祈りのこころえ

 

一 祈祷の意味とこころ

 

御利益と功徳

 御利益というものは、世界中のいろいな宗教と名の付くものが、皆説くとこ

ろであり、功徳を積むと云う教えも又仏教に限らず、あらゆる宗教の説かんと

するところであります。

 よく世間一般に、鰯の頭も信心から、といって、何かを一生懸命に拝むと、

金が入って経済がよくなる・病気が治って健康になる・家庭円満で幸せになる

等いろいろと効能をならべて売るような怪しげな宗教から、このような乞食信

仰とは異り、現世利益の依て起る事を正しく説いている立派な宗教まで、それ

こそ千差万別・種々雑多であります。

 この中にあって日蓮仏教は、教えのすじ道と信仰の節操を説き・十界勧請の

大曼陀羅御本尊の中に帰入することをもって、現世利益の依って起る原理を教

示している最高の教えなのであります。

 教えのみちとは、我々は凡夫ではあるが仏の子であるというところにありま

す。それは、「今此三界皆是我有、其中衆生悉是吾子」(法華経譬喩品)と示

されています。

 未だ悟らざる仏ではあるが、寿量御本仏の子供なのです。

 御題目の祈りの功徳によって、寿量御本仏の生命の中に融けこみ、仏様の子

供として自然に受けとるべくして受ける徳益を現世利益といっているのです。

これが教えのすじみちなのです。「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字

に具足す、我等この五字を受持すれば、自然にかの因果の功徳をゆずりあたえ

給う」(観心本尊抄)。自然譲与の法門と昔より日蓮大聖人に依って教示され

ていることであります。

 我々は、まず仏の子として寿量御本仏の大生命の一端を、生きて現わしてい

ることを知るべきであります。これを良くわきまえて、不滅の大生命の根源で

ある寿量御本仏と親子の関係を成立させることで、これは御題目を一心になっ

て唱えることによってのみ可能なのです。

 不滅の大生命たる寿量御本仏とは、いかなる御方なのでしょうか。天地の御

主人様(主)であり、三界の大導師(師)であり、又一切衆生の父母(親)な

のであります。

 「親も親にこそよれ、釈尊程の親、師も師にこそよれ、主も主にこそよれ釈

尊程の師主はありがたくこそはべれ」(南条兵衛七郎殿御書)

 たとえ深い意味合いは、よく解からなくとも「南無妙法蓮華経」と唱えるこ

とで仏様と親子の名のりができあがるのです。

 「凡妙法蓮華経とは我等衆生の佛性と梵王帝釈等の佛性と舎利弗目連等の佛

性と文殊弥勒等の佛性と、三世の諸佛の解の妙法と一体不二なる理を妙法蓮華

経と名けたる也、(中略)我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己

心中の佛性南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を佛とは云ふ也。」(法

華初心成佛抄)

