日蓮聖人の遺文に学ぶ


< 御遺文 001> 法華取要抄 ホッケシュヨウショウ (文永11年)

コ  ド ワレラシュジョウ ゴヒャクジンテンコウ      キョウシュシャクソン アイシ

此の土の我等衆生は五百塵点劫よりこのかた、教主釈尊の愛子なりなり。

 

フコウ  トガ    イマ カクチ         タホウ シュジョウ ニ

不孝の失によって今に覚知せずといえども、他方の衆生には似るべからず。

 

ウエン ホトケ ケチエン シュジョウ テンゲツ セイスイ ウ

有縁の仏と結縁の衆生とは、たとえば天月の清水に浮かぶがごとし。

  

 【解釈】

 この娑婆世界に生をうけたわたしたち生きとし生ける者は、五百塵点劫

という永遠の昔から、ずっと教主釈尊に見守りつづけられてきた愛子な

のである。

ただ、わたしたちは不孝を犯したために今日に至るまで、釈尊の広大な

慈悲をしっかりと認識できなかった。とは言え、広大な慈悲につつまれ

ているありがたさは、他方の世界の人びととは較べものにならないのだ。

娑婆世界にゆかりの深い教主釈尊と、その慈愛によって仏道に導かれた

わたくしたちとは、ちょうど天に浮かぶ月とその月影が清らかな水に浮

かんでいるという関係にあるようなもの。わたくしたちは釈尊の慈愛と

導きによって生かされているのである。


 < 御遺文 002> 妙法尼御前御返事 ミョウホウアマゴヘンジ (弘安元年)

 

ニチレンヨウショウ トキ  ブッポウ マナ ソウライ ネンガン   ヒト  ジュミョウ ムジョウ

日蓮幼少の時より仏法を学び候しが念願すらく、人の寿命は無常なり。

 

イ   イキ イ  イキ マ      カゼ マエ ツユ   タトエ

出づる気は入る気を待つことなし。風の前の露、なお譬にあらず。

 

            オ      ワカキ  サダ ナ ナラ

かしこきも、はかなきも、老いたるも、若きも定め無き習いなり。

 

   マ  リンジュウ コト ナロ  ノチ タジ ナロ

されば先ず臨終の事を習うて後に他事を習うべし。

【解釈】 

日蓮は幼少の時から仏法を学んできたが、ひたひら願い望みつづけたことは

それぞれの人の生命は無常であり、(経典に説かれているように)やがて

吐く息ばかりになって息を吸うことができなくなる。人の生命のはかなさは、

風に吹かれる草の露よりもなおはかないものだ。

賢い人も愚かな者も、老人も青年も、いつ生命をうしなうかわからない。

そのように何事もはかないのが世の常なのである。

だから、人はまず死に対面する心構えについて教えを受けて、その後に

他の事をまなぶべきなのである。

 


< 御遺文 003> 松野殿御返事 マツノドノゴヘンジ (建治2年)

 

ウオ コ  オオ    ウオ    スク   アンラジュ ハナ オオク

魚の子は多けれども魚となるは少なく、菴羅樹の花は多くさけども

 

ミ     スク   ヒト マタ カク    ボダイ  オコス ヒト オオ

菓になるは少なし。人も又此のごとし。菩提心を発す人は多けれども

 

タイ    マコト ミチ イ  モノ スク      ボンプ ボダイシン オオク アクエン

退せずして実の道に入る者は少なし。すべて凡夫の菩提心は多く悪縁に

 

       コト    ウツリ    モノ

たぼらかされ、事にふれて移りやすき物なり。

 

ヨロイ キ   ツワモノ オオ     イクサ オソレ       スク

鎧を着たる兵者は多けれども、戦に恐れをなさざるは少なきがごとし。

【解釈】 

魚の卵からかえる稚児はたいへん数が多いけれども、成魚となるものは

少なく、菴羅樹(あんらじゅ)の花は多く咲くけれども、果実に実のは

少ない。

人間もまたこれと同様である。仏道を求める心をおこす人は多いけれど

も、どこまでも求めつづけて真実の仏道に会いたてまつる者は少ないの

である。

 まったく凡人が仏道を求める心は、さまざまな邪悪な条件によって迷

わされ、事あるごとに変わりやすいものなのである。

それはちょうど、鎧をつけて いかにも強そうに見える武士は多いけれ

ど、いざ戦いになってみると、敵を恐れず勇敢に戦う武士が少ないよう

なものである。


 

< 御遺文 004> 佐渡御勘気鈔 サドゴカンキショウ (文永8年)

モト  ガクモン ソウライ コト ブッキョウ    ホトケ

本より学文し候し事は仏教をきわめて仏になり、

 

オン  ヒト      オモ

恩ある人をたすけんと思う。

 

ホトケ   ミチ  カナラ シンミョウ       コト

仏になる道は、必ず身命をすつるほどの事ありてこそ

 

ホトケ    ソウロウ

仏にはなり候らめと、おしはからる。

【解釈】

改めて言うまでもないことだが、仏道研鑽につとめて来たのは、

仏道の奥義を究めて遂に仏道を完成し、さまざまに恩を受けた人

たちが仏道に到達するように助けたいと思うからにほかならない。

仏道を完成し、成仏をなしとげるためには、どうしても自分の

身命を捨て切ってその覚悟をもって法を求めてこそ、はじめて

仏道を完成することができるものだということが、(日蓮自身の

法難によって)推察し、確認されるのである。


 

< 御遺文 005> 諸法実相鈔 ショホウジッソウショウ (文永10年)

イチエンブダイ ダイイチ ゴホンゾン シン タマ

一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給え。あいかまえて、あいかまえて、

 

シンジン  ソウロウ サンブツ シュゴ     タモ

信心つよく候て三仏の守護をこうむらせ給うべし。

 

ギョウガク ニドウ   ソウロウ  ギョウガク   ブッポウ

行学の二道をはげみ候べし。行学たえなば仏法はあるべからず。

 

