行事のこころえ

 

一 花まつり

 

花まつりのいわれ

 四月八日、お釈迦さまの誕生を祝っていとなまれる行事で、灌仏会・仏生会・

浴仏会あるいは釈尊降誕会などとも呼ばれています。ふつうには、花まつり

といわれて親しまれています。

 この花まつりは、お釈迦さまが悟りをひらいた十二月八日に行なわれる成道

会、八十歳の一生をおえられた二月十五日にいとなまれる涅槃会とともに、お

釈迦さまの大きな徳をほめたたえる三大法会のひとつとして重んじられてきま

した。

 花まつりには、花御堂といって、いろいろな花を飾りつけた小堂をつくり、

この中に銅製の小さな誕生仏(天と地とを指さした童子の像)を浴仏盆とよぶ

水盤の上に安置して、その頭上から竹のひしゃくで甘茶をそそぎます。そして

この花御堂を白い象にのせて練り歩きます。

 お釈迦さまの母、摩耶夫人は、居城のカピラ城から里方に向かう途中、ルン

ビニー園(インドとネパールの国境近く)の無憂樹の下でにわかに産気づいて、

右の腋からお釈迦さまをうんだと伝えられています。

 生まれでたお釈迦さまは、すぐに七歩ほど歩み、天と地とを指さして「天上

天下唯我独尊」(天にも地にもただ我一人のみ尊し、尊いものとなって苦しむ

人々を救おう)と声高くさけんだといわれています。すると、天にすむ竜が感

激して甘露の雨を降らしたといいます。

 花御堂は、無憂樹の茂るルンビニー園を形どったものです。甘茶をそそぐの

は天から竜がきよらかな水をふらして産湯とした、といういい伝えによるもの

です。

 この甘茶をのむと、病気をしないといわれ、虫除けにもなるとされているの

です。

 花まつりは、インドでも古くから行われ、鹿野苑の古い石には誕生の時に竜

王が香水を誕生仏の頂にそそいでいる図が刻まれています。また、中国でも灌

仏の行事がなされ、後趙の石勒という僧が毎年四月八日に寺に詣でて灌仏して

子供のために願をおこしたことが『高僧伝』(第九)という本にしるされてい

ます。日本においても、推古天皇の十四年(六〇六)にはじめて四月八日にな

されています(『日本書記』第二十二)。これ以来、宮中で行われ、やがて広

く民間に広まってゆきました。

 

花まつりのこころえ

 花まつりは、仏教をはじめてひろめ、苦しみ悩む人々を救おうとしたお釈迦

さまの誕生を祝い、お釈迦さまの智慧と慈悲の教えを信じてゆくことを誓う日

です。

 また、花まつりといわれていますように、色とりどりの花で飾ることによっ

て、新しい生命の誕生を祝うことは、人間の生命を尊び、平和と幸せをめざす

人間の宗教であるみ仏の教えのすばらしさをあらわすものです。

 こんにち「唯我独尊」ということばは、ひとりよがりと同じ意味に使われて

いますが、ほんらいは世界でたった一人の自分の生命を尊ぶことによって他の

人々の命を尊重するということです。その生命の尊さに目覚めることによって

苦しみや悩みに沈んでいる人を助けていこう、すべての人の命を大切にしてい

こうという誓いを語ったことばなのです。

 そこで、じつは「天上天下唯我独尊」のことばの次に、「三界皆苦我当度之

」という一句がつづくことです。これは、「この世は苦しみにみちている。私

はこの世の人々を救うのだ」、という意味です。

 そこで、花まつりにあたっては、たった一つの自分の生命を尊び、人々の生

命を大切にすることを心がけ、幸せと平和をめざし、苦しみ悩むこの世の人々

を助けてゆく気持をあらたにすることが大切なのです。

 また、花まつりはとくに赤ちゃんの誕生を祝い、新しい小さな生命がすくす

くと育つことを祈る日でもあります。甘茶は、甘茶という草の葉を煎じてとっ

た甘い液のことですが、この甘茶はお釈迦さまが生まれた時に、竜が熱からず、

ぬるからず甘茶を天からふらし産湯としたことになぞらえたものです。この

ことは、誕生した生命を祝い、やさしくあたたかく、新しい小さな生命に愛情

をそそいでゆく姿をあらわしています。

 花まつりには、甘茶をもらってのむだけでなく、その甘茶にこめられた生命

を尊ぶ心とそれを守り育ててゆく愛情の心をまわりの人々にそそいでゆくよう

心がけることが必要です。

 

花まつりと日蓮聖人

 日蓮聖人は、お釈迦さまの誕生について、次のように語っています。

 「釈迦仏は、誕生されるとすぐ七歩あるいて、自ら口をひらいて、天にも地

にも私ただ一人尊きもの、この世は苦しみにみちている。私はこの世を救うの

だ(天上天下唯我独尊・三界皆苦我当度之)の十六字を唱えられた」。

(月満御前御書)

 これは、日蓮聖人の信徒の妻が無事に女の子をうんだことを喜んで書き送っ

た手紙の一節です。

 日蓮聖人は、お釈迦さまが苦しみの世とそこに生きる人々を救うために生れ

たことを語り、そのお釈迦さまの本当の心をあかした法華経の種をうけつぐ「

仏の子」の誕生を心から祝福したのです。

 日蓮聖人は、お釈迦さまをたった一人の救い主であり師であり親であるとの

べて尊敬し、「八日講」とよぶ釈尊降誕の集いをひらいてます。

花まりにちなんだ俳句

灌仏やしわ手合する数珠の音 芭蕉

吾家より寺なつかしき甘茶かな 柑子

蝶々も来て乳を吸うや花御堂 也有

長の日をかわく真もなし誕生仏 一茶

 

法話 お釈迦さまの降誕

 本日は「釈尊降誕会」です。はっきりした年号はさだかではありませんが、

今から二千五百五十年程前の四月八日に、インドネパール地方の国、釈迦族の

王様でした浄飯王と摩耶姫との真に、第一応じとして御誕生なされましたのが

お釈迦様です。

 皆様が甘茶をおかけになり参拝されましたお釈迦様は、白い象の上の花御堂

の中にいらっしゃいます。なぜ白い象にのられているかと申しますと、お母様

摩耶夫人がお釈迦様を受胎された時、白い象が天から降りてこられた夢を御覧

になって受胎されたということです。白い象は慈悲と平和の象徴であります。

 

