お祖師さま 日蓮聖人名言集13編


日蓮聖人名言集[1](文・田端義宏)

  お祖師さま (第一回)

     心 の 地 獄

   我等が心の内に父をあなずり、母ををろかにする人は、地獄其人の心の内に候。         (重須殿女房御返事・一八五六)

 かつて、インドから留学中の友人に、こんな諺を教えてもらった。「幸せな心の人は幸せである。その人には健康や徳が集る。不仕合せな心の人は不仕合せである。その人には問題が集る」と。普通我々は、幸せになると「幸せな心」になり、不仕合せだと「不仕合せな心」になると考える。だがインドでは、「幸せな心」仕合せ が、「不仕合せな心」に不仕合せが集るというのだ。 私は「笑う門には福がくる」「泣きっ面にハチ」という日本の諺を、フト連想させられた。「福」がきて「笑う」のでも「ハチ」に刺されて「泣く」のでもない。「笑う」心に「福」が来、「泣きっ面」だから「ハチ」も刺すのだ。 人は誰でも「幸せ」を願い「不仕合せ」を嫌う。しかしその求める方向をまちがうと、願わぬ「不仕合せ」をつかんでしまう事になる。 古今東西多くの人に支持されているものに「金=幸せ」という考え方がある。敗戦後の日本を世界の経済大国に発展させたのは、日本人の勤勉な性格に加えて国民全体がこうした考えで働いたからといえよう。お蔭で衣食住はもちろん、テレビや車やクーラーさえ手に入り、豊かで便利な世の中になった。だがこれで本当に「幸せ」になったといえるだろうか。言いようのないむなしさ、孤独感、そして常に満たされることのない精神的飢餓感。人はますます利己的に、利益の追及と欲望の充足に奔走し、まるで餓鬼・畜生のような心で、その人生を苦しみの地獄と化しているのではないだろうか。 前掲の言葉は「そもそも地獄と仏とはいずれの所に候ぞ」という、女性信者の疑問に答えられた一文である。地獄や極楽・鬼や仏、幸せや不幸は一体どこにあるのか、日蓮聖人は答える。地獄は地面の下とか、仏は西方十万億土の遠い世界にいるなどと説く経文もあるが、「委細にこれをたづね候えば、我等が五尺の身の内に」地獄も仏も、幸も不幸も共に存在する。そして、人間として最も原初的ともいえる、我が生命を生み育てた父母に対し、あなどりおろかにする心の人間はすでにその心に地獄が内在しているのだ、と。我々は「幸せ」を自分の外のみ求め、内なる心の世界へ目を向けようとしない。物や金だけが重視される時代。「蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり」 (崇峻天皇御書) という言葉と共に、真の「幸せ」への大切な道標として、この一文を心に刻みこんでおきたい。                 (文・田端義宏)


日蓮聖人名言集[4](文・原 顕彰)

   お祖師さま (第四回)

     畜生の心とシシ王の心

   獅子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし、例せば日蓮が如し。

            (佐渡御書・六一二)

