一口説法

我が寺の境内に、樹齢三百年と云われる桜がある。近年枝が枯れ始め、樹勢が衰えてきたようなので専門家に見てもらうと、どうも、根っこが弱ってきているらしい。聞くところによると桜の根というのは、地表を境として、枝の広がりと同じ広さまで根を張っているという。美しい花を咲かせるためには、目には見えない地中で根が精一杯頑張っているのである。

木が弱ってきたのは、ついつい目に見える枝や花ばかりを見て、地中の見えない根っこを疎かにしていた事が原因のようである。

さてさて、我々自身の根っこは大丈夫でしょうか。
命の根っこ、信仰の根っこ。その根っこに御題目という養分を降り注ぎ、美しい花を咲かせたいもの。くれぐれも疎かになること無きように。

根っこ」    日蓮宗新聞より

愛知県 三大寺聡恩師

ょっとコメントです

日蓮聖人が師匠であった道善房の報恩のために書かれた「報恩抄」の中に「花は根にかえり、真味は土に留まる」という言葉があります。今ここに見える結果には、果に至る因があるという事でしょう。

でも一寸考えて見ましょう。立派な土や根っこの因があっても必ずしも、見事な花である結果にはなりませんね。水をやり、日光に当て、肥料をあげて・・・・・。 

根っこ 病の良薬 法華経 悔ゆることなかれ    言というは 一日も生きておわせば
 いのちのことば 家族の絆 光のイメージ 二枚の切符 本当の優しさ

病の良薬 法華経  富山県布教師会長 栗原啓充師  日蓮宗新聞 2005.11.1より。

私達が心の拠り所としている法華経には、教え主である久遠のお釈迦様が、法華経を良き薬「良薬」に喩えられる場面が随所に出てきます。
私達は病気になると、病院へ行き薬をもらいます。ほとんどの方は、薬の成分や病気が治るメカニズムをわかっていなくても、結果的には薬
で病気が治っていねのではないでしょうか。

実は法華経にも、自身をそのような存在として語る場面があります。深遠な教理は教理として在るのだけれど、それ以上に、薬師たるお釈迦様
を心から信頼し法華経を頂けば、私達の心身の病気は自ずから消滅するのであろうと。

自身の内にある深い教理についての理解と共に、法華経の一文一偈に込められた、お釈迦様の救済力についての信を重んずること。このこと
こそ、法華経が二〇〇〇年以上にわたって信じられ、受け入れられてきた原因なのだろうと考えるのです。

上記の言葉は日蓮聖人が56歳の時に書かれた「富木殿御書」という文章の一節です。何とも厳しい言葉ですが、仏教を学ぶ心構えを信徒の方に示したもので、読む我々の心に突き刺さるように強烈な訴えがほとばしるようです。

 若き日の日蓮聖人は、仏教の真髄を求めて鎌倉・京都・比叡山等々の大寺にある膨大なお経(一切経)を何回も読み返し、仏教の本体は法華経にあると結論されますが、この真意探求のための壮絶なまでの学求心の中から、この言葉が生まれたのです。

「此等の意を以てこれを案ずるに、我が門家は夜は眠りを断ち、昼は暇を止めて之を案ぜよ。一生空しく過ごして、万歳悔ゆることなかれ」
《仏教の本当の心を求めるには、夜も眠らず、昼間の暇も大切にしてこの目的のために努力精進しなさい。漫然と時を過ごして、後で後悔しないように》の意味ですが、我々凡人にとっての人生そのものにも当てはまる言葉です。「人生悔いのないように」「後の後悔先に立たず」「時は金なり」等々の言葉もありますが、年頭にこの日蓮様の言葉を心に銘じて過ごしたいと思います。

 そして今年の大晦日に悔いる点数がどのくらいか・・・・。でも、皆んなが必ずしも今年の大晦日を迎えることができるとは限りません。一生の幕はいつ引かれるか・・・。ですから一生空しく過ごして、万歳悔ゆることなかれです。