 そうして受胎されました摩耶夫人は出産の為に自家へ向う途中、ルンビニの

園の中で美しい花を咲かせていました「無憂樹」の木の下で休んでいましたと

ころ産気を催され、そのルンビニ園でお釈迦様をお産みになりました。花でか

ざられました小さな花御堂はお釈迦様がお生まれになりましたルンビニ園を表

現したものです。その花御堂の中にお立ちのお姿が誕生仏です。誕生仏は釈尊

誕生の御姿を表わしており、右手は天をさし、左手は地をさしております。こ

れは釈尊お生まれになってすぐに四方に七歩あゆまれまして、天と地をさして

、「天上天下唯我独尊」ととなえられた様を表わしております。また、甘茶を

なぜそそぐかと申しますと、その様にしてお釈迦様がお生まれになった時、梵

天、帝釈天、龍王の諸天神我天からおりてこられ香水をうぶゆとされたという

事から、五色香水を用いていましたが、徳川時代から甘茶をそそぐようになっ

たそうです。

 このようにお釈迦様の御誕生をお祝いする行事が「釈尊御降誕会」「仏生会

」「灌仏会」と言うことです。一般的に「花まつり」と申しておりますがその

呼び方は、四、五十年ほど前に、安藤嶺丸という方が、親しみやすくして一般

に普及した名称です。

 このようにしてお釈迦様はお生まれになり二十九歳の時、王子の身分も、奥

方も、御子様も、すべてを捨てて出家され、いろいろな行をされ、三十五歳で

覚りを開かれ「釈迦牟尼世尊」とあがめられ仏となられ、八十歳でおなくなり

になるまで「仏道」、仏の道をもって、悩み多き我々、凡夫一切衆生を救わん

が為に布教されたのです。今皆様は甘茶を仏様にかけ、いろいろな願い事をさ

れたと思います。仏様のお知恵は慈悲であり平等の精神です。

 お釈迦様は法華経薬草喩品に「われ一切を観ることあまねく平等にして、彼

此愛憎の心あることなし」と、すべてのものは等しく、愛しい者とか憎らしい

者とかの偏見はない、という事です。平等とはかたよらず、ゆきがかり的な心

を捨てて謙虚な心になり、こだわりのない心で等しく誰人にも温かい心を及ぼ

すことです。又、法華経観世音菩薩普門品に「慈眼をもって衆生を視る」とあ

ります。

 これは一般に観音経と呼ばれているお経で観世音菩薩が、我々一切衆生を救

わんが為、三十三身あらゆるものに姿をかえて救済する大慈悲心を説いている

お経です。とかく私達は他人の好悪、親疎のへだたり等の区別をつけたがるも

のです。親しい者はアバタも笑くぼで、にくらしい者については欠点だらけに

見えてきます、これをなくすのは慈悲の心です。先ず自分から慈しみの眼で人

々を見たり接したりすれば、その人のよさがわかり、人間関係がより温かいも

のになるはずです。

 日蓮大聖人の佐渡御書の中に「畜生の心は弱きをおどし、強きをおそる」と

いう言葉があります、我々の中にも畜生の心をもった人がおります、この心に

勝つものは、いたわりの心、親切を常に心に持つ事です。それは仏の心である

慈悲心であり平等なる心です。

 先ほど甘茶をそそぎ子供達が健康ですこやかに育ってくれる事をお願いされ

た方もいらっしゃると思いますが、今一つ贅沢ではあまりすが、絶対になれま

すところの仏の心、慈悲の心をもった大きな人間、仏になれるように、自分の

お子様達ばかりでなく、皆がそして自分も仏になれるよう付けたして下さい。

そして仏になれるよう努力することをちかって、もう一度甘茶をかけ御参拝下

さい。

 

二 お彼岸

 

お彼岸のいわれ

 春の彼岸と秋の彼岸とがあり、いずれも春分の日と秋分の日を中日とし、そ

の前後の三日間すなわち一週間を期待としています。

 お彼岸の一週間は、先祖をうやまい亡き人に供養をささげるとともに、善根

をつみ仏道に精進する日とされています。

 彼岸とは、もともとは梵語(古代インドのことば)でパーラミターといい、

中国で漢字をあてて「波羅蜜多」と書き、これを「到彼岸」と訳したことにも

とづいています。苦しみや迷いにみちたこの世界を「此岸」といい、その苦し

みをこえた永遠の悟りの世界を「彼岸」といいます。到彼岸とは精進と修行に

よって、悩み迷いの多い煩悩の此岸をはなれて、悟りをひらいた救いの世界で

ある彼岸に到達するという意味です。

 お中日は、お彼岸の中心にあたり、仏教の説く中道(仏さまの教えの通りに

かたよらない心をもって生きること)をあらわし、その前後の六日間は布施・

持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つの心がまえをもって修行する日とされて

います。この六つの人生の心がまえと修行の内容を「六波羅蜜」とよんでいま

す。布施とは施すこと、持戒とは身をつつしむこと、忍辱とはがまんすること、

精進とは努力すること、禅定とは心を静め、おだやかになること、智慧とは

仏さまの教えを知り心をみがくこと、をさしています。

 この六つの生き方を実行することは、苦しみ、悩む毎日の生活の中で、み仏

の慈悲の教えに生かされながら生きてゆくということです。悩みをはなれて悟

りはないように、この「此岸」の生活を、幸せと喜びのあふれた「彼岸」の人

生にきりかえてゆくことでもあります。

 彼岸は、遠いかなたにあるのではなく、み仏の教えにしたがって心をみがき

感謝の念をもって善根をつむ人の心の中にあるのです。

 日蓮聖人は、「この七日のうちに一善の行いを修せば、悟りをひらき仏とな

れる。他の時節に功労を尽くすよりは、彼岸一日に小善を行えば大いなる悟り

の道にいたることができる。人はだれしも、この彼岸の時節をよく知り、小善

をも行うべきである」(彼岸抄)とのべています。

 また、日蓮聖人は、お釈迦さまの説いた真実の教えである法華経こそ、迷い

の岸から仏さまの浄土へと人々をのせてはこぶただ一つの大きな船であるとの

べ、次のように示しています。

 生死の大海を渡ることは、法華経にまさるものはない。法華経をのぞく諸の

経は、筏であり小舟である。法華経は、星の中の月であり、くらやみを照らす

日の光である。渡りには大船となり、生死の此岸より生死の大海を渡して彼岸

の宝山へと渡すのである(薬王品得意抄)