 獅子王は獲物をとる時は、小兎をあなどらず、大象を恐れず、常に自分の持てる力を百パーセント出し切る。いかなる時も力を緩めることもせず、いかなるものにも恐れない。 今、日蓮聖人がいうところの「獅子王の如くなる心」とは信仰においての意味である。信仰において、いかなる時も百パーセントの力を出し切らねばならぬというのである。聖人は数多くの法難をも苦にせず、佐渡流罪の身にありながらも強敵を伏し続けんとした。これに対 し、世間の僧はたとえ正しい法を説く者でも弱者であればこれを侮り、悪者であっても王であればこれに従う。これではいけない。「日蓮が如く獅子王の心であらねばならぬ」というのである。 では、どこからこの獅子王の如く、如何なる強敵にも恐れぬ心が生ずるのかといえば、それは、久遠本仏への百パーセントの信から来るのである。私共が仏を信じていると言っても、それは百パーセントではない。仏の教えの一端を頭の中に入れているようでも、すべてを信じ切っていない。困難に直面すると、その教えを信じ切れない場合が多い。仏の教えばかりではなく、親子、夫婦、兄弟、親友の間でさえお互いに百パーセントは信じ切れないのが現代人である。 しかし、日蓮聖人はそうではない。久遠の本仏の実在(法華経の根本精神ー寿量品)を百パーセント信じ切ったのである。そこにこそ、この獅子奮迅の力が生じたのである。「是の経を読まん者は遊行するに畏れなきこと獅子王の如し」(安楽行品)なのである。 久遠の本仏を百パーセント信じ切った時、その人は本仏と同体になるのである。人生において、畏怖も悩み も、苦も、生死も無くなるのである。これはとりもなおさず成仏の姿である。「例せば日蓮がごとし」である。 私共は、この百パーセントの信を「南無」と呼び、久遠本仏の実在を信じ、不惜身命の心で私の最高の教え(法華経)、成仏の教を信じ切ることを「南無妙法蓮華経」と呼ぶ。 私共は、日常生活において常にこの「南無妙法蓮華経」を唱えて、すべての人が、久遠の本仏の実在を信じ、本仏と同体であるころを信じ切り、安穏な人生をおくれるよう勇猛精進していかなければならない。                 (原 顕彰)


日蓮聖人名言集[5](文・佐藤文哉)

    お祖師さま (第五回)

   心なき丈夫な体では

      身つよき人も、心かひなければ多くの能も無用なり。(乙御前御消息・一〇九九)

 人々のために使われないなら、かえって社会悪の根源となって社会を破滅へとおしやるように、才能や能力が何のために使われるのか、それこそが問題である。才能や能力をただ利己的な願望の手段とするのではなく、人類の幸福のために使う姿勢をこそ私たちはつくっていくべきではないだろうか。「心かひなければ」いくら多くの才能や能力があってもそれは人間にとって「無用」のものとなっていくと日蓮聖人は警告する。しかもそれがかえって社会悪の根源となっていく姿は今日の私たちの現実のものである。 末法の世にあって、私たちは全人類を殺すことのできる最終兵器(原子爆弾・毒ガス・細菌兵器)などが多数存在する世にかろうじて生きているわけであるが、実はこれらの兵器も人間がつくり出したのである。人間の 理性も、目的のためには手段を選ばぬといった姿勢に 力を借すものであってはならない。理性は人間がつくりだしたもろもろの悪を合理化するものに終ってはならない。 聖人は当時日本中の人々から憎まれていたといっていい。それは法華経の未信者ばかりでなく、上一人より下万民に至るまでといわれるほどのものであり、人々はこぞって聖人に危害を加えようとしていた。しかし、人々の平安を願って、懸命にこの世を生きてこられたのは信仰力であると聖人は感謝していた。孤立無援の中でも、本当に法華経を信じ、人々のためにこの教えを弘めることを自分の責務だとも信じていた。 この聖人の生き方を私たちが見習うならば、信仰の力がどれほど頼みになるかということはもはやいうまでもない。信仰を持つ心がどれだけ人を愛し人を強くし、あらゆる困難や迫害に耐えさせる力となるか、ただ驚くばかりである。 この聖人のような心がなければ、たとえ身体が丈夫 で、多くの能力があり、大碩学であってもただそれだけなら才能や能力のもちぐされである。いやそればかり  でなくそれらの才能が人間をその苦しみから救っていく大きな力となっていくように努めていくこと。そのために才能や能力や理性を「心のかい」ある方向に持っていく努力を忘れてはならないだろう。日蓮聖人はその道を法華経への信仰の中にみつめていった。       政治家や学者法律家、医者等々、現代のすべての人々が本当に人間の幸福を求めていくために、法華経の精神(仏種) をこそ人々につたえていきたい。                        (佐藤文哉)


日蓮聖人名言集[6](文・沖原成行)

   お祖師さま (第六回)

