仏事供養のこころえ

 

一 供養

 

供養とは

 供養とは、

1 奉仕すること。

2 尊敬心をもって仕え世話をすること。

3 供え、さしむけること。

4 礼拝の意をあらわすもの、とされています。

 また、三宝に香華、飲食などを供え、ほめたゝえて敬い、教えにしたがって

修業することをさしています。(仏教語大辞典)

 法華経(法師品)には十種供養が説かれています。その内容は、花・香・瓔

珞・抹香・塗香・ 蓋・幢幡・衣服・伎楽であります。

 一般には仏・法・僧の三宝や死者の霊などに対して身・口・意の三方法によ

って供物をささげることをいいます。不殺生を主張する仏教が、バラモン教な

どの動物で行なう供犠に対して行なった祭儀形式でもあります。

 仏あるいは死者の霊に物を供えて祀る様子は、『源氏物語』若紫の中に「嵯

峨野の御堂にて、薬師仏供養し奉り給ふ」と書かれています。この場合、供え

る物は飲食物にかぎらず、香華その他のものもありました。経文を書写して仏

前に供える「経供養」は平安時代によく行なわれ、「源氏物語」御法の中に「

法華経千部いそぎて供養し給ふ」とあります。また僧侶に食物、衣服などを贈

るのも「供養」といいます。

 現在「供養」という語は追善供養と開眼供養の二通りの意味に用いられ、い

ずれも飲食物に関係しています。まず前者では「死者の供養のために」と称し

て飲食物を供し、またそのときに提供される飲食物などを「御供養」といいま

す。虫供養、針供養などは民俗信仰と結合していますが、この系列に属します

。後者の開眼供養の系列には、橋供養、堂供養、鐘供養などがあり、いずれも

橋梁の架設、堂塔の建立、梵鐘の新鋳造などの際に行なう法要で、この場合、

供養とはほとんど「法要」と同じ意味をさしますが、法要のあとに供部の餅を

まく「餅まき」の行事などの行なわれるのが普通です。

 

法話 供養と精進

 私たちは、生まれて生きて死に果てるまでの生涯に渡って通り過ぎる時間を

大切に迎え送り乍ら、誕生日から葬送に至る間に人々にお祝いされ、はげまし

を受ける儀礼が沢山あります。誕生祝、初節句、七五三、入学式、成人式、結

婚式と名実共に社会共同体への参加、その行動も発言も一段と重要さを加えて

来ます。やがて還暦、古稀、喜寿、米寿と高齢者となり死後を迎える儀式を人

生儀礼ともいいますが、これを通過儀礼と申します。

 人間の一生の間に通過するその歳、その時の儀礼を行なうということは、例

えば竹を見るに節を残し乍らその節を越えて生長してゆくことを知る。人間も

自分自身を含めてこれからの子達に子孫と大らかな勇気ある、堂々の人生を、

時には細やかないたわりの深い人生をと、願いをこめて育成し迎え送る年を区

切って通り過ぎる通過儀礼は今時のいい方で申しますと冠婚葬祭と言うことで

す。核家族化の移り変りの激しい現代では忘れさられ、捨て切るかも知れない

これらの儀礼かも知れないが私は大切にしたい。当今では七五三、成人式、結

婚式、喜寿、米寿と内々の家族だけの祝として営まれ、特に結婚式と葬送儀礼

が盛大に行なわれています。

 死後に迎える葬送儀礼は“供養”として亡くなった方々への生前を偲び、ご

冥福を心より祈りすみやかに霊山往詣してお釈迦様にも日蓮大聖人にもお目に

かゝれるようにとの願いをこめての読経回向の儀礼です。そこで“供養”とは

仏法僧の三宝に供物をさゝげる意ですが、初期仏教教団の頃は衣服飲食臥具湯

薬を主として施与され(四奉供養)後には土地も房舎も僧侶に施与され財供養

ばかりでなく恭敬供養・讃歎供養・礼拝供養(法供養)と言う精神面を特に大

切にして来たし、密教では塗香・焼香・飲食・燈明(五供養)をとき、我が法

華経に於ては華、果、瓔珞、抹香、塗香、 蓋、幢幡、衣服、伎楽(十種供養

)の供養をときました。更に塔廟が仏に代る祭祀の対象となり供養塔が建てら

れ、死者に対しては後世、塔婆供養とし、インド以来の分け方が供養物の種類

や方法や対象等について種々の形で今日に至って来ましたし、開眼供養、施餓

鬼供養、鐘供養、千僧供養と仏教行事として受けつがれて来ました。従いまし

て供養と申しますのは仏教、仏法、仏道を讃歎恭敬すると共にこの身果てるま

で私たちの実践活動として僧も俗も一心に捧げまつる真心のあらわれでなくて

はなりません。

 さて、“精進”と申しますのは私共の人格完成を目指してつとめはげむ事で

あり、努力を意味し勤とも訳します。心所有法とも言い、心をして勇気づける

精神作用であると定義され、お釈迦様は苦を滅して悟りに到る道として八正道

を説かれ精進を正精進として正しく努力せよと申された。特に大乗仏教では弘

道実践の最高の徳目として自行化他の菩薩道を強調し、布施、特戒、忍辱、精

進、禅定、智慧の六つをあげ実践項目とした、六波羅蜜は六度とも申し善を行

ない悪を断つための努力を継続的に行なうことを強調しました。精進はその第

四の徳目です。従って仏門に入って宗教的生活をつゞけることを精進するとい

うようになったのです。法華経の序品には聴法会座の菩薩に文珠師利菩薩と共

に常精進菩薩の名が出ていますし、また、是即精進、勇猛精進と私共を叱咤激

励し奮起をうながします。精進は行学二道の心の柱とし、眼目とし大船として

昼夜常精進、勇猛精進と受けとめなければなりません。

 祖師は末法の求道者、弘経者の心構えとして止暇断眠とお仰言られました。

またこの娑婆世界の弘経のために涌出した上行菩薩を始めとする上首四菩薩の

出現に驚いた弥勒菩薩の問いに答えて仏は“汝等一心にして精進の鎧を被り、

堅固の意を発せよ”と警めのお言葉をお与えになられました。

 精進とは我が心、我が身を通じて捨身決定仏の大慈悲に答え奉ることであり

ます。仏恩報謝は仏者の理想であり、出家せるものの目的であります。私たち

の異体同心、僧俗一体となって道はひとすじ、我が祖日蓮大聖人の御遠忌七百

年のご報恩謝徳の法会を奉り、至心に合掌し精進しご供養をさゝげつくした今

、ご生誕八百年に向って、御遠忌七五〇年に向って曇りなき精進を我が身に祈

って止みませぬ。精進と供養は私への通過儀礼であります。

 

二 布施

 

布施とは

 布施とは、

 与えること。ほどこし。喜捨。恵むこと。金や品物を与えることばかりでな

く親切な行ないも布施です。信者が僧に財物を施すことを財施、僧が信者のた

めに法を説くことを法施という。通俗的にはいつくしみのことをいいます。

 仏教では、

 布施波羅蜜多とよび、財物を与えて、飢餓などの苦しみから人びとを救済し

、生活方法や技術を教え、解脱の道を説いて生死の苦しみから人びとを救い、

盗賊や猛獣などからのがれさせて、恐怖に苦しむ人びとを救済することをさし

ています。(仏教語大辞典)。

 布施はもともとは、古代インド語ダーナ(dana)の訳で、施ともいい、

仏教修行の重要徳目で、むさぼりのない心で仏法僧や貧窮などに自己の所有物

を施しあたえるという意味です。一般に使う旦那の語もダーナの音訳檀那から

転化したものです。出家は生産にたずさわらなかったので、釈尊当時は最小限

の衣食を受けるにすぎなかったのですが、教団の増大にともない出家社会と在

家社会との密接なつながりをつくりあげる思想として発展し、在家の財施に対

して出家の法施の説が生じたのです。

 布施の功徳についてもいろいろの説がありますが

1 これによって仏徒の真理、修行目的を達しうること。

2 社会生活上いろいろの好条件に恵まれること。また自己の功徳を近親、他

人にも及ぼし自己の再生の場合にも及ぼしうることなどがいわれています。

 

