生活の中の仏教語
仏教用語、仏教の言葉は、それ自体難解で理解し難いというイメージを持つ方が多いと思います。事実、仏教語には一般的でない、難解な単語が多いことも確かであります。しかし、我々が日常用いている言葉の中に仏教の用語が数多くあることも事実です。
この欄では、それら何気なく使用している仏教語を少しのぞいて見たいと思います。
刹那という言葉は現代では、快楽主義的な意味、後のことを考えず、今の一瞬を楽しく過ごせばよいとする意味で用いられている。だが、これは極めて短い時間を意味する仏教語である。
刹那は古代印度語(梵語)のKSANIKA・クシャニカの音に漢字を当てはめた音写語である。従って刹にも那にも漢字自体意味はない。
仏教哲学は非常に深い思索を有し、数値にしても天文学的大数のマクロの世界、分子原子のミクロの世界をも想定し、その論理を展開する。この刹那はミクロの範疇に属するもので0以下を次の言葉で表現している。
分→厘→毛…微→繊→沙→塵…漠→模糊→逡巡…弾指→刹那と続き、刹那は時間にすれば1/72秒に相当する。模糊も曖昧模糊などと日常的に用いられる。
1刹那. セツナ
2.奈落 ナラク
参考図書
書 名 | 著 者 | 出 版 社 | |
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仏教語源散策 | 中村 元 | 東京書籍 東方選書3 | ◇ |
続 仏教語源散策 | 中村 元 | 東京書籍 東方選書15 | ◇ |
わかりやすい仏教用語辞典 | 大法輪閣 | ◇ | |
仏教語入門 | 橋本芳契 | 法蔵館 法蔵選書24 | ◇ |
仏教 日用小辞典 | 由木義文 | 大蔵出版 | ◇ |
えっ、これが仏教語? | 宝田正道 | 浄土宗宗務庁 | ◇ |
国語に入った梵語辞典 | 平等通照 | 印度学研究所 | ◆ |
現代に生きる仏教用語集 | 関口真大 | 大東出版社 | ◇ |
仏教思想辞典 | 武邑尚邦 | 教育新潮社 | ◇ |
日常語からわかる仏教入門 | ひろさちや | 講談社 | ◇ |
何か面倒な仕事をしなければならない時、「億劫だな」と言う。面倒くさがる事を「億劫がる」と現代では表現する。
億劫は本来は「おくこう」と読むのが正しいが、転化して「おっこう」→「おっくう」となったらしい。
その意味は「百千万億劫」の略とされている。百千万億は数字の単位であるので問題ないが、劫〈こう〉が問題となる。劫は古代インド(サンスクリット語)の Kalpa カルパの音訳で、極めて長い時間の単位である。どのくらいの長さであろうか。囲碁のルールに「劫」というのがある。対局者が交互に無限に同じ石をとりあうような場面のことであるが、ここでは劫の長さを無限として見ている。
一劫はどのくらいの長い時間であるかを仏典は譬えで示している。即ち、一辺が約七qの立方体の城の中に、芥子粒を満たし、百年に一粒ずつ取り出し、全部取り出してもまだ一劫は経過いていない。これを芥子劫と言う。
盤石劫と言う説明によると、これも一辺が約七qの立方体の硬い大石があり、百年に一度天人が地上に降り、その極めて薄い羽衣でサット払い、大石が磨滅消滅するまで払い続けても一劫は未だ終わらないと言う。
億劫はこのように一劫だけでも気の遠くなるような時間が「億」あることで想像を絶する天文学的以上の時間であることになる。
何か面倒なことをやらねばならない時、我々はまずたいへんな時間が必要と考える。だから面倒くさいことを「億劫」と言うのであろうと考えられる。
反対に小さい時間の単位については《刹那》の項をご覧下さい。
どうしてもうまくゆかない。苦心惨憺のさまを「四苦八苦する」と言うが、これも仏教語。四苦八苦で十二の苦?ではない。
先ず最初の四苦は「生老病死」。この言葉は一般的ですが、何故「生」が苦なのか。全ての苦しみは生まれることによって始まる、つまり苦しみの根元は誕生とも云えるからでしょう。
「老」「病」「死」の苦はどうすることもできない現実ですので、説明は必要ないでしょう。問題はこれらをどう自分のものとして受け入れるかという心の持ち方です。
以上の四苦にもう一つ後半の四苦を合わせて四苦八苦と言います。後半の四苦とは「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」を言います。
「愛別離苦」とは愛する人、親しき人との別離の苦しみ、人間が死ぬべき存在である以上、いつかは対面しなければならない苦です。
「怨憎会苦」オンゾウエク は「愛別離苦」と反対の苦しみ。これは「会いたくない人に会わなければならない苦」です。職場でも学校でもどこでも、嫌いな人、顔も見たくない人がいればイヤになりますネ。会わないように、話しもしないようにできればいいかもしれません。が、どうしても避けられない場合もあります。この苦しみを言うのです。
「求不得苦」ぐふとっく は「欲しい物が手に入らない苦」です。人間には地位、名誉、財産等様々な欲望(煩悩)があります。人には一〇八の煩悩があると言いますから、それだけ欲望があるのですが、欲望というものは実際にはなかなか叶うものではありません。欲望が多いほど苦しみもまた大きいと云えるわけです。
「五蘊盛苦」ゴオンジョウク とは「人間の存在自体が苦」というものです。五蘊とは人間を構成する色・受・想・行・識の五要素で、色は形あるもの全て、受は見る感覚、想は心に思う事、行は判断する事、識は認識する事です。人間はこれらの五要素から盛んに起こる苦しみから逃れることができないと言うことなのです。
以上が仏教の説く八つの苦しみですが、このような苦を救ってくれるのが仏教・お釈迦様の教えに他ならないのです。私達はその教えに一歩でも近づくべく、とりあえず、欲望のセーブ、コントロールに努めたいものです
.
