼仏です。
 そしてお釈迦さまの久遠の願いと無量無辺の大慈悲の世界を顕わすべく、日蓮聖人は大曼荼羅ご本尊を図顕されました。それは「日蓮がたましいを墨に染めながして書きて候ぞ。信じさせたまえ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましいは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(経王殿御返事)とお述べになっているように、立教開宗の誓願をお立てになってから二十年、配流の地・佐渡島ではじめて顕わされたご本尊です。そこには幾多の苦難に遭われながらも、法華経の行者として歩み続けられた日蓮聖人の色読された法華経への不退転の信が光り輝いているのです。
 「曼荼羅というは天竺の名なり。これには輪円具足とも功徳聚とも名くりなり。このご本尊もただ信心の二字におさまれり。以信得入とはこれなり」(日女御前御返事)ともお述べになっています。
 輪円具足とは、仏さまの完全無欠な悟りの世界がすべて備わっているという意味があり、功徳聚というのは、そのお悟りの功徳がすべて聚まっているという意味なのです。
 では、ご本尊にはいったいどんな功徳が聚まっているのでしょうか。
 ご本尊の中央には南無妙法蓮華経とお題目が書き顕わされています。それは、宇宙法界がお題目の光に照らされて、上は仏界から下は地獄界に至るまで十界の衆生がことごとく成仏する絶対平等の功徳です。これを日蓮聖人は「妙法五字の光明に照らされて本有の尊形となる」(日女御前御返事)と説かれています。
 本有の尊形とは本来もっている尊い姿という意味です。すなわちご本尊の中に生かされている私たち一切衆生は皆、仏さまの子だということです。そのことを自ら悟らせるために、お釈迦さまは法華経をお説きになりました。だからこそ、法華経の教えをいただく時に私たちは、南無平等大慧一乗妙法蓮華経ともお唱えするのです。
 大曼荼羅ご本尊を拝する時、私たちは自分自身がそのご本仏の大慈悲の光の中に包まれている一人であることに気づかなければなりません。いわばご本尊はご本仏と私たち凡夫が向かい合い、信じあう信仰の対象なのです。
 お寺のご宝前に祀られているお像は、そのご本尊の世界をより身近なものに、具現化した世界として受け止めてほしいという願いが込められています。
 それぞれのお寺で勧請の形式に多少の違いがあったとしても、願いは本仏(お釈迦さま)・本法(妙法蓮華経)・本僧(日蓮聖人)の三宝に見守られた法華経の道場を顕現することにあります。その三宝帰依への心なくしては、真のお題目信仰とはならないからです。
 お釈迦さまや日蓮聖人にお願いするだけのお題目ではまだまだ不十分です。自らが、妙法蓮華経の教えを色読し、自身の成仏を願うお題目をお唱えすることが肝要です。大曼荼羅ご本尊はそんな久遠の御本仏の願いを日蓮聖人が感得なさり、顕わされた未曾有のご本尊なのです。ご本尊を奉安する時には十分な心構えが私たちには必要となります。何よりも私たちが間違ってならないのは、ご本尊を一般の掛け軸のように取り扱わないことです。
 ご本尊はあくまでも私たちの信仰の対象です。鑑賞するものでもなければ、ただ大切にしまっておくものでもありません。
 日々礼拝し、合掌し、ご守護をいただかなければならないのが、ご本尊です。それだけに、安易にご本尊を求めることはあまり感心できません。お求めになる時には、菩提寺のご住職に相談なさることが一番でしょう。
 宗門では、日蓮聖人がご入滅の折にお掛けになった臨滅度時のご本尊を謹写複製し、各ご家庭で奉安していただくようにとお勧めしています。また、お求めになられたら、ご住職から開眼供養をしていただくことが肝要です。
 何といっても、ご本尊を奉安するということは、自分の信仰の証を立てること、法華経を受持する者として「信行に励みます」とお釈迦さまや日蓮聖人にお誓いすることなのです。「生々世々、値遇し頂戴せん」という気持ちを、どんな場合にもぜひとも持ってもらいたいものです。
第二節 お仏壇
 お仏壇を正しく浄くまつろう
 仏壇は本尊壇のことをいいます。お寺の本堂がご本尊をお祀りするお堂であるように、その中心にはご本尊が奉安されていなければなりません。時としてご本尊のないお仏壇や、お位牌を真ん中に祀っているようなお仏壇を見かけますが、図のように、お仏壇のなかは正しく祀られていなければなりません。
(お仏壇の図)
 壇とは、一段高く設けた場所、という意味で、インドでは土を盛り上げて作った祭壇を意味し、仏教が中国や日本に伝わってからは、多くは木で造られるようになったといいます。そのなごりとして今も壇の字が使われています。
 さて、お寺の本堂でご本尊やお仏像、そして宗祖のご尊像などがお祀りしてあるところを須弥壇というのはなぜでしょうか。
 それはインドでは世界の中心には高い山があると考えられていたからです。その山の名を須弥山といいます。
 ご存じのようにインド大陸には世界の屋根ともいわれるヒマラヤ山脈が高くそびえています。人々はその頂上は神々の棲む世界だと思っていました。したがって想像上の山である須弥山の頂上も、神や仏が棲むところだと考えたのです。その須弥山を模しているのが本堂の須弥壇です。ご家庭のお仏壇でいえば最上壇を須弥山と同じ位置だと受け取ればいいでしょう。
 ですからお仏壇の最上壇中央には大曼荼羅ご本尊を奉安し、宗祖のご尊像を安置する場合には、ご本尊の前にします。お仏像やご守護神像、または掛け軸などを安置する時には、ご本尊の座配にならってください。
 ご先祖のお位牌は中段に安置し、ご本尊の妨げにならないようにしましょう。ご先祖はご本尊に見守られ、導かれ、ご本尊の光につつまれた世界で、菩提の道を歩ませていただくのだという信仰の正しい道筋を踏みちがえてはなりません。
 お水茶碗(茶湯)・お仏飯・お供え物などは、ご本尊・ご先祖ともに等しく受け取っていただくという気持ちでお供えして下さい。
 したがって、その数や量よりも、常に新鮮な物をお供えするという心がけを忘れてはなりません。いただき物は、まずお仏壇にお供えし、それから家族で仲良く賞味させていただくというのも、宗教的情緒を養ううえにおいて意義あることではないでしょうか。
 「上げ心よりも下げ心」という言葉がありますが、お供えした物が粗末にならないように、早めにお下げすることも大切な心構えです。
 自然界の恵みに生かされている私たちは、その事実に感謝し、法華経の教え・お題目の心を日々暮らしに生かすよう精進しなければなりません。
 花瓶・線香立て・ローソク等は、お仏壇を荘厳するための仏具です。それぞれのお仏壇に合った形で揃えて下さい。ただし、花瓶とローソク立てが一対でない場合には、お仏壇に向かって左に花瓶、右に燭台を配置しています。お仏壇は家庭における信仰の道場となるところです。
 いつも正しく清らかに、気持ちよく、家族みんなが毎日手を合わせたくなるようにお給仕したいものです。