法話 財施と法施

 ほとんどの人がお金を包んでお坊さん(寺)に差し出すことが「お布施」で

あると思っているのではないでしょうか。これも勿論布施の一つですが、布施

とは、本来、無一物の者にもできる行ないです。身心共に相手に不快感を与え

ないように心がけ、なごやかな顔で、相手にもおもいやりを持ち、やさしい言

葉づかいで接することができれば、それは立派な布施です。

 布施とはまた供養にも通じます。法華経によれば「最妙の色声及び香味触を

もって持経者に供養せよ」と説いてあります。我々の人生は多くの人々と接し

て生きていくわけですが、自分のできる範囲で、全身全霊を打ちこんで、仕事

にも、人間にも捧げることができれば、最も良い布施になります。この言葉は

特に、法華経を信じ、説法する人(持経者)に対して供養せよと言われている

のですが、説法する人とは僧侶も含め、法華経を信じている一般の人に対して

言っているのです。法華経は世尊の形見であり、最も勝れた経であり、世尊の

亡くなった後は、世尊になりかわって存在する信仰の対象なのです。この法華

経を信じ布施する人は、世尊のお使いであり、世尊がこの人の肩に荷われ世尊

の行ないと同じことをするわけです。このため、法華経を信じる人は、お互い

に礼拝し、供養しなさいと言われております。

 寺と檀家の関係では、どのような布施が理想的かと申しますと、檀家の人が

寺にお金、品物等を捧げる(これを財施という)そして御本尊、御先祖に対し

て、清い気持で拝む(これを恭敬施という)このような布施の行ないが寺を繁

栄させ、寺を守る僧侶とその家族らを助けることになり、御本尊、御先祖にも

喜こばれ、御先祖から頂いた自分の体なのですから、自分自身にも喜びが戻っ

てくるのです。これに対し、寺(僧侶)より、心の教えを説いて与え(これを

法施という)、それにより檀家の人々が、不安や種々の苦悩からのがれること

ができ、安らぎを得ることになれば(これを無畏施という)財施に報いること

ができ、理想的な関係といえると思います。お寺にお参りしたならば、僧侶よ

り、何か一つでも、どんなことでもよいですから人生の糧を得て帰るようにな

れば、正しい意味の寺と檀家の関係となるのです。そして単にお金や品物だけ

でなく、持経者となって、自分のでき得る限りのエネルギーを、正しく教えの

ために捧げる(これを身命施という)ことができるようになれば、菩薩の行な

いと同じ、最良の「布施」になるのです。日蓮聖人はこのような、菩薩と同じ

行ないを生涯続けられました。私たちも、その教えにもとずいて、真剣に命を

かけて人のためにつくすことが大切なのです。

 

三 合掌

 

合掌とは

 合掌とは、日蓮宗では「合掌は精誠一心の相であって、心気を合一にし些の

雑念なく専心に仏を念じ礼拝を行ぜんがための形である」とされてます。

 合掌の形にはいろいろな種類があります。

 大日経疏には、次のような十二種の形が示されています。

1、堅(賢)実心合掌 両掌を堅く合せて指先を揃え、掌の間をあけない形

2、虚心(こしん)合掌 堅実心のようにして掌と掌の間を少しあけた形

3、未敷蓮華(みふれんげ)合掌 虚心のようにして掌と掌の間をもう少し開

  いて蓮の華の蕾のうちのような形

4、初割蓮(しょかつれん)合掌 未敷蓮華のようにして親指と小指をつけて、

  ほかの指は開いて、丁度蓮の華が少し開いた時のような形

5、顕露(けんろ)合掌 両掌を上に向けて揃えた形

6、持水(じすい)合掌 顕露合掌のようにして親指以外の指先をつけた形

7、帰命(きみょう)合掌 右掌の指を上にして十指を真直ぐにのばしたまま

  指先を浅く交叉させた形

8、反叉合掌 両手の背を合せ右手の指を上にして交叉させた形。即ち帰命合

  掌の裏返しの形

9、反背合掌 左掌を下に向け、その上に右掌を上に向けて乗せ、両手の背中

  を合せた形

10、横柱指合掌 左掌を上向きにした上に右掌を上向きにして重ね、両中指の

  先をつけたまま折り曲げた形

11、覆手向下合掌 両掌を下に向けて両親指を並べてつけたまま両中指の先を

  つけた形

12、覆手合掌 両掌を下に向け両親指を並べてつけ、ほかの指は真直ぐにのば

  した形

 日蓮聖人は合掌について、次のように示されています。

 御義口傳の中に「合掌とは法華経の異名也 向佛とは法華経に値い奉ると云

う也 合掌は色法也 向佛は心法也 色心二法妙法と開悟するを歓喜踊躍と説

く也 合掌に於て又二の意之あり 合とは妙也 掌とは法也 又云く合とは妙

法蓮華経也 掌とは二十八品也 又云く合とは九界 掌とは仏界也 九界は権

 仏界は實也 妙楽大師の云く九界を権となし仏界を実となす 十界悉く合掌

の二字に納て森羅三千の諸法合掌に非ることなき也 惣して三種の法華の合掌

之あり」「三摩耶とは十界所持の物也 種子とは信の一字也 いわゆる南無妙

法蓮華経を改めざるを云う也 三摩耶とは合掌なり」「礼拝とは合掌也 合掌

とは法華経也」等と説かれているのです。

 日蓮宗の合掌は、日蓮聖人の説かれている処から判ずると、両掌が密着して

いなければならないと考えられます。

 すなわち十二種の合掌のうちの堅実心合掌でなければならないのです。日蓮

宗宗定法要式に「左右の指掌を密着し、中指の頭を咽喉の高さにして両栂指の

第二関節を軽く胸につけ、両肘を特に張らず脇の下へ自然に垂れる」とあるの

で、これらの事を念頭において心から合掌しましょう。

 

 

四 葬儀

 

葬儀の意味するもの

 葬儀とは、葬送の儀式、法要という意味です。すなわち、亡くなった人の冥

福を祈り、その菩提をとむらうということです。

 葬儀は、人生のフィナーレであります。また、死者と生きのこった者とが、

最後の「別れ」をつげる場でもあるといえます。それは、亡き人をいたみ、そ

の思いやこころざしをしのんで、心からみ仏の世界に生まれ変わることを祈念

する時ともいえましょう。

 「葬」という字は、死体を上と下で草をもっておおうと書きます。つまり、

亡き人の遺体をかくして見えなくするという意味です。私たちは、死をちょく

せつ体験することはできません。他人の死を通して死を間接的に体験すること

だけしかできません。

 しかし、人の死に出合うことによって、今まで見えなかったもの、つまり命

が無常で、はかないという気持とか親しい人との別れの悲しみとか、命の大切

さなどをこと改めて思うのです。亡き人の遺体がかくされ見えなくなると、こ

れまで見えなかった亡き人のえらさ、すばらしさ、あるいは死の意味が見えて

くるのです。

 葬儀とは、こうした気持からなされるもので、遺族の深い悲しみに心をあわ

せながら、厳粛に死者を葬る法会なのです。それは、この世における人生の役

割をはたして生涯を閉じた亡き人を追福し、礼をつくすものであります。

 同時に、冷静に考えてみますと、葬儀に参列し、香典や供花を供えるのも、

これをうけとり、葬儀をいとなむ者も生きている人なのですから、生きのこっ

た者が死の厳粛な事実を通して「生きる意味」を考える時ともいえるのです。

死者と生者とをむすぶ生前からの縁を大切にして、その別れにあたって死者と

生者とが真に心をかよわせ、生者が亡き人のこころざしをうけつぐことを誓う

ところに、葬儀の意味があります。

 葬式無用論がいちじいわれていました。たしかに派手すぎて心のこもらない

葬式を形ばかり行なうことに問題はありますが、しかし葬儀は私たちの先祖の

残してくれた死者をいたみ成仏を願ういとなみであり、死者と生者とが悲しみ

のうちにもそのこころざしをうけつぎ、亡き人と心をかよわせて追善の供養を

行なうことであります。私たちは、み仏の教えにかない心のこもった葬儀をい

となむことが大切なのです。

 

