信仰生活のこころえ

 

一 数 珠

 

 「じゅず」又は「ずず」ともよみ念珠ともいう。仏陀や菩薩を礼拝する時に

手にかける小さい珠をつないだ輪。珠の数は通常百八個で、百八の煩悩を退散

、消滅させるためといわれています(佛教語大辞典)。

 数を記する珠の意。数珠、誦珠、呪珠と書き、「オモヒノタマ」と読んでい

る。

 即ち線をもって一定数の珠を貫連し、称名又は陀羅尼等の念誦の数を記する

に用うるものをいいます(望月・佛教大辞典)。

 

二 仏 壇

 

 仏像を安置し礼拝供養を行なう壇の意ですが、現在日本では仏像や祖先のお

位牌などを安置する家屋内の一家族用の厨子を称することが多い。インド以来

礼拝の対象となる仏像は、仏堂正面の壇上に安置され、インド・中国の石窟で

も方形の石壇上に仏像を置き、日本でも石壇、土壇、木壇が用いられました。

中世以後、仏堂内を板張りにするようになり仏壇も木造が主となり、数条の雲

型で鼓形とした須弥壇と称する木壇が多くなりました。また寺院に内仏堂を設

けることは、七世紀の中国僧のインド旅行記中に僧の住居に窓や「だん」に仏

像を安置することが記され、中国でも当時からその例が多く、これをとくに仏

壇と称したのは『日本書紀』に各家に仏壇設置を勧めた記事のあるころからで

す。平安期には貴族が競って住宅を寺院化するようになり、鎌倉期に庶民階級

の家で信仰を説くようになってから、この内仏堂(持仏堂)が一般化さました

。さらに江戸幕府の宗教政策上、宗門改めの実行を僧に依託し、仏壇のない家

は邪宗門として告発されたので仏壇の設置は強制的に行なわれるにいたりまし

た。

 仏壇に位牌を安置するようになったのは、中国で儒教の祠堂に木牌を安置す

る習わしが仏教と混合したことによるもので禅宗渡来後多くなったようです。

 

 仏壇の構造は一様ではありませんが、日蓮宗では、中央にお曼陀羅本尊を安

置し、両側には仏像や宗祖像と先祖のお位牌を安置し、花瓶・香炉・燭台・過

去帳などをおくのがふつうです。

 仏壇は宗派によって様式が少しちがいますから、日蓮宗の仏壇といって求め

てください。仏壇を求めたならば、ご本尊は必ず菩提寺の住職に願って開眼(

魂をいれること)していただかなければいけまん。

 仏壇は、その家の長男だけがまつればよいものではありません。分家にも必

要ですし、また新しく家庭をもったならば、必ずまずはじめに仏壇を安置する

ことが大切です。アパートや団地の一室で、大きな仏壇が置けないばあいは、

小さなものを求めるか、自分の手で仏壇をつくるなり、お位牌や一葉の遺影の

置ける壇を設けるよう誠心誠意工夫すべきです。

 仏壇は、すべての家庭に安置すべきものなのです。

仏壇の向きは、お釈迦さまのおられた東または南向きに置くのが望ましいとさ

れています。仏壇のおかれた所は、いつもきれいにし、家族そろって拝んだり

、心をこめて仏壇にお供えする習慣を身につけなければなりません。

 