 さらに日蓮聖人は自ら、「我れ日本の大船とならむ」と誓願し、苦しみの海

に沈んでいる人々を救助し、お釈迦さまのいる浄土に導いてゆくために命をさ

さげました。

 わたしたちは、この法華経の教えと日蓮聖人の生き方を学び、その誓いを自

分の誓いとして、お彼岸において仏道の修行に励み、心身の向上に努め菩提の

種を心の田に蒔いてゆくことが大事なのです。

 

お彼岸の心がまえ

 「暑さ寒さも彼岸まで」ということばがあるように、お彼岸の期間はきびし

い冬からおだやかな春を迎え、また夏の暑さがやわらいで涼しい秋の訪れる季

節にあたっています。この時にあたり、自然の恵みに感謝し生きとし生けるも

のを慈しむ心をやしない、さらに先祖代々の追善供養にはげみ、自分から心を

おこして仏道の修行につとめるよう心がけることがまず第一に大切です。

 お彼岸を迎えたら、次のようなことを心がけて心をみがくよう努めたいもの

です。

1. まずお寺に参詣し、清浄な気持で本堂の仏さまに合掌礼拝して供養のここ

ろざしをささげること。また、お寺で彼岸会の法要がいとなまれる時には必ず

参列し仏道修行の誓いと先祖の菩提を祈ること。

2. 先祖のお墓にお参りし、報恩感謝の念をもって墓前にぬかずき、先祖の方

々の心をうけついで迷いをはなれ悟りの岸にたどりつく誓いをささげること。

また、自分の先祖のお墓だけでなく、親類・縁者の無縁のお墓にもお参りする

よう心がけること。

3. お彼岸のお参りを年寄まかせにしたり、自分一人だけで行なうのではなく

、家族ぜんたいで心をみがき先祖に感謝する日にすることが大事です。そのた

めには、家族そろってお寺に参詣し墓参をするとともに、家にある仏壇にも華

や灯明を仏飯などを供養し、お彼岸団子や牡丹餅・お萩・草餅をつくって供え

たり隣近所に施すこと。

 また、家族そろってお彼岸の大切ないわれを語りあい、感謝と反省と努力を

誓いあうこと。

お彼岸の心をよんだ俳句

今日彼岸菩梯の種を蒔く日かな 蕪損

まけよ蒔け仏の種も彼岸かな 鬼貫

燕来てなき人問わん此彼岸 太祇

彼岸とて袖に這する虱かな 一茶

灸すえて身軽く彼岸詣かな 子瓢

入日拝む目も衰えし彼岸かな 燕郎

うとうとと彼岸の法話ありがたや 静雲

藪寺の鳩に豆蒔く彼岸かな 士郎

 

法話 六つの行ない

 お彼岸についてお話いたしたいと思います。

 彼岸の頃は、暑からず、寒からず、自然にも恵れ、しのぎよい季節になりま

す。私達は真実にささやかな家庭生活の、だんらんに幸福を感じます。これが

仏の世界かと、しみじみ思うことがあまりす。地獄のような、現実の中で、そ

の地獄の此岸に仏の彼岸を見出すことがたしかに出来ます。

 彼岸という理想の世界は、現実の此岸を拡大して行く処に、理想の彼岸の世

界が、展開されることもまた事実であります。この此岸の現実を土台として、

現実の此岸の中に、彼岸を見出し、彼岸の世界を建設してゆくことが真実の彼

岸会の意義ではないでしょうか。それは、地獄で仏の生活をすることであり、

私達には、不可能なことでありますけれど、どんなに苦しくとも、悟りを求め

てゆこうというところに、此岸の中に、彼岸を見出す幸福があります。それが

拡大されて、彼岸の世界が建設されてゆく、大きな幸福を、自分自身に見出す

ことが出来ます。お彼岸に、お墓参りに郁子ともまた、これも彼岸会の先祖報

恩の大事な行事であり、そうして、家庭の幸福を見出すことが、此岸の中に彼

岸の世界を見出すことでありましょう。

 けれども、彼岸会は、これだけが一切であってはならないと思います。

 彼岸の行ないとしては、お釈迦様は六波羅蜜をお示しくださいました。

(一)人に教えや、財をもって恵むこと

(二)戒律をたもつ行ない

(三)苦しみにたえぬく行ない

(四)心身をうちこんで精進すること

(五)心を不動のものにする行ない

(六)根本心理を体得する行ない

 六つの行ないを身につけて修行する自己反省と、自己完成を期するために修

行することは、私どもが毎日心がけねばならないことです。

 現実の私たちの生活は、あまりにも仏道からはなれすぎておりますので、せ

めて彼岸会の一週間だけでも仏道的生活に親しむために、この彼岸会は、設け

られたものと思います。この彼岸会の意義を心から理解して、単なるお墓参り

から仏道をてってい的に修行する一週間とするところに、真の彼岸会の意義が

あると思います。

 彼岸がくるたびに、仏道との深いかかわりを示された先祖・先輩の方々に、

ありがたい気持が湧いて参ります。

 

三 お盆

 

お盆についての十三の質問

1. お盆はいつ行なうのですか

 お盆といっているのは省略した言葉でほんとうは「盂蘭盆会」といいます。

七月(地方によっては八月)十三日より十六日の四日間先祖の精霊をむかえ、

追善の供養をする日です。

 一般的には仏壇を清掃し、先祖の精霊をむかえするところ(精霊棚)を作り

お飾りをするものを買い求める(草市)十二日からがお盆行事の始りです。

 十三日に先祖の精霊をむかえ(迎え火)いろいろの飲食を施しお坊さんにお

経の供養をしていただき(棚経)精霊と会えた喜びを身ぶり手ぶりであらわし

(盆踊)十六日に再びお墓にもどっていただき(送り火)お飾りやお供えもの

を川へ流す(精霊流)という順序になります。

みえなくても お花を供えたい

食べなくても 美味を供えたい

聞こえなくても 話したい

見えざるものへの 真実は美しい

 