 まさに天晴地明の親子の名のりであり、久遠寿量御本仏の大生命と我々凡夫

の命とが、妙法蓮華経の五字によって融け合って渾然一体となるのであります

 血の通じ合った親子の関係であり誰れ憚るところない境地なのです。いわゆ

る御題目を唱えて我執を捨てゝ仏様の大生命の中に融けこむ事が教えのすじみ

ちであり、寿量御本仏に対する盤石の信仰が信仰の節操という事なのです。

 反対に、観音様や御不動様、竜神様やら御稲荷様を祈るのは信心といって願

い事を叶えて欲しいと祈る心であり、自分を投げ出して観音・不動・大黒・稲

荷・竜神等の生命に融け入ることはできない。まさにそれは融け入りたくとも

融け入る筋合のない、水中の油の様なもので融け合えないところに真の祈りの

あろうはずがないのです。

 我々宗徒たるもの、久遠の寿量本仏への信仰を先づ定めて、そこに信心を致

すことが、法華行者の祈りなのであります。

 「此の御本尊全く余所に求むる事なかれ、只我等衆生の法華経を持て南無妙

法蓮華経と唱うる胸中の肉団に御座ます也(中略)此御本尊も只信心の二字に

納まれり以信得入とは是也、日蓮が弟子檀那等正直捨方便乃至不受余経一偈を

無二に信ずる故によって此御本尊の宝塔の中へ入べき也。」(日女御前御返事

 法華経を持ち御題目を唱える祈りの功徳によって寿量御本仏の大生命を生き

ることができる。つまり大曼陀羅御本尊に帰入する、または宝塔に住するとい

うのはこの事なのです。

 「末法に入て法華経を持つ男女の姿より外宝塔なきや、若然れば貴賤上下を

撰ばず南無妙法蓮華経と唱える者は我身宝塔にして我身又多宝如来也、(中略

)阿佛房さながら宝塔宝塔さながら阿佛房、(略)聞信戒定信捨慚の七宝を以

て飾りたる宝塔なり、(略)我身又三身即一の本覚の如来也、かく信じ給ひて

南無妙法蓮華経を唱へ給へ、ここさながら宝塔の住処也」(阿佛房御書)

 御題目の祈りをもって自ら宝塔に入るという、これこそ本当の御利益なので

す。

 経済の安定・身体の健康・家庭・社会の平和等の現実生活上における現世安

穏も、後生善処の願いも、すべて成就することは、あたりまえの事で、なんら

不思議でもなんでもなく自ら然るべくして受けとる御利益なのであります。

 「諸の羅刹女、此の偈を説き己って仏に白して言さく、世尊・我等亦當に身

自ら是の経を受持し読誦し修行せん者を擁護して、安穏なることを得、諸の衰

患を離れ、衆の毒薬を消せしむ」(陀羅尼品)。

 法華経の行者に対しては、法華経守護の善神が、寿量御本仏への誓いによっ

てあらゆる個々の願を成就する働きをするのです。

 個々の祈願であるから、祈りの対象も法華経守護の善神に分かれてくるので

す。いわゆる稲荷・竜神・鬼子母神・大黒天等です。我々は、個々の願いの成

就を御利益を頂いたといっているのですが、法華経の行者の祈りの叶ぬことは

あるべからずで、必ず御利益を受けられることを信じて祈るべきであります。

 

 法華経を持って御題目を唱えて、寿量御本佛の久遠の大生命と、我々仏子と

しての命の融け合う事の祈りを根本とすれば、あらゆる現実生活の祈りは現証

の御利益となって成就するのであります。

 