法話 葬儀のこころえ

 日蓮聖人は、鎌倉時代法華経によって宗旨をたてました。その教えに帰依す

る信者に対し、法華経の信心厚ければ、死後は必ず霊山浄土において釈迦牟尼

仏に面奉し、成仏することが出来ると、死後の安心をおときになりました。日

蓮宗の葬儀は法華経を信じ南無妙法蓮華経の題目を受持すれば、霊山浄土に行

くことが出来ると教え、これによって営まれております。

 このような日蓮宗の葬送の儀式の基本がととのえられたのは、江戸の末期、

加賀の充洽園立像寺の優陀那日輝和上の力によるもので、現行の葬儀の式次第

は日輝和上の充洽園礼誦儀記が底本となり宗定日蓮宗法要式が出来たと聞いて

おります。わが国では葬儀が一般庶民の間に根づくまでにはおよそ五〇〇年の

歳月が流れており、今日の葬送に関する慣習も仏教以前からの葬送習俗が仏教

に習合し、吸収されあるいは併存する形のものや、又全く新たに生まれた形の

ものなどから、さまざまな形の習俗がみられます。これがしきたりとして残さ

れているようです。こうした伝統的慣習のなかに庶民が死者を送る悲しみと愛

惜やいろいろな信仰とが一体となって結晶しているのです。

 地方によっては地方の慣習があり、その儀式も一様ではありませんが、近年

は日蓮宗法要式によって儀式を行なう所が多いようです。いずれにしても霊が

霊山浄土に往詣することが出来るように行なう事です。法華経の功徳により釈

迦牟尼仏に面奉し成仏することができるのです。私は今東京で一般に行なわれ

ている儀式についてお話を致したいと思います。人生には三大儀式があります

。「誕生の時」「結婚の時」「葬送の時」−これが三大儀式です。そのなかで

一番大切な儀式が葬儀です。死亡したときは一番先に菩提寺に行き住職に相談

して住職の指示を仰ぐことです。では臨終から葬儀までを順にお話ししましょ

う。

 「末期の水」。臨終間際あるいは死亡直後の死者の口に捧げる水を末期の水

または死水といいます。「湯潅」といって遺体を棺に納める前にぬるま湯にア

ルコールを入れ脱脂綿にて清める方法が一般的です。次に納棺するまでの間遺

体はなるべく暖めないよう薄い敷布団に寝かせ両手を胸のあたりで合掌させ数

珠をもたせ北枕にねかせます。北枕にする由来はお釈迦さまが入寂されたその

時に北方に枕したことからでているのです。次に枕経を読経してから納棺しま

す。「通夜」では親族知人集って故人のめいふくを祈ります。「葬儀と告別式

」は住職の引導によって霊山浄土に往詣するための式なのです。引導とは人を

導くことで法華経方便品に「衆生を引導して諸々の苦を離れしむ」と説かれて

おります。導師が死者に法華経成仏の道を示し霊山浄土のお釈迦さまのもとに

至る心得をさとす文章を読誦することを「引導を渡す」といいます。

 以上にて葬送の儀式由来など終らせていただきます。

 

五 戒名

 

 「戒名」とは、仏教に帰依し、修行の掟(戒律)を守ることを誓った時に授

けられる名で、仏教徒らしく生きるための指針となるものです。従って、戒名

に上下の区別はなく、昔から二字ときまっていました。後世になると、その人

の信仰心や身分、あるいはお寺や社会に尽くした功績などを評価して、院号や

日蓮宗特有の日号が加えられ、四字以上の長い形式が生まれました。その位に

も、成人の場合、信士・信女・居士・大姉などが使われるようになりました。

戒名にこれらの附属物をひっくるめたものが「法号」で、厳密には戒名と区別

されなければなりませんが、しかし、今日では、法号も戒名も、ほとんど同じ

意味に使われています。

 いずれにしても、法号は生きているうちに菩提寺の御住職につけていただく

べきもので、他のお寺でつけてもらったり、自分で勝手につけたりしてはなら

ないものです。しかし、現状は、人が死んだ後、遺族が菩提寺からいただくと

いうことが多いようです。

 私ども住職の立場から見ていると、生きているうちに戒名をいただいて仏道

修行に励む人は稀で、檀家の方々の戒名への関心は、専ら法号の善し悪し(文

字の数の多少)にあるらしい。そして、その等級は金銭次第でどうにでもなる

ものだと思っているらしい。しかし、戒名は仏道修行の指針なのだから、これ

ノ善し悪しのあるはずがなく、誰でも平等に二字の善名なのです。院号などの

お飾りがついて字数の多くなったものを「いい戒名」だと思っている人が多い

が、それは素人考えです。ただ、法号にはその人の生涯の功労を評価してこれ

を顕彰する意味があるから、人の功績にちがいがある以上、それなりに法号の

形式に差があるのは止むを得ません。

 ところが、この辺の道理がわからず、ふだんは不信心で且つろくな業績もな

いのに、法号だけは立派なものを欲しがる見栄っぱりが意外に多い。これは、

落第生が優等賞を欲しがるようなもので、初めからできない相談なのだが、そ

こを金で解決しようとして、かえって過ちを犯すことになるのです。そんなこ

とで世間をだますことはできても、お釈迦さまやお祖師さまは、すべてを御存

じであるから、実績のない者が戒名だけ立派なものをいただいても、霊山浄土

の門をくぐることは許されない。堂々と門を入って行く人々を、門の外にうず

くまって指をくわえて見ているほかはないでしょう。

 日蓮大聖人曰く「信心だにも弱くば、いかに日蓮が弟子檀那と名乗らせ給ふ

とも、よも御用ひは候はじ。心に二ッましまして、信心だに弱く候はば、峰の

石の谷へころび、空の雨の大地へ落つると思し召せ。大阿鼻地獄疑ひあるべか

らず。其の時日蓮を恨みさせ給ふな。返す返すも各の信心に依るべく候」と。

何と言っても、ふだんが大事なのであります。

 

六 日蓮聖人と追善供養

 

 日蓮聖人は、一般的にいう三宝供養を釈迦仏(仏)・法華経(法)・法華経

の行者(僧)に対する供養として規定しています。「釈迦仏・法華経」への帰

命、随喜、讃歎、尊敬とその信心に励み身に読み教えをひろめてゆく実行を重

視しました。法華経の題目を唱え、法華経の信心を貫くことが供養の根本であ

り実践的あかしである、と示しているのです。また、信徒が「釈迦仏・法華経

」と法華経の行者に対し志をあらわして供物をささげる功徳の重さをしばしば

説き、追善供養を修す志の大切さを教えています。

 日蓮聖人をめぐる「日蓮一門」の行なった供養には、三宝供養・施餓鬼供養

・開眼供養・納骨供養・墓前供養・塔婆供養などがあります。これらはいずれ

も、三宝への供養や仏事を通してなされ、「事理供養」(身と心をもって行な

う供養)としてさし示されました。

 このうち追善供養とは、死者の冥福を祈り成仏を期す信仰的いとなみです。

死者と縁を結んできた生者は、そのために後から追って信心に励み善根功徳を

つみ供養物などをささげ仏事をいとなむことをいうのです。

 追善供養の仏事には、初七日より七日ごとに四十九日忌までの追善と百ヶ日

忌・一周忌・三回忌・七回忌・十三回忌・十七回忌・二十三回忌・二十七回忌

・三十三回忌および五十回忌に至る追善として修されてきています。

 これら年忌追善供養と関連して納骨・墓前・塔婆供養も修されており、いず

れも「釈迦仏・法華経」への「事理供養」を実行していく法華経の行者として

の志のあらわれであると示されています。

 そこで、次にご遺文の一節をとりあげ、追善供養を中心とした「事理供養」

の内容についてアウトラインをあげてみましょう。

 