ワレ    ヒト  キョウケ ソウラ ギョウガク シンジン     ソウロウ

我もいたし人をも教化候え。行学は信心よりおこるべく候。

 

チカラ  イチモンイック         タモ

力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし。

 【解釈】

この現実の人間世界に示された第一の御本尊を信じなさい。よく気

をつけ、しっかりした心がまえで、信心を強くして、教主釈尊と、

法華経が真実の法であると証明した多宝如来、法華経を讃歎した

十方分身の諸仏との三仏の守護を受けなさい。法華経のふみ行いと

習学との二つの道を励みなさい。その二つの道が行なわれなくなっ

たならば、仏法は存在しなくなる。だから、自分自身も二道を励み、

他人に対して教え導きなさい。行・学の二道は信心から起るのである。

自分の器量の及ぶところ、たとえ一句であっても語りなさい。


 

< 御遺文 006> 妙一尼御前御返事 ミョウイチアマゴゼンゴヘンジ (弘安3年)

ソ   シンジン モウ  ベツ     ソウロウ ツマ オトコ

夫れ、信心と申すは別にはこれなく候。妻の夫をおしむがごとく、

 

    ツマ イノチ         オヤ コ

おとこの妻に命をすつるがごとく、親の子をすてざるがごとく、

 

コ  ハハ            ホケキョウ  シャカ  タホウ ジッポウ シヨブツ

子の母にはなれざるがごとくに、法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏

 

ボサツ ショテンゼンジントウ シン イ タテマツ  ナムミョウホウレンゲキョウ トナ

菩薩・諸天善神等に信を入れ奉りて、南無妙法蓮華経と唱えたてまつる

 

 シンジン モウ ソウロウ

を信心とは申し候なり。

【解釈】

信心と言うものは別なことではない。妻が夫を恋しく思って

思いきれないように、夫が妻のためには生命を捨てきれるように、

親が子供をいとおしいと思って絶対に捨てることがないように、

子どもが母を恋しく思って離れることがないように、法華経・

釈迦・多宝如来・十方の諸仏、そして菩薩・諸天善神に信を

打ちこみまいらせて、南無妙法蓮華経とお唱え申しあげるのが

信心ということなのである。


 

< 御遺文 007> 随自意御書 ズイジイゴショ (弘安元年)

ホケキョウ  モウ  ズイジイ モウ  ホトケ ミココロ    タモ

法華経と申すは随自意と申して仏の御心をとかせ給う。

 

ホトケ ミココロ   ココロ              ヒト  コ キョウ

仏の御心はよき心なるゆえに、たとい、しらざる人も此の経を

 

        リヤク       アサ ナカ     ツツ ナカ

よみたてまつれば利益はかりなし。麻の中のよもぎ・筒の中の

 

クチナワ  ヒト ムツブ          ココロ フルマイ コトバ ナオ

蛇・よき人に睦もの、なにとなけれども心も振舞も言も、直しく

 

     ホケキョウ                   キョウ

なるなり。法華経もかくのごとし。なにとなけれどもこの経を

 

シン    ヒト  ホトケ   モノ

信じぬる人をば仏のよき物とおぼすなり。

【解釈】

法華経という経典は「仏陀の御心そのままに随う」という意味で

説かれたもので、教主釈尊の御心そのものをお説きになられたの

である。釈尊の「みこころ」は、けだかく尊い心であるから、

たとえその教えの深さをわきまえぬ人であっても、この法華経を

拝読すれば、その功徳は はかりきれないほど非常に多い。

よもぎもまっすぐ伸びた麻のなかに生えればまっすぐになり、

蛇も筒の中に入れられればまっすぐになり、賢い人と親しくして

いると、なんとなく心持ちも行動も言葉も、ゆがみがなくまっす

ぐになるものだ。法華経もそれと同様である。

 


 

< 御遺文 008> 観心本尊抄 カンジンホンゾンショウ (文永10年)

テン ハ    チ アキラ    ホッケ  シ モノ  セホウ  ウ

天晴れぬれば地明かなり。法華を識る者は世法を得べきか。

 

イチネンサンゼン シ   モノ  ホトケダイジヒ オコ   ゴジ ウチ コ

一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し、五字の内に此の

 

タマ     マツダイヨウチ クビ

珠をつつみ、末代幼稚の頚にかけさしめたもう。

 

シダイボサツ コ  ヒト シュゴ        タイコウシュウコウ セイオウ

四大菩薩の此の人を守護したまわんこと、大公周公の成王を

 

ショウブ シコウ  ケイテイ  ジブ   コト

摂扶し、四皓が恵帝に侍奉せしに異ならざるものなり。

【解釈】

天が晴れるならば大地は曇りなく明るくなる。そのように法華経の

教えをしっかりとわきまえる者は世間の法を自分のものとすること

ができるものであろうか。すなわち法華経の教えの根本である一念

三千の法門を理解できない衆生をあわれんで仏陀釈尊は大慈悲の心

を起こし、妙法蓮華経の五字の中にこの一念三千の珠をつつんで、、

宗教的に未熟な末代衆生の頚におかけくださっておられる。そして

本化地涌の菩薩のリーダーである上行・無辺行・浄行・安立行の

四大菩薩が、一念三千の教理を知ることなき衆生をお守りくださる

ありさまは、あたかも中国宗の時代のはじめに出た賢人「太公望」

と周の文王の子、「周公旦」とが、幼い「成王」を扶翼したこと、

また商山に篭っていた4人の老臣が、幼い恵帝に仕えたことと同様

なのである。

 


< 御遺文 009> 観心本尊抄 カンジンホンゾンショウ (文永10年)

シャクソン インギョウカトク ニホウ ミョウホウレンゲキョウ ゴジ グソク

釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。

 

ワレラ  コ  ゴジ ジュジ  ジネン  カ インガ  クドク

我等 此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を

 