2. お盆のいわれは何ですか

 盂蘭盆会といえば目連尊者とその母のことが思いうかびます。

 ある日、目連尊者は先年亡くなった母が今どうしておられるか、安らかにく

らしている様子を見ようと思い神通力を使い、極楽や天上界をすみずみまでさ

がしましたが母の姿はありません。やがてまさかと思っていた餓鬼道の世界で

あわれな姿になっている母をみつけます。母は食べ物や冷い水を求めます。

 目連食物をあげようとするとそれが火となり母を苦しめ、水をあげようとす

ると火の中に油をそそいだようにかえってますます強く火はもえ盛ります。

 自分の力ではどうしようもなくなった目連尊者はお釈迦様に母を助けて下さ

いとお頼みします。

 「目連よ、そなたの母は罪が深く、汝一人の力では餓鬼道の苦しみから救う

ことが出来ぬ。けれど一つだけ方法がある。それは大勢のお坊さんの夏の修行

が終った七月十五日に、お坊さんを招き、多くの供物をささげて供養すれば母

の苦を救うことが出来るであろう」と教えられました。

 目連尊者はその教えの通り供養し母をさかさまにつるされた苦しみの餓鬼の

世界から抜け出ることができました。

 これは盂蘭盆経にのべられているものですが、盂蘭盆というのは「倒懸の苦

」といい、さかさまにつりさげられる苦しみにあっている餓鬼界の衆生の苦し

みを救う法会をさし、餓鬼に施食する施餓鬼を修します。

 

3. 日蓮聖人はお盆についてどのようにのべているのですか。

 日蓮聖人は、「盂蘭盆御書」という手紙を書き、目連尊者が母を救ったエピ

ソードをつづったのち、次のように示しています。

 目連尊者が、はじめ母の苦しみを見ながら助けられなかったのは、「目連尊

者がただ小乗の教えのみ信じて戒めを守っていればよいとだけ考えていたこと

である」とのべています。つまり、目連尊者は、「………してはならない」と

いう戒律をたもっていたが、それは自分だけが救われればよいという小さな乗

ものを信じているだけにすぎない。それで、どうして父母や他の人々を助ける

ことができようかと日蓮聖人は語るのです。

 では、なぜ目連尊者は母を救うことができたのか。日蓮聖人は、こういいま

す。

 「目連尊者は、お釈迦さまの真実の心をあかした法華経の示す“正直に方便

の教えを捨て真実の教えを信じるがよい”という言葉の通りにして、小乗の戒

律をたちどころになげすてて南無妙法蓮華経と唱えた。そこで、法華経を信じ

て仏になる、という保証が与えられたのである。このとき、父母も仏になられ

るのである。なぜなら、目連の身体は父母の遺された身体だからである。目連

の身体が仏になれば、もとの身体である父母の身体もまた仏になるのである」

 

 自分さえよければ、というエゴイズムをすてて法華経の大善であるお題目を

信じることにより、自分も父母もみな共に救われていく道を求めていかねばな

らない、ということです。これを日蓮聖人は、

 「目連尊者が法華経を信じられた大善は、自分自身が仏になるばかりでなく、

父母も仏になることが出来たのです。しかも上は七代の先祖、下は七代の子

孫、上は無量生、下は無量生の父母たちまでもが、思いもよらない仏となるこ

とが出来たのです」と「盂蘭盆御書」でのべられます。

 ここでもう一度考えてみましょう。母親はわが子のためには盲目になり他人

のことは考えずわが子中心になりやすいのです。

 「倒懸」とはさかさにつるされた苦しみをいうのですが、ものごとを正しく

見ることの出来ない自分勝手な、自己中心的な見方しか出来ないという意味で

す。子供のために犯した罪によって母は餓鬼道に落ちたのではないでしょうか。

とすればその原因は子供であるあなたや私にあるのです。

 お盆は法華経を信じお題目を唱えてご先祖をむかえてご供養すると同時に、

私達自ら懺悔、反省する行事でもあるのです。

 

4. お盆はどのようにして行なわれて来たのですか。

 日本では六世紀頃から盂蘭盆会は行なわれ平安時代から盛んになりました。

「今昔物語」に

「今は昔 七月十五日の盂蘭盆の日 いみじく貧しかりける女の(死んだ)親

の為に食(供養品)を備ふにたへずして(出来なくて)一つ着たりける薄色の

綾の衣の表をときて(ぬいで)盆に入れて蓮の葉を上に覆ひて愛宕寺に持ち参

りて伏しておがみて泣きにけり。

その後 人怪しむで寄りて此を見れば蓮の葉にかく書きたりけり。

たてまつる はちすの上の露ばかり

これをあわれに みよの仏に

と。人々これを見て 皆あわれがりけり」

と貧しい女の亡き父母を思う心が 切々と語られています。

 鎌倉時代になると家々に燈籠が飾られるようになり、仏伝にある貧女の一灯

をささげた心はお盆の行事の一つとしてて受けつがれて来ました。

 お盆は「魂祭」とも呼ばれます。

盂蘭盆や無縁の墓に鳴く蛙 子規

魂棚の奥なつかしや親の顔 去来

 

 

5. お施餓鬼会とはどんなことですか。

 お盆又はその前後に寺々でまつる人のいない無縁の精霊や水子その外飢えに

苦しんでいる霊に飯食を供養してその施しの功徳によって苦しみを救う法会を

施餓鬼会といいます。

 寺では特別に施餓鬼檀を作り、三界万霊や新盆の位牌をならべ、供物をそな

え、経文や如来の名を書いた施餓鬼幡を立てて法会を営みます。

 私達は米や野菜、肉、魚などを食べて生きていますが、これらの動物、植物

もこの地上に生をうけ命をもっているのです。

 彼らの生命の犠牲のうえに私達は生き長らえているのです。施餓鬼は、生か

されている自分の命を尊ぶと同時に、みんなのおかげで生かされていることに

感謝する意味を持っています。

 水死者の霊を供養するため川岸や舟の上で行なうのを川施餓鬼といいます。

 