第三節 日々の信行
 家族そろって勤行にはげもう
 お釈迦さまは、如来神力品第二十一の中で「汝等如来の滅後において、応当に一心に受持・読・誦し、解説・書写し、説の如く修行すべし」とお説きになっておられます。
 これは、お釈迦さまがご入滅の後、私たち法華経を信じる者が行じなければならない信仰の道標であるとお説きになったもので、<五種法師>といわれています。
 法師とは、この場合、お坊さんという意味ではありません。法華経を行じる者の信仰のあり方だと受け取ればいいでしょう。これにしたがって私たちは、この五種法師を柱として、日々の信行に努めることが大切です。
@ 受持
受とは、まずは法華経との最初のご縁、すなわち出会いをいいます。どんなにありがたい教えも、聞く耳を持たず、受け入れようという気持ちがなければ、仏さまとのご縁は結べません。
 とくに宗教に無関心で、仏教なんて古くさいと思っているような人々には、心の眼を開かせることが容易ではありません。
「諸の罪の衆生は悪業の因縁をもって、阿僧祇劫を過ぐれども三宝の名を聞かず」と寿量品第十六にあるように、ただ物質的な幸せを求めてばかりいるようでは、どんなに長生きしようと、たとえ何度生まれ変わろうとも、真実をお説きになるお釈迦さまの心に触れることはできないのです。
 では、どうすればご縁が結べるのでしょうか。それは「柔和質直の者」になることだとお釈迦さまは、お答えになっています。
 そのような素直で真っすぐな心を持つ者は「我が身ここにあって法を説くと見る」とおっしゃっているからです。
 ご本仏は、生きとし生けるものすべてに常に法を説いておられますが、それを聞き取れるか否かは、こちらの心がけ次第なのです(感応道交)
 たとえば、テレビ局から空中に膨大な量の電波が発せられているとしても、テレビという受信機がなければ、それをキャッチできないように、私たちに法を求める心の準備がなければ、仏さまの声は素通りしてしまうでしょう。
 前節で学習したお仏壇は、いわば各家庭の受信機ともいえるものです。だからお仏壇を備え、そこで合掌するというスイッチを押せば、ご本仏の声が私たちに届いてくることになります。
 そのとき、開経偈にある「無上深々微妙の法は百千万劫にも遭遇たてまつること難し。我れ今見聞し受持することを得たり」という感激も生まれるに違いありません。
 ところが「受くるはやすく、持つはかたし、さる間成仏は持つにあり」(四条金吾殿御返事)と日蓮聖人がお示しになっておられるように、感激はしたものの、その気持ちをすぐに忘れてしまいがちなのが私たちです。
 まさに「此の経は持ち難し」(此経難持)(見宝塔品)という経文のごとく感謝はしても忘れがちな私たちですが、ご本仏は「もし暫くも持つ者は我れすなわち歓喜す。諸仏もまた然なり」とも語られているのです。
 かつて「人間は忘れる動物である。忘れる以上、覚えることである」といった学者もいましたが、そんな凡夫の弱さを、ご本仏はとっくにお見通しです。転ばないことよりも、転んで立ち上がる勇気、それこそ勇猛精進です。
 だからこそ、「今身より仏身にいたるまで、よく持ちたてまつる」という日々の誓いを忘れてはなりません。それでなければ「三世の諸仏甚深の妙典なり。生々世々、値遇し頂戴せん」という開経偈の結びの言葉に反した生き方になってしまうのではないでしょうか。
A 読
   読とは、お経を読むことです。「無量の功徳この経に集まれり」(開経偈)とあるように、私たちは日々、お経を読み、お題目をお唱えすることによって、またその功徳をご先祖に手向け、まわりの人々にも分かつのです。
   法華経の功徳が、五字七字のお題目に集約されていることは申すまでもありませんが、その功徳をより正しく、より深くいただくためには、日々の勤行が不可欠です。
  「読書百遍、意おのずから通ず」という言葉があります。最初は難しいと思っていたお経も、ある日、突然、その意味がわかる時が来るのです。ただ、ご先祖の供養にと読んでいたお経が、実は今、生きている私のためにご本仏がお説きになられていたのだと気がつくことはありませんか。
   そのためには、どんなにお経に読み慣れていても、お経本を開いて正しく読むことが何よりも大切です。「一々の文々、是れ真仏なり。真仏の説法は衆生を利す」ともいわれているように、一つひとつの文字が仏さまであるという受け止め方をしながらお勤めをしてもらいたいものです。
   そうすれば、口で読んでいたお経が、いつの間にか心に染み、やがては血肉となり、身をもってご本仏の願い(教え)のままに生かされていることに気づくでしょう。
B 誦
   誦とは、暗誦するまで繰り返し繰り返し読むことをいいます。