追善回向

 

1。  通夜回向

あやなくつぼめる花の風にしぼみ、満月のにわかに失たるがごとくこそをぼす

らめ。

まことともをぼへ候はねば、かきつくるそらもをぼへ候はず。又々申すべし。

 

(『上野殿後家尼御前御書』弘安三・九・六・五十九歳・身延にて)

 人はだれしも、死からまぬがれることはできない。親子の別れ、夫婦の別れ

、親しき人との別れ、そのいずれをとっても、別れは忍びがたい。

 親子の別れのうちでも、子がとどまって老いた親が先立つ場合は、悲しみの

中にもなお人の世の習いと思いなぐさめることもできよう。しかし親をとどめ

て若い子が死出の旅に赴くことほど、たとえようもなく深い嘆きはない−。

 弘安三年(一二八〇)九月五日。南条七郎五郎が急死しました。わずか十六

歳でした。あとには老いた母がのこされました。

 日蓮聖人は、この悲しい知らせを聞くと翌六日に母なる後家尼に手紙を書き

送りました。

 「南条七郎五郎が死去された事をお聞きした。人は生まれたからには死なね

ばならぬとは世の習いであることは、賢い者も愚かな者も上下一同に知ってい

ることであり、今さら嘆いたり驚いたりすることはない、という事は自分も知

り人にもそう教えてきたことであるが、いよいよその時に当ってみると、夢か

幻かのように思われて、いまだ世の常であると分別できない思いがする。まし

て母であるあなたにとっては、どんなにかお嘆きの事であろう。つぼみの花が

風のためにもろくも萎み、満月の雲の中に急にかくれてしまったようだ。本当

に亡くなられたとも思えないので、この手紙を書く気にもなれない。くわしく

はまたの折に述べたいと思う」

 日蓮聖人は、このように書き綴ったのち再び筆をとりなおして「追伸」をし

るしました。

 「さる六月十五日にお会いした時には、あっぱれ度胸のある者だ、男らしい

男だなあ、と思っていたのに、またと見ることができなくなったのはまことに

悲しい。しかし釈迦仏・法華経に身を入れて信心していたから、臨終はさぞ見

事であったであろう。心は亡き父と一所に霊山浄土に参って手をとり顔を合わ

せて悦びあっているのであろう。あわれなり、あわれなり−」

 日蓮聖人は、死は一定という厳しい事実を見すえながら、なお死を眼前した

時に信じられぬほどの悲しみが切なくこみ上げてくる心を抑えることができま

せんでした。亡き七郎五郎が青春のまっ只中で先立っていった悲嘆を心に抱き

しめ、さらに最愛の子を失った母に慟哭の念をかよわせました。死を見つめる

心とは、傍観して悟りすますことではなく、同慈同悲の精神をささげることに

ある点を日蓮聖人は示しています。

 同時に日蓮聖人は、ありし日の七郎五郎の思かげを想いおこしながら、「釈

迦仏・法華経に身を入れて信心していた」七郎五郎の生きた功徳の足跡を明ら

かにし、臨終が見事であり必ず霊山浄土に参って同じく法華経に命をささげた

父兵衛七郎と再会する事を確信をこめて後家尼に語っています。日蓮聖人には

、法華経の信心を貫いた七郎五郎がその善根功徳によって仏所に趣き往く姿が

ありありと観えていたのです。

 こののち日蓮聖人は、しばしばのこされた母に向って次のように語っていま

す。

「母としてわが子を恋しく思いこがれるならば、南無妙法蓮華経と唱えて亡き

夫、故五郎どのと三人いっしょに一つ所に生まれ変わりたいと願うがよい」

「釈迦仏をお使いとして霊山浄土へ参って会われるがよい。南無妙法蓮華経と

唱える女人が、思う子に会えぬことはないのだ」

 亡夫も亡き五郎も南無妙法蓮華経と唱えて霊山浄土に往った。その心も身体

も永遠に題目を唱えるうちに、霊山浄土のうちにたしかにある。それゆえに、

後家尼もまたあとを追って法華経の題目を唱え功徳を積むことによって再会と

再生は約束される、と日蓮聖人は教示するのでした。

 回向とは、一般的に仏の功徳を衆生に分け与え、自らの修めた善根を他者に

ふり向けることといわれています。回とは善根を施すことであり、向とは功徳

を積んで仏所に趣くことです。法華経の説く《題わくば此の功徳を以て、普く

一切に及ぼし我等と衆生と皆倶に仏道を成ぜん》の文は、回向のエッセンスで

あります。日蓮聖人は、「釈迦仏・法華経に身を入れて」信心に励むことが善

根功徳を施すことであると教えています。その法華経の信心が霊山浄土に趣く

回向の根本です。法華経信仰による〈散善〉が同時に亡き人への〈追善〉に向

い、死者への思いをこめた一念の〈追善〉とは、法華経の信心によって功徳を

修め分け与えていく生き方に励むことであると語っているのであります。

 回向のこころは、

1. 同悲の念をささげ

2. 亡き人の人生や善根を追想し成仏をあかし

3. 生者が死者の遺志をうけついで法華経の信心に励んで功徳をふり向け「仏

道を成ぜん」とすることが追善の根本である点などを願うところにありま

す。

 

2。 四十九日忌回向

ゆめかゆめならざるか、あわれひさしきゆめかなと、なげきをり候へば、うつ

つににて、すでに四十九日はすぎぬ。まことならばいかんがせんいかんがせん

(上野殿母尼御前御返事・弘安三・一〇・二四・五十九歳、身延にて)

 弘安三年(一二八〇)十月二十四日、上野(南条)殿後家尼は、故七郎五郎

の四十九日忌に当り銭・白米・芋・すり豆腐・こんにゃく・柿・ゆずなど種々

な供養の品を身延山に送ってよこしました。

 日蓮聖人は、これらの品々を「釈迦仏・法華経のご宝前」に安置し、亡き七

郎五郎の菩提のために法華経一部、自我偈を数度読み題目を百千返唱えました

 故七郎五郎は、幼い頃から法華経を信じる賢父の跡を継ぎ二十歳にもならぬ

のに南無妙法蓮華経と唱えて仏となられた。「法華経を聞く者は一人として仏

になれない者はない」(法華経方便品)とはこのことである−。

 日蓮聖人は、法華経を燈明として暗闇たる死出の山、三途の河を越し亡父の

いる妙法蓮華経の国に生まれ変わることをさし示し、後家尼にこう語っていま

す。

 「故五郎殿が亡くなられてから、すでに四十九日である。無常は世の習いで

あるが、このことを聞く人でさえ忍びがたい嘆きであるのに、まして母となり

妻となる人にとってはなおさらのことである。あなたの心中は察するにあまり

ある」

 亡き子は心優しい男子であった。夫と死別した時、この子はおなかにいた。

この子の行末をたのみとして十四、五年を過してきた。それなのに、月を雲に

かくされ、花が風にふかれて散るように、愛する子を失った。

 「夢か夢でないのか、夢ならばあまりに長い夢かなと嘆きながら、夢うつつ

にもう四十九日になってしまった。もしも本当なら、どうしたらよいであろう

。咲いた花は散らずしてつぼみの花は枯れ、老いた母は残りて若き子は失って

いった。何たるなさけない無常の世の中であろう」

 日蓮聖人は、さらに深い同悲の心をこめ、亡き夫と七郎五郎が信用した法華

経に身をまかせ、南無妙法蓮華経と唱えて霊山浄土へと参り三人が一所に生ま

れ変わる仏道を後家尼に説きつづけるのでありました。

 

