上田城下町活性会では、観光客だけでなく地元上田の人にも旧町名を知ってもらい、ふるさと上田に親しんでもらおうと上田市街地にある旧町名の高札を2004年にリニューアルしました。番組「高札めぐり」では、紺屋町で旅館業を営む水野正四さんの案内で各地域の高札の紹介や高札周辺の見所をご案内します

イ 生塚(うぶつか)

ロ 諏訪部(すわべ)

ハ 西脇(にしわき)

ニ 鎌原(かんばら)

ホ 紺屋町(こんやまち)

ヘ 柳町(やなぎまち)

ト 木町(きまち)

チ 房山(ぼうやま)

リ 川原柳町(かわらやぎまち)

ヌ 原町(はらまち)

ル 丸堀(まるぼり)

ヲ 大手町(おおてまち)

ワ 海野町(うんのまち)

カ 袋町(ふくろまち)

ヨ 馬場町(ばばのちょう)

タ 鍛治町(かじまち)

レ 材木町(ざいもくちょう)

ソ 横町(よこまち)

ツ 鷹匠町(たかじょうまち)

ネ 常田(ときだ)

ナ 踏入(ふみいり)

イ 生塚(うぶつか)

 真田氏は、上田城のあと、城下町造りを行い、さらにその周囲に城下囲の村々を造り、屋敷年貢を免除した。生塚もそのとき太郎山の麓にあった、堂屋敷から移した村で、そのうち字(あざ)生心・塚穴などの「生」と「塚」をとり、生塚と呼んだのがはじまりと伝える。 詳細を動画でみる >>

ロ 諏訪部(すわべ)

 諏訪部は古代には須和郷(すわのごう)に含まれていた古い由緒をもつ地名である。千曲川をへだてて諏訪形のあることなどから、古代において、諏訪氏に関係があったと考えられ、鎌倉時代に勢力をのばした諏訪部氏の本拠地があったと伝えられている。 詳細を動画でみる >>

ハ 西脇(にしわき)

 真田氏は上田城築城(天正11年・1583年)のあと、城下町造りを行い、さらにその周囲に城下囲の村々をつくり屋敷年貢を免除した。西脇村も、そのとき太郎山のふもとの下西脇から移った村であり、下諏訪春宮の一御柱造営次第記録(永正三年・1506年)には西脇の名が記されている。 詳細を動画でみる >>

ニ 鎌原(かんばら)

 真田氏が城下町造りを行い、さらにその周囲に城下囲八邑(村)の一つとして、屋敷年貢を免除し、太郎山山麓に近い新屋等から移して造った村。上田築城当時の図と伝える天正の古図にもこの地を新鎌原と記している。 詳細を動画でみる >>

ホ 紺屋町(こんやまち)

天正十一年(1583年)真田幸村の父昌幸が、上田城を築いたあと、真田氏とゆかりの深い海野郷(現東部町)から、紺屋(染物屋)を移して造った町。宝永三年(1706年)には、紺屋が十軒あった。後に上紺屋町と下紺屋町に分かれた。 詳細を動画でみる >>

ヘ 柳町(やなぎまち)

柳町は原町と紺屋町の両町をつなぐ街道筋に、旅籠屋や商屋が軒を並べるようになってできた町。町名は町筋に柳の木が多かったことによるという。文化元年(1804)この町には呉服屋が二十五軒もあって賑わった。 詳細を動画でみる >>

ト 木町(きまち)

元和八年(1622)上田城主が仙石氏にかわったころ、木町橋の東側を木町、西側を東鎌原と呼んでいた。時代が下ると、橋の西側も木町と呼ぶようになった。町名は材木が積まれていたことによるという。江戸時代を通じて橋の西側は、武家屋敷の町であった。 詳細を動画でみる >>

チ 房山(ぼうやま)

房山(望山)は古くは東太郎山を呼んだが、永正三年(1560年)には太郎山麓一帯の地を房山と呼んでいる。天正十一年(1583年)上田城を築いた真田昌幸が、城下囲八邑(村)の一つとして重視し、屋敷割をして、山麓に散在する住民を移住させたのがこの町のはじまりである。 詳細を動画でみる >>

リ 川原柳町(かわらやぎまち)