法話 心のトビラをひらく

神仏おがむ心も神仏 心の扉開け人々

 皆様方が朝夕に神様、仏様をおがみます。その仏壇に手を合わせようとする

心が、神様仏様です。

 ふだん知らず知らずのうちに心の中に、汚れ、あかがたまっているというこ

とに気が付かなければいけません、その心の中のあかを洗い落とすことが、ご

信心というものではないでしょうか。

 少なくとも戦前までは、一家に仏壇がまつられている家庭が多く見られまし

た。

 私が小さい時、会話の中に仏壇のない家があったりすると、「へえー お前

のとこ仏壇ないのか」と話し合ったことをおぼえております。今朝たきたての

ごはんを仏壇におそなえし、珍らしい物をいたゞいた時、季節のはつもの、家

庭内の重要な出来事など、御先祖様にそなえ、報告するのがしきたりだったの

であります。

 こうしたなにげない習慣の中で、仏壇の教えが、身体の中にしみこんでいま

した。

 仏壇、仏様は我国の多くの家庭にとって精神的な支柱であり、平和のシンボ

ルでありました。現在はだんだんと仏壇を持たない家が多くなった今日このご

ろです。

 しかしながら、落ち着きをとりもどし平和な家庭をきづきたいと願う人々の

間に仏壇についての関心が高まっていることは、事実であります。今こそ家庭

の中心である仏壇を購入して、精神的なさゝえをもたなければいけないのでは

ないでしょうか。

 東京目黒区に住む、母一人子一人の家族がありました、その子が生まれて約

一年で父親が病死し、母親の苦労はその時から始まりました。母親は毎日夫の

位はいが安置してあります、仏壇に、手を合わせ、「この子は私が命がけでも

立派に育てます。どうかいつまでも見守って下さい」と朝な夕なにおがみます

。だんだんと成長していく息子さん、母の毎日の仏壇によるお題目修行がうる

さく聞こえてまいりました。「お母さんうるさい、毎日毎日、南無妙法蓮華経

、南無妙法蓮華経、もう俺はいやだ、聞いていられない」と。母親は、「お前

もたまにはお父さんに手を合わせ、お題目を唱えなさい」と口げんかの毎日が

、多くなってまいりました。そのうち家によりつかなくなってしまいました。

そして一年、あれほど家をあけていた息子さんが、家に閉じこもるようになり

、心配のあまり母親がたずねると、「俺だんだん目が見えなくなってきたんだ

よ」。その言葉を聞いてびっくりし、あちこちの医者にみせたが、原因がわか

らず、とうとう失明の状態になってしまいました。母親は半狂乱になり、仏壇

をたよりに毎日、お題目を、そして仏壇では物足りず身延山祖師堂に月まいり

。こうして家庭の仏壇と身延山のおまいりが始まりました。目の見えない子供

の手をひいて、身延山にむかう母親、日蓮大聖人様、仏壇の中の父親、それだ

けを頼りに五年間、雨の日も、風の日も休むことなく、そしていつものように

、家を出て、母の手をにぎって歩き始めた時、息子さんはふと思った。「お母

さんの手がだんだんと冷たくなってきた、だんだんと細くなってきた。僕を握

ってくれる力がなくなってきた」。目は見えずとも手にとるように分かりまし

た。「これじゃあ、いけないんだ俺も一生懸命やらなくてはいけないんだ」と

。この時から不惜身命のお題目修行が始まりました。お母さんがだめになって

しまう、俺のためにだめになってしまった、日蓮大聖人様、お父さん、俺がい

たんじゃだめだ、いっそ死んでしまえば、母親にふたんがなくなる、死に場所

、死に方を教えて下さい」。母を助けるために一心不乱にとなえるお題目……

…そのうちに、目の前が茶色くなってきました。白くなってきた、薄紅色にな

ってきた、じっと目の前を見ると、何か赤いものがゆれている、何とローソク

の光ではありませんか。「かあちゃん、かあちゃん、ローソクがかすかに見え

る」。母にとびついて、抱きあって、声を出して、二人で泣きくずれました。

 

 疲れ果てた母を救わんがために、死に場所を教えてくれ、死に方を教えてく

れと一心に唱えたお題目の力、それが目を開かせていただいたのではないでし

ょうか。

 たとえ姿、形は見えずとも、かならず導きがあります。まさに仏壇における

一念信解のお題目ではないでしょうか。

お自我偈の中に 一心欲見佛不自惜身命

一心に佛を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜まず、とございます。

 この一心こそ異体同心なのでございます。

 宗祖日蓮大聖人異体同心事のご文章の中に

異体同心ならば萬事を成じ 同体異心ならば諸事叶う事なし等云々

 と、お示し下さっております。

 家族が手と手を握り、心と心を一緒にし、一つの心になってご信心をすれば

、必ず導きというものがあるということでございます。

 今一層のお題目修行にご精進下さいますようお願い申し上げます。

 

三  華・香・灯明

 

華(ケ)

 古来仏教では華を仏・菩薩に供養する第一の供物としてきました。このこと

は、例えば釈尊が生れたルンビニーでは、釈尊生誕のとき、一斉に草木の花が

開き、鳥たちが歌ったといわれ、釈尊が長い修行生活を経て成道したときも天

から花が散ってきた−散華−といわれていることからも知ることができましょ

う。今も釈尊降誕会には花で飾った花見堂を作り、甘茶をかけます。このよう

に花にまつわる話題にはこと欠かず、日蓮聖人が誕生されたときも突然清水が

湧き出、蓮の花が咲いたといわれています。またお亡くなりになっとき、池上

の山では時ならぬ季節に桜の花が満開になったという話しはあまりにも有名で

す。花の用い方については密教では細かく定められていますが、日蓮宗では特

別の定めはありません。だがあまり匂いの強いものや、色彩のどぎついものは

避けるべきでありましょう。また枯れかかった花はすぐに変えるべきで、高価

なものでなくてもいつも新鮮な花をご仏前に献じておきたい。また法事を営む

ようなときには、施主は墓地用の花のみでなく、本堂内の本尊に捧げる花も持

参し、供養することがのぞましいことであります。

 また華は生花の他に、木で花をかたどって作った木花、紙で作った紙花、金

属のものなどが仏具として作られ、装飾的な花瓶なども仏に供養するための仏

具として作られるようになりました。また、仏教では天から花びらが降ってき

たという故事にならって色紙や模様をあしらった花びら形の散華をまくことも

あります。

 一本花は、本来仏教から出たものでなく古来からの風俗習慣の一つであり、

花の枝に故人の霊を依らしめようとの考えに基づくもので、何本も立てたので

は霊が迷うと考え、死者がでると一本花を立てるようになったのであります。

 