一生空しく過ごして 万歳悔ゆること なかれ。

2006.1/4     住職

言というは心の思いを響して声に顕すをいうなり。       三世諸仏総勘文教相廃立。  

「言」は口からくる心の意味。何気ない言葉が人を傷つけ、また人を励ます。「つい、心にもないことを言って・・・」と弁解しても心にあるから
出るのである。

文芸評論家の亀井勝一郎氏故人)の「言葉は心の脈拍である」はつとに有名である。言葉の乱れ、心の荒みが憂慮される時代に味わいた
い聖語である。

「言辞柔軟にして衆の心を悦可せしむ」 法華経 方便品

一日も生きておわせば功徳積むべし あら惜しの命や命や。 可延定業御書

マスコミの造語に長命地獄がある。長寿には地獄がつかない。長寿の寿ぐは祝福すること、長生きを喜ぶ人生。賜った命を大切に、今日ある
ことを感謝して、一遍でも多くお題目を唱えたい。一日生きればそれだけ功徳を積むことができるのではないか。

命のゆたかさ、命のあたたかさ、命のいとおしさ。高齢化社会を意識して選んだ御遺文。

「死すべき命 今日あるは有り難し」 法句経

                                           上記の2説法は平成18年日蓮宗長野県布教師会制作による教箋より

いのちのことば          日蓮宗新聞「ひと口説法」より。滋賀県 北川久成師   2006.3.1

冬はよく教室のガラスが割られる。その時、教師が発する一声に二つある。「誰がわったか」「誰も怪我なかったか」感情をむき出す言葉と
後者の言葉では、生徒の受ける心情は180度異なる。

夕げの時、月見草を採って帰ってきた中学2年生の少女が母に「花瓶ある?きれいでしょう」母は答えた。「いそがしい!。後や」 少女は「わ
たしの気持ちを解ってくれない」と、夕暮れと共に外にでた。そして非行グループに誘われていく。

「いそがしい」「まあきれい」共に5字の言葉の掛け違いによって人生が変わる。言葉は心の使者。常に慈悲心を培養しなければならない。
慈悲心は共感・同情・親切・優しさとなって表現される。宗祖示して曰く「わざわいは口より出でて身をやぶる。さいわいは心より出でて我をか
ざる」
 また釈尊示して曰く「益なき千の言葉より、心の安らぎを得る一言こそいのちの言葉なり」と。

コメント
優しく、暖かく、周囲の人を安心させる言葉は人として大切なものです。このような言葉は仏教修行の第一とされる「布施」の中の
「言葉の施し」とも云えます。お金や物がなくてもできる七つの布施を「無財七施」と言います。

1.眼施−−−優しい目つきで人に接する。
2.和顔施−−いつもにこやかな笑顔で人に接する。
3.言辞施−−優しい言葉で人に接する。上記の「いのちのことば」はこの言辞施でしょう。
4.身施−−−自分の身体でできることを奉仕する。ボランティアなどがこれでしょう。
5.心施−−−相手の気持ちになって人に接する。
6.床座施−−ちょっと席を譲るような、へりくだった態度で人に接する。
7.房舎施−−雨宿り、ちょっと家の軒をかしてあげるような、大きな気持ちを持つこと。

以上のことは「雑宝蔵経」ゾウホウゾウキョウというお経に出てくるものです。


関連「和顔施」について。
「親によき物を与えんと思いつ せめてする事なくば 一日に二三度笑みて向かえとなり」

この言葉は日蓮聖人の「上野殿御消息」と言われる書簡中の言葉です。何が無くともできる最高の親孝行ではないでしょうか。
「親孝行したい時には親はなし」心がけたいと思います。


「咲いた花見て喜ぶならば、咲かせた根っこの恩を知れ」今の私達を咲いた花と思うならば、目には見えない土の中にあって、幹や茎
をしっかりと支え、一生懸命養分を送り続けている根が、我々の先祖です。
自然の仕組みが、我々の命のつながりを、今の自分の先祖への感謝の心を教えてくれています。

先日、生まれたばかりの赤ちゃんを連れて、若い夫婦がお参りになりました。お墓を掃除してお花を供え「おやじ、孫を見せに来たよ」と
ご夫婦は笑顔で、御先祖様に報告されていました。何とも頬笑ましい光景でした。そして、先祖からの脈々と受け継がれてきた命の繋がりをきち
んと認識しているのだと感心いたしました

コメントです。

命の繋がり・連鎖が「先祖」即ち「根」であるとと言えますが、根っこに養分を供給しているのは「土」ですね。この土は無限の命を支えて
いるところの、いわゆる「縁」とも考えられます。我々の命は、数え切れない、目にも見えない多くの縁(土)によって支えられています。ところが多
くの場合、我々はこの縁を、見たり聞いたりしたところの、つまり、「知っている」縁しか認識をしないことが多いのではないでしょうか。