   お釈迦さまが、ご在世の頃、お経はまだ文字として記録はされていませんでした。
  それは、文字がなかったというのではなく、お釈迦さまが、お弟子たちの機根(能力)に応じて、それぞれに合った教えをお説きになったからだといわれています。
   誦に関する仏教説話として、最も有名なのはパンタカ(須利槃特)と呼ばれるお弟子の話です。
   パンタカは仏さまの教えをなかなか覚えることができませんでした。記憶力が大変劣ったお弟子だったからです。
   そんなパンタカを憐れに思われたお釈迦さまは、彼に一本の箒を持たせ、ある一つの言葉だけをお教えになったそうです。
   「塵・芥、掃けば大地は浄くなる」
   ところがパンタカは、この短い言葉でさえ覚えられませんでした。
   何度も何度もお釈迦さまにお尋ねし、他のお弟子にも教えてもらいながら、来る日も来る日も、この言葉を覚えようと精進しました。そしてある日、「これは自分の心のことをお説きになっているのだ」と悟ったのです。
   唱える言葉と動かす手足が、彼の心の世界を開き、ほかのお弟子たちもこれによって仏道修行とは、頭だけで学ぶのではなく、体でも学ぶものだと反省させられたといます。
   この説話から日々の信行に私たちが学ばなければならないことはたくさんあります。たとえ、まだその意味はよくわからなくても、あなたがお題目の信仰によって正しく生きようとする日々の生活が、家族にも大きな感銘を与え、知らず知らずのうちに、みんなにも手を合わせようという気持ちを起こさせるのです。
   「門前の小僧、習わぬ経を読む」といいますが、子供たちにも理屈をいう前に、後ろ姿で身についた信仰心をぜひとも植えつけてあげたいものです。
C 解説
   大人たちに「どうして?」と尋ねたがるのは、子どもたちの特性だといえます。それ
  は興味があるから尋ねたがるのではないでしょうか。
   たしかにそんなことを相手にするのは面倒臭いと思う時もあるでしょうが、この気持ちを上手にはぐくんであげなければ、彼らの信仰心は決して大きく伸びはしないでしょう。
   解説とは、疑問に思ったことを解きほぐしてあげ、その心に応じて説いてあげることです。
   このように毎日の生活の中で他の人々を信仰の世界に導くという化他の行も、私たちにとって大切な信行であることはいうまでもありません。法師品第十には「我が滅度の後、能くひそかに一人の為にも法華経の乃至一句を説かん。当に知るべし、是の人はすなわち如来の使なり。如来の所遣として如来の事を行ずるなり。何に況や、大衆の中において広く人の為に説かんをや」という経文が出てきます。
   末法の時代において、如来使の自覚をお持ちになった日蓮聖人が法華経の行者としてお題目弘通の道を歩まれたのは、この経文にあるようにご本仏の願いに応えようと誓われたからにほかなりません。
   それならば、宗祖の歩みにならい私たちも、時にふれ折にふれ出会う人々にお題目のありがたさを説き、下種の縁を結ばなければならないのではないでしょうか。
   子や孫はもとより、世の中の人々に仏の子としての自覚を促し、「受けがたき人身を受け、遭いがたき法にあいたてまつる」という感激を与えることこそは、解説という信行の大いなる功徳となるのです。
D 書写
   書写とは、お経を書き写す信行です。近年、書写行は自分の菩提心を養い、ご先
  祖への供養にもなるとして、宗派を問わず広まっていますが、印刷技術の発
  達していなかった時代には、これを書き写し、後世のため多くの人々に仏の教えを弘めようと願って行われたものです。
   また立教開宗七五○年を契機として、宗門ではお題目写経運動が展開されていますが、これも一天四海皆帰妙法を願う日蓮聖人の信仰の原点に立ち、末法万年、広宣流布の礎を築こうという祈りから始められたものです。
   それならば、これからの書写行とは、ただ、お経文を紙に書き写すということでなく、法華経の教えにより、人生のあり方を処し、お題目の信仰を我が家の柱となし、正法によって国を安んじ、この世界をご本仏の願いに叶った浄仏国土にしようとみんなで語りあい助け合うことこそ、これからの世代へ伝える真の書写ではないでしょうか。
「如来の滅後において、仏の所説の経の因縁及び次第を知って、義に随って実の如く説かん。日月の光明の幽冥を除くが如く、斯の人世間に行じて、能く衆生の闇を滅す」(如来神力品)とあるように、それぞれに日蓮聖人の生き方を現代に学びとることが、求められているのです。ご本仏の願いを私たち一人ひとりが我が心に写し取ることこそ、法華経の行者としての道だといえるでしょう。
信行の根幹となるのは、あくまでも受持です。読・誦・解説・書写は、それぞれが行う信行の道だと心得、お題目の輪を広げようではありませんか。