3。 一周忌回向

をとこは羽のごとし。女はみ(身)のごとし。羽とみ(身)とべちべちになり

なば、なにをもんてかとぶべき。

(千日尼御返事、弘安三・七・二、五十九歳 身延にて)

ちりしはな おちしこのみもさきむすぶ

などかは人の かえらざるらん

 愛する想いが強ければ強いほど、別れは悲しくつらい。日が過ぎ時がたつに

したがい、その悲しみはうすれるどころか一層深まってゆく。

 佐渡の信徒、阿仏房が亡くなったのは、弘安二年(一二七九)三月二十一日

のことでありました。その年の七月二日、妻千日尼は亡父の遺骨をわが子藤九

郎守綱に託して身延の道場に納めました。守綱は翌年の七月一日にも身延に来

て墓に詣でています。命日から少しずれますが、これは農作をすませてから遠

い道のりを越えて訪れてきたわけですから、一周忌・三回忌の仏事をいとなん

だ事実を意味しています。

 かつて佐渡に身をおいていた時、地頭や念仏者が監視している中を、千日尼

が阿仏房に櫃を背負わせて夜中にたびたび来て供養をしてくれたことは、日蓮

聖人にとっていつの世になっても忘れられない事がらでした。

 弘安元年(一二七八)に阿仏房は身延に足をはこんできました。その姿を見

た日蓮聖人は「盲目の者の眼があいた」ような気持がしたのでした(千日尼御

前御返事)。

 三度まで夫の阿仏房が身延山を訪問し供養をささげたこころざしは、夫とい

う羽をはばたかせた身としての妻の働きがあったればこそでした。また身とし

ての妻は夫がいるからこそ、わが命を燃え立たせ献身することができるのでし

た。「夫は柱、妻は横木、夫は足、妻は身体、夫は羽、妻は身」のきずなで夫

婦は結ばれているのでした。

 だが−「羽と身と別々になったら、どうして飛べようか。柱が倒れれば横木

は地に落ちてしまう。家に男がいなければ、妻にとって魂がなくなるのと同じ

である。仕事をだれに相談したらよいのか、うまい物をだれに食べさせるのか

。わずか一日、二日別れてさえ心細く思うのに、去年の三月二十一日に死別し

たまま、去年一年待ち暮らしても会えることなく、今年もはや七月になってし

まった。たとえ自身で来ないまでも、どうして便りがないのであろう。散った

花もまた咲き、落ちた果実もまたなる。春の風も去年と変わらず、秋の景色も

去年と同じであるのに、どうしてこの一事のみ変わって昔のようでないのであ

ろうか」

 日蓮聖人は、夫婦の別れをこのように述べ「この人ばかり死んで帰らぬとは

、実に天もうらめしく、地もなげかわしい。きっとこのように嘆き悲しんでお

られるであろう」と千日尼に同悲の心をこめるのでした。

 日蓮聖人は同時に、法華経の信心をつらぬいた阿仏房の成仏をあかし「法華

経の明鏡によって、その影を浮かべてみると、霊鷲山の虚空にかかる多宝仏の

宝塔の中で、釈迦・多宝の二仏に対面して、東向きに坐っておられると日蓮に

は見えるのである」と示しています。

 それ故に、妻である千日尼は、亡夫への想いをこめ、夫婦の絆を永続させる

ために「急ぎ急ぎ、法華経を糧料として、霊山浄土へ参って、夫の阿仏房にお

目にかかるがよい」と、追善供養の道を説いています。

 

4。  十三回忌供養

母の生きてをはせしには、心には思はねども一月に一度、一年に一度は問ひし

かども、死し給ひてより後は初七日より二七日乃至第三年までは人目の事なれ

ば形の如く問ひ訪ひ候へども、十三年四千余日が間の程はかきたえ問ふ人はな

し。

(刑部左衛門尉女房御返事、弘安三・一〇・二十一。五十九歳、身延にて)

 刑部左衛門尉女房より、「十月三日は母の十三年に当たりますので、供養と

して銭二十貫文をお送りします」との手紙が届きました。

 日蓮聖人は、釈尊が父母の孝養のために法華経を贈ったことを述べつつ、次

のように想起しています。

 「日蓮の母が存命であった頃、お言葉にあまりに背いてきたので、母が亡く

なったことがいかにも悔しく思う。それで釈尊一代の聖教を考えて母に孝養し

ようと励んできたので、母を弔おうとされる人々は自分の事のように思われ、

あまりにうれしく思うのである」

 父母は、つねに子を思う。しかし、子は父母のことを同じように思わない。

たとえ、この世では孝行するように思えても、亡くなった後の世の行末まで心

配する人はいない。

 「母が生きている時は、本心からでなくても一月に一度、一年に一回ぐらい

は心配することもあるが、亡くなった後は初七日から二七日(十四日)ないし

三回忌までは、世間体もあるので形ばかり弔いはするが、十三年四千余日の後

まではたえて問う人はいない」

−それなのに、あなたは母の生きている時も、一日片時の別れでさえ千万日も

別れていたように思っていたのであるから、十三年四千余日もの間いまかいま

かと亡き母の訪れを待ち望んでいたことであろう。

 日蓮聖人は、亡き人の十三回忌をいとなむ志の深さと功徳の重さを語り、そ

の功徳によって亡き人も法華経を聞いて六道のけがれを離れ霊山浄土へ参った

ことを示したのであります。

 

5。 十三回忌自我偈読誦供養

慈父閉眼の朝より、第十三年の忌辰に至るまで、釈迦如来の御前に於て、自ら

自我偈一巻を読誦し奉りて、聖霊に回向す。

(法蓮抄・建治元・四・五十四歳、身延にて)

 建治元年(一二七五)曽谷入道法蓮は父の十三回忌に際し日蓮聖人に供養の

品を送りました。そえられた手紙には「慈父聖霊の第十三年に当たり法華経五

部を転読し奉りました。私は、慈父が眼を閉じた日より第十三年の忌辰に至る

まで、釈迦如来の御前において、自ら自我偈一巻を読誦し奉りて聖霊に回向し

てまいりました」との諷誦の文がしるされていました。

 日蓮聖人は、亡父の追善に励んできた法蓮の供養行を讃めたたえ、法華経の

文字が皆生身の仏であるから読誦の経文はそのまま仏となって亡父を救い法蓮

は子として真の孝養を尽くしたことになると教示しています。「慈父十三回忌

追善供養に読誦した法華経の文字生身の仏となる事」と、聖人自ら題されてい

ます。

 日蓮聖人は語ります。「仏は、内典の孝経である法華経をさとられ、生きと

して生ける者をすべてわが父母として孝養を尽くしその功徳を身に備えられた

。そして、この仏の功徳を法華経を信ずる人に譲られたのである。今、法蓮上

人もこれと同じように教主釈尊の功徳がその身に入りかわっているのだ。法蓮

上人の身は亡夫が残した容貌であり、法蓮上人の功徳によって亡父の成仏は疑

いない。法華経は釈尊一代の骨髄であり、自我偈は法華経二十八品の魂である

。三世の諸仏は寿量品を命とし十方の菩薩も自我偈を眼目としている。諸仏は

自我偈を師として仏となられた。自我偈は真実の成仏をなしとげる広大なる功

徳を持っている。しかも法華経の文字は、悉く生身の仏である。それ故に、法

蓮上人が毎朝自我偈を読誦していることは、口より金色の文字を出しているこ

とになる。その文字は日輪となり釈迦仏となり大光明を放って一切にひろがり

亡父のおられる処まで尋ねてゆき〈私を誰と思うか。私は子息法蓮が毎朝読誦

する所の法華経の文字なり、その文字はあなたの眼となり耳ととなり足となり

手とならん〉と懇切に語るであろう。その時亡父聖霊は〈わが子息法蓮は子で

はない。導いてくれた善知識である〉と言って娑婆世界に向かって拝まれるで

あろう。これこそ真実の孝養である。」

 ここに、十三回忌など年忌回向における法華経ないし自我偈読誦によって追

善供養の功徳を修めることの意義があかされています。

 