 しきみ(樒)は佛とも書き、仏前に供えたり棺に入れたりします。その故事

については真俗仏事編に、「樒の実りは本(もと)天竺より来り、本邦へは鑒

真和尚の請来なり、その形天竺無熱地の青蓮花(白色のハス)に似たり、故に

此を取って仏に供す」と説明しています。また、シキミを墓地に植えるのは、

オオカミが、シキミの匂いをきらって近づかないので、死人の体をオオカミか

ら守ために始まったことで、仏教の風習もそこから起ったとも言われ、上代に

は〈さかき〉の一つとして神前にも供えられたものであります。

 

 インドでは、特に臭気に対する配慮がなされ、屋内の臭気を消すために使用

されました。香には白檀、丁香などのような樹木の皮、葉、根を割ったり粉末

にしたものや、乳香、安息香などの樹脂からつくるものや、麝香のような動物

性のものなどがあり、使われ方としては塗香、焼香があります。

 塗香とは、旃檀等の香木を粉末にして、浄水と混ぜ練香としたり、粉末のま

ま乾燥したもの(抹香)を身を浄める意味で手などに塗ったりします。焼香と

はもともと香木を捧げることで、釈尊がクシナガラで入滅されたときに香木を

積み、点火して荼毘にふしたと伝えられています。「無量寿経」に「塔像を起

立し、沙門に飯食せしめ、絵をかけ、燈明をもやし、華を散じ、香を焚き、こ

れをもって回向して彼岸の国に生ぜんと願ず」とあり、又、法華経の中に「衆

宝の妙なる香炉に、無価の香をたいて自然に悉く周 して諸の世尊に供養す」

とありますように、第一に仏・菩薩に香を供養するためと同時に道場を清浄な

らしめるためです。第二に焼香すると諸仏、諸尊がその道場にお出ましになる

といい、香は仏の使いでもあるとされています。第三に香が遍く一切に燻ずる

ように、功徳が十方世界に遍く満ち渡ることであります。

 この焼香の種類は材質によって白檀香、沈香・龍脳香など何十種にもなりま

すが、現在寺院でよく使用されるのは沈香と白檀香であり、また作り方によっ

て香木の小片をそのまま焚くものと、香木を砕いて粉末にしたいわゆる抹香を

たくのと二つに大別されています。普通は諸種の香木の粉末を混ぜた抹香が多

く使われています。

 

焼香の作法

 まずご宝前に出たら一拝し、座ってもう一度一拝し、次に右手の拇指と人差

指で香をつまみ、他の三本の指はまっすぐに伸ばし、火種にそっと注ぐように

投じます。日蓮宗ではこれを三回繰り返すのが正式でありますが、法要参列者

が多勢のときは一回で良いとされています。ただし導師はいつでも焼香すると

きは必ず三回繰り返すべきであり、この三回というのは仏・法・僧に供養する

ということと空・仮・中の三諦にならうものであります。但し他宗派には二回

を正式としているところもあります。

 

灯 明

 太陽、たいまつなどと同様にギリシャ、ローマ以来、悪霊を払い物を浄化す

る力があるとされています。また、みあかしあるいはあかしなどともいい灯明

の光が一切の暗黒を消除するように、仏の知恵のはたらきが衆生の無明を照ら

すからであります。

 現在ではロウソクを用いるのが一般的でありますが、昔は油が用いられてい

ました。灯明の供養については「貧者の一灯」の物語で学ぶことができます。

 

 インドのマガタ国の阿闍世王が釈尊にたくさんの灯明を供養しました。その

時一人の貧しい老婆が、せめて一灯なりともと、苦心して走り求めて一つの灯

明をあげました。ところがしばらくして、王のあげた灯はみな消えたのに、貧

女のあげたあかりだけは光り輝き、消そうとすれば、益々その輝きを増すばか

りでありました。この様子をみて釈尊は老婆の心からの供養に対し、未来には

仏になることを約束されたという話であります。

 灯明に限らずこの話は、仏に供養するときの心構えが説かれております。ま

た、仏前に灯明を捧げる意味については、釈迦が入滅されたとき、「私がなく

なった後は、自分自身を灯とし法を灯として進みなさい」と遺言されたことに

起因しているとも言われ、また己が身を以って闇を照らす姿を菩薩の姿とみる

ことから、仏道修行の心がけを忘れぬよう戒めるために灯りをつける、とも言

われています。

 

法話 華・香・灯明の給仕

 本日は遠路ご参詣ご苦労様です。今日はご信者さんの家族の高校生の方から

質問がありました事を中心にしてお話を致したいと思います。

 