  悪人にある慈悲の糸

    無顧の悪人もなほ妻子を慈愛す、菩薩界の一分なり。

           (観心本尊抄・七〇五)

 花壇に咲きほこる美しい花や、お堂にたちこめるキャラの香りは、どれ程ひとの心をたのしませやわらげてくれることか。 人間の心に安らぎや豊かさを与えてくれる仏教、なかんずく法華経は最も親しみ深い教えと言われている。 古来より法華経によって聖者になった日蓮聖人等の開祖の人々は、私たちに、迷うのも心、悟るのも心であると説かれ、心の持ち方によって人格が異ることを示しているのである。 さて天台大師は心の問題を次のように説明する。即ち、一念の心にはどの様な心の内容がそなわっているのか。この問題に対し、一念の心には、意識するしないにかかわらず、十の心があり、その十の心の一つ一つに更に同じ十の心があると説明されているのである。十の心とは、地獄心から餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏心と言われる心の姿の分類であ る。地獄の心といえども仏の心がそなわり、仏の心といえども地獄の心がそなわっているので、凡人とか聖者にかかわらず、人間に心があるならば必ず地獄心から仏心に至る心の働きがあることを示すのである。このやや理論的説明に実例をもって明かしたのが日蓮聖人の特徴である。それを次のように表現した。 反省することの無い様な悪人でも、自然に仏心がそなわっているから、妻や子供を愛育することになる。その限りにおいては、菩薩があたかも他人を救わなければ自分も救われない、とする誓願に似たものが悪人にもあ り、本来悪人といえども菩薩心の一分を分担している事になるというのである。これはほんの一例に過ぎない が、法華経は開会思想と呼ばれ悪人も成仏できる教えである。善人も悪人も共に成仏するのであるから、悪の心も悔い改めればそのまま善の心となり、人の苦しみを我が苦しみとする菩薩の心になることができるのである。あえていえば、人間は人間をさばかず、人は法に照らし合わせ判断を下すのみである。悪人にも菩薩の心が自  然に具わっているから、絶対的な悪心は世の中に無い事を意味するのである。 日蓮聖人の意とする処は、人の心のほんとうの姿、あるがままの姿を私達に知らしめ自覚させ、苦しみと思う心の迷い、その苦しみの姿のままで実は安楽な菩薩の心に置きかえられると説明されたのである。このことが法華経の精神であり、悟りである事が内に示されているのである。  (沖原成行)


日蓮聖人名言集[7](文・三国正順)

   お祖師さま (第七回)

  涙

 うれしきにもなみだ(涙)、つらきにもなみだなり。涙は善悪に通ずるものなり。

             (諸法実相抄・七二七)

 この言葉は、うれしい時にも涙、悲しくつらい時にも涙、善いこと悪いことに際しても同じように涙を催すというごく当り前のことをいっているのではなかろう。 最高最深で真実の道理を法華経に見出した日蓮聖人が、その忠実な実践の結果、経典に予言されている通り度重なる大難小難にあい、遂に佐渡に島流しとなり、再び生きて還ることが不可能と思われる限界状況の中で、弟子信者一同ないしは後世の者のために法華経信仰の精髄ともいうべき「開目鈔」「観心本尊鈔」を撰述されたのに引き続き書かれた「諸法実相鈔」の中の一節である。 この時期、日蓮聖人は、これまでの幾多の苦難にひるまず法華経弘通に生命をかけてきた経過が益々仏説の正しさを実証しつつあることをかえりみ、遂に日蓮聖人自身が上行菩薩であり、単なる比喩でなく実際に法華経の虚空会に坐し本仏釈迦牟尼如来から直接、末法の衆生救済のため「南無妙法蓮華経」を広宣流布せよとの使命をいただいたと確信するに至った。 これはまさしく時間空間を超えて「永遠の今」を体得・現成されたことを意味し、宗教的事実の極致というべきである。 ここにおいて法華経を最もよく理解された筈の天台・伝教大師でさえ直接釈尊から妙法弘通を付嘱されていないのに、世界ではじめて「日蓮ただ一人」が特別の使命を相承したという感激に、法悦の涙をながされたのである。 極寒の佐渡の地で、世間からも捨てられ甚だしい困苦・孤独にさいなまれるつらさを懺悔滅罪と領解しながらも聖人は何度か涙をぬぐったのであろう。と同時に、確実に成仏が保証された日本一の果報者としてうれしい涙をおさえることができなかったと推察される。 悲しさの極点において最高の悦びを味わうということは、信仰の極まる処が背理・逆説の構造をもっていることを示しているのではなかろうか。 歴史的現実を離れて寂光浄土はあり得ないという法華経の真理に生き、また生来ことに情のあつかった聖人は、遺文のいたるところで涙をかくそうとしなかった。まことに危機の時代に生きる我々に煩悩即菩提、生死即涅槃が具体的になんであるかを如実に教示しているといえよう。            (三国正順)