6。 納骨供養

教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し、五体を地に投げ合掌して両眼を開き尊容

を拝し、歓喜身に余り心の苦しみ忽ち息む。我が頭は父母の頭、我が足は父母

の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり。

(忘持経事、建治二・三、五十五歳、身延にて)

 日蓮聖人のいる身延山は、〈法華経の道場〉といわれていました。信徒は遠

い道をもいとわず参詣し供養の品を送り届けつづけ、また遺骨を納めて仏事を

いとなむことも行なわれました。阿仏房の遺骨を子の守綱が身延に納骨し仏事

と墓参を修したように、下総の信徒富木入道常忍も九十才で亡くなった母の遺

骨を首に懸け苦難の道を越えて身延を訪れ仏事納骨の供養をいとなみました。

 

 富木入道は、法華経読誦の声がひびき談義の言葉が山中に聞こえる庵室に入

り、教主釈尊のご宝前に遺骨を安置して仏事をおこなったのです。「わが頭は

父母の頭」。追善供養を修す子の功徳によって、母は罪を消して仏となり、子

もまた母を亡くした心の苦しみをたちまちなくすことができ親子一体の成仏は

こうして法華経供養の功徳によって実現するのです。納骨供養の志とはおよそ

次のごとくであります。

法華経を讃歎する人、死者の骨を供養せば、人の身は、すなわち仏の身となる

。これを即身というなり。

人の身より去りゆく魂をとりかえし、死者の骨に入れるならば、かの骨変じて

仏のみ心となる。これを、成仏というなり。

即身の二字は身の教え、成仏の二字は心の教え。死人の身と心は変じて仏の悟

りを得るなり。これ即ち即身成仏なり。

「深く罪福の相を達して遍く十方を照らしたもう。微妙の浄き法身、相を具せ

ること三十二」これ、即身成仏の法門を示す文なり。

(木繪二像開眼之事)

 

7。 塔婆供養

過去の父母も彼そとばの功徳によりて、天の日月の如く浄土をてらし、孝養の

人竝に妻子は現世には寿を百二十年待ちて、後生には父母とともに霊山浄土に

まいり給はん事、水すめば月うつり、つづみをうてばひびきのあるごとしとを

ぼしめし候へ等云々。此より後々の御そとばにも法華経の題目を顕はし給へ。

 

(中興入道御消息、弘安二・十一・三〇・五十八歳、身延にて)

 弘安二年(一二七九)佐渡の信徒中興入道が千里の道を遠しともせず、身延

の日蓮聖人のもとに訪れました。

 幼くして死去した娘の十三回忌に当たり、仏事を修し卒塔婆を建てるためで

ありました。

 日蓮聖人は、中興入道夫妻が亡父次郎入道の志をうけついで変わることなく

、法華経の行者への供養をささげてくれたことに感謝し卒塔婆供養によって亡

き父母も亡き娘もそして中興入道夫妻も仏になることを語り示しました。

 「幼くして亡くなった娘御前の十三回忌に身延へ来られて、一丈六尺の卒塔

婆を建てられた。その正面には南無妙法蓮華経の七字を書きあらわしてある。

そこで、北風が吹けば南海の魚はその風に当たって大海に沈んでいる苦しみか

ら離れ、東風吹けば西山の鳥や鹿もその風に身をふれることによって畜生道か

らのがれて都卒の内院に生まれることができる。まして、かの卒塔婆に随喜し

手にふれ、直接眼で見る人々がどうして成仏せぬことがあろうか。

 亡き父母も、かの卒塔婆の功徳によって、天の日月のように浄土を照らす。

追善供養した孝養の人や妻子は、現世に長寿をたもち死後にはその功徳によっ

て父母と共に霊山浄土に参ることができる。それは、水が澄んできれいならば

月の影がうつり、鼓を打てば響のあるように、疑いなく一つ所に生まれると考

えるがよい。これより後も、法華経の題目を書きあらわした卒塔婆を建てられ

るがよい」

 法華経の題目を書きあらわした卒塔婆を建てることが、生者・死者ともに現

世安穏・後生善処の功徳をもたらすことをあかしているのです。

 

 

8。 墓前供養

故殿は木のもと、くさむらのかげ、かよう人もなし。仏法をも聴聞せんず、い

かにつれづれなるらん。をもひやり候へばなんだ(涙)もとどまらず。

(春之祝御書、文永一二・一、五十四歳、身延にて)

 日蓮聖人は鎌倉より駿河国富士郡上野郷に赴き、亡き信徒、南条兵衛七郎の

墓参をしたことがあります。

 「南条殿が亡くなられてから、まだそれ程時がたったわけでもないのに、万

事にわたって折にふれて懐しく思い出され、壮年にて亡くなられた別れが悲し

くもある」との思いを胸に墓へ詣でて法華経読誦の供養をささげました。さら

にこの後、幕府や念仏者らの眼もあるので弟子をつかわして、墓前にて自我偈

を読誦させもしました。

 そして、亡き南条兵衛七郎の子である七郎次郎時光にたいして次のように語

りました。

 「亡父は、木のもと草むらの影におられて通ってくる人もなく、仏法を聴聞

しなければどんなにか寂しいであろう、と思いやると涙もとまらない。あなた

が法華経の行者としてお墓参りされたならどんなに嬉しく思われるであろう」

 

−亡き父の聖霊 わが子を

身を若くして、この世に留めおくなり。

姿のたがわぬ上 心も似るなり。

亡き父、このたび法華経にて仏となり給う。

ここに御墓に参り、墓前にて法華経を読誦して廻向し奉るなり。

 「花は根にかえり、真味は土にとどまる。この功徳は、聖霊の御身のもとに

あつまるべし」−ここに墓前供養の志と功徳があるのです。

 