(1)なぜ仏様にお線香を立てたり、お焼香をしなければいけないのですか。

 お線香を立てたり、お焼香する事を、通称香供養と云われています。

 香には色々あって、香木をたくお焼香、色々な香を集めて作った線香(お線

香は中国で作られたと云われています、それが日本へも伝えられ、持ち運びや

、使用上大変便利なので、今日一般に広く用いられているようです)。

 身体に塗りつけたり、手にすりこんだりする塗香(日本のお寺では現在殆ん

ど用いていないようですが、今日女性のお化粧の世界では大変流行しているよ

うです)等があります。

 日本人は入浴好きで、清潔な人種だと云われ、外国人とくらべると体臭が少

ないようです。古代インドで香を用いた理由は、身心を浄めるという生活上か

ら用いられたようで、身体の臭気を消し、それによって心を浄めて、尊者や、

死者や、人前に出たようです。

 私達がご仏前にお線香を立てたり、お焼香をする事は、いづれも上品な香り

を捧げて、身の廻りの悪臭を清め、その優雅な香りによって、清浄な心に生き

返る功徳を頂く事だと思います。

 

(2)なぜお華を供えるのですか。なぜお華は私達の方を向いているのですか。

 

 お仏壇や裁断や墓前だけでなく、入学式や卒業式や講演会等、日常生活のあ

らゆる所に花が使われ、それ等すべては、みな私達の方に向けられていますね

。確かに仏様に捧げられた花なのに、私達の方を向いているという事は不自然

な事だと私も思います。しかし、良く考えてみると、花が後ろ向きに供え、飾

られていると、私達の気持はどんな気分になるでしょうか。一度ためしにやっ

てみて下さい。

 ためしに、向うむきにお花を供え、背中をこちら向きにしますと、私達の心

が何となく落ち着かず、変な気分になります。花を眺めて得られる優しい心が

生れて来ません。「花をそえる」という言葉がありますが、花がこちら向きに

なっているからこそ、私達の気持が落ち着き、その場の雰囲気が、なごやかに

なるのではないでしょうか。お花をお供えしたり、飾る事は、見る人の心をな

ごませる事であり、仏様にお花を捧げる事も同様にご仏前を荘厳すると共に、

それを眺める私達の心も満足する喜びが味わえるのではないかと思います。華

は仏様の慈悲、優しさを象徴しているといわれています。

 

(3) なぜお灯明を点ずるのですか。

 お釈迦様がお亡くなりになる前に、お弟子さんや、ご信者さん達に「私が死

んだ後は、自分自身を灯とし、法を灯として生きて行きなさい」とご遺言され

ました。私達は人間としての自覚のある行ないと、お釈迦様の遺された貴い教

え(法華経)を心の依り処として、日常生活を営んでいかなければなりません

 この世は、一寸先は闇だといわれています。種々な苦しい事が充満していま

す。

 灯は闇を照らし、明るく致します。仏様の教えは、この闇の世、夜道に私達

の行き方を示されています。それを灯に譬えたようです。

 一本のローソクを暗闇で点じ、燃え、消え去って行く姿を眺めていると、人

生の無常を考えさせられます。

 昔から、ご仏前には香華をたむけ、お茶・お水・仏飯・果物・お菓子等が、

習慣として供えられて来ました。こうしたお供え物をしたからといって、特別

に仏様や、ご先祖様が姿をあらわして、眺めたり、食べて下さるとは思いませ

んが、これは「仏前に花一輪の心がけ」とうたわれましたように、仏様を恋い

慕う私達の真心の現れで、仏様は、私達と同じように生きておられるという信

仰心、ご給仕のあらわれなのです。こうした何事も仏様を優先する心ゆかしい

行為が、利他行であり、人々の心を豊かにし、ひいては家庭や社会を明るく住

みよくし、仏国土が顕現するのではないでしょうか。お互いに、仏様のお慈悲

と知慧を頂いて、人間生活をまっとうするよう精進致しましょう。

 

四 供 物

 