6. 精霊棚の飾り方はどうすればいいのですか。

 精霊棚は「盆棚」、「霊棚」、「たままつり棚」などと呼ばれます。

 十二日から飾りつけの準備をします。先ず仏壇をきれいにし仏具やお膳をみ

がき、ご先祖にお供えする果物などを買います。昔は草市が立ったのですが、

今は八百屋さんでお供えするものが売られています。

 精霊棚の飾りつけは次の通りです。

 マコモのゴザを敷いた台の四隅に青竹を立てその上部に張った縄にホウズキ、

アワ、キキョウ、山ユリ、盆花(みそはぎ)などをつるします。これはこの

中に精霊が来られるという「結界」つまり、しきりを作るためです。霊座と呼

ばれるマコモのゴザの上に位牌、三具足(向って右にローソク、中央香炉、左

に花)を置きます。

 供えものとしはソーメン、ダンゴ、サツマイモ、ブドウ、トウモロコシ、ナ

スの牛、キュウリの馬などを供え、亡くなった方の好物やおもちゃなども供え

ます。キュウリの馬の意味は先祖の精霊が一刻でも早く家に帰ってもらうため

の駿足の乗り物であり、ナスの牛は帰るときゆっくり、ゆっくりうしろをふり

返りながら帰ってもらうためのおそい乗り物の意味です。

 水−器に蓮の葉をおおい、葉の中に浄水を入れみそはぎの花を二、三本束に

したものを水の中におきます。みそはぎを入れるのは灑水といって精霊につめ

たくて気持ちのいい水をかけてあげるためのものです。

 水の子−ナスやキュウリを刻んで洗米と混ぜ鉢に入れて供えます。

 

仏壇をもちいての飾り方

 仏壇をそのまま精霊棚とするのですから、青竹を左右に立てナワを張りホウ

ズキ、アワ、キキョウ、みそはぎなどをつるします。そのほか浄水、水の子、

飯食など同様に飾ります。もちろんマコモのゴザを敷くのも変りません。

 

7. 迎え火はどうやってたきますか。

 お盆に帰って来る先祖の精霊を迎えるために十三日夕方迎え火をたきます。

 家の戸口か、玄関の前で素焼きの焙烙か陶器の皿にオガラを折ってつみ重ね

火をつけます。そして「ご先祖様どうぞおいで下さい」と心をこめ合掌しお題

目を唱えます。

 帰って来た先祖の霊が手足を洗えるように火の近くに水を入れたオケかバケ

ツを用意します。迎え火は「門火」、「たま迎え」、「精霊迎え」ともいわれ

ます。

悲しさやおがらの箸も大人なみ 惟然

風が吹く佛来給うけはひあり 虚子

 

8. お盆のお墓参りとつけ届の意味は何ですか。

 十三日から十六日の間に先祖の精霊が家にもどっている間お墓を守るという

意味でお墓参りをします。そのとき先祖のためにお塔婆を供養します。また常

日頃先祖を守っていただいているという感謝の心をつけ届け(中元)します。

中元とは旧暦正月十五日を上元、十月十五日を下元に対し七月十五日を中元と

いいます、これは中国から伝わったものですが、日本ではお盆のおくりものの

意味に用いられ中元は「盆礼」とも呼ばれています。

僕にまかせて下さい さだまさし

きみはその手に花をかかえて

急な坂道をのぼる

僕の手には小さな水おけ

きみのあとにつづく

きみの母さんが眠っている

ささやかな石のまわり

草をつみながら振り返ると

泣き虫のきみがいた

両手を合わせたかたわらで

揺れてるれんげ草

あなたの大事な人を僕に

まかせて下さい。

 

9. お棚経ってなんですか。

 お盆中に檀徒の家にお坊さんが読経に行くのを特に棚経といいます。これは

各家に精霊棚が設けられていてその棚の前で読経するのでお棚経といわれます。

 檀家が遠方だったり、数が多くまた交通事情などのため七月(あるいは八月)

初めから棚経にまわる場合もあります。

 お盆の期間前に棚経が営まれるときは、やはり仏壇はきれに浄めお灯明、花、

季節の初ものなどを供えます。先祖の精霊はお坊さんと共にその家に訪れ、ふた

たびもどって行きます。ですから十三日に迎え火をたくことには変りません。

 棚経にお坊さんが訪れたらお茶を出して挨拶し、盛夏のことでもあり法要の

前後におしぼりを出します。お経がはじまったら家族全員座り合掌しお題目を

唱え先祖を供養します。

 

10. 新盆はどのようにして迎えたらいいのですか。

 亡くなられて初めて迎えるお盆のことを「新盆」、「初盆」と呼びます。

 亡くなられて一周忌もたたない間に迎える新盆は普通のときのお盆より飾り

つけも、お供養の品も盛大にし、故人の好物なども多く供えます。また盆提燈

も白木の無地のものをお飾りします。

 新盆にかぎりお坊さんの棚経をお盆の七月(又は八月)一日から七日までの

間にあげてもらうところもあります。

佛母のように  坂村真民

三人の子を

しっかと見てくださった

あのおん目

静かに

暖かく

迎えくださった

あのおん声

いつまでも

握っていられた

あのおん手

それがいまも

見えてくる

聞えてくる

佛母のように

 

11. 盆踊りはどういう意味があるのですか。

 お盆におこなわれる踊りで十三日から十六日にかけて寺の境内や町村広場な

どに大勢の老若男女が集まって踊られます。

 お盆に招かれて来る精霊を慰め、交歓しこれを送る踊りで、古い時代の舞踊

が仏教と結びついて大衆芸能化したものです。中央のヤグラは精霊棚をあらわ

し、まわりの提燈は精霊をむかえる燈籠をあらわしています。

 花笠、鉢巻きなどで仮装したり、囃も笛に大太鼓が主で、おけさ踊、さんさ

踊、供養踊、精霊踊、燈籠踊など地方地方によってそれぞれの特色をもって行

なわれています。

盆おどり歌(盛岡地方)