法話 ある納骨供養の話

 ただいまは、おじいちゃまの尽七日忌のご回向に併せて、ご納骨に際しての

ご法要を勤めさせていただきました。みなさんお揃いで、ご参列ご焼香くださ

いましたことを、おじいちゃまもきっとお喜びのことと思います。

 それにつきまして、先日のご葬儀の際のことですが、ちょっと私の心にとど

めておいたことがありましたので、この場をお借りして少々お話し申し上げた

いと存じます。

 それは、火葬場でいよいよお骨揚げというときのことでしたが、竃の扉が開

いて、おじいちゃまの白いお骨が、台に長く寝た形のまま、まだ紅い残り火を

チラチラさせながら、皆さんの前に運ばれてきたときのことでした。

 私などこれまでに何度も立ち会ったはずなのですが、厳粛な気持の引き締る

瞬間でした。そのとき私のすぐ後ろで、ちょっと声が聞えたものですからふり

向きますと、きっと今日もお見えのご親戚のどなたかでしょう。女の方が、お

子さんの顔をご自分の喪服におしつけて、それはどうやら,お骨を「見てはい

けない」とおっしゃっているようでした。

 おそらくその方は、前日まであのように元気だったおじいちゃまが、突然倒

れたまま動かない人となり、そして今は眼の前でもう白いお骨だけに、と変っ

てしまったその残酷なほどの現実を、ご自分の息子さんに見せたくなかったの

でしょう。それは、その方ご自身の悲しみの気持の正直な表われだったとも思

います。

 私はそのとき思わず、「男の子だ。しっかり見せてあげなさい」と、ひとこ

と声が出てしまいました。そして、すぐ収骨の読経に入りました。

 そのあと、私はそれとなく気をつけていましたが、そのお母さんは私の言っ

た意味がわかってくださったのか、ご自分もすぐに姿勢をシャンと正して、お

骨を壷へ納めるときには、そのお子さんにも作法を教えていらっしゃいました

 それからは、すぐに帰り仕度があわただしくなって、いまはもう、その方が

どなただったのやら私には分らなくなってしまいましたが、私がその時、その

方に申し上げたかったのは、いまこそ、お子さんの一生にかかわる大切なこと

「人間は、必ずこのように一度はお骨になるんだよ」ということを教える絶好

の機会ですよ、ということなのです。

 私ども、宗祖と仰ぐ日蓮聖人には、ちょうどこの辺りのことを教えられたお

言葉があります。妙法尼という女の方に宛てられたお手紙の中に書かれている

のですが、人の寿命とは無常なものだ。身分の高い人も低い人も、としよりも

若者も死ぬときには順番なしだ。だから「まず、臨終のことを習うて後に他事

を習うべし」、といわれているのです。

 何を学ぶよりも、人はまっさきに「自分もいつかは死ぬんだ」と自覚するこ

と、そして,「死とは何か」を学ぶべきだ、と教えているのです。

 これはよく考えてみると、実に厳しい。厳しいというより、恐ろしいお言葉

だと思います。そして、このように表現される聖人の真意が、われわれは死と

いう事実から逃げずに、それをまっすぐ視つめることによって、生きていると

いうことの意味、その有難さがわかる。いざ自分が死を迎えたときに、「いい

一生であった」と安心して死ねるように、現在を一所県命に生きなさい、とい

うところにあると私は思うのです。

 こんにちは、親を親とも思わない、先生を先生とも思わない子供が増えてい

ると、大人たちは嘆きますが、「お骨になった肉親」を通じて、この世の「こ

とわり」というものを「知らず悟ってゆく」、「どのような生き方をすればよ

いか考えていく」、そういう人間の「心」というものを教えてやれるのは、な

かなか学校だけではむずかしいことかもしれません。

 本日からは、おじいちゃまはいよいよお墓の中に入って安らかな眠りにつか

れますが、どきどきはお墓の前で、おじいちゃまの思い出を語ったり、ご親戚

・知人みなさんのご繁栄をご報告いただけますよう、お祈りしています。

 

法話 一億二百万字イコール七字

 本日は山川家のおばあちゃまの三回忌のご法要、只今無事終了いたしました

。皆さま方がご熱心にお唱え下さったお題目のお功徳はすべておばあちゃまの

ところに届き、生前のあのお姿、あのお声で「今日は本当にありがとう」とお

っしゃっておいでであろうと信じます。

 さて、法要中に皆さまとともにお唱えいたしましたお題目は、今から七百年

前、日蓮聖人が「これこそお釈迦さまのみ教えの真実」とお示し下さったもの

であります。

 日蓮聖人はこの七文字のお題目をみつけ出すために一切経(お釈迦さまがご

一代四十年かゝってお説になられたお経のすべて)を三回およみになられたと

伝えられております。

 この一切経、主な仏教国のことばに訳されておりますが、現在私などが読ん

で勉強しているのは国訳一切経と申しまして日本語に訳したものであります。

二百五十五冊あります。内訳は印度部一五五冊、中国、日本部百冊です。

 先日何気なしに頁をめくっておりましたらこんなことに気がつきました。日

本語訳一切経はA5版で一冊平均四百頁、これに二百五十五冊をかけますと十

万二千頁になります。次に一頁には千文字入りますから、かける十万二千頁で

一億二百万字ということになります。

 ということは、漢訳と和訳の差、内容的に多少の差はありましても、日本語

に訳してこれだけの量のお経を日蓮聖人は三回もお読みになられたということ

になります。その結論が南無妙法蓮華経の七文字であったのです。

 「お釈迦さまが四十年がかりでお説きになられたすべてのお経の功徳は勿論

のこと、ご生涯中にお積みになられたお功徳のすべてがこのお題目の七文字に

包含されている。あなたがこのお題目をお唱えすれば自然のうちにその功徳を

拝受することが出来る」と日蓮聖人はご教示下さっております。

 私たちは何気なしに南法妙法蓮華経とお題目をお唱えしておりますが、実は

その一遍のお題目には日本語に訳して一億二百万字分の功徳が含まれていると

言うのです。今日皆さんにお唱え頂いたお題目の数、参加者の数、それに一億

二百万字、これをかけると一体どれだけの功徳になるのでしょう。この膨大な

数のお功徳がおばあちゃまのご供養としてとどけられたわけでございます。

 もう一つ、このお功徳は唱えた本人にもめぐってくると教えられております

。ということは、本日ご参加の皆さまのお一人お一人にこのお功徳が届けられ

たことになるわけでございます。

 さてそこで、せっかく無量の功徳をもつお題目との縁が出来たのですから、

是非ひとつご自宅にお帰りになられたならば、お仏壇の前で朝は今日一日の安

穏を祈り、夕べには今日一日の無事を感謝するお題目をお唱えになられること

をおすゝめいたします。そのお功徳は積り積ってご家族の方々にわけ与えられ

家内安全・息災延命のご家庭となられましょう。亡き人も生きている人も共に

お題目のお功徳で安穏に過させて頂きたいものでございます。本日はまことに

ご苦労様でございました。南無妙法蓮華経。

 

法話 お墓にお題目を

 本日は墓参ご苦労さまでございます。こうしてよく墓参されること誠に尊い

ことでございます。

 日蓮聖人の御遺文に「根深ければ枝繁し 源遠ければ流れ長し」とのお言葉

がございます。あの立派な木をごらん下さい。あのような立派な木になればな

る程、根がしっかりはっているのです。この一本の木にたとえますとご先祖は

根、私共子孫は枝葉であります。したがってその根を大切にして十分な滋養を

施せば枝葉を益々栄え立派になるように、こうして墓参をしご先祖に感謝をし

、ご先祖の心をおなぐさめする法華経の読誦唱題こそ根の滋養であり、目には

みえませんが、みなさんの現実の幸せにつながるのです。

 この今のお墓は五輪塔が形をかえたもので、五輪を表わす地水火風空の五大

によって人間の体を象ったものですから墓参は亡き人がいますが如く、まごこ

ろをこめてご供養していただきたいのです。したがってできるかぎり墓参をさ

れ、雑草や周囲の落葉やゴミ等よく掃除をしいつもきれいにして下さい。又身

体である墓石もヒシャクで水をかけタワシでこすって汚れや苔を洗い落しきれ

いに洗いきよめます。特に前の水ばちはきれいに洗って下さい。この水ばちに

入れる水は「闍迦」といゝ「供養」という意味をもっています。水そのものが

供養の意味をもっているということはその水が水といっても単なる水でなく仏

様にさゝげる、又亡き人にささげる清浄な水だからです。こうしてお水をあげ

次にお花を供え最後にお線香をあげます。線香はよい香りをさゝげるとともに

心をしずめる働きがありますからこの香りの中に自分の心をおちつけ合掌礼拝

を致します。そして亡き人をしのび、今日の自分をあらしめているのはご先祖

であり亡き両親であることに深く思いを致せねばなりません。この中から感謝

の念と誠の供養が生まれてまいります。そして誠の供養は心からお題目を唱え

る事です。「毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就佛身」。一切衆生

をして真に成仏せしめたいとの釈尊の祈りの言葉こそお題目です。そのお題目

を全生命をなげうって弘められた日蓮聖人は「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮

華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り

与えたもう」とお題目を受けとられます。それは単なる祈りだけでなく釈尊の

深い慈悲行の全ての徳がおさめられているのです。そのお題目を心からお唱え

するならば亡き人々はかならず成仏されます。そしてそのお題目は自分に向っ

てのお題目でもあるのです。正に根と枝葉の関係です。この根は先祖・両親と

自分との縦の関係です。私共は国や社会、親族等と横の根をもっています。こ

ゝに目を向ける時、訪う人もない無縁墓や萬霊塔に線香をあげお題目を唱える

やさしい心の持主でありたいものです。

 