 お供物とは、仏・菩薩や先祖の霊などに供養するために供える物のことです

。したがって、供養のために供えられる物は全てお供物(おくもつ・おそなえ

物)ですが、普通には、ご仏前に供えられる菓子や果物のことを指します。ま

た、寺院の行事の折などに、寺から檀信徒に配られる品物をお供物ということ

がありますが、これは、本来ご宝前に供えられたお供物を法要後に参会者に分

配したところから、ご宝前に供えたときの呼び方であるお供物をそのまま言い

習わしたことに由来するのでしょう。

 本来、供物は供養物であり、在家の者が仏陀を始めとする出家者に食事を供

したり、仏道修行に励む出家者を経済的に援助するために供したことから始ま

ったものです。この段階では、生身の出家者に供える衣服・飲食・臥具・湯薬

などがお供物であり、法身像塔に対しては、旛・蓋・花・香なども供物であっ

たのです。

 こう考えてくると供物は大きく分けて二通りに分類できます。一つはご宝前

にお供えする物です。もう一つは、仏法僧の三宝のうちの一つである生身の僧

侶に対して、供養の品物を捧げることです。

 日蓮聖人のもとに多くの檀越方から沢山の供養の品々が届けられたことなど

はあまりにも有名です。

 建治元年(一二七五)七月十六日付の「上野御殿返事」に、

むぎ一櫃、河ののり五条、はじかみ六把給 ぬ、いつもの御事に候へば、おど

ろかれず、めずらしからぬやうにうちおぼえて候は、凡夫の心なり。世間そう

そうなる上、大宮をつくられさせ給えば、百姓と申し、我が内の者と申し、飢

渇と申し、ものつくりと申し、いくそばくいとまなく御わたりにて候らむに、

山のかなたのすまい、さこそとおもひやらせて給ひて、とりのかいこをやしな

うがごとく、ともしびにあぶらをそうるがごとく、枯れたるくさにあめのふる

がごとく、飢えたる子たちに乳をあたうるがごとく、法華経の御いのちをつが

せ給ふ事、三世の諸仏を供養し給へるにてあるなり。十方の衆生の眼を開く功

徳にて候べし。尊しとも申す計りなし、あなかしこ、あなかしこ、恐々謹言。

 

 これは、むぎとのり、はじかみ(生薑)を届けてきた上野殿に対する礼状で

すが、この供養に対し、法華経のいのちをつがせ給うといい、三世の諸仏を供

養し給えるといって供え物を頂いています。このような供物は、檀越方からか

なり届けられてきましたが、これを日蓮聖人は、別のお手紙では「法華経・釈

迦仏にゆずりまいらせ候ひぬ」ともいわれ、丁重に御宝前にお供えし、それか

ら弟子・信者の方々と頂戴していたことがわかります。

 このようにお供物といった場合にもいろいろに意味されますが、一般的には

、ご宝前にお供えする物とされています。御宝前にお供えするお供物は、果物

とお菓子を上げるのが普通です。この他、法事のときなどは特に故人の好きで

あったものがあれば、これをお供えするのもよいでしょう。また必ず三方や高

坏・お盆などに半紙や奉書を敷いて、その上にのせ、生きている人に差し出す

ようにきれいにお供えすることが大事です。

 供物は須弥壇の上に置き、または別に壇を設け、高坏、または三方などに盛

って左右均等に整然と供えます。高坏は上に白紙を敷き、その上に体裁よくき

れいに盛り、紙は二つ折にします。

 三方はもと紙饌に供えるときに用いたもので、高貴な人の膳部、あるいは儀

式等に用いたものです。また三方に“くりかた”のあるのを三方、四方にくり

かたのあるのを四方、くりかたのないのを供饗というのです。

 三方は、“くりかた”を正しく前に向け、紙を敷かないのが本義ですが、供

物によっては三方を汚さないために紙を敷いてもよく、紙を適当な大きさのも

のを選び、二つに折って合わせて二枚敷き、左右及び前後の耳を外に出す。

ただし、高杯のように一枚でもよい。

 精進供とは、仏前に供える野菜・乾物などをいいます。しかし、昔は宗祖な

どの生身に供養するということで、種々のものを献ずるのを生身供といったの

で、精進供は生身供の訛ったものかと思われます。御霊膳は故人の霊位に供え

る精進供、すなわち霊位に供える斉食のことです。

 供物の配順は、向かって左に米、右に塩、生菓は左、菓子は右です。

 また、燈明を点じたり、線香を立てたり、華や供物を供えたときには必ず合

掌一拝すべきであります。燈明は息で吹き消したりせず、扇子などで消すこと

 また、肉や魚など生臭ものは避けるが、ご祈 のときなどのお供物は普通の

法事のときとは異なって、お生(野菜)や米・塩・お酒・コンブ・魚などを供

えます。(『日蓮宗仏事行事集』より)。

 

 

五 位 牌

 