第四節 知恩・報恩
 合掌して感謝の心をあらわそう
 お題目を受持する私たちにとって、日常生活の中で、決して忘れてはならない大切な心は、感謝です。
 すべての生きとし生けるものは、互いに生かし生かされていると受け止めるのが仏教徒の基本的生活態度です。
 それは、お釈迦さまのお説きになった縁起の法によるものであることは、すでに学びましたが、孔子の教えである儒教とともに、私たちの生活の中で、「恩」という徳目のもと、精神文化を形成してきました。
 しかしながら、恩は、太平洋戦争の敗戦と同時に、二十世紀の後半、古い考え方としてなおざりにされてきたのです。
 その結果、家族の崩壊・地域社会に対する無関心・国に対する意識の低下、加えて、宗教心・道徳心が希薄になってしまったことは、だれもが感じていることではないでしょうか。
 新しい世紀を迎えた今、心の問題が改めて問い直されています。この時にあっては、私たちの先祖が大切にしていた「恩」というものを、どうやら見つめ直す必要がありそうです。
 論語には「故きを温めて、新しきを知る」(温故知新)という言葉もあります。それよりも、私たちは、日蓮聖人が、『開目抄』の中で「仏法を学せん人、知恩報恩なかるべしや」とお説きになっていることを肝に銘じなければなりません。
 日蓮聖人にとって、恩は、ご生涯を通してのテーマでした。だから、「仏弟子は必ず四恩を知って知恩報恩をほうずべし」(開目抄)ともお述べになっておられます。
 そこで、恩を四つに分けて、私たちの報ずべき恩について考えてみましょう。
@ 衆生の恩
 日蓮聖人は、伊豆ご流罪中に著された『四恩鈔』で「一には一切衆生の恩、一切衆生なくば衆生無辺誓願度の願を発し難し」とお述べになっておられます。
 この願が、四弘誓願の一つであることは、ご承知のことと思います。
 「衆生は無辺なれども度さんと誓願す」とは、この世の生きとし生けるものは、数かぎりなくいるけれども、そのすべてのものを仏さまの悟りの世界に渡さんとの誓いが菩薩の願行となっているのです。
 自分一人で生きているのではない。人間ばかりでなく、いのちあるものすべての恩恵を受けて生かされている自分だと知った時、自分はできるかぎり、人々に恩返しをさせていただこうと誓い願うこと、それが菩薩行の第一歩です。
 なにも難しく考える必要はありません。報いようとする気持ちがあり、自分が他の人々の役に立つ喜びを知ることが布施の心であり、菩薩行ともなるのです。
 しかも、日蓮聖人は「本より学文し候いし事は仏教をきわめて仏になり、恩ある人をもたすけんと思う」(佐渡御勘気鈔)と出家の動機を語られています。
 日蓮聖人ほど、恩を知り、恩に報いようとなされた宗祖はほかにはいないといっていいでしょう。
A 父母の恩
 恩のなかで、いちばんわかりやすいのは父母の恩です。父と母との出会いがなければ、私たちは、この世に生を受けることはできません。しかし、最近では医学の進歩により、種々の受胎方法が可能となり、倫理概念も今のままでは現実に適応しにくくなっているのも事実です。
 このように価値観の激変する時代、私たちは、法華経の教えによって、世の中を正しく見、私たちのあるべき姿を正しく考えなければなりません。
 日蓮聖人が、富木常忍に与えられたお手紙に「我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり。譬えば種子と菓子と身と影との如し」(忘持経事)と述べられているように、自分の身も心も父母のいのちを受け継いだものとして感謝することが大切なのです。
 その父母の原点として、日蓮聖人はお釈迦さまのことをお考えになられました。「釈尊は我等が父母なり。一代の聖経は父母の子を教えたる教経なるべし」(法門可被申様之事)とお説きになっているように、親と子の関係として、仏さまと私たち凡夫を位置づけられておられます。とくに法華経には、そのような経文がいくつもあることを、私たちは知っておかねばなりません。
 そして私たちにとって親ともいえるお釈迦さまも、この世にお生まれになった時には、また、人の子であったのです。
 だから日蓮聖人は「世尊と申す尊の一字を高と申す。高と申す一字は又孝と訓ずるなり。一切の孝養の人の中に第一の孝養の人なれば世尊とは号したてまつる」(法蓮鈔)とお釈迦さまを孝の手本ともなさっています。
 仏伝にもお釈迦さまの誕生の七日後、亡くなられ天に昇ったお母さんのマーヤ夫人のためにお釈迦さまが?利天に赴き、法をお説きになったということが伝えられているのです。
 だからこそ、『開目抄』の中で日蓮聖人は「今法華経の時こそ、女人成仏の時、悲母の成仏も顕われ、達多の悪人成仏の時、慈父の成仏も顕わるれ。この経は内典の孝経なり」とお説きになり、ご信者にも「法華経を持つ人は父と母の恩を報ずるなり。我が心には報ずるとは思わねども、この経の力にて報ずるなり」(上野殿御消息)とお述べになっています。
 私たちが、読経・唱題の功徳をご先祖に手向けさせていただくのは、何にも勝る報恩行だといえるでしょう。
B 国の恩
 日蓮聖人は法難を予測されながらも、なぜ、『立正安国論』を著され、幕府を諌暁しようとなさったのでしょうか。