サンサ踊らばヤーハイ

品よくおどれ

品がよければ嫁にとる

サンサエ

サンサ来る来る

お庭は狭い

お庭ひろめて太鼓打て

サンサエ

 

12. 送り火とはなんですか。

 お盆の十六日夕方迎え火と同じようにやはり家の戸口でオガラをたき先祖の

精霊を送ります。京都の「大文字」や「妙法」焼きは送り火として有名です。

 

送り火や母がこころに幾佛 虚子

いざ急げ火も妙法を拵へる 一茶

 

13. 精霊流しの意味はなんですか。

 お盆の期間が終ったら精霊棚のお飾りはまとめてお寺に持参します。小さな

木の舟にのせたり、マコモにつつんで川や海へ精霊を送る「精霊舟」は今は河

川を汚すので禁じられています。板切れにローソクを立てて火を点じて流す燈

籠流しも同じ意味です。

 長崎の精霊流しは特に豪華で新盆の家出は精霊舟に万灯を飾り浄土丸、極楽

丸などと名づけて沖へ流します。

精霊流し さだまさし

去年のあなたの思い出が

テープレコーダーからこぼれています

あなたのためにお友達も集まってくれました

二人でこさえたおそろいの

浴衣も今夜は一人で着ます

線香花火が見えますか空の上から

約束通りにあなたの愛した

レコードも一緒に流しましょう

そしてあなたの舟のあとをついてゆきましょう

私の小さな弟が何も知らずにはしゃぎ廻って

精霊流しが華やかに始まるのです

 

法話 先祖の霊に供養する

 お盆の時期になりますと、各自の故郷に帰省する人達の大移動の混雑ぶりが

毎年テレビ等に報道されます。風土に土着した信仰の厚さが偲ばれます。

 お盆とは盂蘭盆の略で(倒懸)即ち死者が逆さに吊るされる様な苦しみを受

けているのを救うため、祭儀を設け供養する法会で、「盂蘭盆経」に釈尊の弟

子目連が餓鬼道に堕ちた母の苦しみを除こうとして行なったのが起源です。

 江戸時代には七月十三日から十五日までを盂蘭盆会とし、農閑期の都合で地

方では旧暦によって行なわれ、関西地方では八月の同日に行なっております。

また、各家では亡き人(衆生)の魂(精霊)を迎えまつる祭壇、精霊棚を設け

ますが、これは先づ仏壇を浄め、まこもを敷き笹竹をたて、杉の葉でませ垣を

を作り、葦草でなった縄を張り、ほおずき、ひえの穂やみそはぎをさげ、飯器

、華香、茶菓、蔬菜、果物を供え、二器にナス、瓜を細かくきざんで洗米をま

ぜたものに入れ、浄水を盛り、みそはぎを束ねて水器の中に置き、これを洒水

(水そゝぎ)に使い、さらに瓜、ナスにいもがらの足をつけ、馬や牛の形をと

り、精霊の乗物として飾ります。十三日夜精霊を迎えるのを「迎え火」または

「門火」と申しますが、中国、日本では古代から冠婚葬祭の時、庭で火をたい

た(庭燎)ことから仏教行事にとり入れられ、お盆の終りに精霊を送る為たく

火を「送り火」といい、八月十六日夜行なわれる京都大文字焼きは送り火の最

たるものです。各地では盆提燈を飾ったり燈篭流し行事もありますが、神仏に

「献じ燈明」を供養することによる功徳と闇を明るくすることが智慧を示し、

その余慶の願望をあらわしており、盆踊りも御霊、精霊踊りともいい、これも

盂蘭盆の時に、音頭歌謡に合わせてする踊りで、原始舞踊の仏教の伝来後お盆

の儀式に結びついて大衆娯楽と発達したものです。

 「お施餓鬼会」は「施食会」ともいわれ、清浄な地や水に食物を投げ、悪道

に堕ちて飢餓に苦しむ衆生や飢餓に施す法会で鎮魂(魂をしづめる)の意味が

あり、各寺院では施餓鬼檀をかざり四方に笹竹をたて五色の旗をかけ、檀上に

四生六道の万霊をまつり、西側に新盆等の位牌を安置し、浄水、飯食、華香を

供え、僧俗一体となって回向します。これは釈尊の弟子阿難尊者が焔口餓鬼の

いう「いっさいの餓鬼に飯食をほどこし、仏法僧の三宝を供養すれば長生きし

、餓鬼の苦しみからも救われる」という言葉を聞き、釈尊から餓鬼への施し方

を教えてもらって実行したことにはじまる行事で二千年すぎた現在まで伝えら

れております。私共の先祖の追善水向供養を施餓鬼会にすることを「添施餓鬼

」「附施餓鬼」と申しますが、近頃はこれが主体になる傾向にあり、目連、阿

難尊者に釈尊が示された「お盆」「施餓鬼」の意味は先祖以外の無縁と餓鬼道

に堕ちた三界萬霊、一切の精霊に回向することが私共の善行を重ねる功徳が自

身につながることを示したからにほかなりません。今日の世界情勢、米ソの対

立、軍拡、等々。その陰に東南アジア地域始め世界各地の飢餓、貧困、失業、

病気等がみちています。釈尊始め、日蓮聖人の四海帰妙のみ心がお盆、施餓鬼

会という一つの行事の中にも、私達は何をすべきか、大きな社会問題を問われ

提起されております。

 

四 お会式

 