 死者の法名をしるした長方形の木牌で、日本の仏式葬法と死者供養の中心を

なす象徴であります。その起源については諸説あって明らかではありませんが

、おそらく古代の神祭や魂祭に用いられたであろう神や霊の依代、すなわち霊

代の変形であり、のち仏教が民間に浸透して葬儀にあずかり、死者と死霊供養

の機能を分掌するようになって、卒塔婆などとも習合して、個々の死霊の礼拝

対象として用いられるようになったものと思われます。

 ことに家庭内での死霊祭祀が普及するに至って、墓塚について祭を営むこと

と別個に、位牌について祭を行なうことが一般化し、氏寺や菩提寺にも位牌を

あずけて供養せしめる風を生じたのでありましょう。

 そしてこれには仏教、ことに念仏宗などの隆盛にともない、中、近世からし

だいに地方武士や一般農民の間にも、個人霊魂の独立性が意識されるようにな

ったこと、追善や年忌供養がしだいに複雑に制度化せられたことなども、位牌

の普及を助長せしめたことと思われます。

 ことに江戸時代の宗門改めの制によって、寺檀制度が確立して以後は、位牌

は宗派によって種々に改良され、形や書式も各宗派でそれぞれの方式をたてる

ようになりました。

 現在農村では死者のために〈野位牌〉と〈内位牌〉の二つを作るのが多くみ

られます。野位牌は死後すぐ死者のまくらもとに立てられ、葬儀のときは行列

の中心となって、必ずその相続人が、いちばん血の近い者が棒持して墓所に持

って行きます。それで相続人のことを位牌もちという所もあります。

 内位牌は葬式後の家庭内での供養の対象として、忌みの期間中まつられるも

です。地方によっては忌明けや、三十三年の〈弔い上げ〉、〈といきり〉の際

に、これを墓に埋めたり、寺に納めたりする所があります。

 近世以後は位牌は各戸の仏壇に長く保存される場合が多くなり、先祖代々の

供養を位牌にむかってささげてきました。

 位牌は、たんに木で作られたものではありません。先祖の人々の姿形やその

足跡をあらわすものです。位牌をつくったら必ず菩提寺で開眼供養をしてもら

い、仏壇に丁重に安置して毎日供養をするようにしなければなりません。

 

法話 お位牌を拝む

 「お上人今日は、ちょっとお邪魔します」。

 「これはこれはAさんようこそ」。

 「実はお位牌の事ですが人が死去された時は白木で四十九日迄には黒のお位

牌に代えてお祀りすると聞き及んでいるのですがもっと詳しく教えて下さいま

せんか」。

 「そう改めて尋ねてられましてネー、では調べて見ましょう、『お位牌の起

りは詳かでないが、儒教で存命中の官位姓名を記し、(これを牌という)神霊

を託した慣習から転じたといい、我が国では禅宗の伝来に伴って広まり、江戸

時代に一般化した。仏教思想の発達に伴う祖先崇拝の信仰と密接な関係があり

、追善追慕菩提を弔う表示となった』と『日蓮宗事典』に出ています」。

 「もともと亡くなった方を埋葬する為の埋め墓と、祭祀供養の為の詣り墓と

二つの墓を持つという習俗が日本に古くからあり、この詣り墓の変化した物が

屋内位牌堂で、これを両墓制というのだそうです。即ち菩提寺では位牌堂(所

)、各家では仏壇に相当しましょうか、そしてその前で日日の回向供養、又念

回追善等を行なって今日に至っているのですヨ」。

 「それだけ仏教では丁寧にお祀りして居るという事ですネ」。

 「その通りです。ことに我が日蓮宗ではお仏壇に御本尊とお祖師様を安置し

、その前にお位牌を祀ります。御本尊のお題目の光明に照らされ、御祖師様に

お譲りして頂ける先祖代々の霊位は実に有難いのですヨ」。「又例えば地震火

事等の一大事の時、突嗟にお位牌一つ抱え逃げ延びたとよく話しにお聞きしま

すよネ、亡き人の魂宿るお位牌を命がけで守られた実に尊い行ないです。要は

その人の信仰姿勢の顕れなのですから、我々は常に心してお仏壇の前に端座合

掌する真摯な姿を子々孫々に永く伝えてゆきたいものです」。「ところでAさ

んも御存知のNさんですが、先頃娘さんを亡くされたのを機に御夫婦揃って逆

修(生前に戒名を受ける事)を受け、娘さんと自分達のお位牌と併せてお祀り

し、懸命に唱題修行に励んで居られますヨ」。

 「ヘェーそうですか、では自分の位牌を自分で拝むんですか」。

 「その事です。本来は生前に戒を受け、戒名を頂くべきなのです。朱文字の

お位牌大いに結構です。逆修の位牌を自らの鏡に信行に励むという、是は実に

望ましい事なのですが、それは兎も角我々宗徒は『若し然れば貴賎上下をえら

ばず南無妙法蓮華経と唱うるものは我が身三身即一の本覚の如来なり(阿佛房

御書)、我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性南無妙

法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云う也(法華初心成仏抄)』との

宗祖の御指南を体し、更に更に自省自戒仏道精進の日日を積重ねてゆきたいも

のです」。

 「いろいお話を伺いお位牌の認識を深めました、私も心機一転唱題修行に励

みます」。

 「本当にむずかしい御質問なので貴意に添い得ましたか否か心苦しいのです

が、ではこれで」。

 

六 過去帳

 