ユズ アタ

譲り与えたもう。

【解釈】

教主釈尊のご修行のすべて(因行)と、そしてお悟りの徳のすべて

(果徳)は、妙法蓮華経という わずか五字のうちに具備し満足さ

れている。であるから、凡夫であるわれらが、この妙法五字を信受

し、念受すれば、おのずから、かの教主釈尊の因行の功徳・果上の

功徳を譲り与えられ、釈尊と同体の仏となるのである。 


 

< 御遺文 010> 法華初心成仏鈔 ホッケショシンジョウブツショウ (建治3年)

 

カゴ ナカ トリ   ソラ   トリ     アツマル      ソラ   トリ

篭の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるがごとし。空とぶ鳥の

 

アツ   カゴ ナカ トリ  イ          クチ ミョウホウ  タチマツ

集まれば篭の中の鳥も出でんとするがごとし。口に妙法をよび奉れ

 

 ワ  ミ  ブッショウ    カナラ アラ  タモ  ボンノウ タイシャク ブッショウ

ば我が身の仏性もよばれて必ず顕われ給う。梵王・帝釈の仏性はよ

 

   ヨロコ タモ     ホトケ   ミチ   ガマン ヘンシュウ ココロ  ナム

ばれて悦び給う。・・・仏になる道には、我慢・偏執の心なく南無

 

豫確楽盜涎ア 津 醒和

妙法蓮華経と唱え奉るべきものなり。

【解釈】

かごの中にいる鳥が鳴けば、空を飛んでいる鳥が鳴き声を競って、

その周囲に集まるように、空を飛ぶ鳥が集まると、かごの中の鳥も

その鳴き声にさそわれてかごを出ようとするように、私たちが口に

妙法をお呼び申し上げるならば、私たちの身にそなわっている仏性

も呼ばれて、かならずそこにあらわれたもうのである。そして更に、

梵天王や帝釈天王の仏性が呼ばれて私たちをお守り下さり、十方に

あまねくおられる仏陀・菩薩の仏性は呼ばれてお悦び下さる。・・・

仏道を成就する道を進むには、自分を頼んで他人を軽んじる「我慢」

の心や、偏見を持って他人の意見を受け付けない「偏執」の心をなく

して、ただひたすら南無妙法蓮華経とお唱え申し上げなければならな

いのである。

 


 

< 御遺文 011> 妙密上人御消息 ミョウミツショウニンゴショウソク (建治2年)

イマニチレン  イコントウ  キョウモン フカ     イッキョウ カンジン ダイモク

今日蓮は、已今當の経文を深くまもり、一経の肝心たる題目を、

 

ワレ トナ ヒト  スス

我も唱え人にも勧む。

 

アサ ナカ ヨモギ スミ   キ  ジタイ ショウジキ     ジネン ス

麻の中の蓬、墨うてる木の自体は正直ならざれども自然に直ぐなる

 

     キョウ    トナ        ココロ   マサ

がごとし。経のままに唱うれば、まがれる心なし。當にしるべし。

 

ホトケ ミココロ  ワレラ  ミ イラ タマ   トナ

仏の御心の、我等が身に入せ給わずば唱えがたきか。

【解釈】

今、日蓮は、法華経こそが釈尊の本懐の「みおしえ」であることを

確かめて弘めてきた。すなわち、法華経法師品には「已に説き、

今説き、當に説かん。而もその中においてこの経 最も難信難解なり」

という経文があるが、その意味は「さまざまな経典が説かれているな

かで法華経が最第一の教えである」ということである。

今、日蓮はこの主旨を深く身に帯し、その大切なお題目を自らも一心に

唱え、多くの人びとにも勧めてきた。お題目の教えの功徳はちょうど、

蓬はすぐ地に倒れやすいけれども、まっすぐに伸びる麻のなかに生えて

いれば負けずにまっすぐに伸びようとするようなもの。また、木はそれ

自体はまっすぐでもなく また四角のものであるはずはないが、その

材木に墨を打って用いるならば、それによっておのずからまっすぐに

なって役立つようなものである。ただひたすら法華経の教えのとおりに

お題目を唱えれば、私たち一人ひとりの心はおのずからまっすぐになっ

て、曲がった心はなくなってしまう。だから私たちは知らなければなら

ない「お題目を本当に受持するということは、釈尊のみこころがわれら

の身体に尊くもお入りになることがなければ、唱えることはできない」

のではないか。


 

< 御遺文 012> 諸法実相鈔 ショホウジッソウショウ (文永10年)

ゲンザイ ダイナン オモ          ミライ ジョウブツ オモ ヨロコ

現在の大難を思いつづくるにもなみだ、未来の成仏を思うて喜ぶにも

 

         トリ ムシ  ナ           ニチレン

なみだせきあえず。鳥と虫とは鳴けどもなみだおちず。日蓮はなかね

 

          コ     セケン  コト        ホケキョウ

どもなみだひまなし。此のなみだ世間の事にはあらず。ただ法華経の

 

ユエ   モ      カンロ      イツ

故なり。若ししからば甘露のなみだとも云つべし。

【解釈】

今、受けている大いなる法難のことを思い続けるにつけても涙があふれ、

(それによって重障を滅除して)未来世に仏道を完成することを思って

喜ぶにつけても、涙をこらえることができない。鳥と虫とは、鳴き声は

しても涙をこぼすことができない。(それに対して)日蓮は泣くことは

ないが、涙がとめどもない。この(日蓮の)涙は世間のことで流すので

はない。ただひたすら法華経のためである。もしもそうであるなら、

(日蓮の涙は)甘露の涙とも言うべきである。

 


< 御遺文 013> 開目抄 カイモクショウ (文永9年)

ゼン ツ アク  ツ ホケキョウ      ジゴク ゴウ    モトガン タ

善に付け悪に付け法華経をすつる、地獄の業なるべし。本願を立つ。

 

ニホンゴク クライ      ホケキョウ    カンギョウトウ   ゴショウ ゴ

日本国の位をゆずらん。法華経をすてて観経等について後生を期せよ。

 

フボ クビ ハネ  ネンブツ モウ       シュジュ ダイナン シュッタイ

父母の頚を刎ん、念仏申さずわ。なんどの種々の大難出来すとも、

 