お会式の意味

 「お会式」とは、日蓮聖人の忌日に修する法会のことです。お会式は御命講

、御影講とも称され、お祖師さま日蓮聖人を鑽仰する庶民によって行われてき

た仏教行事でもあります。

 建長五年(一二五三)四月二十八日、はじめてお題目をおとなえになってか

ら、流罪、死罪にもおよぶ大難四カ度、さらには無数の小難を受けながらも、

私たちにお題目の信仰をうえつけ下さったお祖師さま日蓮聖人は、今から七百

年前の弘安五年(一二八二)十月十三日の午前八時頃、今の東京池上にて、御

年六十一歳でご入滅なされました。そのとき、大地は震動し、秋だというのに

時ならずも桜の花が咲きほこったと伝えられています。そして翌十四日ご葬儀、

十五日には池上で荼毘の式をあげ、「墓は身延にたてよ」と言うご遺命によ

って、身延山にご聖骨は納められました。それ以来、毎年日蓮聖人のご命日に

は、弟子信者たちが法要を営み、報恩の儀式をあげ、命日やその前の晩、つま

りお逮夜の法要を現在では「お会式」とよんでいるのです。

 お会式を行ない、そこに参集してきた人々の心の中には次のような句にも脈

打ち今日に至っています。

御命講や油のやうな酒五升 芭蕉

上人の鼻に箔おけ御命講 史邦

御命講の草のあるじや女形 太祇

お会式の万燈のゆき人のゆき 暖光

万燈の花にすがりし子供かな 青邨

瓔珞の紙のさくらや御命講 蓬丈

 これらの句からも桜花で飾られ、夜空のくらやみを除くように万灯をおした

てて、これにお題目や皆帰妙法などの文字を書き、ウチワ太鼓をうちたたきな

がら唱題の大音声をとどろかせるお会式のありさまが示されています。

 

万灯のいわれ

 江戸時代に、身延や池上か江戸に出開帳(祖師像や宝物などが出張すること)

したときに、それぞれの信者たちのあつまりである講中の名を書いた提灯を

竹竿にいくつも並べてかけ、ちょうど秋田の竿竹のようにして出迎えたのがは

じまりとされています。

 一本でも万灯といっていますが、「万灯会」はもとは仏さまや菩薩にたくさ

んのお灯明を供養するということが古くからインドでは行なわれていました。

 

 日本でもすでに千五百年も前に東大寺などで、罪障を懺悔するために一万も

の灯を燃やして法要を営み、これを“万灯会”といっていました。

 この灯を供養することについては、有名な「貧者の一灯」の話が伝えられて

います。仏さまに灯を供養するために多数の人々が油を買っては供養していま

した。ある貧しい女性は、灯を供養したくても油を買うお金もなく、さりとて

そのままに過ごすことは心がゆるさないので自分の髪の毛を売って、わずかば

かりの油を買い灯明を仏さまにささげました。それは王様や金持たちの供養し

た何千という灯のもとでは、いまにも消えいりそうな灯でした。その夜、にわ

かに風が吹き出し、次々と灯が吹き消されていきましたが一夜あけてもたった

一つ燃えつゞけていた灯がありました。それは自分の髪の毛を売って供養した

貧者の灯であったという話であります。

 まごころのこもった灯は、いつまでも消えることなく、人々の心を照らすと

いうことです。お会式の「まんどう」は、一灯でも万灯というように、日蓮聖

人のご報恩のためにささげるまことのご供養の一灯という意味がこめられてい

ます。

 万灯のまわりに美しく垂れさがっている紙の花は、「御祖師花」ともいわれ

、日蓮聖人がご入滅になられたとき池上家の庭の桜の木が時ならぬ花を咲かせ

たという伝えによって桜の花をなぞらえつくられています。

 

 お会式と報恩

 お会式が日蓮聖人の報恩会である以上、法要のみでことたれりとすることが

できないのは当然です。日蓮聖人への報恩は何よりづず第一に聖人の信仰と一

生を学び、実行し、教えをひろめるものでなければなりません。

 聖人のご生涯、かたみとなるご遺文を学ぶことによって、代表的日本人であ

り日本の主師親であり、教主釈尊の特別の使者であり、末法を救済する法華経

の行者である聖人を正しく知り、生きるよりどころとする誓願を立てることこ

そ根本であります。「仏となって恩ある人を救う」−ここに聖人の報恩精神が

あったことを考えるならば、信・行・学の道をさらに求めつつ、力の限り聖人

の志を体することでなければならないといえます。立正安国にはじまり立正安

国に終るという聖人の生涯は、その裏につねに「報恩に始まって報恩におわる」

実践がありました。お会式は、日蓮聖人の教えを信じて、恩がえしをする日な

のです。

 