真田氏のあと、仙石時代、上田城修築の瓦を、御作事奉公支配のもと、この町で焼いたことから、瓦焼(かわらやき)町と呼ばれていたが、明治初年かわらやきの字に川原柳の字を当てて、川原柳と呼ぶようになった。 詳細を動画でみる >>

ヌ 原町(はらまち)

天正十一年(1583年)真田昌幸は上田城を築き、城下町造りを始めた。このとき真田氏とゆかりの深い原之郷(現真田町本原)から住民を移住させて造った商人町で海野町とともに、上田城下町のうち最初にできた町である。 詳細を動画でみる >>

ル 丸堀(まるぼり)

真田氏によって築かれた上田城三の丸の中屋敷(現清明小学校のあたり)東側には、池のような丸い堀がつくられていた。この堀を丸堀と呼び、その横の通りを丸堀通りと呼んでいたのが、丸堀町のはじまりである。 詳細を動画でみる >>

ヲ 大手町(おおてまち)

天正十一年(1583年)上田城築城のあと大手口から二の丸に至る道筋に造った武家屋敷の町で新参町と呼ばれていたが、仙石氏・松平氏の時代には上級武士の屋敷が並んでいた。戦後になって大手町と改名した。 詳細を動画でみる >>

ワ 海野町(うんのまち)

天正十一年(1583年)真田昌幸は上田城を築き、城下町造りを始めた。このとき真田氏とゆかりの深い海野郷(現東部町本海野)から住民を移住させて造った商人町で原町とともに、上田城下町のうち最初にできた街である。 詳細を動画でみる >>

カ 袋町(ふくろまち)

元和八年(1622年)上田城主が真田氏から仙石氏にかわると、馬場町側から道をあけて、武家屋敷の町を造った。道が行き止まりとなったことから、袋町と呼ばれた。後に袋をやぶり、海野町へ道が通じたということから、この道をねずみ小路と呼ぶようになった。 詳細を動画でみる >>

ヨ 馬場町(ばばのちょう)

元和八年(1622年)上田城主が真田氏から仙石氏にかわると、それまで馬場であった場所を町割して、武家屋敷の町としたことから、馬場町と呼ぶようになった。松平氏の時代にはこの町に医者が多く住んでいた。 詳細を動画でみる >>

タ 鍛治町(かじまち)

天正十一年(1583年)真田幸村の父昌幸が上田城を築いたあと真田氏とゆかりの深い海野郷海善寺村(現東部町)の鍛冶屋を移して造った町。宝永三年(1706)には三十二軒、明治五年(1872年)には十六軒の鍛冶屋があった。 詳細を動画でみる >>

レ 材木町(ざいもくちょう)

上田城下町が大正初期東方に広がり、上田高等女学校(現上田市文化センター)東小学校(現上田一中)等に通ずる道路として、下鍛冶町側から開通したのが材木町のはじまりで、町名は町に材木会社があったことによる。詳細を動画でみる >>

ソ 横町(よこまち)

城下町のうち海野町が発展するにつれて、旅籠屋・商家職人などが増加し、海野町から南に折れ街道筋にできた横の町であるため横町と呼んだ。この町は北側にも延びて鍛治町に続いた。横町と鍛治町には寺が多く、城下町防備のため並べたといわれる。詳細を動画でみる >>

ツ 鷹匠町(たかじょうまち)

真田氏によって造られた城下町のうち、城の南東に鷹匠の住居地と定めて造られた町である。真田氏のあと、仙石氏の時代に寛文三年(1663年)の記録に、この町は鷹匠其のほか扶持人の屋敷四十二軒と記されている。詳細を動画でみる >>

ネ 常田(ときだ)

常田の名は古く鎌倉時代の初め常田庄と呼ばれていた。その後天正十一年(1583年)真田昌幸が上田城を築いたあと、城下囲八邑(村)の一つとして重視し、科野大宮社近くに屋敷割をして造ったのが常田の始まりである。詳細を動画でみる >>

ナ 踏入(ふみいり)

踏入とは踏み入る所という意味で、この地名は上田城下町のできる前から呼ばれていた。したがって、上田城下町への入口というより、中世から続いていた常田庄への入口とも考えられる古くからの地名である。詳細を動画でみる >>

 

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