チシャ  ワガギ     モチ      ソノホカ ダイナン カゼ マエ チリ

智者に我義やぶられずば用いじとなり。其外の大難、風の前の塵なるべし。

 

ワ  ニホン ハシラ     ワ ニホン ガンモク     ワ ニホン  タイセン

我れ日本の柱とならむ、我れ日本の眼目とならむ、我れ日本の大船とならむ、

 

トウ     ガン

等とちかいし願、やぶるべからず。

【解釈】

善きにつけ悪しきにつけ、法華経を捨てることは、地獄へ堕ちる行為

となるのである。(日蓮は)以前、立教開宗の時ね願を立てた。

「日本の国を治める地位を譲ろう、もし法華経を捨てて観無量寿経

(浄土宗の依経)等を信じて後の世の安楽を願いなさい」「念仏を唱

えなければ、父母の首を切りますぞ」などさまざまな大難が起って

来たとしても、真実の道理を明らかにできる智者に日蓮の信じる道理

が破られないかぎり、そのような弾圧に屈することなく、念仏の教え

を用いまいと決意した。(いったんそう決意すれば)そのほかの大難

は風に舞う塵に過ぎない。「われ日本の柱となろう。われ日本の眼と

して将来を予見していこう。われ日本の大船となって国土の衆生を

救済して行こう」と誓願したことを、どんなことがあってもやぶるまい。


 

< 御遺文 014> 異体同心事 イタイドウシンジ (文永11年)

イタイドウシン   バンジ ジョウ ドウタイイシン   ショジカナ コト   モウ

異体同心なれば萬事を成じ、同体異心なれば諸事叶う事なしと申す

 

コト  ゲテンサンゼンヨカン サダ  ソウロウ イン チュウオウ シチジュウマンキ

事は、外典三千餘巻に定まりて候。殷の紂王は七十萬騎なれども、

 

ドウタイイシン           シュウ ブオウ ハッピャクニン    イタイ

同体異心なればいくさにまけぬ。周の武王は八百人なれども、異体

 

ドウシン      イチニン  ココロ    フタ  ココロ    ソ  ココロ

同心なればかちぬ。一人の心なれども二つの心あれば、其の心たが

  ジョウ コト   ヒャクニンセンニン     ヒト ココロ   カナラ コト ジョウ

いて成ずる事なし。百人千人なれども、一つ心なれば必ず事を成ず。

【解釈】

それぞれの身体を持っている人たちが、心をひとつにして理想に向

かって行くことを「異体同心」という。もし、異体同心であれば、

あらゆることがらが成立して行くのであるし、逆に身体はひとつな

のに心がさまざまに散っている「同体異心」の状態であれば、何事

も達成することができないものなのである。ということは、仏教以

外の典籍(外典)三〇〇〇余巻に述べられ、通説となっていること

である。中国の歴史に、殷という国があったが、その国の王である

紂王は七十万騎の軍勢を揃えていたけれども「同体異心」の軍勢で

あったために、もろくも戦争に敗けてしまったということがある。

それとは反対に、周の国の武王はわずか八百人の軍勢であったけれ

ども、(王の指揮のもとに)兵士全員が心をひとつにして戦ったた

め勝つことができたのである。このように、一人の心であっても、

二樣に心を持つ(二心=ふたごころ)があるならば、一つに心が集

中しないで、物事は達成することができない。それに対して、一心

になるならば、かならず物事は達成することができるのである。


 

< 御遺文 015> 如説修行鈔 ニョセツシュギョウショウ (文永10年)

テンカバンミンショジョウイチブツジョウ ナ ミョウホウ ヒト ハンジョウ トキ バンミンイチドウ

天下萬民諸乗一仏乗と成って妙法独り繁昌せん時、萬民一同に

 

ナムミョウホウレンゲキョウ トナ タテマツ  フ  カゼ エダ     アメ ツチクレ

南無妙法蓮華経と唱え奉らば、吹く風枝をならさず、雨 壌を

 

クダ   ヨ  ギノウ ヨ      コンジョウ フショウ サイナン  ハラ

碎かず。代は義農の世となりて、今生には不祥の災難を払い

 

チョウセイ ジュツ エ ニンポウトモ フロウ フシ コトワリ アラワ トキ オノオノ ゴラン

長生の術を得、人法共に不老不死の理 顕れん時を各各御覧ぜよ。

 

ゲンゼアンノン ショウモン ウタガイ ア

現世安穏の證文 疑い有るべからざるものなり。

【解釈】

世界の万人の信ずる、さまざまな教えが一仏乗(お釈迦さまの真意

なる精神)に昂められ、(諸経を開顕して)妙法蓮華経の教えがひ

とり盛んになるとき、すべての万民が南無妙法蓮華経と唱えるなら

ば、風が強く吹き荒れて枝を鳴らすこともなく、大雨が土のかたま

りをくだくこともなく、社会は中国古代の理想的な統治者である

伏羲・神農の時のようになって、現世では迷惑な災難を除き去って

長命のみちを得ることとなり、人民も不老不死の道理を体得すると

ともに、仏法によって国土が常楽我浄の仏身仏土が顕現される時が

来るのである。そのことを、それぞれにしっかり見届けなさい。

「現世安穏」という(法華経の)経文が証文となるのであることを、

疑ってはならないのである。

 


 

< 御遺文 016> 立正安国論 リッショウアンコクロン (文応元年)

ナンジ ハヤ シンコウ スンシン アラ   スミヤ ジツジョウ イチゼン キ   シカ

汝、早く信仰の寸心を改めて、速かに実乗の一善に帰せよ。然れば

 

スナワ サンガイ ミナブッコクナリ ブッコク ソ オトロ ヤ ジッポウ コトゴト ホウドナリ ホウド

則ち三界は皆仏国也。仏国其れ衰えん哉。十方は悉く宝土也。宝土

 

ナン ヤブ  ヤ クニ スイビ ナ ド  ハエ ナ     ミ コレアンゼン

何ぞ壊れん哉。国に衰微無く土に破壊無くんば、身は是安全にして、

 