 それは、「国土の恩を報ぜんがため」と『安国論御勘由来』には述べられていますし、晩年身延で著された『撰時抄』にも「日蓮が身には、今生にはさせる失なし。ただ国をたすけんがため、生国の恩をほうぜんと申せし」と当時の心中を語っておられます。
 国に対する関心が薄くなっている現代ですが、私たちは「日蓮、生をこの土に得たり。豈に我が国を思わざらんや」(一昨日御書)という日蓮聖人の思いを忘れてはならないでしょう。
 日蓮聖人が、この世界は、ご本仏の浄仏国土であるとお考えになっていることは前章で学びました。なればこそ、「早く天下の静謐を思わば須く国中の謗法を断つべし」(立正安国論)と諌暁なさったのです。
 そして、いかなる時にも「わずかの小島のぬしらがをどさんを、恐ては閻魔王の責めをば、いかんがすべき」(種種御振舞御書)との不退転の決意のもと、受難の道を歩まれました。
 それは「誰か能くこの娑婆国土において広く妙法蓮華経を説かん。今正しく是れ時なり」(見宝塔品)とのお釈迦さまの要請に応えることでもあったのです。
 お題目をお唱えする私たちの信行が、ただ自分のこと、家族のことだけを願うものであってはならない理由がここにあります。
 お題目の信行は、お釈迦さまの願い・日蓮聖人の誓いを、そのままに我が身にいただく信行でなければなりません。
 だから私たちには、勤行の時には、感謝と同時に立正安国、世界平和の祈りを捧げているのです。
C 三宝の恩
 仏教の恩と一般道徳上の恩との違いは、四つめに述べる三宝の恩です。三宝の恩とは、仏の恩・法の恩・僧の恩の三つです。日蓮宗では、仏恩はご本仏・お釈迦さまのご恩、法恩は妙法蓮華経のご恩、僧恩は日蓮聖人のご恩と受け止めています。
 日蓮聖人は『南条兵衛七郎殿御書』の中で「ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎりたてまつる。親も親にこそよれ、釈尊ほどの親。師も師にこそよれ、主も主にこそよれ、釈尊ほどの師主はありがたくこそはべれ。この親と師と主の仰せをそむかんもの、天神地祇にすてられたてまつらざらんや。不孝第一の者なり」とお釈迦さまのご恩を、至上の恩だとお考えになっています。
 そして、そのお釈迦さまのお説きになられた最高の教えである妙法蓮華経こそ、私たちが帰依を誓わなければならない法のご恩です。また、私たちは末法の世の唱導師・日蓮聖人のご恩に報いるためにも、一人でも多くの人に信仰の大切さ・お題目のありがたさを伝え弘めなければなりません。お
 それには、老いも若きも助け合い、仲良く信行に励む家庭生活を志すことです。
 たとえ一人ひとりは違っていても、お釈迦さまの眼からご覧になれば、どの子も我が子・仏の子なのです。
 相和して唱えるお題目の声が、みんなの心を一つにし、お題目の輪を広げます。
 まさに異体同心、その輪の中からは、未来を担う新しい地涌の菩薩たちが次々に涌出してくることでしょう。
第五節 久遠の光、身延山
 総登詣して、宗祖のみ心にふれよう
 私たち日蓮宗の総本山は身延山久遠寺です。佐渡流罪の後、文永十一年(1274)三月二十六日、鎌倉に戻られた日蓮聖人は、波木井実長の招きもあって、その領地・身延山にお入りになられました。ご入山は五月十七日です。それより後、ご病気のため離山された弘安五年(1282)九月八日までの晩年約九ヶ年、日蓮聖人は、この地でお弟子とともに法華経修行の日々をお過ごしになられました。
 その光景は、『身延山御書』に示されているように、「誠に身延山の栖は、ちはやぶる神もめぐみを垂れ天下りましますらん」という深山幽谷の景をなすものだったでしょう。「かかる砌なれば、庵の内には昼は終日に一乗妙典の御法を論談し、夜は竟夜要文誦持の声のみす。伝へ聞く釈尊の住みたまいけん鷲峰を我が朝この砌に移し置きぬ」との感慨をもってお過ごしになられたのです。
 「釈迦仏は霊山に居して八ヶ年、法華経を説きたもう。日蓮は身延山に居して九ヶ年の読誦なり」(波木井殿御書)ともあるように、日蓮聖人は、身延山をお釈迦さまが法華経をお説きになられた霊鷲山にも劣らぬ聖地だとお考えになられました。
 私たちが宗歌として歌わせていただく「立ちわたる身のうき雲も晴れぬべし。たえぬ御山の鷲の山風」は、日蓮聖人のその思いをそのままに詠みこまれた歌なのです。
 その思いはまた「縦いずくにて死に候とも、九ヶ年の間、心安く法華経を読誦し奉り候山なれば、墓をば身延山に立てさせたまえ。未来際までも心は身延に住む可く候」(波木井殿御書)という言葉によっても、深く拝されます。
 身延山を棲神の地――日蓮聖人の神(たましい)が棲むお山――とお呼びするのは、このようなことに由来します。
 まさに、身延山は日蓮聖人にとって、法華経とお釈迦さまとご自身とが一体となる世界だったのです。
 お弟子の方々はいうにおよばず、ご信者の人々も身延山にお詣りに来ました。四条金吾も富木常忍も、そして佐渡の阿仏房も海を渡り山を越え、日蓮聖人を訪ねてこの山へと登り、感激の涙にむせびました。
 「日蓮が弟子檀那等はこの山を本として参るべし。これすなわち霊山の契也」(波木井殿御書)とあるように、身延山には法華経の久遠の光が輝いているのです。
 子や孫へ、そしてまわりの人々にもお題目のご縁を結ばせていただくことが、一人ひとりが歩むべき下種結縁の道ではないでしょうか。
 そのためには、総本山にお詣りし、誓いを新たにしたいものです。