 別名は、霊簿ともいいます。寺院の過去帳は、単に檀信徒の法号、死亡年月

日、同年令(行年)等の記録だけでなく、その寺の由緒、沿革及び歴世上人の

事蹟、また寺の什器、宝物及び財産の記録が記されており、これをひもとけば

寺の歴史がわかるようになっています。また檀家の戸籍簿の性格も持ち、明治

以前には特に一箇村に一寺しかない場合には、そのまま村の戸籍簿として使わ

れたようです。

 在家の過去帳は、親類縁者の法号、死亡年月日、行年、本人の経歴等が記さ

れ、仏壇に安置します。古い家では、その家の起りまでが記されてあり、家系

図の性格も持っているところもあります。

 過去帳を記載するばあいは、お寺に持参して住職に書いてもらい、読経の供

養をうけたのち、自宅の仏壇に安置することが大切です。

 

七 檀信徒の日常の心がまえ

 

(イ)自宅にて

仏壇をこまめにいつも清掃する。

朝夕の合掌、礼拝を励行する。

仏飯、茶湯の供えは親はもちろん子供にもやらせ、習慣づける。

月の一日、十五日や近親者の命日などには仏花を供える

お初のもの、頂きものはまず仏壇に供える。

家族全員、各自の数珠を持つ。

近親者のご命日には、家族皆で唱題する。

仏壇の飾り方は子どもにも教えておく。

家庭生活の中心は、お仏壇であることをいつも忘れないこと。

入学、卒業、就職、婚礼等の出来事はお仏壇に報告する。また贈りものなども

仏壇にそなえてから人に与えるようにする。

毎朝、一日一善を仏壇で誓う。

他宗のお札やお守りはもらってこない。

 もし、仏壇にいれてあったり、古いお札がいつまでも残っているときは、菩

提寺へ持参しおたきあげしてもらう。

お棚経に寺から僧侶がみえたときは、居合わせた家族全員でおつとめをする。

 

(ロ)お寺にて

寺へお参りするときは先ず、本堂前で一礼する。

道内では静粛にする。子どもに食べ歩きはさせない。

本堂を先ずお参りしてから、墓参する。

法事等の塔婆は前もって申し込むこと。

寺の年中行事(花まつり、彼岸会、せがき会、盂蘭盆会、お会式等)には必ず

参加する。年寄りだけに寺参りも含め、行事への参加をまかせない。

法事のときは、事前に墓所を清掃しておくこと。

家で不幸があったときは、葬儀屋よりも先に菩提寺へ連絡すること。

線香のあげ方、焼香の仕方、お焼香も線香をあげるのも基本的には同じ。仏・

法・僧の三宝に供える意味で、∴の形に線香はあげ、焼香は三回にわけてする

のが普通である。但し、参列(拝)者が多勢のときは、一回にしてもよい。

 

八 菩提寺と檀信徒

 

 寺は中国にあっては外国の使臣を接待する役所の名称でした。後漢の明帝の

時代において、印度の僧迦葉摩騰、竺法蘭の二人が中国に仏教を伝えた時、始

め鴻臚寺に置き、翌年白馬寺を建てゝ住まわせました。この時から仏教の道場

を寺と呼ぶ様になました。院は寺の中の別舎を言い、合わせて寺院と呼ぶので

す。

 檀越とは、施すと言う意味で、諸僧に衣食を布施する信者の事を言います。

日本では、中世以降檀越を略して檀那、檀家、檀徒などと名づけ、所属の寺院

を檀那寺と言い、また町家などでは、主人を檀那といい聖人では顧客を檀那と

呼ぶ様になったのです。菩提寺と言う呼び方は自分の先祖代々の遺骨を葬り、

菩提を弔う寺院のことを言うのであり、日本の大部分の寺はそう言う関係にな

っているのが実状であります。(新仏教辞典による)