ココロ コレ ゼンジョウ  コ コトバ コ  コト シン ベ アガム ベ

心は是禅定ならん。此の詞、此の言、信ず可く崇む可し。

【解釈】

あなたはいっときも早く、仏教を信じ仰ぐために、凡心を悔いあら

ためて、ただちに真実の教えであり、第一の善である法華経に帰依

しなさい。そうするならば、とりもなおさず、現実の欲界・色界・

無色界の三界の国土はそのまま仏国土となる。仏陀の国には衰えと

いうものがあろうか。また、十方の世界はすべて宝で荘厳された国

土となる。そのような国土はどうして破壊されることがあろうか。

そのように、国土が衰えることもなく、破壊されることもなければ、

そこに住む者の身体は安全に守られ、その心は平和で、さとりの境

地にあることになるであろう。この言葉は真実であるから、信じあ

がめなければならない。


 

 

< 御遺文 017> 弥三郎殿御返事 ヤサブロウドノゴヘンジ (建治3年)

イマ コ ニホンゴク シャカブツ ゴリョウ   テンショウダイジン ハチマンダイボサツ ジンムテンノウ

今此の日本国は釈迦仏の御領なり。天照太神・八幡大菩薩・神武天皇

 

トウ イッサイ カミ コクシュ ナラ  バンミン  シャカブツ ゴショリョウ ウチ  ウエ

等の一切の神・国主並びに萬民までも釈迦仏の御所領の内なる上、

 

コ ホトケ ワレラシュジョウ サン ユエ マシマ ダイオン ホトケ  イツ  コクシュ

此の仏は我等衆生に三の故御坐す大恩の仏なり。一には国主なり、

 

ニ  シショウ    サン シンプ

二には師匠なり、三には親父なり。

 【解釈】

今この日本国は教主釈尊がお治めになっていらっしゃる御領地なの

である。(そうであれば)日本国守護の天照太神・八幡大菩薩、そ

して神武天皇等のすべての神々をはじめ、国主と、すべての民にい

たるまでのすべてが、教主釈尊の御領地の内にあるのである。その

上、この「みほとけ」すなわち教主釈尊は、われわれ生きとし生け

る衆生にとって、三つの大事ないわれがあって、大恩まします「み

ほとけ」なのである。すなわち、教主釈尊はわれわれにとって第一

には国主でありね第二には師匠であり、第三には親父なのである。

 


 

< 御遺文 018> 撰時抄 センジショウ (建治元年)

オウチ  ウ      ミ シタガ              ココロ

王地に生まれたれば身を随えられたてまつるようなりとも、心をば

 

疾衿

随えられたてまつるべからず。

【解釈】

国王の統治する国に生まれたのであるから、身体はそれに服従させ

られているようであるけれども、心まで服従されてはならない。


 

 

< 御遺文 019> 富木殿御書 トキドノゴショ (建治3年)

ワ  モンケ   ヨル ネム   タ  ヒル イトマ トド コレ アン

我が門家は、夜は眠りを断ち、昼は暇を止め之を案ぜよ。

 

イッショウ ムナ スゴ  バンザイ クユ  ナカ

一生空しく過して萬歳悔ゆること勿れ。

【解釈】

日蓮の一門に連なる者は、夜は睡眠時間を短くし、昼はひまをとど

めてこの法門のことを考えなさい。(人生の根本を思わず)一生む

なしく過ごして万年にわたって悔恨を残してはなりませぬぞ。

 


 

< 御遺文 020> 諸経与法華経難易事 ショキョウトホケキョウトノナンイノコト (弘安3年)

ブッポウ   テンドウ    セケン マタ ジョクラン

仏法ようやく顛倒しければ世間も又濁乱せり。

 

ブッポウ タイ    セケン         タイマガ カゲ

仏法は体のごとし、世間はかげのごとし、体曲れば影ななめなり。

【解釈】

仏陀の教えの受けとり方がだんだんと(正しくなくなり)さかさま

になってしまったから、世間も五濁がはびこって、人心が汚れ、乱

れてしまっている。仏法は体のようなもの、世間はその影のような

ものなのであって、体曲がれば影が斜めになる(のが道理な)ので

ある。

 


 

< 御遺文 021> 檀越某御返事 ダンノツボウゴヘンジ (弘安元年)

オン      ホケキョウ       イッサイセケン チショウサンゴウ

御みやづかいを法華経とおぼしめせ。一切世間の治生産業は

 

ミナ ジッソウ アイ イハイ   コ

皆実相と相違背せずとは此れなり。

【解釈】

主君に仕えることを法華経(の教え)と思いなさい。(法華経の法

師功徳品に)「すべて世間の生きるための仕事は皆(仏陀のさとり

の世界からみる)実相(の教え)と互いに矛盾することはない」と

いうのは、このようなことである。

 


 

< 御遺文 022> 重須殿女房御返事 オモンスドノニョウボウゴヘンジ (弘安4年)

    ジゴク ホトケ     トコロ ソウロウ    ソウラ   アルイ チ

そもそも地獄と仏とはいずれの所に候ぞとたずね候えば、或は地の

 

シタ モウ キョウ    アルイ サイホウトウ モウ キョウ ソウロウ     イサイ

下と申す経もあり、或は西方等と申す経も候。しかれども委細にた

 

  ソウラ   ワレラ ゴシャク ミ ウチ ソウロウ   ソウロウ

ずね候えば、我等が五尺の身の内に候とみえて候。さもやおぼえ

 

ソウロウコト ワレラ ココロ ウチ チチ       ハハ       ヒト

候事は、我等が心の内に父をあなづり、母をおろかにする人は、

 

ジゴク ヒト ココロ ウチ ソウロウ タト  ハス    ナカ ハナ ミ

地獄その人の心の内に候。譬えば蓮のたねの中に花と菓との、み

 