祈祷と修法

 寿量本仏と仏子との関係において、信仰が成立し、信者は信心の祈りによっ

て利益としての徳益を得ると先に説明しましたが、それでは僧あるいは修法師

といった人々の施す祈 、修法とは何であるかについて述べてみたいと思いま

す。

 祈祷は、信仰の成立していない人々を助け、一緒に祈り、不足を補い、代っ

て行なわれる祈りの事であり、その方便としての手段が修法といわれる日蓮宗

独自の祈祷法であります。この祈りを行う者を験者あるいは修法師といいます

。この祈祷法は、江戸時代、遠寿院日久上人によって始められ、以後三百有余

年、今日に至っており日蓮宗が伝道宗門として成立する原動力となっているば

かりでなく、他宗の者をして改宗させるだけの影響力を有し、現在もなお、宗

勢上、幾多の功績を重ねています。

 一方、修法は、百日結界の修行僧による祈り方を指します。我々の日常生活

に波紋を及ぼす災難を五つに分類しそれを五段の邪気というのですが、これは

見えない世界からの作用に依って起こるものです。これを障りともいい、この

障りを修法の祈りによって打破り、現世に安穏の御利益を受けるのであります

 右で述べた五段の邪気は病の内のタク病に該当するのです。病の分類を示すと

次の通りです。

   身病−身体的病

病  心病−精神的病

   タク病−障 礙

 タク病は更に、次の五つの障りに起因するのです。

タク病の障り

生霊−邪念。人間社会、人間関係によるうらみ、憎しみ等

死霊−邪霊。成仏できない、あるいは供養を受けられない水子等の霊や供養の

   いき届かない事で迷う霊

野狐−畜霊・動物霊。お祭りの絶えた御稲荷様の場合も多い。

厄神−神霊。土地、方位の障り。厄病神等。

呪咀−呪法(丑の刻まいり)等による生霊。

 修法師は、この五つの障りを的確にみつけ出して修法上のいろいろの方法に

よって、それを治めるのです。この場合、感応道交といい、本仏釈尊と修法師、

そして悩者と心身共に三位一体になった祈りによって始めて霊験が現われてくる

のです。修法師の使命は、この悩者の悩み事を本仏の慈悲をもって救う事ですが、

どうしても救ってやりたいという修法師の祈りと、本仏の慈悲を頂きどうしても

救ってもらいたいと云う悩者の願いが一致しない事には、御利益は出てこないの

であります。

 しかし、この感応道交が成立した時は、いかなる重病といえども、たちまち

にして、本復するのであります。これが、修法師の役割とするところであり、

その為には百日間世俗を離れ水行を取り、咽を破って血を吐く読誦の行をもっ

て四念力を養い、眠りを断ち切る行をし、法華経の功力をもって末法救世の法

華行者たらんとしているのであります。

 この修法師の祈りの内容は実際的な生活に密着しています。病気祈祷・土地

・方位等の地鎮祭・交通安全・子供の成長祈願等、人事百般、あらゆる事に及

んでいるのです。この修法師と信仰者の祈りによって大難が小難に小難が無難

となり、信仰することによって、御利益を頂き、いよいよ信仰の度合が深まっ

て行くのであります。

 一方、祈祷上の檀信徒の心得は次に示すものであります。

一、祈願によって絶対、治して頂くという信頼を持ち、疑いの念を抱かないこ

と。

一、祈願が成就したら、御礼参りをし、祈願解除をして頂くこと。

一、御利益を頂いたならば、正法に入り、信仰生活を行なう事を一番の大事と

すること。

 これを無視すると、二度と御利益は頂けないのです。

 