七 塔婆

 

塔婆のいわれ

 塔の梵語ストゥパの音写、卒都婆、浮図等の字があてられました。塔婆とい

うのは、もとは古代インドで土饅頭型に盛り上げた墓のことであり、釈尊の滅

後は、単なる墳墓ではなく記念物の性格を帯びるようになりました。

 マウリヤ王朝時代には特に多数の塔が建設され、仏の遺骨・所持品・遺髪な

どを埋めた上に煉瓦で構築されました。この塔を中心に新しい仏教運動が起こ

り大乗仏教にまで発展し、やがて中国・日本でも金堂と並んで重要な建築物と

して造立され、仏舎利を奉納寺院の象徴となっています。こんにちでは、細長

い板に塔の形の切りこみをつけ、死者の追善のために墓側に立てる板塔婆を卒

塔婆、塔婆とよび、建造物を単に塔とよんで区別しています。

 塔や廟が仏や死者を象徴する祭祀の対象とされて供養塔となり、後世、一般

の死者に対しても塔婆供養、その他の供物をささげ回向することなどが行なわ

れるようになったのです(佛教語大辞典)。

 仏教では仏骨などを安置し標識を頂にもった堆(たい)土が後に発達・変遷

して、高徳者の墓や経典などを供養するためにも用られ、一般に塔と呼ばれる

種々の様式を生むにいたりました。日本で俗にいう塔婆は、仏徒の墓地などに

立てて死者の冥福を祈るためのもので、すでに鎌倉期には一メートル程度の板

碑と称する石碑がたてられ、現在ではおもに木製の角塔婆と板塔婆が忌日など

にたてられます。この形状は密教で墓標として五輪塔をたてたことに由来する

もので五輪思想(一切万法は地・水・火・風・空の五要素から生成され、これ

による肉身はそのまま仏身である)にもとづき、それを象徴する五種の形とな

り、宗派によって異なるが、経文や梵字を上部に書き、法名や該当の忌日など

を記しその菩提を念ずる読経供養ののち墓地に備えられます。

 日蓮宗では、塔婆の表に南無妙法蓮華経の七字を書き、その下に法名や忌日

などを記し、裏に法華経の経文を書いて墓に建てるのが一般的です。

 この塔婆供養の功徳について、法華経では次のように示しています。

若しは曠野の中に於て 土を積んで佛廟を成し、乃至童子の戯に沙を聚めて佛

塔と為る 是の如き諸人等 皆己に佛道を成じき。 (法華経・方便品)

其の時に佛前に七宝の塔あり。高さ五百由旬、縦廣二百五十由旬なり。地より

湧出して空中に住在す。 (法華経・見宝塔品)

此の宝塔の中に如来の全身います。乃往過去に東方の無量千萬億阿僧祇の世界

に、国を宝浄と名く。彼の中に佛います、號を多宝という。其の佛本菩薩の道

を行ぜし時、大誓願を作したまわく、若し我成佛して滅度の後、十方の国土に

於て法華経を説く處あらば、我が塔廟是の経を聴かんが為の故に、其の前に涌

現して、為に證明と作って、讃めて善哉といわん。 (同・見宝塔品)

是の善男子、善女人の若しは坐し若しは立し若しは經行せん處、此の中には便

ち塔を起つべし。一切の天・人皆供養すること、佛の塔の如くすべし。 (分

別功徳品)

若しは経巻所住の処……乃至……若しは山谷・曠野にても、是の中に皆塔を起

てて供養すべし。所以は何ん、当に知るべし、是の處は即ち是れ道場なり。諸

佛此に於て法輪を転じ、諸佛此に於て般涅槃したまう。 (如来神力品)

 

法話 お塔婆供養の功徳

 今日は、皆さまが親族の年回法事を営まれたり、知人等のご法事によばれた

とき、或いはお寺の行事−例えば彼岸会、施餓鬼会、盂蘭盆会等に参加された

とき、おあげになる塔婆についてお話ししましょう。

 お塔婆は、梵語の「ストッパ」の音訳である「卒兜婆」の略称です。仏教辞

典をひもとくと「土石を高くつみ遺骨を蔵するもの」とあります。

 さてお釈迦様が亡くなられたのち、ご遺体が火葬されその遺骨−これを尊ぶ

呼び方として舎利といいます−をめぐって争いが起きそうになりました。結局

八ヵ国の王様たちに分配されました。そして、この舎利の上に塔が建てられ、

信者たちの崇拝の的になってゆきました。後世アショーカ王という人は、八万

四千もの塔を四ヵ処の霊場であるご生誕の地ルンビニ、お覚りをひらかれたブ

ッダガヤ、始めて法を説かれたベナレス、ご入滅の地クシナガラ等々各地に建

てた話は有名です。

 法華経にも二十一番目の『神力品』に次の様に説かれています。

 「方々の国土に於いて、もしこの教えをたもち、読み誦され、解釈して説き

写され、またはこの教えのとおり修行され、この教えが正しく行なわれている

所があるならば、そこが花園でも、林の中でも、木のもとでも、僧房でも、信

者さんの家でも、殿堂でも、山の谷や広野であってもそこに塔をたてて供養し

なければならない」とあります。

 この塔をたてることは、時代とともにその持つ意味が変り、死骨をおさめる

、供養する、報恩の意を表わす、霊場を荘厳化する等のいづれかの目的を持つ

ことになりました。これに伴い塔の形式そのものもインド・中国・日本へと伝

来し、また時代のうつり変りにつれて三重塔や五重塔になったり、さらに今日

私たちが死者の供養のために建てる角塔婆や板塔婆にと形を変えてきたのです

 日蓮大聖人は、塔婆供養の功徳について信者の中興入道殿へのお手紙の中で

次の様に述べられています。

 幼くして亡くなられた娘さんの十三回忌に一丈六尺の塔婆をたて、その表に

南無妙法蓮華経の七字を書き表わしなさい。すると北風が吹けば南の海にすむ

魚がその風に当って大海の苦しみから離れることが出来ます。また東風が吹く

と西の山にすむ鳥や鹿などの動物がその風を受けて畜生道を免がれることが出

来ます。ましてや卒塔婆建立を志し、実際にそれに手を触れ、眼で見る人間た

ちは必ずや成仏出来るでしょう。そして既に亡くなられたご両親もその功徳に

よって太陽・月が闇を明かるく照らすように、暗い悩みの世界に居ても安楽浄

土に行けるでしょう。更には塔婆供養をした人、及びその妻・子供は今生では

長生きが出来、死後もご両親と共に霊山浄土へ行けることは疑いありません、

とお示しになっておられます。

 お塔婆供養には、これだけのあり余る功徳があります。したがって、機会が

あったら必ず塔婆をあげ、そして皆さんご自身の手で建立し、合掌、唱題して

下さい。そしてお塔婆建立の功徳について改めて思い起し、仏道修行に今後と

も、御精進いただきたいと思います。