       ホトケ モウ コト ワレラ ココロ ウチ

ゆるがごとし。仏と申す事も我等が心の内におわします。

 【解釈】

いったい地獄がどこにあり、仏陀がどこにいらっしゃるかと尋ねる

と、あるいは地獄は地の下にあると言っている経典もあり、あるい

は遥か遠き西方にあると説く経典もある。しかしながら詳しく尋ね

て行くと、地獄も仏もわれわれの五尺(約百五十センチ)の身体の

なかにあると見られるのである。そうであろうと考えられるのは、

われわれの心のなかで父を軽蔑したり、母をなおざりにする人は、

その人の心のうちに地獄があるからである。それは、果実となると

ころが見られるようなものである。そしてまた、仏の存在もわれわ

れの心のなかにましますのである。

 


 

< 御遺文 023> 忘持経事 ボウジキョウジ (建治2年)

キョウシュシャクソン ゴホウゼン ハハ コツ アンチ  ゴタイ  チ  ナ  ガッショウ

教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し、五体を地に投げ、合掌して

 

リョウガン ヒラ ソンヨウ ハイ  カンギ ミ アマ ココロ クル  タチマ ヤ

両眼を開き、尊容を拝し、歓喜身に餘り心の苦しみ忽ち息む。

 

ワ コウベ フボ コウベ ワ  アシ フボ アシ ワ ジュッシ フボ  ジュッシ

我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、

 

ワ  クチ  フボ クチ   タトエ タネ  コノミ   ミ カゲ

我が口は父母の口なり。譬ば種子と菓子と、身と影のごとし。

【解釈】

教主釈尊を奉安する(身延山の)ご宝前に母堂の遺骨を安置し、あ

なたは頭と両手・両足投げうち、ひれ伏したあと、合掌して両眼を

開き、教主釈尊の尊いおすがたと、法華経の世界に包まれたご母堂

のすがたとを礼拝し、(安心して)その過分なよろこびにひたり

(自分の)心の苦しみはたちまちに消え失せてしまった。

私の頭は父母から享けたあたまであり、私の足は父母から享けた足

であり、私の十本の指は父母から享けた十本の指であり、私の口は

父母から享けた口である。(そして父母と私との関係は)たとえて

言うと、種子と果実との関係であり、(あるいは)身体とその影と

の関係にある。

 


< 御遺文 024> 上野殿御返事 ウエノドノゴヘンジ (弘安2年)

ニョニン     タカラ       ニョニン

女人はおとこを財とし、おとこは女人をいのちとす。

【解釈】

女性は夫を宝物とおもい、夫は妻を自分の生命(いのち)のように

大切にする。


 

< 御遺文 025> 千日尼御返事 センニチアマゴヘンジ (弘安3年)

    ハシラ     オンナ ナカワ        アシ

おとこは柱のごとし、女は桁のごとし。おとこは足のごとし、

 

ニョニン ミ          ハネ     オンナ ミ

女人は身のごとし。おとこは羽のごとし、女は身のごとし。

 

ハネ ミ                   ト

羽と身とべちべちになりなば、なにをもってか飛ぶべき。

 

ハシラ         チ  オ    イエ

柱たおれなば、なかわ地に堕ちなん。家におとこなければ

 

人のたましいなきがごとし。

【解釈】

(家に譬えれば)夫は柱のようなもの、妻は桁(柱の上に渡して、

たる木を受ける横木)のようなもの。

(人間の身体に譬えれば)夫は足のようなもの、妻は身体のような

もの。

(鳥に譬えれば)夫は翼のようなもの、女性は身体のようなもので

ある。鳥は、翼と身体とが別々になってしまったならば、どうして

飛ぶことができようか。家の柱が倒れてしまったならば、桁は地に

堕ちてしまうだろう。それと同様に、家に夫が居ないならば、ちょ

うど人に魂が亡くなってしまったようなものである。

 


 

< 御遺文 026> 兄弟鈔 キョウダイショウ (文永12年)

ニョニン   コト  モノ シタガ モノ シタガ ミ

女人となる事は、物に随って物を随える身なり。

【解釈】

女性となるということは、物に随いながら物を随える身であると

いう意味である

 


< 御遺文 027> 富木尼御前御書 トキアマゴゼンゴショ (建治2年)

ヤ     コト ユミ     クモ      リュウ

矢のはしる事は弓のちから、雲のゆくことは竜のちから、

 

        オンナ

おとこのしわざは女のちからなり。

【解釈】

矢が飛んで行くのは弓の力があればこそである。雲が動いて行くの

は天に住む竜の力によるのである。そして、夫がなしとげるりっぱ

な行為は妻女の力があればこそである。


  

< 御遺文 028> 重須殿女房御返事 オモンスドノニョウボウゴヘンジ (弘安4年)

     クチ  イ   ミ

わざわいは口より出でて身をやぶる。

 

     ココロ     ワレ

さいわいは心よりいでて我をかざる。

【解釈】

おしゃべりから災いを引き起こし、ひいてはわが身を滅ぼすことが

多いから、口を慎まねばならない。

それに対して、心持ちが良ければ幸いを招き寄せ、やがてわが身を

栄えさせるのであるから、心根をよく持つことにつとめなければな

らない。

 


 

< 御遺文 029> 事理供養御書 ジリクヨウゴショ(建治2年) 

ウオ ミズ    ミズ タカラ  キ  チ  ウエ オイ ソウロウ チ タカラ

魚は水にすむ、水を宝とす。木は地の上に生て候、地を財とす。

 

ヒト ショク    セイ   ショク タカラ       モウス モノ

人は食によって生あり、食を財とす。いのちと申す物は、

 

イッサイ タカラ ナカ ダイイチ タカラ

一切の財の中に第一の財なり。

 【解釈】

水中に生息している魚にとって、水は宝である。大地の中に成長し

ている木にとって、大地は財である。人間は食物によって生命を維

持しているのであって、食物こそ財である。そうして、生命という

ものは、あらゆる財の中でも第一の財なのである。

 


 

< 御遺文 030> 開目鈔 カイモクショウ (文永9年)