日蓮聖人の一生

 日蓮聖人は、貞応元年(一二二二)二月十六日、安房の国(今の千葉県南部

)の小湊に漁師の子として生まれました。幼名は善日麿と名づけられ、貧しい

生活ではありましたが、父母の手ですくすくと育ちました。苦労している両親

や世話をしてくれるふるさとの人々に恩がえしをしたい、と思いつづけていま

した善日麿は、十二歳の時に近くの清澄山にのぼり、仏道修行をはじめました。

日本第一の智者となって恩ある人を助けたい、と祈りつづけました。

 やがて、十六歳で出家し、鎌倉で学んだのち、比叡山や京・奈良・大坂など

でみ仏の教えを勉強し、ついに法華経こそお釈迦さまの説かれた最高真実の教

えであることを見いだしました。そして、三十二歳になった建長五年(一二五

三)四月二十八日、法華経のお題目である南無妙法蓮華経を朝日にむかって唱

え、お釈迦さまの本当の心をあかした法華経に命をささげます、その教えをし

っかりと信じひろめます、と誓いました。さらに、清澄寺の人々に、法華経の

教えをはじめて説き日蓮宗をこの日本にはじめて開きました。名をみずから「

日蓮」と名のりました。それは、日月のようにくらやみをなくしてこの世を明

るくしてゆこう、蓮華のように泥に染まらず人の心を浄めてゆこう、という願

いをあらわすものでした。

 これ以後、日蓮聖人はすべてのお経の王である法華経をそしる他の考えのあ

やまりをただすとともに、災害やききん、疫病に苦しむ人々を助けみ仏の道に

導いて人々の幸せと世の中の平和をなしとげようとして「立正安国論」を書い

て、ときの幕府をいさめました。これに怒った幕府や諸宗の人々のために、松

葉ヶ谷の庵室で焼き殺されそうになったり、伊豆に島流しにあい、故郷の小松

原では刀できられ打たれ、ついには鎌倉の竜ノ口で首をきられる寸前にまでに

なり不思議にも一命が助かり佐渡に流されました。

 日蓮聖人は、こうした数々の法難にあいましたが、すこしもくじけず、ひる

みませんでした。かえって、大難があろうとも法華経を命をおしまず説きつづ

け、法難にあうごとに「法華経の行者」としての使命を自覚して、災害や戦争

によって命が失われ濁り乱れている日本を救おう、悩み苦しみに沈んでいる人

々を助けようと命をささげました。

 日蓮聖人は、み仏の使いである上行菩薩として生き〈われ日本の柱とならん、

われ日本の眼目とならん。われ日本の大船とならん〉と誓い、み仏の救いの

心をおまんだらに書いて人々にさし示しました。

 日蓮聖人は、五十三歳になった文永十一年(一二七四)五月十七日、身延山

に入りました。風雪の中に一人身をおき、冬は雪をたべ、春はワラビをとり秋

には栗をひろって命をささえました。しかし、いつも故郷や父母のことを思い

つづけ、法華経の行者として生きぬいて日本の人々を救おうとしている心を忘

れませんでした。また、法華経の題目を唱えるよう人々にすすめ、親と子、夫

と妻との別れの悲しみをなぐさめ、みんながお釈迦さまの慈悲の心をもって幸

せになるよう導きました。

 日蓮聖人は、六十歳になった前後から、「はらのけ」を病み、食べものもノ

ドを通らなくなりました。体は石のように冷え、胸は氷のようにつめたくなり

ながら、身延山でくらしておりました。日蓮聖人は、弟子から「どうか常陸の

湯でご養生下さい」とすすめられ、日蓮聖人ご自身も「今いちど故郷にもどり、

父母のお墓参りをしたい」という願いをもっていましたので、弘安五年(一

二八二)九月八日・六十一歳の時に、九ヵ年も住みなれた身延山を出立し、九

月十八日武蔵国池上につき信徒の池上氏の館に入りました。

 日蓮聖人は、病いが重く入滅する時のきたことをさとられ、「いずくにて死

のうとも墓をば身延山に建ててほしい」と遺言しました。そして、自筆のおま

んだらをご宝前にかかげ、「立正安国論」を弟子信徒に説きました。十月八日

には、六人の弟子を中心に法華経をひろめるよういいのこしました。

 十月十三日、午前八時ごろ、弟子日昭上人のうちならす臨滅度時の鐘がなり

ひびくなか、日蓮聖人は静かに瞼をとじ、六十一年のはらんにとんだ一生をま

っとうしました。そのとき、池上氏の館の庭前にある桜が、いっせいに花をひ

らいてさきほこったといいます。

 

法話 お祖師さまへの報恩感謝

 日蓮聖人は「三度いさめて用いられなければ山林に身を隠す」という古事に

ならって晩年を身延山に過ごされました。日蓮聖人は六尺(約一八〇センチ)

豊かな方だったといわれていますが、きびしい弾圧と迫害のため、身延に入山

された時は心身をかなり消耗していたことは充分に想像されます。

 それに身延での生活の厳しさは「きぬ(衣)もうすくて寒さふせぎがたし。

食たえて命すでにおわりなん」とご自分で書いているようなありさまでした。

身延入山後、数年もしないうちに下痢に悩まされるようになったのでした。

 弘安五年(一二八二)、九月八日、身延山をその所領の一部としていた波木

井郷の領主で大檀越の波木井実長の手のものに守られ、数人のお弟子を伴い、

栗鹿毛の馬に乗って九年間を過ごした身延をあとにし常陸の湯にむかわれまし

た。

 九月十八日に出発してから道中のあいだに、檀越の家に泊まりながら約二百

キロの道のりを十一日かかって池上に到着したのです。池上宗仲の館での日蓮

聖人の容態はますます重くなりました。

 十月八日には、日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持の六人の本弟子を定め

、十日には形見わけ、十一日には十三歳の経一麿(日像上人)に京都の布教を

委嘱しました。そして十三日(現在の暦では十一月二十一日)の朝、臨終の床

の周りに詰めかけたお弟子や檀越たちの読経に包まれて、寂かに六十一歳の生

涯を閉じたのでした。

 身延時代、つまり日蓮聖人のご生涯最後の九ヵ年は、世の中から隠棲すると

いったものでは決してなかったのです。厳しい生活環境のなかで、自らも励ま

しながら、法華経の読誦、お弟子たちの教育、檀越の教化に専念され、しかも

多数の述作をされました。現存している三百余篇のご遺文(お手紙を含めた著

述)のうち大半は身延山で書かれたものです。

 日蓮聖人の五大著述のうちの二篇−「撰時抄」と「報恩抄」−も含まれてい

ます。この晩年に書かれた「報恩抄」はその題と、書かれた事情から、日蓮聖

人が、人間の歩むべき道としても、また信仰の面からも、いかに「恩」に報い

ることを大事にされていたかがわかります。

 日蓮聖人は十二歳のとき当時は天台宗だった清澄山に登り、十六歳のとき道

善房を師として出家したのですが、建治二年(一二七六)、身延へ入山して二

年後に師の道善房の訃報に接しました。師への報恩感謝と追善供養のために書

きあらわされたのがこの「報恩抄」です。日向上人を使者として清澄へさしむ

け、師の墓前で朗読させたのでした。

 日蓮聖人は恩師への思いばかりでなく、父母への報恩も大事にされました。

父母への孝養を讃える檀越へのお手紙も数多く残されています。聖人ご自身も、

身延時代には、しばしば高みに登り、安房の方に向って合掌し、故郷の亡き父

母への報恩の祈りも捧げました。

 そして、日蓮聖人のご信仰の上での報恩とは、法華経に説かれているように、

永遠の昔からこの娑婆世界にあって一切衆生の救済のために法を説きつづけて

いる教主釈尊の慈悲に私たちが包まれているという事実をみんなに知らせる

ことでした。どんな迫害にもめげず、お題目をひろめるために一生を捧げられ

たのです。

 さて十月十三日は日蓮聖人のご命日です。全国の日蓮宗のお寺ではその日に

前後して、ご命日の法要を営みます。これはしかし日蓮聖人の死を悲しむため

に行なう法要ではありません。

 私達が日蓮聖人に出会い、そのご信仰と教えに接し、み仏(ほとけ)の永遠

の慈悲のみ手にいだかれているのだということを教えて下さったことに対する

感謝の法要なのです。この日にお赤飯を炊くのは、お祖師さまにめぐりあえた

悦びを表しているのです。