5.四苦八苦
はっきりした目的もなく、あちこち行ったり来たりを「うろつく」とか「うろうろする」と云う。
この「うろ」は有漏という漢字でれっきとした仏教語。漏れるものが有ること。これは心を乱すあらゆる迷い、欲望のことで煩悩と云う。即ち有漏とは「煩悩がある」という意味。煩悩の代表選手は「貪り」「いかり」「愚かさ」これを三毒と云う。
人間誰しもこの迷いに囚われ、あれかこれかと思い迷い、決断しかねて苦しみながら右往左往、結局どこへ行くのか道が解らなくなってしまう。これが有漏で「うろつく」形となる。
この反対は、漏れる煩悩が無いので無漏と云う。即ち無漏とは悟りを開いた仏様の状態を云うのである。「うろ覚え」も同じ語源。
6.うろうろ
収録してある仏教語
1.刹那 セツナ | 7.醍醐味 ダイゴミ | 13.投機 トウキ | 19. | |
2.奈落 ナラク | 8.がたぴし | 14.方便 ホウベン | 20. | |
3.金輪際 コンリンザイ | 9.入院 ニュウイン | 15. | 21. | |
4.億劫 オックウ | 10.出世 シュッセ | 16. | 22. | |
5.四苦八苦シクハック | 11.有頂天 ウチョウテン | 17. | 23. | |
6.うろうろ | 12.上品・下品 | 18. | 24. |
戸や障子の建て付けが悪いと、ガタピシ音がして開け閉めに苦労する。即ち、ゆるんだり、震えたりして組立が粗末な様を指している言葉である。
このガタピシ、ガタガタ等の言葉は、元来は擬音語的発生と思われるが、漢字を当てはめると「我他彼此」「我他我他」となり、仏教から来たものと考えることもできる。仏教では全ての存在事象を互いに助け合う因縁によって説明するので、我も他も彼も此もそれぞれの縁に従ってスムーズに機能すると考える。このバランスが崩れた時、我と他・彼と此の関係が勝手気ままに動き出し、建て付けの悪い戸のようにガタピシとなってしまう。
人間関係もガタビシしないように、それぞれの在るべき姿を尊重してガタのこない人生を過ごしたいものです。
8.がたぴし
入院の語は病気を治すために病院に入ることを意味し、一般的には病院関係の言葉とされている。
「入院」「病院」の「院」は《垣根、囲い、役所、学校、寺》を意味する言葉で、現在の病院は「病坊」「養病坊」等と呼ばれており、いつ頃に病院、医院になったのかは不明。
役所……参議院等
学校……綜芸種智院等
寺………平等院等
「垣根、囲い」の意味から推論するに「垣根、囲い」のある建物は寺、役所、学校と示される通り立派な建物である事が多いので「病人が集まっている塀のある大きな建物」の意味で病院となり、そこに入ることより入院となったのかも知れない。
ところで仏教語としての「入院」は、寺に初めて住職として入る事を云うのであるが、現在は「入寺」「入山」「晋山」の言葉が多く用いられ「入院」の語は使用されず、専ら病気に関する言葉として使用されている。
9.入院
10.出世
得意の絶頂で夢中になっている心理状態を「有頂天」と云い、又、時として「あまり有頂天になるな」と警句的にも用いられる言葉であるが、この言葉は仏教の宇宙観が基になっている。
仏教の宇宙観については3.の「金輪際」でもその一部を述べたが、三界という観念もある。 三界とは欲界・色界・無色界でこの世界全体を指す
。
◆ 欲界とはその名の通り食欲、性欲、睡眠欲等欲望の盛んな世界。
◆ 色界とは物質の世界。元来、仏教で云う「色」は「物質・有」を意味する。
◆ 無色界とは欲望も物質世界を も超越した精神のみの世界。
「女三界に家なし」の言葉があったが、この三界は上記の三界で、女性はどこにも身を落ち着ける場所がないと云う意味で用いられる。尤もこの言葉は封建的男尊女卑の産物で、現在はこんな言葉を使用することはなくなっている。
この色界の最高位を「色究境天」と云い、有(色)の頂にある天であるので「有頂天」という。即ち、物質世界の最高位の意味である。然し、有を超えた精神の世界とは違い、色界に属する以上は精進を怠ると転落してしまう。従って「有頂天になるな」の言葉もあるのであろう。