日蓮聖人名言集[8](文・相沢泰淳)

   お祖師さま (第八回)

  浄土と地獄も胸三寸

 夫浄土と云ふも、地獄と云ふも外には候はず。ただ我等がむねの間にあり。これをさとるを仏と云う。これにまよふ凡夫と云う。これをさとるは法華経なり。         

(上野殿後家尼御返事・三二九)

 浄土そして地獄、日蓮聖人の遺文中にしばしば出現する熟語であり、亦拝跪して頂くべき言葉でもある。法華経には私たち人間が物心両面に追いつめられた極限の世界にあって悟ることによって平和の理想社会を復現することを教えている。日蓮聖人は生涯をかけて平和の灯を諸人の楽しむ理想境に打ち建てようと欣求した。いつ、いかなる場合においても自らの主張はゆがめず、正義に向っては堂々と対決して行った。そこには一天四海皆帰妙法を主眼とする法華経の思念力に依拠した浄土観が確立していたからである。まず浄土の所在について娑婆即寂光の思想が最も的確に表現されているのは、「守護国家論」の一説ではなかったか。 「問ふて云く、法華経の修行何れの浄土を期すべきや、答へて云く、法華経二十八品の肝心寿量品云く、我常在此娑婆世界、亦云く、我常住於此、亦云く、我此土安穏、此の文の如きは本地久成の円仏は此の世界にいませり。此の土を捨て何れの土を願ふべき。故に法華経修行の者の所在の処を浄土と思うべし。何ぞ煩わしく他処を求めん。」 この無常変転極まりなき現実社会の姿が常住不滅の極楽浄土である。日蓮聖は徹眼を開いて此の極楽世界をば祖国日本に見出した。即ち「御義口伝」に、「本有の霊山とは此の娑婆世界なり。中にも日本なり。法華経の本国土娑婆世界なり。本門寿量品の大曼陀羅建立の在所なり」「聖人の理想とする浄土は日本をおいて断じて他にない」という主張である。このようないみじき祖国日本に生れてしかも精神の寄り処として真向から身口意三業に法華経に帰依し奉るという幸福。「我等が居住して一乗を修行せん処は何れの処にても候へ、常寂光のお都たるべし。我等が弟子檀那とならん人は一歩も行かずして天竺の霊山を見、本有の寂光土へ昼夜に往復し給ふ事うれしとも申す許りなし。( 最蓮  房御返事 )と示している。要するにこれは私たちの自覚如何によって決することである。故に遺文中には「我等が胸の間にあり・・・」と示しているのである。地獄・極楽の究極の思想とは人間の心の中に存在し、また現実の日本国そのものが浄土であろう。もっと手さぐりで浄土をさがし出す必要性に迫られているように思えるのである。                   (相沢泰淳)


日蓮聖人名言集[9](文・久古教保)

   お祖師さま (第九回)

  三日坊主の菩提心

 魚の子は多けれども魚となるは少なく、菴羅樹の花は多くさけども、菓になるは少し。人も又此の如し、菩提心を発す人は多けれども退せずして実の道に入る者は少し。       

(松野殿御返事・三二九)