コウ モウ  コウ   テンタカ    コウ   タカ

孝と申すは高なり。天高けれども孝よりも高からず。

 

マタ コウ コウ    チ      コウ   アツ

又孝とは厚なり。地あつけれども孝よりは厚からず。

 

セイケン ニルイ  コウ イエ       イカ イワン ブッポウ ガク

聖賢の二類は孝の家よりいでたり。何に況や仏法を学

 

  ヒト チオンホウオン       ブツデシ カナラ シオン

せん人、知恩報恩なかるべしや。仏弟子は必ず四恩を

 

   チオンホウオン

しって知恩報恩をほうずべし。

 【解釈】

孝ということは(人倫のうえで)最も高い価値があるということで

あって、なるほど天空は高くにあるが、孝よりも高いということは

ない。また孝とは(その意義が)厚いことであって、大地の厚さは

計り知ることができないほどだが、孝より厚いということはないの

である。世に聖人(せいじん)・賢人(けんじん)と敬まわれ慕わ

れる方がたは、孝(という人倫の規範をふんだところ)から生まれ

出ているのである。まして仏法を学ぼうとする人は、恩を知り恩に

報いなければならないことは言うまでもない。仏弟子たろうとする

者は、かならず一切衆生の恩・父母の恩・国王の恩・仏陀と仏法と

和合僧との三宝の恩という四恩を知って「知恩報恩」を報じなけれ

ばならない。

 


 

< 御遺文 031> 光日房御書 コウニチボウゴショ (建治2年)

   ハリ ミズ    アメ ソラ        アリ  コロ

それ、針は水にしずむ。雨は空にとどまらず。蟻子を殺せる

 

モノ ジゴク イ   シニカバネ キ  モノ アクドウ

者は地獄に入り、死屍を切れる者は悪道をまぬがれず。いか

 

      ニンシン     モノ     ヒト    タダ ダイセキ

にいわんや、人身をうけたる者をころせる人をや。但し大石

 

 ウミ     フネ チカラ   タイカ     コト ミズ ハタラキ

も海にうかぶ、船の力なり。大火もきゆる事、水の用にあら

 

   ショウザイ    サンゲ    アクドウ      ダイギャク

ずや。小罪なれども、懺悔せざれば悪道をまぬがれず。大逆

 

     サンゲ   ツミ

なれども、懺悔すれば罪きえぬ。

【解釈】

それ、針というものは(細いものだけれども)水に沈むものである。

雨は空にとどまることがなく、必ず地上に降ってくる。(その必然

の道理のように)蟻を殺した者は(殺生の罪によって)地獄に堕ち、

しかばねを切った者は悪道に堕ちることから免れることはできない。

まして、人間として生まれた者を殺した人が地獄に堕ちることはい

うまでもない。しかしながら、大石も海に浮かぶことがあるのであ

って、それは船の力があればこそである。そしてまた、大火も消え

ることがあるのであって、それは水のはたらきがあるためではない

のか。(このように考えてくると)小さな罪であっても、懺悔しな

ければ悪道を免れることはない。(逆に)人倫にそむく悪逆の行い

であっても、懺悔すれば罪は消えてしまうものなのである。

 


  

< 御遺文 032> 土篭御書 ツチロウゴショ (文永8年)

ニチレン アス  サド クニ       コヨイ      ツ

日蓮は明日佐渡の国へまかるなり。今夜のさむきに付けても、

 

ロウ         オモイ            ソウラ

牢のうちのありさま、思いやられていたわしくこそ候え。あは

 

 トノ  ホケキョウ イチブ シキシンニホウ トモ       オンミ

れ殿は、法華経一部を色心二法共にあそばしたる御身なれば、

 

フボ ロクシンイッサイシュジョウ   タモ   オンミ    ホケキョウ ヨニン

父母六親一切衆生をもたすけ給うべき御身なり。法華経を餘人

 

   ソウロウ クチ   コトバ       ココロ     ココロ

のよみ候は、口ばかり言ばかりはよめども心はよまず。心はよ

 

   ミ      シキシンニホウ トモ          トウト ソウラ

めども身によまず。色心二法共にあそばされたるこそ貴く候え。

【解釈】

日蓮は明日(鎌倉の地を離れて)佐渡の国へ旅立って行く。今夜の

寒さを感ずるにつけても(あなたが捕らわれている)牢屋のなかの

様子が想像されて心が痛むのである。ああ、あなたは法華経のすべ

ての巻を身と心との両面でお読みになられた方なのであるから、父

母そして兄弟・弟・妻・子、さらにすべて生きとし生けるものをも

お助けになる方なのである。法華経をほかの人が読んでいるのは、

口だけで読んだり、言葉だけで読んだりはしても、心に読んでいな

い。心で読んでも身体で読んでいないのである。(それに対してあ

なたは)身体でも読み、心にも(法華経)を読んでいらっしゃるこ

とこそが貴いことなのである。

 


 

< 御遺文 033> 妙一尼御前御消息 ミョウイチアマゴゼンゴショウソク(建治元年) 

ホケキョウ シン  ヒト フユ    フユ カナラ ハル       ムカシ

法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる。いまだ昔よ

 

        フユ アキ      コト         ホケ

りきかず、みず、冬の秋とかえれる事を。いまだきかず、法華

 

キョウ シン  ヒト ボンプ   コト  キョウモン   モ  ホウ キ

経を信ずる人の凡夫となる事を。経文には「若し法を聞くこと

 

ア   モノ  ヒトリ   ジョウブツ      ナ         ソウロウ

有らん者は、一として成仏せずということ無けん」と、とかれて候。

 【解釈】

法華経を信じる人は冬の季節の中にあるようなものである。冬は必

ず春となって行くのである。法華経を信じる人も、それと同様に希

望がしだいに開けて行くのである。いまだかつて、昔から聞くこと

もなく、見ることもなかったではないか、冬が秋に戻ったなどとい

うことを。(それと同様に)いまだかつて聞いたことがないではな

いか、法華経を信じる人が凡人に戻ってしまうなどということを。

そのことを法華経の方便品には「もし仏法のおしえを聞いた人は、

一人として成仏しないことはない」と説かれているのである。

 