しかし、我々の直接知っている世界なぞは狭いもので、知らない無数の縁によって支えられているのです。例えはおかしいかも知れませんが、自分
のこのパソコンが世界中のパソコンにつながっているようのうなもので、自分の一台のパソコンが世界中のパソコンのバックアップを受けているような
ものです。

命を支える縁は、あなたのとなりを通り過ぎている、知らない人かも、顔を上げてちらっと見ている犬や猫かも、道ばたの花や稲穂かも知れません。
自分に無関係な縁なぞはないのです。。。。。そんな気持ちで周囲を見てみませんか。きっと心が柔らかくなると思いますかよ。

家族の絆     

日蓮宗新聞「一口説法」より

光のイメージ 日蓮宗新聞「一口説法」より   長野県 清水要晃

我々凡人は何か目的を追求したり願う時、心に目的の姿・イメージを持つことが大切だとも言われる。いわゆるイメージトレーニングである。

 お題目を唱える事は「安心」を求めることであるが、そのイメージは何であろうか。日常に接している御曼陀羅に答えがあるのではないか。
御曼陀羅の中心に書かれているお題目の左右に伸びる筆勢の流れを「光明点」と言うが、正にお題目から発っせられている慈悲の光である。
 御曼陀羅に正対唱題する時、このお題目から流れる慈悲の光に我が身が温かく包まれ、その中にいる我々の本来の清浄なる心(仏性)が
発現し、磨かれているというイメージを持ったらどうであろうか。

 「我が己心の中の仏性、南無妙法蓮華経と呼ばれて顕れ給う処を仏とは云うなり」(法華初心成仏抄)を改めて思う。
私達は産まれた瞬間に2枚の切符を持って、人生という名の列車に乗って旅をします。1枚は人生の終着駅までの切符。もう1枚は終着駅
から仏様の世界行の列車の乗り換え切符です。悲喜苦楽様々な体験や折々の車窓の風景を見ながら列車は進み、やがて終着駅。
いろいろな想いを残しながら下車する時、切符を見ると、そこにはこの世での時間が書いてあります。ついさっきまでは「下車用切符」としか
書いてなかったのですが…。

 ホームに降りて仏界行きの列車を待っていると、「切符を拝見します」の声。さて、その時、この切符をもって速やかに乗り換えができるで
しょうか。「アレ!どこだ」「確かにあったはずだ」とウロウロしていろと、仏界行きの列車は動き出してしまい、次の列車まで切符を探すことになります。ホームでウロウロしている事を「成仏できないで迷っている」と云うのでしょうか。時々は必ず持っているはずの、この乗り換え切符が確かにあるか、どこにあるかを点検したいと思いますよ。
点検の仕方のヒントは日蓮聖人の「口に妙法をよび奉れば、我が身の仏性も呼ばれて必ず顕れたもう。」のお言葉にあります。つまり、お題目を唱える事によって、切符がどこにあるかわかるのです。そして、唱え合う事によって、更に他の人の切符の在処も教え合う事になるのです。

二枚の切符    住職

本当の優しさ  日蓮宗新聞 一口説法より 青森県 工藤泰山師

日常、温厚で人と争うことなどない、一見非の打ち所のない人物で、その実、自分にしか関心を向けていない人。批判がましいことを云わず
、相手を気遣う優しさで身を包む。波風立てず和を大切にする。立派、誠実と誰もが認める人。でも心の奥底では、他人に配慮しているよう
に見せ、和やかな振る舞う自分にしか関心がない。昨今このような人を「良心的エゴイスト」と云うのだそうだ。

これは声聞ショウモン・縁覚エンガクの特性そのものだろう。我が国は声聞・縁覚があふれる国ではないか。夫婦や親子でさえ本音を出さず、和
やかな関係を築くことに汲々とし、僧侶も相手に配慮してみせる自分に関心があるだけ。そんなことはないだろうか。
 
声聞・縁覚的優しさでは、本当の人間関係は築けない。煩わしいエネルギーが必要でも、本気で相手を気にかけた関係を結ぶ、そんな菩薩
のあふれる国に脱皮したい。