 菩提心とは自分が救われるより前に、まず他の人々を救おうと願う心。仏になろうという心である。けれどもその事がどんなに素晴らしい事であっても、それを実践しなければ画にかいた餅になってしまう。しかもそれを持続して実践するのは大変な事だ。 日蓮聖人は前掲の文章の後に雪山童子が真剣になって法を求め、鬼神に自分の命を与えて、遂にその目的を達した求道心を称讃し、法華経への熱心な信心をすすめている。雪山童子が命を捨てて法を求めたという話に聖人自身の不屈な信心の投影がある。事実、法華経を弘めるために蒙った法難で自身の信心をいよいよ深めていったのである。聖人のすすめている信心は自分のみの救いだけでなく悩める多くの人々を強く意識し、人々の苦しみを「日蓮自身の苦しみ」に置き換えた点に大きな特色がある。従って、自分だけ悟りすましているというわけにはいかない。聖人が釈尊を主人とも先生とも親とも頼んで敬慕を捧げなかったならば、あれ程強いものは生まれなかったに違いない。そのよりどころとした法華経は、人の心を一途にするものを持っている。法華経によれば人は誰でも仏になれる素質を持っているが、それを自覚し、他の人にもそれを認めることの大切さが説かれている。この点を理解しないと単に聖人のきびしい面だけを見る事になってしまう。仏になろうと言う心は尊いけれど、それだけに満足する事を聖人は嫌った。自分だけの悟りのみでなく社会と自分とのつながりを考えていくのは日蓮聖人の教えの大きな眼目である。 現代の世相を見ると平和に慣れ過ぎていると同時に、世間に背を向けた態度と言うか、兎に角、自己本位な生活に満足するのが良い事だと言う人が多い。何かにつけて、他人に迷惑をかける事はしない方が良いと言う訳だ。人の事は世話を焼かないのを信条(?!)とし、人の世話を訳と迷惑がかかるからと都合の良い言い訳をして何もしない利己心の塊が多い様だ。自分の頭の蝿も 追えないのに人の事なんか構っていられないと言う訳である。これは全く手前勝手な話である。自分の頭の蝿が追えない程至らない人間である事を自覚すればこそ、なお一層人の事を心配し、人の世話を訳様にすべきだ。人の世話を焼き過ぎぬ程度に他人の事を考える人になろう。日蓮聖人が言う菩提心には程遠いけれど、こんな所から実践の芽を伸ばしていきたいものである。                   (久古教保)


日蓮聖人名言集[10](文・平岡日静)

   お祖師さま (第十回)

  信が根本

 仏道に入る根本は信をもて本となす。         (法華題目鈔・三九二)

 日蓮門下は法華経の信受を根本とする。穢身が即ち仏身であり現在居住する社会即浄土なりと信じ、これに邁進する信仰的実践が娑婆即寂光。即身成仏の宗教的行動である。それは信を根本とした修行により得られる。妙法五字の光明に照らされて仏に等しい尊さを現わすと説示した日蓮聖人への帰依と信仰である。 この社会に生を受けた以上、望むと望まざるにかかわらず生命を尊重しその維持に努力すべきは当然である。しかし人は各々その思考により生活態度が異るが只何人も否定し得ない事は、冷厳な死に直面している事実である。それ故に、人間誰しもこの世に生がある間健康にして厄災を免れ幸いを得る生活を希求しない者はあるまい。しかし我々の希求とはうらはらに病床に呻吟し、災いを蒙り不幸に泣く者が数多い、何処の病院でも病床があかず福祉行政が年々増大して行く現実を見ても、我々の希望と現実が一致し得ない事を思い知らされるのである。私たちの信仰は大曼陀羅を本尊としこれに信を入れ、お題目を受持しその当処において仏子となって仏の道を行ずる事である。我等衆生は本尊の中に住し南無妙法蓮華経の仏の慈悲に包まれ、その胸に懐かれながら仏となっていると信ずる。これが「我等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におわす」(一三七六)ことである。本尊の中に我等衆生が住し、その本尊が我等衆生の胸中にあると示している。「本尊鈔」に「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す、我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え玉う」(七一一)と示したのはこれであ る。人間の欲望に際限は無い。福とは今日只今家族と共に乏しきを分かち合って生活し、健康にして精一杯働ける事、即ち少欲知足の生活が寂光でありそれは即ち仏の世界である。それ以上を望み煩悩に支配されてまだ足りない、少ないと悩み不平を云っては何時になっても仏となる事は勿論幸福であるべき筈がない。経済的に富み、地位を得て満足出来るか、この世を去る時豊かな財宝はかえって残された者たちの争いの種となり菩提に至る 障害となりかねない。仏の示された道、う我が身即ち仏なりと信じ、仏の慈悲に光被された自己を見つめ勇猛精進、但一心に唱題報恩に努める信行生活こそ仏の知見を得る道である。           (平岡日静)