 

< 御遺文 034> 撰時抄 センジショウ (建治元年)

シュウル     タイカイ    ミジン    シュミセン      ニチレン

衆流あつまりて大海となる。微塵つもりて須弥山となれり。日蓮

 

 ホケキョウ シン ハジメ ニホンゴク  イッタイイチミジン     ホケキョウ

が法華経を信じ始しは日本国には一滴一微塵のごとし。法華経を

 

ニニン サンニン ジュウニン ヒャクセンマンノクニン トナエ ツタ       ミョウガク シュ

二人・三人・十人・百千万億人唱え伝うるほどならば、妙覚の須

 

ミセン      ダイネハン タイカイ       ホトケ   ミチ  コ

弥山ともなり、大涅槃の大海ともなるべし。仏になる道には此れ

 

     マタ    コト

よりほかに又もとむる事なかれ。

【解釈】 

多くの川の流れが集まって大海となる。微細なかたまりが積りつも

って(この世界の中心をなす最高峰の)須弥山となった。日蓮が法

華経を信じ始めたのは、日本の国全体の中では大海の水のひとしず

く、須弥山の土ひとくれのようなものだ。(しかしながら)法華経

を二人から三人へと信じる人がひろがり、それが十人とふえ、やが

て百人・千人・一万人・一億人というように唱え伝えられるように

なるならば、あたかも「仏陀のおさとりの須弥山」(のような存在)

ともなり、「仏陀の大いなる涅槃の世界の大海」ともなる。「仏に

なる道」は、この道すじよりほかに、また、求めることはできない。

 


 

< 御遺文 035> 報恩抄 ホウオンジョウ (建治2年)

ニチレン ジヒ コウダイ   ナムミョウホウレンゲキョウ マンネン ホカ ミライ

日蓮が慈悲広大ならば、南無妙法蓮華経は萬年の外未来までもな

 

     ニホンゴク イッサイシュジョウ モウモク    クドク   ムケン ジ

がるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地

 

ゴク ミチ      コ クドク  デンギョウテンダイ コ  リュウジュ カショウ

獄の道をふさぎぬ。此の功徳は伝教天台にも超え、龍樹・迦葉に

       ゴクラクヒャクネン シュギョウ エド イチニチ コウ オヨ   ショウゾウ

もすぐれたり。極楽百年の修行は穢土の一日の功に及ばず。正像

 

ニセンネン グヅウ マッポウ イチジ オト    コ      ニチレン チ

二千年の弘通は末法の一時に劣るか。是れはひとえに日蓮が智の

 

          トキ

かしこきにはあらず。時のしからしむるのみ。

 【解釈】

日蓮の慈悲が広大のなものであるならば(また、日蓮自身はそのよ

うに確信しているのではあるが)、南無妙法蓮華経(という末法の

一切衆生を救済するおしえ)は、将来、一万年どころか未来のかな

たに至るまでも弘まっていくことであろう。そして、日本国すべて

の人びとに仏法の救いの光と功徳とを与えるのであり、人びとが

(仏法の救いが見えないために)無間地獄という永久に光を見るこ

とのできない地獄に陥る道をふさいだのである。このように(仏法

の救いが末法のわれわれにも及ぶことを明らかにした日蓮)功徳は

比叡山を開いた伝教大師、中国天台山の天台大師をも超えるもので

あり、さらにインドの大乗仏教の論家の龍樹菩薩や、お釈迦さまの

高弟である迦葉尊者にもすぐれているものなのである。(であるか

ら)西方阿弥陀如来の極楽浄土へ生まれかわって百年間修行する功

徳は、汚濁の地であるこの娑婆世界で一日修行する功績に及ばない

のである。(そうであるならば)釈尊がご入滅なさって後、末法に

至るまでの正法一千年・像法一千年の合計二千年にわたって仏教を

弘める努力は、今、末法の一時に弘める功績に劣るのであろうか

(いや、正しくそうなのだ)。このことは、ただひとえに日蓮の智

解が勝れていることによるのではない。ただ時の必然がそうさせた

のみなのである。


  

< 御遺文 036> 観心本尊抄 カンジンホンゾンショウ (文永10年)

イマホンジノ シャバセカイハ サンサイ ハナ シコウ  イ   ジョウジュウ ジョウド

今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり。

 

ホトケスデ カコ   メ    ミライ  ショウ   ショケ モ ドウタイ   コ

仏既に過去にも滅っせず未来にも生ぜず。所化以て同体なり。此

 

 スナワ コシン サンゼングソク サンシュ セケン

れ即ち己心の三千具足三種の世間なり。

 【解釈】

今、お釈迦さまの救いをうけた絶対時の娑婆世界は、われわれが日

常的に認識している娑婆世界(現実世界)ではなく、あらゆる災害

を離れ、生成と衰減の循環を超越した永遠の救いの世界なのである。

この世界はさまざまな災厄で充満しているが、その根本は火災・水

災・風災の三災に要約できる。また、われわれの住む娑婆世界はた

えず流転して行く世界であり、大きく言えばこの世界が生成してい

く成劫・生物が住めるようになる住劫・やがて破壊の道をたどる壞

劫・そして空寂に帰る空劫という、われわれが想像もつかない大き

な大きな循環の中にいるのである。しかし、今本時の娑婆世界は、

それらを超越した絶対常住の浄土なのである。その絶対の世界に救

われるならば、仏陀釈尊の永遠の救いに浴するのであって、仏陀釈

尊は決して過去に寂滅なさったのでもなければ、未来に現われるも

のではない。教化される(能化)仏陀釈尊のお導きによって、救い

の対象(所化)である衆生は、すでに仏の世界に救われて同体のも

のとなっているのである。これこそが、われわれの一念の心に三千

種の世界をそなえていることを表わした「一念三千の法門」の結論

であり、そのなかに含まれる 衆生世間・国土世間・五蘊世間の三

種の世間の「まことのすがた」なのである。