  お題目に生きた人々

 新居日薩
 (1830〜1888)群馬県生まれ。日蓮宗初代管長。明治新政府統括の下、東京芝二本榎承教寺に日蓮宗大教院を開設して新しい宗門の体制作りを行い、明治9年2月27日、正式に日蓮宗と公称された時の管長です。師は19歳から6年間、金沢立像寺にあった私塾「充洽園」に遊学し、優陀那院日輝のもとで薫陶を受け、行学の研鑚に励みました。その後、「我宗は広宣流布の金言に拠って宗祖創立せしより茲に六百年。然に其寺其僧其信徒ととも各宗の最下に居る」と嘆き、池上南谷檀林での子弟教育に尽力。さらに同十六年、私財を投じて池上永寿院に沙弥校を開設して幼年僧教育に力を注ぎ、布教する人材の養成を行いました。また、「妙法講清浄結社」等の信徒結社組織を全国に展開して、宗門の興隆を図りました。他方では、千葉県で教誨認許を得、獄内説教を開始。そのうえ、近代日本仏教最初の社会福祉事業である「福田会育児院」を創立、十二年間、会長の重責を担いました。明治維新の混乱期に宗門の行政・教育を担い、多岐にわたって活躍し、同二十一年、六十歳の生涯を閉じました。

 小川泰道
 (1814〜1878)神奈川県生まれ。医業の家に育ち、医学修得後の23歳、江戸で開業。25歳の時、浅草の古本屋で日蓮聖人「持妙法華問答鈔」を読んで感動。また他の遺文も通読して「これ禅念仏等諸宗の遠く及ばざる仏法秘妙の極説」と絶賛しました。しかし、「然ニ其版本謬妄錯乱甚多く、定テイマダ校訂ヲ経ザル」と嘆き、三十八年間にわたって聖人遺文を校訂した後、「高祖遺文録」三十巻を刊行し、日蓮聖人の教えを世に普及させました。後年、「我ガ精神既ニ此書ニ尽キタリ」と語るほど、心血を注いだのです。同書には三百八十七篇が収録されており、現在の「昭和定本日蓮聖人遺文」(全四巻)の基礎となりました。そのうえ、庶民に日蓮聖人の生涯を伝えるため、挿し絵を用いた「日蓮大士真実伝」五巻を著述し、発刊しました。同書には聖人の人格や足跡、門下の事暦等が記述されています。また、折伏布教をもって法華正義を唱えるとともに、嘉永・安政年間の大地震では、被災者のために診療所を設置して施薬治療に尽力し、明治十一年、六十五歳の生涯を閉じました。法名は円明院泰堂居士。墓は藤沢市にあります。

 田中智学
(1861〜1939)東京都生まれ。在家仏教運動者。明治三年、東京等覚院日進を師として得度し、幼名巴之助を智学に改名。翌年十一歳の時、下総の飯高檀林に入りました。四年後、檀林廃止に伴い、芝二本榎の日蓮宗大教院に入り勉学に励みましたが、わずか一年余りで病気のために休学したのを契機に、還俗しました。これ以後、在家仏教運動を展開。還俗の理由は、檀林の天台教学偏重と大教院の摂受的学風への不満によるものでした。明治十三年、横浜で「蓮華会」を結成。後に東京に移って「立正安国会」を設立し、活動の中心は著述・講演に置かれました。同三十年には「宗門之維新」「本化摂折論」を著して、「日蓮ノ宗ヲ奉ジテ日蓮ノ信ナキハ既ニ宗門ノ活気ノ滅亡也、日蓮ノ教ヲ奉ジテ日蓮ノ道ヲ守ラザルハ既ニ宗門性命ノ滅亡也、今ノ宗門ハ此ノ二ヲ失ス」と述べ、日蓮聖人の信仰を宣布したのです。また、同三十六年の大阪立正閣で行われた「本化宗学研究大会」では「本化妙宗式目」(後の「日蓮主義教学大観」)を講じて、日蓮教学の体系化を図りました。さらに大正三年、「立正安国会」傘下の諸団体を統括して「国柱会」を組織し、日蓮主義に基づく在家仏教教団として発展。高山樗牛や宮沢賢治など文学者にも思想的影響を与えたのでした。また、「折伏ハ仮説的ニアラズ、法華経自爾ノ武徳ナリ」と語るように、折伏をもって日蓮聖人の教えを社会に広布するとともに、日蓮主義による国家の実現を訴え、昭和十四年、七十九歳の生涯を閉じました。