一説にはこの天の最も高い所を「九天」と称し、堕落して転落する事を「九天直下」と云う。一般に「急転直下」と書くが「九天直下」が転じたのかも知れない。
11.有頂天
上品とは云うまでもなく品性がな立派なことで、下品と云うのは品性の下劣なことである。然し、仏教では元来これを「じょうぼん」「げぼん」と読む。
インドの人は昔から性質、能力などの優劣を上・中・下というように分類することを好むが、仏教でもその分類をとり入れている。特に浄土教では九品と云って浄土に往生するものを、その能力・性質などから九種類に分け、それらを上品上生、上品中生、上品下生、中品上生・中品中生・中品下生、下品上生・下品中生・下品下生と呼んだ。従って本来の意味は浄土教の往生に於ける上位と下位を意味する言葉である。
ちなみに下品の者とは「悪しき行為を恥ずかしいと思わず、名誉や利欲のために語り、悪業で自身を飾る愚か者」。そして下品下生の者はその悪業の結果として地獄に至るが、最終的には阿弥陀仏に救われて極楽世界に生まれると云う。〈註・往生と成仏とは異なる〉
京都の浄瑠璃寺を九品寺、東京世田谷の浄真寺を九品仏などとも云うが、この九品である。
12.上品・下品
投機の語は現在では専ら、株、商品取引などについて、不確定な利益を目的とする売買行為、即ち経済用語として定着している。英語ではspeculation(熟考・推測)で、原語はラテン語のspeculariスペクラーリー(観察・監視)という。
この言葉は元来禅宗用語で人間対人間の関係にて用いられたものである。「機」の語には仏教では、心の働き、本来持っている素質・能力を指す意味がある。そしてこの機にも能力の差があり、教えを聞いて必ず悟りを得る者、そうでない者、どちらとも決まらない者等があると云う。
禅宗ではこの投機を、弟子の機と師匠の機が相投じて自然に一致することと解釈する。つまり、師弟互いの心の働きのやりとり、相手の心と共鳴し、融通することによって、心が開明し、悟る場合を「投機」と称している。
心の作用は千差万別で形もなく、色もなく、定住するものでもなく、全くとらえどころのないものである。しかし、とらえようがない心と心が一致して悟りという大きな果を得ることができる。経済学でいうところの投機は、このへんの意味を借用したかもしれない。
しかし、speculation(熟考・推測)を投機と訳した(?)人はよほど仏教に精通した人であったと思う。
13.投機
「うそも方便」という言葉があります。日常生活によく使用され、うそをつくことも、時と場合によっては必要なことである、との意に解釈されています。しかし、うそをつくことは、いうまでもなく悪いことであり、正当化するために「方便」が使われているのであり、「うそも方便」というのは「方便」の意味を正しく伝えてはおりません。
「方便」の意は仏がたくみな手段を用いて、人々を教化することであり、一人一人にぴったりした教化の手段・方法をいうのであります。
お釈迦様が生きておられた頃、一人の母親がおりました。彼女には男の子がおり、その子を溺愛しておりました。この男の子が病で死んでしまったのです。母親は子供を生きかえらせる薬がないか、と町中をうろつき歩き廻りました。
ある人がかわいそうに思い、お釈迦様の所に行くように勧めました。彼女は喜びお釈迦様の所に行き、子供が生きかえる薬をください、とお願いしました。するとお釈迦様は「町にもどり、誰れも死んだことのない家から、ケシの種をもらって飲ませなさい、そうすれば子供は生きかえるであろう」と教えます。
母親は喜び、早速町にもどりケシの種を求めました。しかし町中の家々をいくら訊ねまわっても、死んだ人のいない家はありません。町中を訊ね歩いた彼女は疲れはてました。その時、人の死は必ず来る、死は人のさだめであることに気がついたのです。
この母親にお釈迦様が説いた「死者が出たことのない家のケシの種」これが方便の意であり、教理を無理やりにおしつけることではなく、たくみな手段を用いて教えに導くことであります。
「方便」はけっして「うそ」なのではありません。
14.方便
◆専門的なもの。◇一般的なもの。