罪障消滅

 我々は、日々生活をし、社会の中に肉体をもって生きています。気が付いて

いながらも、止むを得ず道を踏みはずす場合と、自分がその気でないのに相手

を疵つけてしまう事や、はたまた、自分が愚にして世の中の仕組みを知らず罪

を造ること等をして生きているのであります。「火の車造る人とてなけれども

、己が造りて己が乗り行く」という歌の教えも、この事をいっています。

 因果の理は、善因善果・悪因悪果で厳然としています。この因果律を信じて

日々の濁れを信仰によって清めて行く事を、罪障消滅という。人間には本能と

理性とが具っています。本能は生きる目的として働き、理性はその目的を成就

する手段として働いています。本能を仏教では無明というが、要するに渇愛と

いう、求めても得られざるものを、なお求めて止まない欲をいうのです。衣食

住に満足したいというのも欲なれば、恋愛をするのも欲である。娯楽や遊楽を

求めるのも欲なれば地位・名誉を望むのも欲です。なぜ、そういう欲があるの

かと自問しても、本来備わっているもので人間の働きを現わす欲そのものに不

都合はないのです。ただ、欲を働かせるにあたっては、必ず理性の指図に従っ

て筋道を立てなければならないのです。理性は、道理を尊び、道理に従う心で

す。それを好むと好まざるとにかかわらず、本能が理性に従わなければ、世の

中は成り立たないようになっています。いくら金が欲しいからといって、他人

の物を盗む事は許されません。誰でもこの事を知っています。しかし一事は万

事、世の中の事は何によらず、道に従わねばならぬと知りつつも、自分の甘え

によって道を破ったり、人目を胡魔化そうとしたり、不実・狡猾にして成功を

謀ってみたり、悪徳に陥り勝ちなのです。物事をわきまえているようで、その

実、道理に従うことの嫌いな人間の造っている世の中ですから、自分で苦労の

種を蒔き、それに我執という肥料をかけて、利己と慢心と軽薄と嫉妬を大きく

育てているのです。その中にあって、法華経の正しい信仰を持ち、迷いの夢を

醒したら、どうなるのか。「悪は多けれども一善に勝つ事無し」で、一度本当

のことが判ってしまうと、二度と再び間違った事をやれるものではないのです

。自分が、今日迄犯してきたあらゆる無明の罪を懺悔し、二度と再び過ちを繰

返さないと、御本仏に誓う祈りと、正法に志す誓いの祈りとを、罪障消滅とい

うのであります。

 「一切の業障海はみな忘想より生ず、若し懺悔せんと欲せば端座して実相を

思へ、衆罪は霜露の如し、慧日よく消除すと」(観普賢菩薩行法経)。また、

「一度も南無妙法蓮華経と唱えまつれば滅せぬ罪はあるべきや、来らぬ幸はあ

るべきや、甚深なり甚深なり、これを信受すべし」とありますように一度、真

の信仰を得た人は、前世、今世において、いかなる悪業を働いたとしても、こ

の懺悔罪障消滅の功徳によって、青草におく朝露が太陽によって、たちまちに

消え失せるが如く、それまでに犯した罪も又、消え去るのであります。

 

 

二 祈願のこころえ

 

 

水子供養

 母親の胎内に三百余日のあいだ生命を育てながら生まれてくる命を人工的に

中絶して抹殺してしまう事はもっとも罪深い事であります。

 母体に赤子の命が宿り、無事出産を迎える説きは既に数え年一歳となるので

す。ここに水子を供養する重大な問題があります。魂を宿しても、目も見えず

、心も開かれず暗き闇に沈んでしまう不幸を法華経により救って両親の愛情を

示す事が、母の乳を与え父の慈しみをさずける事です。その慈悲と愛が後の幸

福な家庭を築く為のさん悔となるのです。

 菩提寺に戒名を授与していただき、子供を諭すように供養する事が仏の智恵

をもって水子に灯を点し続けるのであります。

 

安産

 愛情の結晶を十月十日無事に育てていくことは法華経の魂を芽ばえさせてい

くことです。五ヵ月目の戌の日(戌は多産でお産がかるい)にあやかり腹帯に

お題目と両親の名前をしたため観音様のような衆人愛敬の功徳をいただきすば

らしい人間となるべく力を授かるよう祈願しつゝ、お題目に両親の愛情を託し

、ご宝前にて増々信仰、ご給仕を大聖人はもとより、ご先祖に誓う事が安産の

妙薬です。

 

地鎮祭

 通例ですと神社に依頼することが多いようですが、日蓮宗では独特の法式に

より古くから地祭(じまつり)が行われています。

 特に新規に土地を購入した場合は、土地の因縁を払う事から始めなければな

りません。

 東西南北の守護神に祈りをこめて清浄なる家屋が魔障なく安全に建立される

為の儀式です。自分達が一生安穏に住むための地祭は設計をする以上に真剣に

取り組む態度が必要です。祭壇にご本尊を設け、お供物などを捧げ、自然界万

霊に喜んでいただく気持ちが家庭生活を円満に保つ基本です。お寺に相談し吉

辰の日に必ず行ないましょう。

 

家祈祷

 新築完成時、増築、中古住居購入など入居する前に家屋を払い、樹木の生、

前住の念などを浄め、法華経のご加護をもたらす家に心清らかに住む事が肝要

です。

 

方除

 悪方位を除く祈祷ですが専門的知識が必要ですので移転、旅行、その他の時

お寺に相談して二十一日間祈念してもらって下さい。

 

星祭

 暦の上では節分を境に年が変わりますが、冬至の月に北辰妙見大菩薩に明年

の善星が皆来し、悪星が退散するように家族の氏名・年令(数え年)を記入し

そして祈念してもらい、元品の無明を切る剣守札をいただき肌に付けて一年の

除災得幸を加護してもらいましょう。

 

六三除

 これも数え年で計算します。

 病は医者が治しますが、医薬を用いても治らぬ病の場合、この病が六三にあ

たっている時が多いのです。

 人体の六ヵ所のいづれかに病が障っている事で自分の年を九で割り残りの数

によって判断します。暦の中に人体の図がでていますのでそこに自分の数をあ

てはめます。

 例えば二十八歳ですと一が残り、男性の場合は右足、女性の場合は左足にあ

たります。

 この場合、悪い人は六三除のご祈祷を受けてのぞいて下さい。男女とも八は

股で共通です。