 幸田露伴
(1867〜1947)東京都生まれ。小説家・随筆家。電信技師として北海道で勤めましたが、明治二十年、職を辞し、帰京して文学の道を志しました。そして同二十二年、雑誌「花の都」に「露団々」「風流仏」を書いて一躍注目されることになります。なお「風流仏」は、その作品構成や主人公の心の推移が、方便品の十如是によって展開され、仏教的慈愛が説かれた作品でした。また同二十四年には、仏法と仏法帰依の衆生を守護する夜叉を登場させ、人間は我欲を捨てて生きるべきことを説いた名作「五重塔」など東洋精神・仏教精神を基盤に置いた作品を多く著しました。特に「寿量讃」「因其心恋慕乃出為説法」、評伝「日蓮聖人」等、法華経や日蓮聖人に関するものが多く、「高祖の降誕」では「高祖の<英霊俊偉の気>は今に存し未来に及んでいるのであるから、高祖の降誕は、過去をしのんで喜ぶのみならず、現在未来にわたって喜ぶべきことである」と語り、讃嘆の思いをこめています。その他、史伝「平将門」「頼朝」等を著し、広い分野で業績を残し、八十年の生涯を閉じました。墓は池上本門寺にあります。

 高山樗牛
(1871〜1902)山形県生まれ。歴史小説「滝口入道」を書いて文壇に登場し、雑誌「太陽」の文学欄記者となって活動しました。明治三十四年、田中智学著「宗門之維新」を読み、「人の精神を征服し、千百年の後世までも其の勢力を有することは、人間の事業として大きく、尊むべき」と日蓮聖人を鑚仰し、研究に取り組みました。そして同年、聖人の事蹟と文章の研究成果を「況後録」として発表。翌年、「日蓮聖人とは如何なる人ぞ」等を執筆。その中で「日本は如何に堕落するとも、吾人は其の同胞に日蓮上人を有することを忘るる勿れ。彼の追懐は力也、信念也」と述べ、日蓮聖人の偉大さを世に訴え、三十二歳を閉じました。墓は静岡県三保の龍華寺にあります。

 姉崎正治
(1873〜1949)京都府生まれ。東京大学教授・宗教学者。親友であった樗牛の影響を受け、日蓮聖人研究に傾注しました。大正二年「高山樗牛と日蓮聖人」を刊行。同五年には「仰げば愈よ高く、探れば益す深い上人の人格、経歴、思想信仰」と絶賛して、「法華経の行者日蓮」を著し、七十七歳の生涯を閉じました。墓は鎌倉の妙本寺にあります。

 宮沢賢治
(1896〜1933)詩人。岩手県生まれ。十八歳の時、法華経を読んで感動し、法華信仰に入りました。大正九年、日蓮主義を説く田中智学主宰の「国柱会」に入会し、布教活動に参加するかたわら、文芸活動にも力を注ぎました。その後、故郷に戻り、農学校の教諭を経て農村活動に挺身。その間、数々の詩・童話を創作発表し、「法華文学」を軸とする文筆活動にも励んだのです。その代表作「雨ニモマケズ」にも見られるように、賢治の生き方(デクノボー精神)や作品の根底にあるものは、法華信仰でした。なかでも、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」と語るように、常不軽菩薩品に説かれる″但行礼拝″という菩薩道の実践でありました。やがて、昭和八年九月二十一日「国訳法華経千部を印刷し、『私の全生涯の仕事はこの経典をあなたにお届けして、あなたがこの中にある仏意にふれて無上道に入られんことをお願いするの外はありません』と巻末に書いて知人に送って下さい」と遺言をし、三十七歳の生涯を閉じました。墓は花巻市のシ身照寺にあります。

 綱脇龍妙
(1876〜1970)福岡県生まれ。十六歳の時、肺結核を患い余命三年と宣告されましたが、縁あって菩提寺で出家。このとき、本堂に向かい、「どうぞ私が生きていても、何かのご用に立ちますならば、健康を与えてください」と願を立てました。以来、勉学を重ね、常不軽菩薩品に説かれる人間礼拝に深く感動。「個人の修養も、家庭の円満も、国家の向上も、人類の平和も、其の鍵は実に此所にある」と確信したのです。明治三十九年、身延山参詣の折、山門付近に群がるハンセン病患者を眼前にし、数々の悲惨な話を耳にしました。その後、ご廟所でお題目を唱えていると、不思議にも「ナントカシテヤレ」という声が聞こえ、その救済を生涯の事業と決意したのです。そこで、日本最初の私立救癩施設『身延深敬病院』を設立。募金組織『十万一厘講』を発足するなど、その救療慰安に尽力し、昭和四十五年、九十五歳の生涯を閉じました。現在、同施設はハンセン病患者減少にともない、身延山西谷において、社会福祉法人「深敬園」経営の下、身体障害者療護施設『かじか寮』として開設され、故綱脇上人の精神を継承しています。

 湯川日淳
(1876〜1968)長崎県生まれ。十一歳で得度。身延祖山学院卒業後、福島・長崎・福岡の諸寺住職を歴任。昭和二十五年、大本山清澄寺別当に就任して、信育道場を建立した後、京都本法寺に晋山しました。五十代の時、病院での闘病生活をとおして、唱題行によってこそ身体も健やかになり、心もあらゆる執着から離れて安らかになるというご利益が授かることを確信し、唱題行の普及を展開。同二十二年、身延山において『霊山ちぎりの会』を創立し、僧侶・檀信徒が一体となった、唱題行中心の行学講習会を開催しました。同二十五年以降は全国各地で開催するとともに、同四十二年、『求道同願会』と改称し、初代会長に就任しました。師は自ら編著した『法華経信行要文』に「多忙の人は、一礼三唱行を日課として実行し、通勤者などは、歩行中あるいは車中ででも、寝ていても、信念さえあれば修行でき、継続的に実践修行することが必要である」と記し、唱題行の大切さを述べています。また、「釈尊を拝して人間を尊ぶ」と語り、一人ひとりを拝むように接し、同四十三年、九十二歳の生涯を閉じました。