日蓮聖人名言集[11](文・金子正明)

 お祖師さま (第十一回)

    理くつぬきの信心

 させる解なくとも、南無妙法蓮華経と唱ふるならば、悪道をまぬかるべし。

    (法華題目鈔・三九三)

 世の中には何でも理屈をつけないと気が済まない人がいる。いっぱしの評論家きどりで下手な理屈をつけて悦に入っている。はたから見るとこれほど滑稽なものはない。理屈と軟膏はどこにでもくっつくとはいうけれど何もこと更にもって廻った言い方をすることはないと思う。 学者や研究者は別として、理屈や理論を無暗にこねまわしていると、いつかわ無味乾燥なおもしろ味のない人間ができ上がってしまうようである。 宗教は「信ずること」によって存在する。信ずることは、究極的には理屈や理論を超越したものである。 ある新興宗教団体では信者に宗教教義を徹底的に学習させている。その結果その信者はその教義論が裏打ちとなって、より強固で純粋な信仰者になるかというと、実はそうでない。ただの貧弱な理屈屋が生れるだけである。偏狭な教義が邪魔をして、遂には猜疑心の強い、狭量な似非信者のできあがりである。日蓮聖人の教えの根本は易行である。何びとでも容易に行じられるものを提示された。それが唱題行である。南無妙法蓮華経の題目を唱えることに行法を集約された。理屈も理論も不用なのである。南無妙法蓮華経と唱えることは、魂の叫びである。その叫びが仏の魂を呼びさまし、そこに仏との一体観ができ上がるのである。この一体観こそが信仰者の最高の法悦であり、利益なの である。 この魂と魂とのふれ合いを求めるのに、何で理屈が必要であろうか。もっとも南無妙法蓮華経の字句の意味や若干の教義的理解が全く不用であるとは言えないが、下手な考え休むに似たりで、あれこれと詮索する必要はない。「させる解なくとも、南無妙法蓮華経と唱ふるならば悪道をまぬがるべし」という一文は、まさに理屈ぬきを前提とした言葉である。格別のさとりがなくとも、一心に南無妙法蓮華経と唱えることによって自然に幸福への道が開かれるのである。この一文の後に続く言葉は蓮華の花は常に太陽に向って花を開き磁石は、鉄をすいいつける。我々はなぜそうなのかを考える以前に、この道理に素直に従って有用しているではないか、続くのである。 真理は、我々の考えや理解以前に厳然としてそなわっている。真理の探究もよいが、真理に身をまかせることこそが大切なのである。                   (金子正明)


日蓮聖人名言集[12](文・小林栄祥)

 お 祖 師 さ ま (第十二回)  

   信の足                 

 信なくして此経を行ぜんは手なくして宝山に入り、足なくして千里の道を企つるが如し。

         (法蓮鈔・九四二) 