 我が国では、徳川時代の始め頃から、幕府の宗教政策の一環として、民衆を

必ずいづれかの寺に所属せしめ、寺は戸籍係の役目を背負わされるに至りまし

た。自分の先祖に対する崇敬の念は、単に徳川幕府の宗教政策の一方策として

実施されたと言うよりは、多分に民俗的宗教としての根強さを持つものであり

ます。このことは、明治維新の時の廃仏毀釈の嵐が吹きまくった時にあっても

この関係だけは破れなかったことによっても裏付けることができます。

   勿論寺が仏教を宣布する道場として存在する為には単なる先祖崇拝だけ

の場としてのみで良いのとは決して言えません。今後のあり方としては、自分

達の先祖を祀る場としての寺の役割の上に更に信仰を深める処としての寺のあ

り方を充分考える必要があるのではないでしょうか。

 ところで、北方仏教の一番大きな特徴として挙げられるのは布施の行為です

。寺と檀家が布施によって関係づけられるているとすれば、それを実践する場

として寺を理解するしたらいゝのです。すなわち、「寺は布施を行ずる学校で

ある」。僧侶は法施を実践する。法要を行なうことも法施ではあるが、釈尊や

宗祖の教えを広めていき、一方檀家は財施でこれに応える。こういう関係を深

めていくことで布施の大切さを体験的に学ぶことができるわけであります。具

体的にどの様に行なったらよいかを実例に則して説明しましょう。一番よく行

ないやすいのは法要です。法要の時「お布施」をご本尊の前に、始まる前に捧

げるのですが、これは布施によって功徳を聖霊に回向せしめたいと言う施主の

意味を示す為のものです。(よく「お経料」と書く人が居るが、これは間違い

である。何故かと言えば、お教を上げて頂く僧侶に対して「お経」の代価の様

にとられ大変失礼なことであって、必ず「お布施」と書くべきである)。花、

供物をご本尊に捧げるのも同様な意味を持っています。これによって法要もそ

の意味するところは大変大きいと言わねばなりません。布施するのだから、で

きるだけ自分の能力に応じて多くの人を招く方が良いことがわかると思います

。以上のことから僧も施主も布施を実践している自覚が生れてくるわけです。

たゞし、このことが寺と檀家の間のみに止っていては本当の布施の実践するこ

とにはならないのです。この精神で一般社会に及ぼして布施を行なっていく姿

勢を貫いていかなければ布施が生きてこないのです。布施を行なう時と場所は

無限にあります。布施の基本を学ぶという事を寺と檀家の関係を通して充分考

え学びとってほしいものです。

 

法話 お寺は心の糸を結ぶ道場

 そこは、冬のやわらかい陽射しがいっぱいの午后の裏通りでした。

 子供等が遊ぶのには、自動車の往来もあまりなく、どちらかと云えば格好な

場所でした。

 たまたま私は自坊へ帰る途中でしたので、気持ちもおちついてゆっくりと歩

いていました、前方に小学二、三年生ぐらいの女の子が二人、ランドセルを背

負ったままローラースケートに興じていました。それはあたかも、二匹の蝶が

飛び交うのと同じようでした。

 そこには子供だけの世界があり、幸せを見ることが出来たのです。

 そんな子供等を見ながら五十年も前の自分を振り返ってみました。私もこの

子等の頃には、やはりローラースケートに夢中だったなあと。がそこには違う

ものを見た、それは、すべる動作は五十年前も今もちっとも変ってはいない、

が足に履いているスケート靴は全く違う、今の子の履いているそれは立派で(

安くはなさそう)しかも堅牢に出来ているようです。

 それに反し吾々の頃は、とてもそんな高価で贅沢なものは買い与えてもらえ

なかった、(もっていたのは、いわゆる、金持の坊っちゃんでした)。

 だれが考案したのか知るよしもありませんが、その頃手造りのローラーステ

ートが大変流行していました。それはご存じの方も多くいらっしゃるかと思い

ますが、板裏草履に、戸車を付けて作ったものでした。

 それでも結構技を研き、スピードを競い合うことができました。そして、各

自の手造りの作品を自慢しながら遊んだものでした。

 話は余談になりましたが、私は子供等の遊びの邪魔にならないよう、なるべ

く道の端を歩きながらそこを通り過ぎたのでしたが、その時突然、うしろで男

の人の声がして、

 「お嬢ちゃんたち、道路でそういう遊びをしてはいけませんよ、バイクや自

動車が通って、もしぶつかったり、ひかれたりしたら大変なことになるよ、大

けがをしたり、ひどければ死んでしまうことだってあるよ、ローラースケート

は、公園か学校の校庭ですべりなさい」と注意していました。

 私は一瞬、吾に返って立止り、後を見ました。

 注意をしているのは、初老の紳士でした。そしてその眼差しには、深い慈愛

に満ちた眼をもって、満面に笑みを湛えているようにさえ見えたのです。

 これそ、仏様の変化の人であろうかと思いました。

 うしろを見た私の眼と紳士の眼とが合いました。私を見た紳士の眼は鋭く、

それは私を叱責しているかのようでした。私はそこに居たたまれず、頭を下げ

て立去ったのですが、急に恥ずかしさが全身にひろがり、冷汗が出てきました

 それは、そこが道路であり、危険であることを忘れて、というよりも無関心

であって、子供等の遊びに見とれたり、過去の思いにふけったりしていた自分

に、なんともやりきれない気持となり、深く深く反省させられました。

 こういうことは、私一人のみならず、日常生活には多々あることだと思いま

すが、私たちはもうすこし、いろいろなことに対して注意を払わなければと反

省し、そして住みよい社会をつくるには、一人一人が自覚し実行してこそ、そ

の実が達成出来るのだと感じました。

 じつは寺とは、ほんらい住みよい社会をつくる道場なのです。子供たちが安

心して勉強したり遊んだりできるような環境をつくり、檀信徒の人たちはもち

ろん、寺のまわりに住む人が幸せにくらせるよう慈愛にみちた眼で見守り、幸

せを求める心を育ててゆくことが寺と人々とを結ぶ心の糸なのです。