 山田三良
(1869〜1965)奈良県生まれ。東京大学教授・京城帝大総長・国際法学会理事長等を歴任し、国際司法の研究と、その教育に尽力しました。また、夫人繁子(日蓮聖人直檀の江川家の出)の縁によって法華経と日蓮聖人遺文に接した後、本多日生上人主宰の『天晴会』に参加し、ご遺文を研究しました。やがて大正三年、親交を結んだ矢野茂・小林一郎と共に日蓮宗の在家信仰団体『法華会』を結成。同会発行の月刊誌『法華』発刊の辞には「人々皆仏性あり、人々皆仏陀たるべし。此の心を持して世に処すれば、一事一物の微と雖も尽く成仏の因縁たるべし。法華経の教義と日蓮上人の主義主張を現代に宣伝すべき急務を認め敢て微力を揣らずして本会を創設す」と謳っています。なお、盟友の小林一郎(1876〜1944)は「今の世の中の生活をできうるかぎり、明るい・正しい・真面目なものに変えていこう」という思いから、昭和十年、法華三部経を解説した書『法華経大講座』全十三巻を発行しました。また、同会は同六年、日蓮聖人のご真蹟遺文を永久に護持するため、中山法華経寺に聖経殿を建立しました。さらに同十八年、財団法人の許可を得て、現在、月刊誌『法華』の発行、月例講話会・講演会等、各種事業を行っています。

 石橋湛山
(1884〜1972)東京都生まれ。早稲田大学卒業後、東京毎日新聞社を経て東洋経済新報社に入社。やがて同社社長となり、平和主義者として評論活動を行いました。特に満州事変等、日本の大陸侵略について「日本ほど公明正大の欠けたる国はない、自由平等の精神の乏しき国はない、換言すれば官僚的、軍閥的、非民主的の国はない」と、軍部・政府を批判したのです。また太平洋戦争開戦のころ、社員会の挨拶や『社説』の冒頭に日蓮聖人の"三大誓願"を引用し、「勇気をもって正義を尽くすように」と提言していました。その後、大蔵・通産大臣を歴任し、昭和三十一年、自民党総裁・内閣総理大臣となりましたが、病気のため在職二ヶ月で辞任。しかし、体調回復後「自分は病体を犠牲にしてでも平和を維持する努力をしたい」と訴え、当時中国の首脳であった周恩来首相や毛沢東主席と会談するなど、法華経の不惜身命の精神を貫いて世界平和のために尽力しました。後年、立正中学・同高等学校・同大学学長ならびに名誉学長を務め、幅広い活動をもって宗門に貢献し、同四十七年、八十九歳の生涯を閉じました。

 土光敏夫
(1896〜1988)岡山県生まれ。元石川島播磨重工業・東芝会長、経団連会長・臨時行政調査会会長。熱心な法華経の信者であった父母の影響を受けて、幼少より朝晩二回の読経を日課とし、常に感謝と反省をみ仏に捧げました。そして「まことに日新たに、また日々を新たに、また日に新たなり」という言葉を好んで、一日を有意義に過ごすことをモットーとし、生活は質素で食事は一汁一菜。メザシが唯一のごちそうであったことは、昭和五十七年、NHKテレビで放映されました。また、「次の時代の国民を養成するのは母親の責任であり、そのための女子教育をしっかりやらなければならない」と語った母登美は、昭和十七年、七十歳の時、横浜市鶴見区に学校法人『橘学園』を創立。当時、信仰上、縁の深かった立正大学教授加藤文輝を初代校長に迎えました。その創立精神は法華経の心にあり、校内の石碑には「正しきものは強くあれ」と刻まれています。現在、女子高等部・中等部ならびに幼稚園が開設され、お互いを尊重しつつ、より豊かな人間に育つことを目標に教育を行っています。土光家の墓は、鎌倉の安国論寺にあります。

 武見太郎
(1904〜1983)京都府生まれ。中学の時、病床で本多日生上人の『法華経講話』を熟読。また、慶応大学医学部在学中は、仏教青年会を創設し、伯父であった堀之内妙法寺住職・武見日恕上人から薫陶を受け、後年「いい意味で精神教育を施され、強い影響を受けた」と述べています。その後、「指導者というものは、いつでも腹をくくって信念をもっていないといけない」という考えで、保守的な医学界に反発しながら、昭和三十二年より二十五年間にわたって日本医師会会長、昭和五十年には世界医師会会長を務めたのでした。晩年、これからの日本の医療は、予防医学を確立せねばならないことを訴えましたが、それは、日蓮聖人の"三大誓願"を継承し、自らも社会に貢献しなければならいという使命感に基づくものでした。また昭和五十八年、東京小伝馬町の身延別院開創百年祭の記念講演では「我々が日蓮聖人の教えに従って何を考え、何をしなければならないか、ということを考えるのは、現代に生きる僧俗一体の責任であり、人間にとって一番必要な"宗教心"を家庭で育てるよう努力しなければならない」と語り、同年、八十歳の生涯を閉じました。