 数多い弟子の中で「知恵第一」と称された舎利弗尊者に向って仏陀は『汝舎利弗尚お此においては信を以って入ることを得たり』と説く。仏陀のおそば近く仕え、仏陀の教えのすべてを理解する知恵を持っていた舎利弗でさえ、この法華経の世界に入るためには「信」がなくては入れないと仏陀は説くのである。 この「信」について述べないと言葉が正しく理解されないだろう。 誰でも毎日知らず知らずのうちに信じていることがたくさんある。「明日も自分の生命が続くと信じている」「明日も太陽は東の空に昇ると信じている」「明日も我が子は元気だと信じている」・・・しかし、本当は一寸先のことは誰も知ることはできない。 身体の具合がおかしくなれば、急いで医者に診せて医者が調じた薬を呑む。その薬がどんな材料で作られ、どこで、だれが作ったのかを聞かなくては薬を呑まないという患者はいない。それは、医者を信じているからに他ならない。 それでいながら、心の病を得た人が迷った揚句に寺に来て、「貴方の心の病には、この薬が一番ですヨ」と唱題修行を授けても、まず素直に最初から信ずる人は少ないだろう。唱題修行が薬だと言っているのに自ら薬を呑まないで、和尚がお経をあげてくれればそれで心の病が治る、と思っている。これでは信心にならない。医者の薬を呑むように、決った時間に、決った姿で唱題修行を行えたら必ず心の病は治る。唱題修行に即入して、これを続ずける過程において仏陀の教えもだんだんわかってくる。ちょうど医者に通ううちに医者の話を聞きながら自分の体のことがわかるように。″東洋の魔女″を育てた大松監督が「一心に一筋にバレーボールに打ち込ん でいるうちに、世界の隅々のこともわかるようになる」と言ったが、言い得て妙である。 一心に一筋に唱題修行に打ち込めたら、知りたいと思うことがだんだんにわかってくる。この時の「一心」 これが「信」である。よそ見をしない。かけ引きをしない。惜しまない。すなおに、まじめに、真剣に唱題修行に打ち込む。この信があれば、自ずから道は拓け宝の山の中にいる自分をみつけることができる。自我偈に日く「一心に仏を見奉らんと欲して自ら身命を惜しまず。時に我及び衆僧倶に霊鷲山に出づ」。                   (小林栄祥)


 (第十三回)

  背くことと随順する心

 謗法と申すは違背の義なり。随喜と申すは随順なり 

          (唱法華題目鈔・一九四〇)

 謗法とは、法をそしること、つまり法にそむくことである。随喜とは心から喜びしたがうこと、信じ行ずることである。日蓮聖人のいう謗法とは、仏の正法たる「法華経」にそむくことで、釈尊の説かれた真理は法華経であって、それは、人間尊重の根本原理であり、万物生成発展の法理を解くもので、この絶対的真理にそむくことなく、随順し信行することを日蓮聖人の宗教は第一の必須の条件としている。 すべてこの人間界も宇宙も一定の法理法則によってうごいている。その正しい法理法則、つまり真理に「そむく」か「したがう」かによって平和とも乱世とも、仏の世界とも、地獄の世界とも、なってくるからである。 世の中には、人としての道を無視した行動をとる者がいる。これを、無法者、無道者、とよんでいる。世間一般の道理ですら、守らなければ世間なみの人間として  生きられない。ましてや仏の真理である法華経にそむいて個人の幸福も、世界の平和もありえないことを強く訴えることばが、謗法をせめ、随喜、随順をすすめるゆえんである。 我が国の教育基本法の前文には、「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期する」といい、第一条には(教育の目的)として「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」、とのべて「真理」を希求し愛好することが教育の根本でもあることを明らかにしている。 「日本人は長い間の封建制度の下に長いものには巻かれるという思想的奴隷の態度を養われて来た。鎌倉時代の日蓮は、真理のために、真理の敵に向って強く否と言うことの出来た人である。そういう人が昔の日本人の中に居たということは、私共の慰めである」(矢内原忠雄『余の尊敬する人物』)とのべて真理のために強く生 きた聖人をこよなく尊敬している。反逆も随順もその根本基準となるものは真理に対する、それでなければならない。               (吉本前教)